『比類なき贈り物』(Matchless Gift)

リンク「クリシュナ意識の単語帳」より(一部編集)


第一章クリシュナを通して霊的な知識を得る

このクリシュナ意識運動の目的は、すべての生命体を彼らの本来の意識に戻すことにあります。物質世界にいるすべての生命体は、程度の差こそあれ一種の狂気に苦しめられています。このクリシュナ意識運動は、人のその物質的な病を癒し、本来の意識を再確立することを目指しています。偉大なヴァイシュナヴァの詩人がベンガル語の詩で次のように書いています。「幽霊に取りつかれると、その人は意味をなさないことしか話せなくなります。同様に、物質自然の影響のもとにある人は誰でも幽霊に取りつかれたようなものだと考えられるべきであり、彼が話すことはどれも意味をなさないものだと考えられるべきです。」ある人は偉大な哲学者であるとか偉大な科学者であるとか考えられているかもしれませんが、もしその人がマーヤー、幻想という幽霊に取りつかれているなら、その人が理論立てたり話したりすることは何であれ、多かれ少なかれ意味をなさないことです。今日では、ある精神病理学者の例があります。この人は、ある殺人者を診断するように依頼されたときに、彼が出会ったすべての患者は多かれ少なかれ狂っているので、もしそれが望まれるのであれば裁判所はこのことを理由として殺人者を許すことが可能であると宣言しました。要点は、物質世界では正気の生命体を見つけるのは大変難しいということです。この世界にあまねく広がっている狂気の雰囲気は、すべて物質的な意識に感染することで生じています。

このハレ・クリシュナ運動の目的は、人をその本来の意識に、すなわちクリシュナ意識、はっきりした意識に戻すことにあります。水が雲から降りて来るときは、それは蒸留水のように汚染のないものですが、地面に触れた途端にそれは泥だらけになって汚れます。同様に、私達は本来は純粋な霊魂、クリシュナの欠かすべからざる小片であり、したがって私達の本来の正当な立場は神のそれと同じく純粋です。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは以下のように語っていらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「この制約された世界にいる生命体は私の微細な一部であり、彼らは永遠です。しかし、制約された生活によって彼らは心を含む六つの感覚に大変な苦労をしています。」(BG15.7)

このように、すべての生命体はクリシュナの欠かすべからざる小片です。「クリシュナ」と言うとき、私達は神のことを語っているのだということを常に覚えていなければなりません。「クリシュナ」はすべてを魅了する至高の人格神を意味しています。金の粒は金の埋蔵庫と質的には同じであるのと同様に、したがってクリシュナの微細な粒も質的にはクリシュナと同じくらい良いのです。神の体の化学的な組成と生命体の永遠なる霊的な体は同じ―――霊的です。このように、本来の汚染されていない状態において私たちは神と同じくらい良い形を持っていましたが、雨が地面に落ちるのと同じように、私たちはクリシュナの外的な物質エネルギーによって支配されているこの物質的な世界に触れてしまいました。

私たちが外的なエネルギーや物質自然のことを語るときは、「誰のエネルギーなのか、誰の自然なのか」という問いかけがなされねばなりません。(訳注、言語はnature、「自然」あるいは「性質」を意味します)物質的なエネルギーや自然は、独立して活動的であることはできません。そのような概念は愚かです。バガヴァッド・ギーターには、物質自然は独立して働くことはないと明確に述べられています。愚かな人が機械を見たら、機械が自動的に動いていると思うかもしれません。しかし、実際はそうではありません。機械を動かしている人、統御している誰かがいるのです。私たちの視力は完全ではないので、時として機械の背後で統御している人が見えないことはありますが。大変すばらしい動きをする電気的な機器がたくさんありますが、これらの複雑なシステムの背後にはボタンを押す科学者がいます。これは簡単に理解できます―――機械は物質なのでひとりでに動くことはできず、霊的な指揮の下でしか動けません。テープレコーダーは動きますが、それは人間という生命体の設計と指揮の下で動きます。機械は完全ですが、霊魂によって統御されない限り動くことはできません。同様に、私たちが自然と呼ぶこの宇宙の顕現は大いなる機械であって、この機械の背後には神が、クリシュナがいらっしゃることを理解すべきです。これはバガヴァッド・ギーターでも確認されており、クリシュナは次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「おお、クンティの息子よ、この物質自然は私の指揮の下で動いており、すべての動くものや動かないものを作り出しています。そしてその(物質自然の)法則によってこの顕現は繰り返し繰り返し創造され、破壊されます」(BG9.10)

生命体には2種類あります。動くもの(人間、動物、虫など)と動かないもの(木や山など)です。クリシュナは、両方を統御する物質自然がご自分の指揮の下で動いているとおっしゃいます。このように、すべてのものの背後には至高の統御者が存在します。現代の文明は知識に欠けているので、このことを理解していません。したがって、物質自然の三つの相の影響によって狂わされているすべての人を啓蒙することがこのクリシュナ意識協会の目的です。言い換えると、私たちの目的は人類を普通の状態へと目覚めさせることなのです。

アメリカなどは特にそうですが、たくさんの大学が存在し、様々な知識のための異なる学部があります。しかし、これらはこのような点を論じません。バガヴァッド・ギーターにおいてシュリー・クリシュナが与えて下さっているこの知識のための学部はどこにあるでしょうか?マサチューセッツ工科大学で学生達と教授陣の前でお話ししたとき、最初に挙げられた問いは「死んだ人と生きている人の違いを研究している技術学部はどこか」というものでした。人が死ぬと、何かが失われます。それを補充する技術はどこにあるでしょう?なぜ科学者たちはこの問題を解決しようとしないのでしょうか?これはとても難しい事柄なので、彼らはこれを脇に置いて、食べること、眠ること、性交すること、そして身を守ることに関する技術に忙しく取り組むのです。しかし、ヴェーダ文献は私たちにこれは動物の技術であると知らせています。動物もまた、よく食べること、楽しめる性生活をすること、平和に眠ること、および自分達の身を守ることのために最善の努力をしています。それでは、人の知識と動物の知識の違いは何でしょうか?事実は、人の知識は生きた人と死んだ人、生きた体と死んだ体の、その違いを調べるくらい発達しているべきである、というものです。その霊的な知識はバガヴァッド・ギーターの初めにクリシュナによってアルジュナに伝授されました。クリシュナの友であったアルジュナは大変知性的な人でした。しかし、他のすべての人と同様に、彼の知識は限られていました。しかしクリシュナはアルジュナの限られた知識では計り知れない事柄についてお話しになりました。これらの事柄はアドクサジャと呼ばれます。私たちが物質的な知識を得るのに使う直接的な知覚ではそれらに近づくことができないからです。例えば、私たちの限られた視力では見ることにできないものを見ることができる強力な顕微鏡が存在しますが、体の中にある魂を見せてくれる顕微鏡はありません。それでも魂はそこにあります。

バガヴァッド・ギーターは、この体の中には所有者がいると教えています。私は所有者であり、他者はそれぞれの体の所有者です。私は「私の手」と言いますが、「私は手」とは言いません。それは「私の手」なので、私はその持ち主であり、手とは異なります。同様に、私たちは「私の目」、「私の脚」、「私のあれ」。「私のこれ」と言います。私の所有であるところのこれらすべてのものの中で、私はどこにいるのでしょうか?この問いの答えのための探求が瞑想の過程です。本当の瞑想では、私たちは「私はどこにいますか?私はどこにいるのですか?」と尋ねます。私たちは、いかなる物質的な努力によってもこれらの問いへの答えを得ることはできません。そして、そのためにすべての大学はこれらの問いを脇に押しやっています。彼らは「この問題は難しすぎる」と言います。あるいは彼らはこれらを切り捨てます。「これは私たちには関係ない」そして技術者たちは馬無しの馬車や羽のない鳥を完成させることに注意を向けます。かつては馬が車を引いていて、公害はありませんでした。しかし今は車やロケットがあり、科学者たちは大変誇らしく思っています。「私たちは馬の無い馬車と羽のない鳥を発明した」と彼らは自慢します。彼らは飛行機やロケットのための模造品の羽を発明することはできても、魂のない体を発明することはできません。彼らが実際にそれをすることができたら、それは賞賛に値します。しかし、そのような試みは必然的に失敗します。私たちは、背後に霊魂を持たずして動く機械はないと知っているからです。最も複雑なコンピューターでさえ、それを動かすための訓練された人を必要とします。同様に、宇宙の顕現として知られるこの大いなる機械は至高の霊によって統御されていることを知るべきです。それがクリシュナです。科学者たちはこの物質宇宙の究極の原因や究極の統御者を探しており、様々な理論や提案を仮定していますが、知識を得るための本当の方法はとても簡単で完璧です。単に完璧な人、クリシュナから聞けば良いのです。バガヴァッド・ギーターに明かされている知識を受け入れることで、地球がその一部であるところのこの偉大なる天空の機械は、その背後に運転者が―――クリシュナがいらっしゃるからこれほど素晴らしく動いているのだということを、誰でもただちに知ることができます。

知識を得るための私たちの方法はとても簡単です。クリシュナの教えであるバガヴァッド・ギーターは、至高にして太古の人、至高の人格神であるアーディ・プルサご自身によって与えられた主要な知識の書です。彼はまことに完璧なる人です。私たちは彼を完璧な人として認めますが、そうしない人も大勢いる、という議論もあるかもしれません。しかし、この容認は思いつきでなされたものであると考えるべきではありません。彼は数多くの権威ある人々の証言に基づいて完璧な人として認められています。私たちは単に自分たちの思いつきや感傷に基づいてクリシュナを受け入れているわけではありません。違います―――クリシュナは、すべてのヴェーダ文献の著者であるヴャーサデヴァなどの多くのヴェーダの権威によって神として認められています。ヴェーダには宝の山ほどの知識が含まれており、その著者であるヴャーサデヴァがクリシュナを至高の人格神として受け入れており、ヴャーサデヴァの霊的指導者であるナーラダもまたクリシュナを同じように受け入れています。ナーラダの霊的指導者であるブラーマーは、クリシュナを至高の人としてだけでなく至高の統御者としても受け入れています―――イースヴァラー・パラマー・クリシュナー、「至高の統御者はクリシュナです。」

創造されたものの中には、自分は支配されていない、と主張できるものはいません。地位や権力に関わらず、すべての人に自分より上の存在がいます。しかし、クリシュナには支配する者がありません。したがって彼は神であるのです。彼はすべての者の支配者であり、彼の上に立つ者はなく、誰も彼を支配しません。また、彼と等しい者もなく、彼の絶対的な支配の水準を共有する者もありません。これはとても変に聞こえるかもしれません。現在では、いわゆる神様が大勢いるからです。まことに、特にインドから輸入されているので、神々は非常に安っぽくなりました。他の国の人たちは、国内で神様たちが製造されていないので幸せです。しかしインドでは神様は毎日のように製造されています。神様がロサンジェルスやニューヨークにやってきて、人々が彼を迎えるために集まっている、などの話をよく聞きます。しかし、クリシュナはそのような神秘工場で製造されるようなタイプの神ではありません。違います。彼は神に「された」のではなく、神で「ある」のです。

この巨大な物質自然、宇宙顕現の背後には神―――クリシュナ―――がいらっしゃること、そして彼はすべてのヴェーダの権威者によって受け入れられていることを、私たちは権威に基づいて知るべきです。権威を受け入れることは、私たちにとって新しいことではありません。すべての人が何らかの形で権威を受け入れます。教育を受けるために私たちは先生のもとに行ったり学校に通ったり、単に父や母から学んだりします。子供の頃には、私たちは「お父さん、これは何ですか?」と尋ね、父親は「これはペンだよ」「これは眼鏡だよ」「これはテーブルだよ」などと答えていました。このようにして、人生の初めから子供は父と母から学びます。彼は両親に質問をすることによって、物の名前や、ある物と別の物の関係を学びます。良い両親は、子供が何かを尋ねると決してごまかしません。彼らははっきりした正しい情報を与えます。同様に、もし私たちが権威者から霊的な情報を得て、その権威者がごまかさないなら、私たちの知識は完璧です。しかし、もし私たちが私たち自身の推量の力によって結論に辿り着こうとするなら、きっと間違うでしょう。特定の事実や個々の事例から理論付けて一般的な結論に辿りつけるという帰納法は、決して完璧な方法ではありません。私たちは有限であり、私たちの経験も有限なので、それは常に不完全であり続けるでしょう。

完璧な情報源であるクリシュナから情報を得るなら、そしてその情報を繰り返すなら、そうすれば私たちが話すこともまた完璧であり、権威があるとして受け入れられます。パラムパラー、すなわち師弟継承は正に、クリシュナあるいはクリシュナを受け入れた権威から聞いて彼らが言ったことを正確に繰り返す、というこの方法です。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはこの方法を薦めていらっしゃいます。(サンスクリット引用)

「この至高の科学は、このように師弟継承を通して受け取られ、そして聖なる王者たちはそれをそのようにして理解しました。」(BG4.2)

かつて、知識は権威者であった偉大な聖なる王者たちによって受け継がれてきました。前の時代には、しかし、これらの王者たちはリシ、すなわち偉大なる学識のある学者であり献身者であり、平凡な人々ではなかったので、彼らが率いていた政府は大変良く運行していました。ヴェーダ文明においては、王者たちが神の献身者として完成を得た例が多くあります。例えば、ドゥルヴァ・マハーラージャは、神を探すために森に行き、過酷な苦行と禁欲を実行することによって六ヶ月のうちに神を見つけました。彼は大変繊細な体をしたわずか5歳の王子でしたが、霊的指導者であるナーラダの指示に従ったので成功しました。ドゥルヴァ・マハーラージャは、森で過ごした最初の一ヶ月は単に三日に一度いくらかの果物と野菜を食べ、六日に一度少しの水を飲んだだけでした。彼は最後には息を吸うことを止め、一本足で六ヶ月立ち尽くしました。これらの厳しい修行を半年続けたあと、神は彼の目の前に姿を現して下さいました。私たちはこのような厳しい修行をする必要はありませんが、単にヴェーダの権威者の足跡を辿ることで私たちもまた神を目の前に見ることができます。この、神を見る、ということは人生の完成です。

クリシュナ意識の方法は禁欲に基づいていますが、それはあまり難しくありません。食べることと性生活を取り仕切る規制があり(プラサーダム、すなわちまず先にクリシュナに捧げられた食べ物だけを食べ、性生活は結婚生活に限られる)、霊的な認識を促進して助長するその他の規制があります。今日ではドゥルヴァ・マハーラージャを模倣することは不可能ですが、特定のヴェーダの原則に従うことで、霊的な意識、クリシュナ意識に進歩することができます。進歩するにつれて、私たちに知識は完成します。次の生がどうなるか言えないなら、科学者や哲学者になることが何の役に立つでしょう。真理を認識したクリシュナ意識の学徒は、彼の次の生が何であるか、神とは何か、そして生命体と神との関係とは何か、ということについて、非常にたやすく語ることができます。彼の知識はバガヴァッド・ギーターやシュリマッド・バーガヴァタムなどの完璧な知識の書から来ているので、完璧なのです。

つまり、これがクリシュナ意識の方法なのです。とても簡単で、誰でもそれを受け入れて自分の人生を完璧なものにすることができます。もし誰かが「私はまったく教育がありません。本も読めません」と言っても、それでもその人の資格はなくなりません。その人は単にマハー・マントラを唱えることで自分の人生を完璧にすることができます。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。クリシュナは私たちに一本の舌と一対の耳を与えてくださいました。クリシュナは目ではなく耳と舌を通じて認識されると聞くと、驚かれるかもしれません。主のメッセージを聞くことによって私は舌を統御することを学び、舌が統御された後は他の感覚もそれに倣います。すべての感覚の中で、舌は最も貪欲で統御するのが難しいのです。しかし、単にハレ・クリシュナを唱えてクリシュナ・プラサーダム(クリシュナに捧げられた食べ物)を味わうことだけで、舌を統御することができます。

私たちはクリシュナを感覚的な知覚や推量によって理解することはできません。クリシュナはあまりにも偉大で、私たちの感覚の枠を超えているので、それは不可能なのです。しかし、主は服従によって理解できます。したがって、クリシュナはこの方法をお薦めになります。(サンスクリット引用)

「あらゆる種類の宗教性を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はその見返りにあなたをすべての罪深い行いの結果から守ります。だからあなたは何事も恐れる必要はありません。」(BG18.66)

不幸にして、私たちの病は反抗的であるということです―――私たちは自動的に権威に反抗します。しかし、権威は望まないと私たちが言うにも関わらず、自然は大変強力なので、私たちの上に権威を強います。私たちは自然の権威を強制的に受け入れさせられます。いかなる権威にも従わないと主張しつつ自分の感覚が引きずるにまかせてどこにでも盲目的について行く人よりみっともないものがあるでしょうか。独立しているという私たちの誤った主張は、単なる愚かさです。私たちは皆、権威の下にあります。それなのに私たちは権威は望まないと言います。これはマーヤー、幻想と呼ばれます。

私たちは、しかし、一定の独立性を持っています―――私たちは自分たちの感覚の権威に従うか、クリシュナの権威に従うかを選ぶことができます。最高にして究極の権威はクリシュナです。主は永遠に私たちの幸せを願うものであり、いつも私たちの益のためにお話しくださるからです。私たちは何らかの権威を受け入れなくてはならないので、クリシュナの権威を受け入れませんか?単にバガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムから主の栄光を聞き、主の名前―――ハレ・クリシュナ―――を唱えるだけで、私たちは迅速に人生を完成させることができます。

第2章物質的な泥沼から出て行くこと

私たちの議題は最も高尚なものです―――神の聖なる御名を称えるというものです。この議題はマハーラジャ・パリークスィットとスカデヴァ・ゴスヴァーミーとの間で論じられました。後者は、ある非常に堕落して様々な罪深い行いを繰り返していたブラーマナが単にクリシュナの聖なる御名を唱えることだけで救われたことに言及しました。これはシュリマッド・バーガヴァタムの第6巻にあります。シュリマッド・バーガヴァタムは主クリシュナの娯楽を描写しクリシュナ意識の哲学について詳述したヴァーサデヴァによる叙事詩です。

シュリマッド・バーガヴァタムの第5巻には、宇宙の惑星系が非常に詳しく説明されています。宇宙には、低・中・高の惑星系があります。本当は、バーガヴァタムだけでなくすべての宗教的な聖典に、地獄すなわち低位の惑星系と、天国すなわち高位の惑星系に関する記述が含まれています。シュリマッド・バーガヴァタムは、これらの天体がどこにあるのかということについて証拠を述べ、それらがこの地球からどれくらい遠くにあるかを示しています。月や他の天体がどれくらい遠くにあるか天文学者たちが計算したようなものです。同様にバーガヴァタムは様々な惑星に関する描写を含んでいます。

この惑星においてさえ、私たちは様々に異なる気候状態を経験します。合衆国のような温帯の国では、インドのような熱帯の国とは気候が異なります。この惑星に環境の違いがあるように、はるかに異なる大気や環境を持つ惑星があるのです。スカデヴァ・ゴスヴァーミーからそのような惑星の描写を聞いたあと、パリクスィット・マハーラージャは次のように言いました。
(サンスクリット引用)
「私はあなたから地獄のような惑星について聞きました。とても罪深い人たちは、それらの惑星に送られます」(B6.1.6)

パリクスィット・マハーラージャはヴァイシュナヴァ(献身者)であり、ヴァイシュナヴァはいつも他者の苦しみに哀れみを持っています。例えば、主イエス・キリストがお現れになったときは、彼は人々の惨めな状態を見て大いに悲しまれました。属する国や宗派に関わらず、すべてのヴァイシュナヴァ、すなわち献身者は―――神意識、あるいはクリシュナ意識の伝道者であるすべての人は―――このように同情的なのです。したがって、ヴァイシュナヴァ、神の栄光を広める者を冒涜することは大きな罪です。

クリシュナは純粋なヴァイシュナヴァの蓮の御足に対してなされた侮辱を決して我慢なさいません。ヴァイシュナヴァは、しかし、いつでもそのような罪を許す用意があります。クリパームブディ―――ヴァイシュナヴァは慈悲の海なのです。ヴァーンカー・カルパ・タトゥ―――誰でも望みを持っていますが、ヴァイシュナヴァはすべての望みを叶えることができます。カルパ・タトゥは、霊的世界にある「望みを叶える木」と呼ばれる木を指します。この物質世界では、特定の果物は特定の木からしか採れません。しかし、クリシュナ・ロカや霊的な天空にある他のすべての惑星では、すべての木が霊的であり、望むものを何でも実らせます。それはブラーマ・サムヒターに描写されています。(サンスクリット引用)純粋な献身者はそのような望みを叶える木に例えられます。真摯な弟子に比類なき贈り物を―――クリシュナ意識を下賜することができるからです。

ヴァイシュナヴァは、「幸運な」という意味のマハーバーガと呼ばれます。ヴァイシュナヴァになり、神意識である者は、大いに幸運であると理解されます。今の時代におけるクリシュナ意識の主要な解釈者である主チャイタンニャ・マハープラブは、「宇宙全体の様々な惑星系にいる生命体は、異なる種の生命の中をぐるぐる回っている」と説明なさいました。生命体はどこでも好きなところに行くことができます―――天国へも、地獄へも―――単に自分自身をそれらの場所に向けて準備するだけでいいのです。多くの天国的な惑星と多くの地獄的な惑星が存在し、多くの種の生命があります。パドマ・プラーナは、生命の種の数を840万と推定しており、生命体はこれらの種の間をぐるぐると回ったりふらふらとさまよったりして、現在の人生における精神性にふさわしい体を作っています。「蒔いた種を刈り取る」というのが、ここを支配する法則です。チャイタンニャ・マハープラブは、物質世界で転生している無数の生命体のうち、ほんの一部がクリシュナ意識になるほど幸運である、とおっしゃいます。クリシュナ意識はどこにでも無料で配られていますが、それでも皆がそれを受け入れるわけではありません。特にこのカリの時代においては。このため、シュリマッド・バーガヴァタムはカリの時代の人々を不運であると特徴づけています。したがってチャイタンニャ・マハープラブは、幸運な者だけがクリシュナ意識を自分のものとして、
そうして知識に溢れた快適で幸せな人生を得るのだ、とおっしゃいます。

家々を巡って不運な人々が幸運を受け入れるように努力することはヴァイシュナヴァの義務です。ヴァイシュナヴァは、「どうしたらこれらの人々は地獄のような人生から解放されるだろうか」と考えます。それはパリクスィット・マハーラージャの問いでもありました。「あなた様は、人はその罪深い行いによって地獄のような生活状態や地獄のような惑星系に入れられる、とおっしゃいました。では、そのような人々が救われるための方法は何ですか」と彼は言いました。これはとても大切な問いです。ヴァイシュナヴァが来るとき、神ご自身がおいでになるとき、あるいは神の息子達や神の大変身近な献身者たちがいらっしゃるときは、彼らの唯一の使命は苦しんでいる罪深い人々を救うことです。彼らはそのためにどうしたらいいかという知識を持っています。プラーラーダ・マハーラージャが主ヌリスィムハデヴァにお会いになったとき、彼は次のようにおっしゃいました。
(サンスクリット引用)BG7.9.43
「親愛なる主よ」とプラーラーダは述べ始めました。「私は自分自身の救いにはあまり関心がありません。」この時点で、私たちはこの態度を自分たちの個人的な悟りが決して邪魔されないように非常に注意深くしているマーヤーヴァーディー哲学者のそれと比較することができます。彼らはしばしば次のように考えます。「もし伝道をして他の人たちと関わりを持つなら、私は堕落して私の覚醒は終わるかもしれない。」だから彼らは伝道をしようとしません。ヴァイシュナヴァだけがやってくるのです。堕落する危険を冒してさえ―――しかし、彼らは堕落しません。ヴァイシュナヴァは制約された魂たちを解放するために地獄に行く意思があります。これはプラーラーダ・マハーラージャの使命でもありました。彼は次のように続けました。「私はこの物質世界に住むことについてあまり心配していません。私は自分自身については全く心配がないのです。どういうわけか、いつもクリシュナ意識であるように訓練されているからです。」プラーラーダはクリシュナ意識だったので、来世にはクリシュナのもとに帰る自信がありました。バガヴァッド・ギーターには、もしクリシュナ意識の規制的な原則を注意深く実行すれば、来世には必ず至高の目的地に辿りつける、と述べられています。プラーラーダ・マハーラージャは続けます―――「私にはただ一つだけ心配事があります。クリシュナ意識でない者たちのことが心配なのです。私は自分のことは心配していませんが、彼らのことを考えているのです。」なぜ人々はクリシュナ意識でないのでしょうか?(サンスクリット引用)悪党たちが、一時的な幸せのために偽りの文明を作ってしまったのです。

マーヤー・スクハーヤ。実際、これは事実なのです。私たちは偽りの文明を作るのに成功しました。毎年とても多くの車が製造され、そのために多くの道が掘られ、舗装され、修繕されねばなりません。これは問題に次ぐ問題を作り出し、だからこれはマーヤー・スクハーヤ、幻想の幸せなのです。私たちは、幸せであるための何らかの方法を作り出そうと努力していますが、単に他の問題を作り出すのに成功するだけです。合衆国には世界のどの国よりもたくさん車がありますが、それは何らの問題をも解決しません。私たちは人生の問題を解決する助けとするために車を製造しましたが、往々にしてこれが他の問題をも作り出すことを経験しています。いったん車を作ってしまうと、単に友人に会ったり医者に行ったりするために50kmも60kmも旅をしなければなりません。ニューヨークからボストンまで飛行機で一時間足らずで行けますが、飛行場に行くだけでそれ以上の時間がかかります。この状況はマーヤー・スクハーヤと呼ばれます。マーヤーは、偽りの、幻想の、を意味します。私たちはとても快適な状況を作ろうとしますが、単に別の不快な状況を作り出すだけに終わります。これが物質世界のあり方なのです。もし私たちが神と自然によって与えられた自然な快適さに満足せず、人工的な快適さを作ろうと望むならば、そうすれば私たちは不快さをも作りださねばならないのです。ほとんどの人はこの事実を知らないので、自分たちはとても快適な状況を作り出していると思っていますが、実際には彼らは生計を立てるために70kmも旅して会社へ行き、70kmも旅して家に帰ることになるのです。

このような状況のため、プラーラーダ・マハーラージャはこれらのヴィムーダー、物質主義的な人々は一時的な幸せのために不必要に自らに重荷を負わせているとおっしゃいます。(サンスクリット引用)したがって、ヴェーダの文明では人が物質的な人生から自らを自由にし、放棄階級、サンニャーサとなり、心配することなく献身的な奉仕をなすことを勧めています。

放棄階級になることは、しかし、必ずしも必要ではありません。もし人が家庭生活をしながらクリシュナ意識を実行することができるなら、それも勧められています。バクティヴィノダ・タークラは家庭人であり行政長官でしたが、それでも最も素晴らしく献身奉仕をしました。ドゥルヴァ・マハーラージャとプラーラーダ・マハーラージャも同じくグリハスタ、家庭人でしたが、彼らは家庭人であっても妨害されることなく奉仕ができるように自らを訓練しました。だからプラーラーダ・マハーラージャは「私はいつもクリシュナ意識でいられる術を身に付けました」とおっしゃいました。その術とは何でしょうか?(サンスクリット引用)単に主の勝利に輝く活動と娯楽を称えることです。ヴィールヤという言葉は「とても勇士的な」を意味します。シュリマッド・バーガヴァタムを読むことによって、クリシュナの活動、名声、仲間達、そして主に関わる他のすべてはことごとく勇士的であることを私たちは理解できるようになります。これに関して、プラーラーダ・マハーラージャは次のようにおっしゃいました。「私はどこに行ってもあなたの勇士的な活動を称えて救われるという確信があります。私が堕落するということはありえませんが、私は単に、いつもあくせく働くような文明を作り上げてしまった人々のことを心配しています。」プラーラーダは続けておっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「親愛なる主よ、自分たちの解放にとても強い関心のある聖人たちや賢者たちが大勢います。彼らはヒマラヤ山脈などの人里離れたところに住み、誰とも話さず、都市に住む一般の人々と関わることや妨害されることや、堕落するかもしれないことを恐れています。彼らは「私は自分が救われるほうがいい」と考えています。これらの偉大な聖者たちが、終わりのない重労働に基づく文明を作ってしまった人々の住む都市に来ないことが、私は残念でなりません。そのような聖人たちは、あまり同情的ではありません。しかし私は単に感覚の満足のためだけに不必要にあくせく働いているこれらの堕落した人々のことを心配しています。」(バーガヴァタム7.9.44)

それほど一生懸命に働くことに何かの意義があったにしても、そのような人々はそれが何であるか知りません。彼らが知っているのは、性的な衝動と、この衝動を満足させる売春宿だけです。しかしプラーラーダ・マハーラージャはこのような人々への同情を持っています。(サンスクリット引用)「我が主よ、私は自分だけの救いは要りません。これらのすべての愚か者たちを一緒に連れて行けないなら、私は行きません。」こうして、彼はすべての堕落した魂たちを連れないで神の王国へ行くことを拒否しました。これがヴァイシュナヴァです。(サンスクリット引用)「私はただ彼らにどうやってあなたに服従するかを教えたいのです。それだけです。それが私の目的地です。」

服従することは、このように強調されています。ヴァイシュナヴァは服従すればたちどころに道が開けることを知っているからです。
(サンスクリット引用)
「何とかしてすべての人々をクリシュナの前にひれ伏させてください。」これはとても単純な方法です。単にクリシュナの前に信頼をもってひれ伏し、次のように言うだけで良いのです。「我が主クリシュナよ。私はあなたのことをとても長い間、いくつもの生の間、忘れていました。私は今あなたに気づきました。どうか私を受け入れてください。」それだけです。もし人が単にこの方法を学んで誠実に主に服従すれば、その人の道はたちまち開けます。これが本物のヴァイシュナヴァの目的です。

ヴァイシュナヴァはいつもどうしたら堕落して制約された魂たちが解放されるかと考え、そのための計画を立て続けます。主チャイタンニャ・マハープラブの主要な弟子であったゴゥヴァーミーたちは、そのようなヴァイシュナヴァだったので、シュリーニヴァーサ・アーチャルヤは彼らのことを次のように描写しました。
(サンスクリット引用)
「6人のゴスヴァーミーたち(名前を列挙)は、すべての人類の利益のために永遠なる宗教的な原則を築くことを目的として、すべての明かされた聖典を詳細に研究することに極めて秀でていらっしゃいます。彼らはいつもゴピーたちの雰囲気に浸っており、ラーダとクリシュナのために愛情あふれる献身的な奉仕をしておいでです。」

同様のヴァイシュナヴァ的な同情をもって、パリクスィット・マハーラージャはスカデヴァ・ゴスヴァーミーに次のようにおっしゃいました。「あなた様は今、異なる種類の地獄的な人生を描写なさいました。今度はどうやったら苦しんでいる人々が解放されるかを教えてください。どうかそれを説明してください。」(サンスクリット引用)ナラーという言葉は、人間、あるいは堕落した者を意味します。(サンスクリット引用)「彼らはどうしたら甚だしい惨めさや恐ろしい痛みから逃れられるでしょうか?」それが典型的なヴァイシュナヴァの心です。マハーラージャ・パリクスィットはまた、このようにもおっしゃいました。「どういうわけか、彼らは地獄的な人生に落ちてしまいましたが、だからといって彼らがそのような状況にい続けなければならないわけではありません。彼らが解放される方法があるはずです。だからどうかその方法を私に説明してください。」

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは答えました。
(サンスクリット引用)
「はい、私は既に厳しく痛みの多い人生を特徴とする様々な地獄的な状況を描写しました。要点は、人はそのような人生を相殺しなければならないということです。」(バーガヴァタム6.1.7)

それはどのようにして可能でしょうか。罪深い行いは、様々な方法でなされます。その一つは心によってです。もし人が何らかの罪深い行いをすることを考えて計画を立てるとすれば―――「私はあの人を殺そう」―――それも罪深いことであると見なされるのです。心が考え、感じ、意思を持てば、行いがそれに続きます。合衆国のある場所では、飼い犬が道行く人に吠えれば飼い主が法律で罪に問われます。犬はただ吠えているだけであっても、飼い主はその責任を問われるのです。犬は動物なので、責任はありません。しかし犬の飼い主が犬を自分の最良の友としたので、飼い主は法的に責任があるのです。同様に、犬が吠えることが不法であると考えられるように、攻撃的な言葉もまた罪深いと考えられます。それはちょうど犬が吠えるようなものだからです。要点は、罪深い行いは様々な方法で為され得るということです―――それを考えたり、罪深く話したり、実際に罪を犯したり。どの場合でも、それらはすべて罪深い行いだと考えられます。(サンスクリット引用)人はそのような行いに対する罰にくるしまねばならないのです。

人は面倒なことと罰を避けたいので、来世を信じません。しかし来世は避けられません。法律に順じた行いをしなければ罰せられるというのは、よく知られた事実です。もし人が罪を犯せば、国家がその人を罰します。しかし、時として犯罪者は国家による罰を逃れます。しかし、神の法律にあってはそれはありえません。人は他者を騙し、盗んで隠れ、国家の罰を逃れることができます。しかし人はより高い法律、自然の法律から逃れることはできません。とても多くの目撃者がいるので、とても難しいのです。日の光が目撃者であり、月の光が目撃者であり、クリシュナが至上の目撃者です。したがって、人は「私はこういう罪を犯しているが、誰も見ていない」とはいえないのです。クリシュナは心臓に鎮座していらっしゃる至高の目撃者であり、人が考えたりしたりしていることをすべて書き留めていらっしゃるだけでなく、生命体にそのための設備をくださいます。もし人が感覚を満足させるために何かしたいと望むなら、クリシュナはすべての設備をくださいます。(サンスクリット引用)「私から記憶と知識と忘却が来ます。」

このようにしてクリシュナは私たちに機会を下さいます。もし私たちがクリシュナを望めば、クリシュナは私たちにご自分を手にする機会を下さいます。そして、もし私たちがクリシュナを望まないなら、クリシュナは私たちにご自分を忘れる機会を下さいます。もし私たちがクリシュナを忘れて、神を忘れて人生を楽しみたいなら、クリシュナは私たちにクリシュナを忘れるためのすべての設備を下さいます。しかし、もし私たちがクリシュナ意識で人生を楽しみたいなら、クリシュナは私たちに進歩する機会を下さいます。それは私たち次第なのです。もし私たちがクリシュナ意識無しで幸せになれると思うなら、クリシュナはそれに反対なさいません。(サンスクリット引用)アルジュナに助言した後、主は単に次のようにおっしゃいました。「今、私はあなたにすべてを説明しました。あなたは何であれ好きなようにすることができます。」アルジュナは直ちに答えました。(サンスクリット引用)「今、私はあなたの命令を遂行します。」それがクリシュナ意識です。

神は私たちの微細な独立性に干渉なさいません。もし私たちが神の命令に従って行動したいなら、主は助けてくださいます。時として堕落したにしても、もし人が誠実になって「これからはクリシュナ意識であり続けて主の命令を遂行しよう」と思うなら、クリシュナはその人を助けてくださいます。あらゆる点で、たとえ人が堕落しても、許されて更なる知性を与えられるのです。この知性は「これはするな。さあ、あなたの義務を果たしなさい」と言います。しかしもし人がクリシュナを忘れたいと望み、クリシュナ無しで幸せになりたいなら、主はいくら生を重ねてもずっとクリシュナを忘れていられるように非常に多くの機会を下さいます。

パリクスィット・マハーラージャはおっしゃいました。「もし私が「神はいない」と言えば神はいないとか、私が自分のすることに責任がないとかいうものではありません。」無神論者たちは、自分たちの罪深い行いのために神を否定します。もし彼らが神は存在すると考えれば、彼らは罰のことを思ってガタガタと震えるでしょう。したがって彼らは主の存在を否定するのです。ウサギは大きな動物に襲われると目をつぶって「私は殺されない」と考えます。しかし彼らはどっちにしても殺されます。同様に、私たちは神と主の法律の存在を否定するかもしれませんが、それでも神と主の法律は存在します。最高裁判所では、人は「私は政府の法律など気にしない」と言うかもしれません。しかし彼は政府の法律を受け入れることを強いられるのです。もし人が国家の法律を否定するなら、その人は刑務所に入れられて適正に罰せされます。同様に人は愚かにも様々な方法で(「神はいない」、「私が神である」など)神の存在をけなすかもしれませんが、究極的には人は自分のすべての行いに、良きにしろ悪しきにしろ、責任があるのです。

カルマの法則、すなわち行いを律する法則によれば、もし正しく振るまい、徳のある行いをすれば、私たちは幸運を与えられます。そして罪深い行いをすれば苦しまねばなりません。そのため、スカデヴァ・ゴスヴァーミーは次のようにおっしゃいました。
(サンスクリット引用)
人は自分は責任があることを知るべきであり、自分の罪の重さによって、サーストラ、すなわち聖典に描写された何らかの種類の償いを受け入れるべきです。」

人が病気になると医者にかかるように、ヴェーダ的な生活のあり方によると、罪深い行いに対する処方された償いのために訪れるべきブラーマナたちがいます。もし人が罪を犯してそれを苦行によって相殺すれば、それは償いです。キリスト教徒の聖書にこの例があります。スカデヴァは、人は自分の罪深い行いの重さに従って処方された償いを実行しなければならない、とおっしゃいます。医者は病気の程度によって高価な薬や安価な薬を処方します。頭痛には単にアスピリンを処方するだけかもしれませんが、もし何か重い病気があれば、何千ドルもする外科手術が必要だと言うかもしれません。同様に、罪深い行いは病であり、健康になるためには人は処方された治療法に従うべきなのです。

生と死の連綿たる鎖を受け入れることで、魂は病的な状態を受け入れます。魂は純粋な霊なので、生まれたり死んだり病気になったりすることはないのです。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは魂には生はなく(ナ・ジャーヤテ)死も無い(ムリヤテ)とおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「魂には生も死もありません。いったん存在すると、決して存在しなくなることもありません。魂は生まれず、永遠で、常に存在し、死なず、太古の存在です。体が新でも死ぬことはありません。」(BG2.20)

近代の文明は、死の後に何が起こるかを人々に教えるための教育システムを緊急に必要としています。実際には現行の教育システムは極めて不完全です。死の後に何が起こるか知らない限り、人は動物のように死ぬからです。動物は自分が死ぬということや別の体を受け入れなければならないことなどを知りません。しかし、人間の人生はもっと高度であるべきなのです。人は単に動物的な、食べること、眠ること、身を守ること、性交することだけに興味を持っているべきではありません。生命体は、豊富な食べ物と眠るための多くの素晴らしい建物と、性生活のための良いあつらえと身を守るための優れた防御方法を持っているかもしれませんが、それはその生命体が人間であることを意味するわけではありません。これらの活動に基づいた文明は動物的であるとして知られるべきです。動物もまたこれらの機能に興味があるので、もし人間がその先まで行かなければ、人間の生活と動物の生活の違いは何でしょうか。

その違いは、人間が真理を知りたがるようになって次のような問いかけをするときに生じます。「なぜ私はこのような惨めな状態に入れられたのだろうか?何か救済の方法はあるだろうか?終わることの無い永遠の生命はあるだろうか?私は死にたくもないし、苦しみたくもない。私はとても幸せに平和に暮らしたい。その機会はあるだろうか?それを得るための方法は科学は何だろうか?」このような問いが問われ、それに答えるための手段が取られるとき、私たちの人間の文明が結果として生じます。もしこのような問いが浮上しないなら、その文明は動物的であるとして知られるべきです。動物と動物的な人間たちは、単に食べること、眠ること、性交すること、および身を守ることというプロセスを続けることにだけ興味がありますが、実際にはこのプロセスは必然的に崩壊を強いられます。事実は、誰も冷酷な死の手から身を守ることができないので、本当の防御はありえないのです。例えば、永遠に生きたいと願ったヒラニャカスィプは、厳しい苦行を行いましたが、最後にライオン人間ヌリスィムハデヴァの姿をした主ご自身によって裏をかかれました。主はヒラニャカスィプをご自分の爪で殺められました。今、いわゆる科学者たちは、いつの日か未来において科学的な方法で死を止めることができるようになると主張しています。しかし、これは単にもう一つの狂った発言に過ぎません。死を止めることは全く不可能なのです。私たちは科学的な知識において偉大な進展を見るかもしれませんが、生、死、老、病という四重の悲惨さに対する科学的な解決策はありません。

知性ある者は、これらの4つの主要な問題―――生、死、老、病を解決するために意欲を持つべきです。誰も死にたくありませんが、治療法はありません。誰もが死なねばなりません。急激な人口増加を止めるために避妊法を使って皆が懸命ですが、それでも出生は続いています。死を止めることはできず、出生を止めることもできません。医学におけるあらゆる最新の発明にも関わらず、病気や老化を止めることもできません。

人は自分は人生のすべての問題を解決したと思うかもしれませんが、これらの4つの問題、生、死、老、病の解決策はどこにあるのでしょうか。その解決策がクリシュナ意識です。私たち一人一人はいつの瞬間も自分の体を放棄しており、この体を放棄する最後の局面は死と呼ばれます。しかしクリシュナは次のようにもおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「私の姿と活動に超越的な性質を知る者は、体を去った後でこの物質世界で再び生を受けることなく、私の永遠の住処に至るのです、おお、アルジュナよ。」(BG4.9)

そのような人はどうなるのでしょうか?マーム・エティ―――その人はクリシュナの元に帰ります。クリシュナのところに行こうと思うなら、私たちは霊的な体を準備しなければなりません。その準備がクリシュナ意識のプロセスなのです。もし人がクリシュナ意識であり続けるなら、その人は徐々に次の体を、霊的な体を準備します。それはその人を直ちにクリシュナロカ、クリシュナのお住まいに運び、その人はそこに永遠に幸福に住んで幸せになれるのです。

第3章愛することを学ぶ

罪深い行いに汚染されたら、相応の償いが必要です。それが聖典の規定です。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、もし人が死ぬ前に償いをすれば来世で堕落しないで済むとおっしゃいます。もし償いをしないなら、その人は自分の罪深い行いの結果として生じる反応を引きずり、苦しまねばなりません。法によると、もし人が誰かを殺すなら、その人は殺されねばなりません。生には生を、という概念はあまり新しいものではなく、人類のためにヴェーダの法律書であるマヌ・サムヒターに見られます。そこには、「王が殺人者を絞首刑にすると、それは本当は殺人者にとって益となる。なぜなら、もし殺されないなら彼は自分の犯した殺人の反応を引きずり、多くの形で苦しまねばならないからである」と書かれています。

人々は知りませんが、自然の法則はとてもかすかで、とても熱心に執行されています。マヌ・サムヒターでは、生には生、という概念が承認されており、それは実際に世界中に見られます。同様に、人はたとえアリ一匹でもその責任を負わずに殺すことはできない、と述べた他の法律もあります。私たちには作り出すことができないので、私たちはいかなる生命体をも殺す権利を持ちません。したがって、人を殺すことと動物を殺すことの間に違いを設ける人工的な法律は不完全です。人間の作る法律には不完全さがありますが、神の法律には不備はありえません。神の法によると、動物を殺すことは人を殺すことと同じく懲罰に値します。二者の間に違いを設ける者は、自分たちの独自の法律を作り出しているのです。十戒においても、それは規定されています。「あなたがたは殺してはならない」、これは完璧な法ですが、人間は区別化と推量によってそれを歪めました。「私は人間は殺さないが、動物は殺す」。このようにして、人は自分自身を欺き、自分と他者の上に苦しみを課します。どちらにしても、しかし、神の法はそのような振るまいをお許しになりません。

異なる体や衣類をまとっていても、すべての者は神の創造物です。神は唯一の至高の父と考えられています。父にはたくさんの子供がいるかもしれず、そのうちのある者は知性的で、他の者はあまり知性的でないかもしれません。しかし、もしも知性的な子供が父に「私の兄弟はあまり知性的ではありません。殺していいですか?」と言えば、父は同意するでしょうか。単に、ある子供があまり知性的でなく、他の子供が重荷を避けるために彼を殺したいと望んでも、父は決して同意しません。同様に、もし神が至高の父であれば、なぜ神は同じくご自分の子供である動物たちを殺すことを承認なさるでしょうか。バガヴァッド・ギーターにおいて、神はアルジュナに840万種のすべての生命体はご自分の子供であると宣言なさいます。「そして私は彼らに命を与えた父である」と主はおっしゃいます。普通の物質的な生殖において父が種を蒔き母が胎児に必要な血液を供給することで体を育むように、同様に至高の父の欠かすべからざる小片である生命体は主によって物質自然の中に受胎させられたのです。

霊魂の大きさはとても小さく、聖典にはケサーグラ―――髪の毛の先端の千分の一だと書かれています。私たちには、とても小さな点がさらに千分の一に分けられているのを想像するのは容易ではありません。言い換えると、それはとても小さいので最も高性能の顕微鏡でさえ感知することができないのです。このように、霊的な火花の大きさはとても小さいので、通常の視力では見ることができません。これらすべての情報は聖典に示されていますが、私たちには相応の視力がないので見ることができません。私たちの物質的な目は魂の大きさを知覚することができませんが、魂はそれでも体の中にあり、そして体を去ると同時にその行いに応じた別の体を得ます。

人は常にこれらすべての活動の背後にはより高い管理体制があることを考慮すべきです。生命体は物質世界においてちょうど会社員が会社で働くように活動します。そして、その勤務成績が記録されているのです。生命体は上司の意見がどうであるかを知りませんが、それでも勤務成績の記録は会社に保存され、その活動に応じて昇進や給料の増額を与えられ、あるいは降格されたり、解雇されたりすることさえあります。同様い、私たちのすべての活動には目撃者がいます。したがって聖典には、生命体は上なる管理の下にあってそれぞれの行いに応じて賞罰を受ける、と書かれています。今、私たちは人間の体を持っていますが、来世ではもっていないかもしれません。何か別の、もっと良いものやもっと低いものを持っているかもしれません。どのような種類の体を持つかは、生命体の上司によって決定されます。一般に、生命体は霊魂がどのようにして一つの体からべつの体へと転生するかを知りません。

霊魂は一回の生の間でさえ体の変化に伴って転生します。体が最初に母親の子宮の中に現れたときは、それはとても小さくて豆粒のようですが、徐々に9つの穴ができてきます―――二つの目、二つの耳、二つの鼻腔、一つの口、一つの性器と一つの直腸です。このようにして体が育ち、それが母親の子宮の中で育つことが必要とされる間はそこに留まります。外に出て行くのに十分なだけ成長したら、出てきて育ちます。成長は体の変化を伴います。この変化は生命体には知覚できないので、理解することはできません。子供の頃には私たちは小さな体を持っていましたが、それはもはや存在しません。したがって、私たちは体を替えたということができます。同様に、物質的なものの性質により、私たちはこの体が使い物にならなくなったら取り替えねばなりません。すべての物質的なものは劣化し、壊れた機械や古い布切れのように、体はある一定の時間のあとは使いものにならなくなります。

この成長過程は常に生じていますが、現代の大学での教育システムは、高度であると考えられてはいますが、不幸にしてこのことを扱いません。本当は、霊的な知識なくして教育はないのです。人は、パンを稼ぐことと食べること、眠ることと性交することは、正式な教育を受けなくても学べます。動物たちは教育されていません―――彼らは技術者ではなく、大学の学位も持ちません―――しかし、彼らもまた食べており、眠っており、性交しており、身を守っています。もし教育システムがこれらのプロセスだけを教えるのであれば、それは教育と呼ばれるに値しません。本当の教育は私たちに自分が何であるかを理解することができるようにしてくれます。人が自己の真実を理解することによって意識を発達させない限り、その人のすべての行いは無明の相においてなされます。人間の人生は物質的な自然の法則に勝利するためにあります。本当は私たちは皆、自然の猛襲を相殺するためにその勝利を得ようとしています。究極の勝利は生老病死を克服することですが、私たちはこの大切な点を無視してきました。

もし神が供給してくださっているものを正しく使うことを教育システムが教えるなら、それは向上するでしょう。私たちの食べる果物と穀物のすべては、すべての生命体に食べ物を供給してくださる神によって与えられたものです。シュリマッド・バーガヴァタムには(サンスクリット引用)、「ある生命体は別の生命体の食べ物である」(バーガヴァタム1.13.47)と述べられています。腕のない動物は、私たちのような腕のある動物の食物です。脚のない動物は、4本の脚のある動物の食物です。草は生命体ですが、動くための脚がありません。そのため牛や他の動物に食べられるのです。そのような動かない生命体は動く動物の食物であり、このようにして世界は常に搾取する者とされる者の間の戦いにあります。弱い者は強い者によって搾取されます。これが自然の法則です。伝統的に、クリシュナの献身者、すなわちヴァイシュナヴァは肉を食べません。これは単に菜食主義であるためではなく、神意識の進歩のためです。神意識になるためには、人はいくつかの規則や規律を守らねばなりません。もちろん人は食べなければなりませんが、提案されているのは、人はクリシュナに捧げられた食物の残りを食べるべきだというものです。これはバガヴァッド・ギーターの哲学でもあります。そこではクリシュナは次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「もし人が私に愛と献身の念を持って葉か花か果物か水を捧げるなら、私はそれを受けいれる。」(BG9.26)

クリシュナがお腹をすかせていて私たちから食べ物を欲しているわけではありません。この捧げ物の目的は、愛情のあるやり取りをすることです。クリシュナはこのやり取りを欲していらっしゃるのです。「あなたが私を愛してくれれば、私はあなたを愛します」神として、クリシュナのエネルギーはすべてを作り出して維持しています。ではなぜ主が一枚の葉っぱや一つの果物や少しの水を乞うべきでしょうか。しかしクリシュナは、もし私たちが「クリシュナ、私はとても貧しいので、何も手に入れることができません。この果物と葉っぱだけ手に入れました。どうかお受け取りください」と言って愛情を込めて一つの果物や一枚の葉っぱや水を差し上げると、大変喜んでくださいます。そのような捧げ物は、クリシュナをとても嬉しくするのです。もし主が私たちの捧げたものを食べてくださるなら、私たちに人生は成功するでしょう。私たちは実際にクリシュナと友達になるからです。果物や花や水は、ほぼ世界中のどこでも、誰でも、貧しくてもお金持ちでも、手に入れて捧げることができます。私たちは、大切なのは菜食主義ではなく、神は何も必要としてはいらっしゃらないことを覚えているべきです。大切な点は、私たちは単にどうやってクリシュナを愛するかを学ばねばならないということです。

愛は与えることと受け取ることから始まります。私たちは恋人に何かを与え、恋人は私たちに何かをくれて、このようにして愛が育ちます。私たちが誰かと愛情のあるやりとりを作り出すときは、どんな愛のあり方にせよ、どんな男の子や女の子、男性や女性にせよ、私たちは与え、受け取ります。このように、クリシュナは私たちにどうやって与え受け取るかを教えて下さっているのです。クリシュナは私たちに乞い願っていらっしゃいます。「私を愛そうとしてください。どうやって私を愛するかを学んでください。私に何かを捧げてください。」「すみませんが、」と私たちは言うかもしれません。「私にはあなたに差し上げるものが何もないのです。」「そうですか?果物一つや一輪の花、一枚の葉っぱが手に入りませんか?」「ああ、そんなことはありません。それなら誰でも手に入れられます。」

つまり、これがクリシュナ意識の方法であり、それによって人はクリシュナと友達になることができるのです。私たちはクリシュナとどんな関係を結ぶこともできます。クリシュナの直接の召使になることもできるし、最高の水準では私たちはクリシュナの父や母や恋人になることもできます。クリシュナにはすべての生命体と愛情のある関係を結ぶ準備ができていらっしゃるのです。本当は、この関係は既にあります。主は至高の父であり、私たちは主の欠かすべからざる小片だからです。子は父の体の一部なので、両者の間の関係は壊され得ません。しばらくの間忘れられることはあるかもしれませんが、人が自分の父や息子を認識すると、ただちに愛情が育ちます。同様に、私たちは永遠にクリシュナと関係がありますが、現在ではこの関係は単に忘れられているか抑圧されているのです。結果として、私たちは自分たちはクリシュナとは関係がないと思っていますが、それは事実ではありません。私たちは、主が完全な存在であるために絶対に必要な存在、すなわち私たちは主の欠かすべからざる小片なので、私たちと主との関係は永遠です。その関係は単に回復されなければならないだけであり、その回復がクリシュナ意識の過程なのです。

現在は私たちは異なる意識の影響の下にあります。ある人は自分はインド人だと考えており、別の人はアメリカ人だと思い、また別の人は「私はあれだ」、「私はこれだ」と考えています。このようにして私たちはたくさんの人工的な自己認識を作り上げますが、私たちの本当に自己認識は「私はクリシュナのものだ」というものであるべきなのです。私たちがこのように考えるとき、私たちはクリシュナ意識で考えています。この方法によってのみ、すべての生命体の間の普遍的な愛が成り立ちます。クリシュナは永遠の父としてすべての人と関係があるので、結果として、クリシュナ意識の関係を作り上げると私たちはすべての人と親戚になるのです。人は結婚すると自動的に配偶者の家族と関係が生じます。同様に、もし私たちがクリシュナとの本来の関係を再び築けば、私たちは他のすべての人との本当の関係を築くことになるのです。それが本当の普遍的な愛のための基盤です。普遍的な愛は人工的であり、私たちが中心なるものとの関係を作らない限り長持ちしません。人はアメリカに生まれればアメリカ人であり、こうして他のアメリカ人は家族の構成員になります。しかし、もしその人が他のところで生まれれば、アメリカ人とは何の関係もありません。世俗的な水準では、すべての関係は相対的です。しかし私たちのクリシュナとの関係は永遠であり、時間や状況に影響されません。私たちがクリシュナとの関係を再び作り上げるとき、普遍的な兄弟愛、正義、平和、そして繁栄の問題は解決されます。これらの高尚な概念をクリシュナ無くして実現できる可能性はありません。もし中心点が欠けていれば、どうやって兄弟愛と平和があり得るでしょうか。 

バガヴァッド・ギーターには、平和のための方法が明確に与えられています。私たちはクリシュナが唯一の享楽者であることを理解しなければなりません。すべての活動の中心点がクリシュナであるクリシュナ意識の寺院では、この意識が育まれます。すべての料理はクリシュナのためになされます。人が自分のために作るのではありません。最後には私たちはプラサーダ(捧げられた食物)を食べますが、料理をするときは自分のためではなくクリシュナのために作るのだと思うべきです。寺院のメンバーが街頭に出るときは、自分のためではなく、人々にクリシュナの存在を気づかせるためにクリシュナ意識の書物を配りに行くのです。得られたお金は、すべてクリシュナのために、クリシュナのメッセージを様々な方法で広めるために使います。そのような生き方、すべてがクリシュナのためになされる生き方は、生命体のなかにクリシュナ意識の発達を促します。私たちの活動は同じであり続けるかもしれません。私たちは単に、自分が自分自身の満足のためではなくクリシュナのために活動しているということを理解しなければならないだけです。このようにして、私たちは本来の意識になって幸せになることができます。本来の意識を、すなわちクリシュナ意識を確立しない限り、人は多かれ少なかれ狂っていることは確かなのです。クリシュナ意識でない人は皆狂っていると考えられます。彼らは一時的ではかない水準に存在しているからです。生命体として私たちは永遠なので、一時的な活動は私たちの関心事ではありません。私たちは永遠なので、私たちの行いも永遠であるべきです。そしてその永遠の行いとは、愛を込めてクリシュナに奉仕することです。

クリシュナは至高の永遠存在であり、私たちは下位的な永遠存在です。クリシュナは至高の生命体であり、私たちは下位的な生命体です。指は体全体の欠かすべからざる一部であり、その永遠の機能は体に奉仕することです。本当に、それが正に指にとっての目的であり、もし指が体全体に奉仕できないなら、それは病気であるか、役に立ちません。同様に、欠かすべからざる一部として私たちはクリシュナに奉仕し、主に従属的でなければなりません。至高の父として主は私たちのすべての必要を満たしてくださるからです。そのようなクリシュナに従属した人生は普通(訳注、本来的で正しい)の人生であり、本当に解放された人生です。クリシュナを否定して主と全く関わらずに生きようとする人は、本当は罪深い人生を送っているのです。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーとマハーラージャ・パリクスィットはこの議題について話し合い、マハーラージャ・パリクスィットはどうやったら制約された魂たちがその地獄的な暮らしから逃れられるかを知りたがりました。苦しんでいる人類を救うのは、ヴァイシュナヴァの自然な欲求です。一般に、他の人たちは人々が苦しんでいようがいまいが、気にかけません。しかし、ヴァイシュナヴァ、主の献身者たちは、どうしたら人々の堕落した状態を改善できるか、いつも考えています。キリスト教徒たちは、イエス・キリストは十字架に架けられることによって世界の人々のすべての罪深い行いを打ち消された、と信じています。主の献身者は、いつも他の者たちの苦しみを打ち消すにはどうしたらいいかと考えています。同様の献身者に、主チャイタンニャの仲間であったヴァースデヴァ・ダッタがいらっしゃいます。彼は主にこうおっしゃいました。「今こうしてあなたはこの世にいらっしゃいました。ですから、どうぞこの地上のすべての人々を解放し、ヴァイクンサ、霊的な世界にお連れください。そして、もしあなたが彼らはあまりにも罪深くて解放はできないとお考えであれば、どうぞ彼らの罪をすべて私に移してください。私が彼らの身代わりになって苦しみます。」これがヴァイシュナヴァの慈悲なのです。しかし、イエス・キリストやヴァースデヴァ・ダッタが私たちの罪のために契約を結んで、私たちは罪を犯し続けるべきだというわけではありません。それは最も憎むべき提案だからです。ヴァイシュナヴァ、すなわち献身者は、すべての人類のためにお苦しみになるかもしれませんが、人類や特定の献身者の弟子たちは、この便宜を乱用して罪を犯し続けるべきではありません。むしろ人は主イエス・キリストやヴァースデヴァ・ダッタが自分のために苦しんでくださったことを知って罪を犯すことを止めるべきです。

実際には、すべての人が自分自身の罪深い行いに責任があります。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーは次のようにお薦めになります。(サンスクリット引用)罪深い行いのすべての反応から自らを自由にするためには、人が体の中にいる限りは償いをすべきです。(サンスクリット引用)それぞれの人の罪深い行いに応じて、人は償いのプログラムを受け入れるべきです。前述のように、異なる罪深い行いによって異なる償いがあります。つまり、来世まで罪深い行いを持ち越して苦しまなくていいように、死の前に償いをすべきなのです。もし罪深い行いに対して何らかの償いがなされないならば、自然は私たちを許してくださいません。私たちは自分の罪の影響を来世において苦しまねばなりません。そのような物質的な活動への呪縛はカルマ・バンダーナーと呼ばれます。
(サンスクリット引用)
「ヴィシュヌへの犠牲としての仕事がなされねばなりません。さもないと仕事は人をこの物質世界に縛り付けます。ですから、おお、クンティの息子よ、主の満足のためにあなたの義務を遂行しなさい。それによってあなたはいつも執着することなく呪縛から自由でいられます。」(BG3.9)

人は食べるのを楽しむために動物を殺すかもしれませんが、その人はそのような行いによって縛られます。こうして来世にはその人は牛や山羊になり、牛や山羊は人になって彼を食べるのです。これがヴェーダに述べられていることであり、すべてのヴェーダの記述と同様、人は信じるのも信じないのも自由です。不幸にして、現在では人々は来世を信じないように教育されています。実に、人は「教育」を受ければ受けるほど神や神の法や来世や、罪深い行いや敬虔な行いを信じなくなるように見えます。このように現代の教育は単に人々を動物になるように準備しています。もし人間に自分が誰であるか、そして自分が体であるかどうかを教える教育が無ければ、人はロバより何ら優れたところのない存在であり続けます。ロバも他の動物たちも「自分はこの体だ」と思っているからです。このように、もし人が同じように考えるなら、その人は他の動物たちとどう違っているでしょうか。シュリマッド・バーガヴァタムには次のように述べられています。
(サンスクリット引用)
「三つの要素からなる体を自分自身として受け入れる者、妻と子供たちとの親密は身体的な関係を好む者、自分の国を崇拝に値すると考える者、そして聖なる巡礼の地の水を受け入れるけれどそこにいる聖人たちの知識を吸収しようとしない者は、幻想の中にいて、ロバより何ら優るところがないと考えられます。」(BG10.84.13)
アーユルヴェーダによると、物質的な体は(サンスクリット引用)粘液、胆汁、および空気という三つの要素からなります。体の中には、食物を液体に変える複雑な機械があります。非常に多くの複雑な身体的なプロセスが起こっていますが、私たちはそれについて何を知っているでしょうか。私たちは「これは私の体です」と言いますが、私たちは体について何を知っているでしょうか。ある人々は「私は神です」と主張します。しかし、彼らは自分の体の中で何が起こっているかということさえ知りません。

体は糞と尿と血と骨の入った袋です。もし人が知性は糞と尿と血と骨から生じると信じるなら、その人は愚か者です。私たちは糞と尿と血と骨を混ぜることで知性を作り出すことができますか?それでも人々は「私はこの体だ」と考えます。したがって聖典は、この体を自分自身だとして受け入れ、妻や子や家族との身体的な関係を自分のものとして受け入れる人は誰でも惑わされているのだと言います。カラトラという語は妻を意味し、アーディは始まりを意味します。人は孤独だと感じるので妻を娶り、たちまち子供たちが生まれ、やがて孫たちが生まれます。このようにして拡張していきます。ストリーは「拡張するもの」を意味し、したがってカラトラーディスは「妻から始まる自己の拡張」を意味します。バーウマという語は人の生まれた土地を指します。無知な人々はそれを崇拝に値する(イジャディーフ)と考えます。人々は自分の生まれた土地のために命を捧げようとしますが、彼らは、土地や体、妻、子供たち、国家や社会は本当は自分とは全然関係がない、ということを知らないのです。私たちは霊魂です。(アハム・ブラーマースミ)これが知識の悟りであり、この知識の地点に至ると私たちは幸せになるのです。
(サンスクリット引用)
「超越的なところに位置する者は直ちに至高のブラーマンを悟る。彼は何ものをも嘆いたり欲したりしない。彼はすべての生命体に平等に好意を持ち、その状態で彼は私への純粋な献身奉仕を達成する。」(BG18.54)人は「私は霊魂である。私はブラーマンである。私はこの物体ではない」と理解すると、直ちに幸せ(スラサナートマー)になります。この喜びの兆候は、もはや何かを追い求めたり嘆いたりする気持ちがなくなることです。この世界では、すべての人が失ったものを嘆いたり得なければならないものを追い求めたりする傾向がありますが、本当の利益とは自分自身を理解して自分の本当の自己を知ることです。

私たちが人生の身体的な概念を維持する限り、私たちは国家その他のすべての法律に併せて物質自然の法律にも従わなければなりません。そのため、この体は制約されていると呼ばれます。それは様々な異なる制約に影響されるからです。様々に異なる制約が存在し、どんな制約に影響されていても私たちは責任があります。もし私たちがこの体にいる間に犯した罪深い行いの償いをしないなら、来世で苦しまねばなりません。私たちはカルマに従って別の体を得るからです。(サンスクリット引用)それが自然の法です。したがってスカデヴァ・ゴスヴァーミーは人が自分の罪深い行いの重さに相応した償いをすることをお薦めになります。人はサーストラに規定された償いの方法に従わねばなりません。そうでなないと救われません。

非常に知性的でいらしたマハーラージャ・パリクスィットは、「償いによって人は罪深い行いから自由になることができますが、例えばある人が殺人をして、それから殺されたとします―――彼の殺人の罪深い反応はこうして中和されますが、来世において彼がまた誰かを殺さないということは保証されません」とおっしゃいました。このように、マハーラージャ・パリクスィットは償いの後で人々が再び同じ罪を犯すということに気づかれました。もし人が病気になれば、医者が薬を当てて治すかもしれませんが、それはその人がまた同じ病気に冒されないということを保証するものではありません。性交による病気は、しばしば治療しても繰り返し生じます。そして、泥棒は何度も何度も盗むかもしれません。何度刑務所に放り込まれても。これはなぜでしょうか。したがってマハーラージャ・パリクスィットは、償いはすでに犯された罪深い行いを相殺するには良いかもしれないがそれらが再びなされるのを防ぐわけではないと気づかれました。誰もが殺人を犯した者は罰せられることを理解できますが、それを知っていても殺すことを思い留まらせるには十分ではありません。すべての聖典とすべての法律書において、人は殺さないように警告されています。それでも誰もこれらの法律を気にしません。これに対する治療法は何でしょうか。
(サンスクリット引用)実際的な経験、および権威から聞くことによって、誰もが罪深い行いとは何かを知っており、「私は罪とは何か知らない」と言える人はいません。もし人が償いの後で繰り返し同じ罪を犯すなら、償いに何の価値があるでしょう。(サンスクリット引用)(BG6.1.9)人は罰せられると、「私はなんという過ちを犯してしまったのだろう!私はもう二度とこの罪を犯さない」と考えます。しかし彼は危険が去るとすぐにまた同じ罪を犯します。

習慣は第二の本能です。それはとても壊しにくいのです。(サンスクリット引用)人は犬を王座に座らせることができるかもしれませんが、犬は靴を見るとすぐに飛び降りてそれに向かって走っていきます。犬だからです。犬としての性質がそこにあり、それは単に犬を王座につけるだけでは変わりません。同様に、私たちは物質自然の三つの相(サンスクリット引用)と関わることで物質的な性質を身につけました。そして私たちの習慣はこれらの三つの性質、すなわち徳、熱情、無明、と関わることで形成されました。しかし、もしも私たちが物質自然の三つの相との関わりを断ち切れば、私たちの本当の霊的な性質が呼び覚まされます。それがクリシュナ意識の過程です。もし人がクリシュナ意識であれば、その人が物質自然の三つの相と関わる可能性はなく、人がクリシュナを意識しているときは、その人の霊的な性質は自動的に呼び覚まされます。それが秘密です。クリシュナ意識の過程を真剣に辿る者は、たとえかつては様々な良くない習慣を持っていたとしても、単にクリシュナ意識を実行することの徳によって物質的な汚染のない水準に留まることができます。

このように、クリシュナ意識は非常に優れた薬です。人がクリシュナに目覚めない限り、物質自然の三つの相との関わりにおいて形成する習慣は続き、人はそれを変えることはできないでしょう。もし本当に生と死の繰り返しからの自由を望むなら、人はクリシュナ意識にならねばなりません。バガヴァッド・ギーターにおいて、主クリシュナは次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「完全な献身奉仕にいそしむ者、どのような状況でも堕落しない者は、ただちに物質自然の相を超越して、そうしてブラーマンの水準に至ります。」(BG14.26)

クリシュナ意識のプロセスは、「あの償いやこの償いをしなさい」と勧めたりはしません。人は償いをして実験を続けることはできますが、魂の病は人が愛情をもって献身奉仕を捧げ、自分の人生を浄化する水準に至らない限り、そのまま変わりません。

第4章タパシャ、自己統制を学ぶ

もしクリシュナ意識にならないなら、人は罪深い行いの反応から一時的には解放されるかもしれませんが、再び罪を犯すでしょう。したがって、パリクスィット・マハーラージャは次のようにおっしゃいました。(サンスクリット引用)「罪を犯して償いをすることを繰り返すのは、私には時間の無駄にしか見えません。」彼は、湖や貯水池で体をすっかり綺麗にしても、岸に上ると泥を掴んで体中に浴びせ、直ちにまた汚くなる象の例を挙げました。このように、パリクスィット・マハーラージャは、人は償いのプロセスによって自分自身を清めるかもしれないけれど、もしまた彼が同じ罪深い行いを犯すなら何の役に立つだろう、とおっしゃいました。ですから、パリクスィット・マハーラージャがスカデヴァ・ゴスヴァーミーに尋ねた二番目の質問は非常に大切です。「人はどうしたら自然の物質的な相によってもたらされるすべての汚染から完全に自由になれるでしょうか。もし人が解放を得られないなら、償いは何の役に立つでしょうか。」

その答えとして、スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、単にカルマ、すなわち結果を求める活動を他の活動で相殺するだけでは人の悲惨さを最終的に終わらせることはできないとおっしゃいました。例えば、国際連合は世界に平和を樹立しようとしていますが、彼らは戦争を止めることはできません。戦争は繰り返し勃発します。第一次世界大戦の後、政治家と外交官たちは国際連盟を作りました。それから第二次世界大戦が起こり、今では彼らは国際連合を考案しましたが、戦争はまだ続いています。本当の目的は戦争をやめることですが、それはできません。ある行いによって戦争が作り出され、別の行いによって一時的に止められ、しかし次の機会には再び別の戦争が起こるのです。罪深い行いと償いの循環は、このようなものです。私たちが本当に欲しいのは苦しみと戦争から自由になることですが、それは実現しません。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、ある種類の戦争はいさかいを生じさせ、別の種類の戦争はそれを一時的に止め、しかしそれは問題の最終的な解決にはならない、とおっしゃいました。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、これらの問題は無明が原因で生じる、と述べられました。アヴィドヴァッド・アディカーリトヴァート。アヴィトヴァッドは「知識の欠落」を意味します。(サンスクリット引用)本当の償いは知識と共になされます。なぜ戦いがあり、なぜ悲惨さがあるのでしょうか。ヴェーダではケナ・ウパニシャッドと呼ばれるこれらの「なぜ」という問いが人の心に生じなければ、人はその人間の人生の正しい機能を果たしていません。これらの問いが生じなければならないのです。「なぜ私は苦しんでいるのでしょうか。私はどこから来たのでしょうか。私の本来の立場は何なのでしょうか。私は死の後でどこへ行くのでしょうか。なぜ私は人生の惨めな形に置かれているのでしょうか(訳注、「なぜ私は体に入れられて悲惨な目に遭っているのでしょうか」)。なぜ生と死と老いと病があるのでしょうか。」

どうしたらこれらの問題が解決できるでしょうか。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは次のようにおっしゃいます。(サンスクリット引用)もし人が病的な人生を本当に止めたいなら、その人は規律的な原則に従わねばなりません。もし人が病気を治すために医者が与えたプログラムに従わないなら、その人は治りません。同様に、もし人がヴェーダの知識が規定するように賢く考えたり行動したりしないなら、どうして彼は人生の問題を止めることができるでしょうか。単に償いをすれば困難が一時的に治まることはあるでしょうが、それはまた生じます。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、物質的、すなわち罪深い人生では私たちは罪を犯してその結果に苦しまざるを得ないように行動する、とおっしゃいます。これはその通りであり、もしこの苦しみと被害の循環を止めたいなら、私たちは知識において進歩しなければなりません。一般的な人々、すなわちカルミーは、いくらかの楽しむべき結果を求めて日夜懸命に働き、再び苦しみます。こうして、このようなカルミーの問題は決して解決されません。したがって、人は自らをシュリマッド・バーガヴァタムで規定されているように知識の水準に引き上げることが勧められています。最初に必要なことは、タパシャ、すなわち禁欲を受け入れることです。もし医者が糖尿病の患者に数日間食事をしないでいるように助言すれば、誰も断食などしたくなくても、治りたければ患者は自発的に飢えることを受容しなければなりません。これがタパシャ、自発的に惨めな状況を受け入れることです。これができる能力は良いものであり、人間の人生はその目的のためにあります。実に、ヴェーダの文化はタパシャを規定しており、インドでは多くのタパスヴィーが苦行を行っています。冬には彼らは水に首まで漬かって立って瞑想します。とても寒いときに水の中に立つのはあまり心地よいものではありませんが、彼らは自発的にそうします。また、夏には彼らは自分たちの周りに火を起こして、炎の真ん中に立って瞑想します。これらはインドの多くの苦行者が行っている厳しい苦行の例です。

いくらかのタパシャは必ず必要です。それ無くしては、人は霊的な人生や知識において進歩することができません。もし私たちが単に食べること、眠ること、性交することと身を守ることという動物的な性質だけにいそしむなら、人間の人生は失敗です。もし人が私たちのクリシュナ意識協会の洗礼を受けた会員になりたいなら、私たちはまず第一に彼にタパシャをするように頼みます。特に西洋の国々では、非道徳的な性生活、陶酔物質、肉食および賭け事を止めるのは大きなタパシャです。私たちは単にこれだけのタパシャを要求しているのですが、それを守るのはとても難しいのです。イギリスでは、富裕な貴族がヴァイシュナヴァの兄弟子に尋ねました。「スヴァーミジー、私をブラーマナにしていただくことはできますか。」スヴァーミジーは答えました。「いいですとも。あなたは単にこれらの四つの原則を守らなければならないだけです―――非道徳的な性生活、陶酔物質、賭け事、および肉食を絶ってください。」イギリス人は、「それは不可能です」と答えました。その通り、それは不可能なのです。ヨーロッパやアメリカでは、最初から自分の好きなように快楽にふけることが人生のあり方だからです。インド人の紳士達は、しばしば西洋へこれらの快楽を学ぶためにやってきて、自分たちはこうして進歩していると考えます。インド人は彼らのヴェーダの文化を通して自動的にタパシャを教えられますが、彼らはその文化を忘れて別の種類の人生を受け入れるためにアメリカへ来るのです。しかし本当の事実は、もし人が霊的な理解に進歩して人生のすべての問題を解決したいなら、その人はこのタパシャ―――禁欲と規制の人生を受け入れなくてはならないのです。

規制は人間のためにあり、動物のためにあるのではありません。私たちは普通のやり取りで毎日規制に遭遇します。私たちは法律によって逮捕される危険を冒さずに自動車で左側を走ったり(アメリカは右側通行)、赤信号を無視したりすることはできません。しかし、もし犬が左側を歩いたり赤信号を無視して道を横切っても、動物なので罰せられません。したがって法律は人間と動物を区別します。人間はより発達した意識を持っていることになっているからです。もし私たちが法律や規則に従わないなら、私たちは再び動物主義に堕落します。聞くところによると、規律された人生と反対に自由を祝うプロパガンダが叫ばれているそうですが、物事をありのままに見る者は、すべての規制からの自由は動物の人生であることを理解することができます。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーはタパシャをお薦めになります。もし私たちが人生の問題からの本当の自由を望むなら、私たちは禁欲の人生を受け入れなければなりません。他の唯一の選択肢は、物質的な生活への呪縛です。

タパシャとは何でしょうか。苦行とは何でしょうか。苦行の最初の原則は、ブラーマチャルヤ、制限された性生活です。ブラーマチャルヤの本当の意味は完全に性生活を避けることであり、ヴェーダ文化によれば人生の初めには人はブラーマチャルヤの規律に厳格に従うべきです。成長するとブラーマチャーリーは結婚してグリハスタになることができ、グリハスタとして彼は性交をすることができますが、ブラーマチャルヤの生活では厳格に性生活を避けるのが決まりです。現代では、人々はどうやってタパスヴィーの生活をするか教えられていないので、タパシャの欠落によって品位を落としてしまいました。批判のための批判は用をなしません。人はタパシャの人生において効果的に訓練されねばならないのです。

ヴェーダでは、タパシャの規律ある生活を送る者はブラーマナであると言われます。(サンスクリット引用)皆が死んでいきます。誰もここに永遠に住むことはできないからです。しかしタパシャの人生を送って死ぬ者はブラーマナであり、タパシャを実行せず猫や犬のように死ぬ者はクリパナと呼ばれます。これらの二つの語、ブラーマナとクリパナは、ヴェーダ文献で頻繁に使われます。クリパナは「しみったれ」を意味し、ブラーマナは気前が良くて心の広い人を指します。(サンスクリット引用)至高の完全な真理を知る者はブラーマナですが、これを知らない者は動物です。これが動物と人間の違いです。人が人と呼ばれるためには、完全な真理を理解するために教育されていなければなりません。人間の人生は知識のためにあるので、学校や大学、哲学者や科学者や数学者が存在します。食べること、眠ること、性交すること、そして身を守ることのプロセスは教えられる必要はありません。それらは本能的に学ばれるからです。人間の人生は明らかにそれ以上のもののためにあります。それはタパシャと知識のためにあるのです。

ヴェーダには、タパシャに捧げられる人生の始まりを特徴づけるブラーマチャルヤ、すなわち性生活を避けることに関する描写があります。(サンスクリット引用)(スリダーラ6.1.12)正しく性生活を避けるためには、人は性生活について考えたり話したりすることさえすべきではありません。性的な要素に満ちた現代の書物や新聞を読むこともブラーマチャルヤの原則に反します。同様に、いかなる方法で性交にふけることも、女の子を見たり囁きあったりすることも、性生活をしようと心に決めたり努力したりすることも、すべてブラーマチャルヤの原則に反します。人はこれらの行いのすべてが停止するときに本当のブラーマチャルヤを遂行するのです。

苦行、性的な禁欲、および心と感覚を制御することによって、人は純粋な人生において進歩することができます。同様に、正しい方向に向けられた慈善によっても進歩することができます。それはテャーガ、放棄、と呼ばれます。もし人が百万ドルを持っているなら、彼はそれをじっと持っているべきではなく、それが彼の管轄権の範囲にある限り、クリシュナのために使うべきです。お金やエネルギーは、クリシュナに向けられたときは正しく使われるのです。 

人が体を去ると同時に、彼がその体と関連して集めた金銭的な資源やその他のすべては終わります。霊魂は別の体に転生し、人は前の体で稼いだお金がどこに蓄えられているか、あるいはそれがどのように使われるか、知らないからです。人は息子達や子孫たちがお金をどのように使うか指定してこの世を去るかもしれませんが、たとえ人が何百万ドルものお金を残しても、来世においてそのお金の所有権を主張することはできません。したがって、お金の所有権を持っている限り、それを良い目的に使うのが良いのです。もしも悪い目的のために使うなら、呪縛されます。しかし、もし良い目的のために使うなら、人は良い見返りを得ます。これはバガヴァッド・ギーターに非常に明白に述べられています。

バガヴァッド・ギーターは、三種類の慈善があると説明しています。徳相の慈善、熱情相の慈善、無明相の慈善です。徳の相にある人は、慈善がどこに向けられるべきか知っています。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「私は誰をもうらやまず、誰をもひいきしません。私はすべての者に平等です。しかし、私に愛情を持って奉仕をする者は私の友であり、私の中にあり、私もその人の友です。」(BG9.29)

クリシュナはお金を欲してはいません。クリシュナはすべてのものの根源的な所有者だからです。(サンスクリット引用)しかし、それでもクリシュナは慈善を求めます。例えば、クリシュナは小人のブラーマナ、ヴァーナマの姿になって、バリ・マハーラージャのところへ物乞いにいらっしゃいました。主は(サンスクリット引用)すべての惑星の所有者でいらっしゃるにも関わらず、「私に恵んでください」とおっしゃいました。なぜでしょうか。それは私たちのためなのです。私たちがクリシュナのお金をクリシュナに早く返せば返すほど、私たちは良い状態になるからです。もちろん、これはあまり聞いて楽しいことではないかもしれませんが、本当は私たちは皆泥棒なのです。私たちは神の財産を盗んだからです。もしも何かを持っている人が神を意識していないなら、それは彼が神の財産を盗んだのだと考えられます。それが物質的な人生の性質です。もしもこのことが思慮深く考慮されて人が本当の知識を得れば、その人は気づくでしょう。もし私たちがその財産を使っているところの神を理解しないなら、私たちが持っているものは何であれ盗品であることを。バガヴァッド・ギーターには、また、もし人が巨額のお金を稼いだのに所得税を払うのを避けるためにそれを隠そうとすると、政府はその人を犯罪者と見なします。彼は「私はこのお金を稼いだのだ。なぜ政府に税金を払うべきだろう」とは言えないのです。いいえ、彼は払わなければなりません。さもないと、懲罰の危険を冒さねばなりません。同様に、より高い視点では私たちの持っているもののすべてはクリシュナすなわち神のものであり、それは神の望みに添って使われなければなりません。私たちは建物を建てたいと望むかもしれませんが、建設に必要な石や木材や土はどこから得られるでしょうか。私たちは人工的に木材を作ることはできません。それは神の財産です。私たちは金属を作ることはできません。それは鉱山から採らねばならず、それもまた神の財産です。土や土からできたレンガもまた神のものです。私たちは単に労働力を提供するだけですが、その労働力も神の所有物です。私たちは自分の手で働きますが、それは私たちの手ではなく神のものです。手を使うための力が神によって引き戻されれば、手は何の役にも立たなくなるからです。

私たちはこの偉大な機会、人間の人生を、シュリマッド・バーガヴァタムやバガヴァッド・ギーターのようなヴェーダの知識の権威ある書物に書かれているこれらの全ての要点を理解するために使うべきです。バーガヴァタムにおいてスカデヴァ・ゴスヴァーミーは本当の償いには思慮深さと冷静さと瞑想が必要だと宣言なさいます。人は自分が体であるか、あるいは体を越えたものであるかを考えねばならず、神とは何であるかを知ろうとしなければなりません。これらの概念はクリシュナ意識において学ばれるべきものです。私たちは、浅はかであったり時間を無駄にしたりすべきではありません。もし人がこの知識を欲するなら、人は苦行、タパシャを実行しなければなりません。そして、すでに説明したように、タパシャの始まりはブラーマチャルヤ、性生活を避けること、あるいは制約することです。物質的な魅了の中心点は性行為です。人間の社会だけでなく、動物の社会においても同じです。スズメやハトは厳格な菜食主義者ですが、毎日三百回も性行為をします。そして菜食主義者でないライオンは一年に一回性行為をします。霊的な生活は菜食主義の問題ではなく、より高い知識の理解の問題なのです。高度な知識の水準に至ると、人は自然に菜食主義者になります。(サンスクリット引用)高い学識のある人は、学識のある学者、ブラーマナ、象、犬、牛を区別しません。彼はサマ・ダルスィーです。彼はそれらすべてを平等に見ることができるのです。これはどういうことでしょうか。彼は体を見ず、魂、霊的な火花(ブラーマン)を見ます。彼は考えます。「ここに犬がいるが、これもまた生命体だ。過去のカルマによって犬になってはいるけれど。そして、この学識のある学者もまた生命体だ。しかし彼は過去のカルマによって良い生まれを得たのだ。」この位置に来ると、人は体を見ず、霊的な火花を見ます。そしてある生命体と別の生命体の間の区別をしなくなります。

本当は、私たちは肉食主義者と菜食主義者の区別もしません。牛や子羊と同じように、草もまた命を持っているからです。しかし、原則はイソパニシャッドに与えられているヴェーダの指導であるべきです。
(サンスクリット引用)
「宇宙の中のすべての動くもの、および動かないものは主によって統御され、所有されている。したがって、人は自分の取り分として取り分けられている必要なものだけを受け入れ、他のものはそれが誰に属するかをよくわきまえて、決して受け入れてはならない。」(イソパニシャッド、マントラ1)

すべてのものは至高主の所有物なので、人は主によって自分のために割り当てられたものだけを楽しんでよく、他の者の所有物を触ってはなりません。ヴェーダ的な生活とすべてのヴェーダの聖典によると、人間は果物と野菜によって生きるべきです。人間の歯は、これらのものを非常にたやすく食べて消化することができるように作られているからです。生き物が他の生き物を食べて生きなければならないのは自然の法ですが、(サンスクリット引用)人は思慮分別を持たねばなりません。果物、花、野菜、米、穀物、および牛乳は、人間のために作られています。例えば牛乳は動物性食品、動物の血が変化したものですが、牛は子牛が必要とするよりも多くの乳を出します。牛乳は人間のためにあるからです。人は単に牛乳を取って、牛を生かすべきです。そしてこのように自然の法に従うことによって、人間は幸せになるのです。(サンスクリット引用)人は何であれ神がその人に割り当てなさったものを取って、こうして心地よく暮らすべきです。

私たちは、このクリシュナの科学を通して私たちの意識を高めねばなりません。慈善はすべての人の心の中にありますが、私たちはどのようにしたら最善に活用できるか知りません。私たちが使うエネルギーは、すべてクリシュナのためであるべきです。それはすべてクリシュナに属するからです。クリシュナのために使うことによって、人は失うということはありません。クリシュナはとても情け深いので、私たちが食べ物を捧げるとクリシュナはそれを受け入れ、しかし私たちが食べるためにすべてを残してくださいます。単にクリシュナに食べ物を捧げることによって、私たちは献身者になることができます。私たちは余分なお金は一文も使う必要はありません。より高い視点では、すべてのものはクリシュナに属しています。しかし、もし私たちがクリシュナにすべてを捧げれば、私たちは高められます。これは純粋な人生において進歩するための至高にして証明された方法です。

第5章クリシュナ意識における安定性を学ぶ

人が物質的な栄華の頂点に至ったときは、放棄の傾向は自然なものです。この物質世界には二つの傾向があります。ボーガ(感覚的な楽しみ)とテャーガ(この物質世界を放棄すること)です。しかし、人は指導がないとどうやって放棄すればよいか分かりません。まず、人は楽しみたいと思います。そして楽しみにおいて欲求不満が募ると、放棄します。そして再び放棄に飽きると楽しみます。片方からもう片方へとふれる時計の振り子のようなものです。私たちはこのように皆、楽しみの水準から放棄の水準へ、そしてまた楽しみへ、と、考えがぐらついているのです。

カルミー、結果を求めて働く者たちは、この世を楽しみ、その果実を収穫しようとします。結果的に彼らは常に昼も夜も物質的な楽しみにいそしむために高速道路を走ります。一方、主に気持ちの満足していない若者ですが、それに加担したくない人々がいます。このように、世界にはボーガにいそしむ人々とテャーガにいそしむ人々がいます。しかし、私たちはこれらのどちらの道を辿っても幸せにはなれません。楽しむことも放棄することも、私たちの正しい位置付けではないからです。すべてのものはクリシュナに属し、他の誰かに属するものは何もないので、私たちが所有しているはすべて本当はクリシュナの所有物です。(サンスクリット引用)私たちは木も植物も水も土地も作らなかったので、私たちはそれらの所有権を主張することはできません。私たちは本当は何も持っていないので、何も放棄することはできません。あるいは、言われているように、私たちは裸でこの世にやってきて、裸で去るのです。その間において、私たちは偽りの主張をします。「これは私の国だ、これは私の家だ、これは私の妻だ、これらは私の子供たちだ、これは私の持ち物だ、これは私の貯金だ、等々。」そのような主張は誤りです。私たちはこの世に来るときは手ぶらで、去るときも手ぶらだからです。それでは、ボーガとテャーガの意味は何でしょうか。本当の事実の光の下では、それらには実際の意味はありません。ボーガは盗みであり、テャーガ、私たちにもともと属さないものの放棄は、ある種の狂気です。

このことについて、クリシュナは私たちに次のような指針を与えてくださいます。(サンスクリット引用)(BG18.66)私たちはボーガとテャーガに基づいて異なる種類の宗教を作り上げましたが、私たちがこのようにそれらをすべて放棄してクリシュナに服従するよう助言していらっしゃいます。楽しむことや放棄することは私たちの権限ではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて放棄が勧められているのは、私たちが誤って所有していると主張しているもののすべてを放棄することを指します。子供は父親から百ドル札を取って、使い方を知らないのに自分で持っていようとするかもしれません。父親は子供に「愛しい子よ、どうかそれを私に下さい」とお願いするかもしれません。子供はそのお金が本当は父親のものであることを知らず、父親に渡すのが一番であることも知りません。彼はそれをどう使ったらいいか知らないからです。同様に、クリシュナは「あなたの仕事を私のために放棄しなさい。あなたの富と所有物を私のために放棄しなさい」とおっしゃいます。クリシュナは物乞いではありません。すべては主に属するからです。しかし主は私たちを小さな子供のように扱われます。すべてを手渡すように、との主の要求に応じることはテャーガ、放棄と呼ばれ、クリシュナ意識への上昇を得るための方法の一つです。苦行、性生活を避けること、心の平静、および慈善は、すべて至高性、すなわち完全真理の認識のために必要とされます。クリシュナ意識は相対的な真理には関係がなく、完全真理を問題にします。シュリマッド・バーガヴァタムにおいてヴャーサデヴァは至高の完全真理(サンスクリット引用)に敬意を捧げます。彼は相対的な絶対真理ではなくスッムム・ポヌム、完全真理に尊敬の念を捧げます。これらの特徴を実行することはブラーマナの義務です。それによって完全真理を悟ることができるからです。

ブラーマナは、清潔さ、正直さ、心と感覚の統御、簡素さを実行することによって、およびヴェーダ、ことにバガヴァッド・ギーターへの信仰を育むことによって、資格を得なければなりません。クリシュナが「私は至高の主である」とおっしゃるとき、私たちは主を信仰をもって、愚かにではなく十分な知識をもって受け入れ、その受容を日常生活において現実的に適用せねばなりません。ブラーマナは生まれによってではなく教育と訓練と知識によって作られます。クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて指摘なさっているように、それは生まれではなく資質の問題なのです。
(サンスクリット引用)
「物質自然の三つの相と、それらに関連する働きに応じて、人間社会の四つの区分が私によって作られました。そして私はこのシステムを作ったものであるにも関わらず、私は変化しないので、私は行為者ではないことを人は知るべきです。」(BG4.13)人はブラーマナの資質を持たねばならないだけではなく、ブラーマナとして働くべきでもあります。人の資質はその人の仕事によって試されるからです。もしある人が資格のあるエンジニアでも、単に家でじっと座って何もしないなら、彼の価値は何でしょうか。同様に、ブラーマナとして働かない限り、人が単に「私はブラーマナです」と言うことには何の価値もありません。したがって人は完全にパラム・ブラーマン、すなわちクリシュナ、至高のブラーマンへの奉仕にいそしむことによって働かねばなりません。

どうしたら完全真理への奉仕を実行することができるでしょうか。(サンスクリット引用)ヨガ、すなわち至高存在とつながることの訓練をすることは、規律と統御の原則に基づいています。規律は統御なくしては実行され得ません。したがって人は思慮深くなければならず、自身を清めねばなりません。もし試験に合格したいなら、人は学校に行って学校の原則に従い、何らかの苦労をして勉強しなければなりません。そうすると徐々に成功するようになります。もし一日中路上で遊んでいるなら、どうしてその人は成功を期待することができるでしょうか。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーによって説明されているプロセスでは、最初に必要なものはタパシャ、苦行です。人は規制されずにいたいので苦行とブラーマチャルヤが苦痛です。しかし、私たちが規律されると、苦痛であると見えたものは直ちに実際には苦痛ではなくなります。

人には二つの階層があります。冷静(ディーラ)であるものと、言動が突飛(アディーラ)である者です。人が挑発や精神的な動揺の原因が存在しているにも関わらず自分の位置で安定していることができれば、その人はディーラと呼ばれます。ディーラの例は、「クマーラサムバーヴァ」という本を書いた偉大なサンスクリットの詩人であるカーリダーサ・パンディタによって挙げられています。そこでは彼は主シヴァの例を挙げました。半神たちが悪魔と戦っていて負けかけていたとき、彼らは主シヴァの精子から生まれた最高司令官によって救われると考えたようです。しかし、主シヴァは瞑想をしていらっしゃって、必要な精子を得るのはとても難しかったのです。そこで彼らはパーヴァティーという娘を遣わし、彼女は主の性器を愛撫しました。この若い娘が主シヴァの前に座って彼の性器を触ったにも関わらず、主シヴァは揺らぐことなく瞑想を続けました。カーリダーサは言います。「これがディーラの例です。若い娘が性器を触ったにも関わらず、彼は心乱されませんでした。」

同様に、誰かがハリダーサ・タークラを邪魔するために若い売春婦を遣わしました。彼女が性交を請うと、ハリダーサ・タークラは言いました。「はい、あなたの願いはとても素敵です。座ってください。そして私の念仏が終わるまで待ってください。それから楽しみましょう。」朝がきて、売春婦は待ちくたびれてしまいました。しかし、ハリダーサ・タークラは答えました。「本当に申し訳ない。念仏を終わらせることができなかったのです。今夜また来てください。」売春婦は三晩続けてやってきて、三度目の夜に彼女は彼の足元にひれ伏して、自分の目的を白状し、彼に嘆願しました。「私はあなたの敵である男にこうするようにそそのかされたのです。どうかお許しください。」するとハリダーサ・タークラは答えました。「私はそのことはすべて知っています。しかし、私はあなたに三日間ここに来ることを許しました。あなたが改心して献身者になることができるようにするためです。さあ、この数珠を受け取って念仏を続けなさい。私はここを去ります。」これは自分の体(デハ)と言葉(ヴァーク)と知性(ブッディー)を統御することのできるディーラのもう一つの例です。人の体と言葉と知性は、ディーラであって本当に宗教の原則を知っている者によって統御されるべきです。

私たちは記憶にないほどの太古から継続的に罪深い行いを犯してきています。そして私たちはいつこれが始まったのかを知りませんが、この人生は私たちが犯したすべての罪の修正のために存在します。もし人が野原にある要らない雑草やツル草に火をつければ、それらはすべて燃えます。同様に、苦行と禁欲のプロセスによって人はすべての罪深い行いを清算して清められることができます。しかし、スカデヴァ・ゴスヴァーミーは代替的な方法をお薦めになります。(サンスクリット引用)一般的に、もし人が性生活を避けて冷静さと慈善の禁欲的で敬虔な生活をすれば、人々は彼がとても敬虔な人であると言います。しかし、単にクリシュナ意識になるだけで人は過去の罪深い生活の結果的な反応をすべて打ち消すことができます。太陽が昇ると霧はたちまち消えます。そしてクリシュナは何千もの太陽の明るさをもって昇ります。

このプロセスはとても幸運な人によってのみ受け入れられます。したがってチャイタンニャ・マハープラブはおっしゃいました。(サンスクリット引用)「クリシュナと霊的指導者の慈悲によって、宇宙全体を様々な異なる種類の体の中でさまよった後、幸運な者は純粋な献身奉仕の種を受け取る。」クリシュナ意識はとても幸運な者のためにあります。単にこの一つのプロセスを受け入れることによって、人は苦行や放棄や性生活を避けることその他のすべての義務を飛び越すことができるからです。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは宣言なさいます。(サンスクリット引用)「非常に幸運な者は純粋な献身奉仕のプロセスを自分のものとする。」ケヴァラー・バクティは、クリシュナを喜ばせる他に欲求のない純粋な混じり物のない献身奉仕を指します。人は単に収入を増やすために献身奉仕をすべきではありません。私たちは幸せになるためにお金を欲しますが、もし私たちがクリシュナ意識を身につけると、自動的に私たちはとても幸せになって、お金をおろそかにします。お金は自動的にやってくるのです。幸せがやってきます。これらのもののために離れた(訳注、特別な、それを目的とした)努力をする必要はありません。

次のように嘆いたのはドゥルヴァ・マハーラージャでした。「物質的な利益を欲して献身奉仕を始めた私は何と愚かだったのでしょう。」一般に、物質的な利益のために人は上司や金持ちの人や半神などのもとに行きますが、献身者はたとえ物質的な要求があってもクリシュナ以外のもとには行きません。もし人が物質的な得のためにクリシュナのもとに行ったとしても、いつかはドゥルヴァ・マハーラージャのように物質的な欲求を忘れます。彼は悔い改めて言いました。「私はクリシュナのもとに来て物質的なものを求めました。ちょうど、大変なお金持ちを喜ばせて幾粒かの米をねだる人のように。」もし大金持ちが私たちに何でも欲しいものを与えることに同意したのに私たちがたった幾粒かの米を求めるなら、それはとても頭のよいことでしょうか。クリシュナに物質的な利益をねだるのは、ちょうどそういうものです。人はクリシュナに物質的な幸せをわざわざ頼む必要はありません。物質的な幸せは彼の足元に自動的にころがってきて、「私を受け取ってください」と懇願するのです。

クリシュナ意識を実行している者は、物質的な栄光が―――妻、子、幸せ、家―――が必要な状況にはありません。すべてはクリシュナの慈悲によって自動的に得られるからです。クリシュナにこれらの物質的なものを求める必要はなく、単に人は主に「どうぞあなたへの奉仕をさせてください」と頼むべきです。バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナは、もし人がクリシュナへの奉仕にいそしむなら、主は必要なものを与え、既に持っているものはそのままにしておく、とも約束なさっています。主のアルジュナへの最後の指導の一つは、主への完全な依存を指しています。(サンスクリット引用)
「すべての行動において、そしてその結果について、単に私に依存しなさい。そしていつも私の保護のもとで働きなさい。そのような献身奉仕において、完全に私のことを意識していなさい。」(BG18.57) 

第6章 物質的な自己認識と問題を超越する

クリシュナ意識は主チャイタンニャの慈悲によって簡単に得られますが、主チャイタンニャとその師弟継承の慈悲を得られるほど幸運なのは一部の人たちだけです。バガヴァッド・ギーターには次のように書かれています。
(サンスクリット引用)
「何千人もの人の中で、一人が完成を目指して努力するかもしれません。そして完成を得た者の中でも私を本当に知る者はほとんど一人もいません。」(BG7.3)

神を悟ることは、動物や動物に近い人や、人間の形をした動物には不可能です。現代の文明は大部分が動物の集合です。前述のように、動物の性質に基づいて機能するからです。鳥や獣は朝早く起きて食べ物と性交の相手を探そうとし、身を守ろうとします。夜には寝床を探し、朝には木に飛んでいって木の実や果物を探します。同様に、ニューヨーク市では人々の大群がフェリーで島から島に旅をしたり会社へ行くために地下鉄を待ったりします。食べ物を探すという目的のためです。これがどうして動物の生活からの進歩でしょうか。フェリーや地下鉄はいつも混んでいて、多くの人がパンのために40マイルも50マイルも旅をしなければなりませんが、鳥は一本の木から別の木へ自由に飛ぶことができます。

本当の文明は、単に人の動物的な必要に関わるだけではなく、人が至高の父である神との関係を理解することができるようにします。人は神との関係をどの方法で学んでもよいのです。キリスト教、ヴェーダ文献、コーラン―――しかし、どの場合でも学ばねばなりません。このクリシュナ意識運動の目的はキリスト教徒をヒンズー教徒にすることでも、ヒンズー教徒をキリスト教徒にすることでもなく、すべての人に人間の義務は自分の神との関係を理解することにあると知らせることなのです。人はこれを学ばねばなりません。そうでないと、人は単に動物的な性質に基づいて行動することで時間を無駄にしているのです。私たちは皆、クリシュナ、すなわち神を愛そうとしなければなりません。もし人が方法を持っているなら、それを実行すべきです。あるいは、来てこの方法を学ぶこともできます。人は、ある方法と別の方法のえり好みをすべきではありません。(サンスクリット引用)(ニーティ・ダルパナー1.16)チャーナキャ・パンディタは、どんな源からのものであっても、人は正しいものを掴まなければならないとおっしゃいます。彼は、もし幾らかの蜜の混じったコップ一杯の毒があれば、人は蜜を取り出して毒を残すべきだとおっしゃいます。同じように、もし人が汚れたところに金を見つけたら、人はそれを取るべきです。同様に、ヴェーダの教育システムによれば人はブラーマナのような知性的な人から指導を受けなければなりませんが、もし社会的に低い階層の人が真理を学んだなら、人はその人を教師として受け入れて彼から学ぶべきです。人は単にその人が低い身分の生まれだからといって、その人を教師として受け入れないということはすべきではありません。

同様に、もしも人が神を理解することにおいて真剣であれば、彼は「私はキリスト教徒だ」、「私はヒンズー教徒だ」あるいは「私はイスラム教徒だ」などと考えるべきではありません。もし人が神の愛を理解することに真剣なら、彼はどの方法が実際的であるかを考えるべきです。人は「なぜ私がヒンズーやヴェーダの聖典に従うべきだろうか」と考えるべきではありません。ヴェーダの聖典に従うことの目的は神の愛を培うことです。学生が高等教育を受けるためにアメリカに来るときは、彼らは教師たちがアメリカ人かドイツ人か、あるいは他の国の人であるかもしれないという事実は考えません。もし人が高等教育を受けたいなら、彼は単に来て取るのです。同様に、もしこのクリシュナ意識の方法のように神を理解して近づくための効果的な方法があるなら、人はそれを取るべきです。

すべてではありませんが、知性的で幸運な人はこの献身奉仕の方法(ケヴァラヤー・バークテャー)を自分のものとし、彼らの唯一の望みはクリシュナに仕えることです。朝早くから夜遅くまで、献身者はクリシュナへの奉仕に携わります。これはケヴァラヤー、純粋、と呼ばれます。彼らには他にすべきことはないからです。この方法はすべての人に勧められており、それはすべての宗教的な方法の完成です。(サンスクリット引用)サンスクリットにはパラとアパラという二つの語があり、それぞれ宗教への優性(超越的)と劣性(物質的)の近づき方を表します。物質的なダールマ、すなわち物質的な利益のために行われる宗教の実行において、人々は一般的に教会や寺院に行って祈ります。「神よ、私たちの日々の糧をお与えください。」本当は、こんなふうに祈る必要はないのです。パンは既にすべての者に与えられているからです。鳥や獣でさえ、教会に行って神に祈らなければならないという必要もなく、パンを得ています。同様に、私たちのパンもまた与えられています。私たちが教会へ行こうが行くまいが。それは問題ではないのです。飢えて路上で死ぬ人はいないし、鳥や獣や、あるいはアリでさえも飢えて死んではいません。食べものはあり、人はそれについて思いわずらうべきではありません。もし脳が使われなければならないなら、それはクリシュナ、すなわち神のために使われるべきです。これが正しい時間の使い方です。神の王国にはパンが足りないということはありません。

(サンスクリット引用)シュリマッド・バーガヴァタムには、人は宇宙全体を旅しても得られないものを得ようとすべきである、と書かれています。それは何でしょうか。ケヴァラヤー・バークティー、純粋な献愛です。神の配剤によって、この惑星には十分な食べ物と土地と食物のための見込みがあります。しかし私たちは世界の一部では人々が苦しみ、別のところでは穀物を海に捨てるように物事を配分してしまいました。ヴェーダは言います―――(サンスクリット引用)至高の人は多くの生命体に食べ物を供給しています。この物質世界での難しさは、私たちが必要とする以上のものを取って、そうして自分で自分の問題を作ってしまうということです。問題は人によって作られ、いわゆる政治家によって率いられます。自然の方法、すなわち神の方法によると、すべては完全なのです。シュリー・イソパニシャッドには、次のように述べられています。
(サンスクリット引用)
「至高の人格神は完璧で完全です。そしてこのため、この知覚可能な世界のような、すべての主からの放射体は、完全な全体として完璧に備わっています。完全な全体から作られたものは、何であれ同じくそれ自体完全です。主は完全な全体なので、非常に多くの個体が主から放射されるにも関わらず、主は完全なバランスを維持します。」(シュリー・イソパニシャッド、神への祈り)神は完全であり、主の創造は完全であり、主の配剤は完全です。しかし私たちはいさかいを作り出しています。本物の教育は、人々が地球の資源を正しく使い、いさかいを作り出すのを止めるように、人々をクリシュナ意識にするものです。国連で決議を可決することで問題を解決するのは不可能です。人は問題を解決するための本当の方法を知らねばなりません。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、単に純粋な献身奉仕だけで人は人生の問題を解決することができるとおっしゃいます。誰がそうすることができるのでしょう。それは、普通の人には不可能ですが、(サンスクリット引用)主クリシュナ(ヴァースデヴァ)に献愛の念を持つ者には可能です。クリシュナを満足させるために心を砕き、純粋で混じりけのない献身奉仕に携わる者だけが人生の問題を解決できます。(サンスクリット引用)既に説明したように、問題は罪深い行いによって生じます。十分な食料があるにも関わらず、利益を上げたり単に欲を張ったりして、皆が必要以上に貯めこみます。インドでは1942年にお金を集めてそれを不必要に貯めこんだ人々によって人工的な飢餓が作り出されました。富裕な人々は、1ポンドあたり6ルピーで売られていた米を集め、突如として一週間のうちに値段が1ポンドあたり50ルピーに上りました。結果として市場には全く米がなくなり、人々は飢えました。その当時居合わせたアメリカ人の紳士は、「もし私の国の人たちがこのように飢えていたら、革命が起こっただろう」と述べました。しかし、インドの人々はとてもよく訓練されていて文化的なので、この人工的な飢餓にも関わらず、彼らは反乱を起こさず、平和的に死ぬことのほうを好みました。もちろんこれは一つの例に過ぎません。しかしそれは、問題がいかに神ではなく人によって作り出されているかを表しています。ドイツでは、第一次世界大戦の間に女性たちが教会に行き、彼女らの夫や息子や兄弟を無事に帰してくれるように神に祈りました。しかし、誰も帰ってきませんでした。女性たちは皆、無神論者になりました。彼女らは、神は戦争とそれによる問題を率先して作り出されたのではないことを考慮しませんでした。彼女らは解決策を求めて神のもとへ行きました。私たちが自分たち自身の問題を作り出すとき、私たちはその結果に苦しまねばなりません。

しかし、クリシュナ、神の庇護のもとに入る者の問題は解決されるというのは事実です。他の理由はさておいても、ただこの理由のためだけにでも人はヴァースデヴァ、至高の人格神のために献身奉仕をすべきです。(サンスクリット引用)もし人がヴァースデヴァへの献身奉仕にいそしむなら、その人は迅速に最高の知識を受け取るでしょう。(サンスクリット引用)ジナーナ・ヴァイラーグヤムという言葉は、「それによって人が物質的な誘惑から離れるところの知識」を指します。ジナーナという言葉は知識を意味し、ヴァイラーグヤムは離れることを意味します。この人間の形の人生では、知識と離れることの両方が必要とされます。人は次のことを知るべきです。「私は霊魂である。私はこの物質世界とは関係がない。しかし、私はそれを様々な方法で楽しみたいという望みを持っているので、一つの体から別の体へと転生している。私はこれがいつ始まったのか知らないが、それは今も続いている。」これが本当の知識です。知識豊かであるためには、人は自分の本来の立場を理解して、自分がいかにこの物質的な世界で苦しんでいるかを認識しなければなりません。その知識の完成は人がヴァースデヴァ・パラーヤナー、主ヴァースデヴァに献身の念を捧げるようになるときに訪れます。バガヴァッド・ギーターにおいて、主クリシュナはアルジュナにこうおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「多くの生と死の後で、真に知識のある者は私がすべての原因の原因であり存在のすべてであると知って私に服従します。そのような偉大な魂は非常に稀です。」(BG7.19)クリシュナ、ヴァースデヴァがすべての源であると完璧に知っている偉大な魂は非常に稀です。長いあごひげと口ひげを生やして、皆に、彼らは神と一つであって死ぬと神になる、と語るいわゆるマハートマー(偉大な魂たち)を見つけるのは簡単です。しかし、これらの人々は本当のマハートマーではありません。むしろ、彼らはドゥラートマー、不人情なのです。彼らはクリシュナの正当な立場を侵害したがり、彼と一つになりたがるからです。もし会社に雇用者の立場に立とうとする労働者がいれば、雇用者はそれを好むでしょうか。同様に、神になろうとする生命体を神はあまりお好みにならないのです。もちろん、神になれる者はいません。しかし、神になろうとしたり神の競争相手になろうとするこのような努力は、主にとってあまり喜ばしいものではありません。そのような試みをする人々は、ドゥヴィシャター、妬み深い、と描写されています。主は次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「妬み深い者、悪意のある者、人類の中で一番低い者たち、これらの者たちを私は繰り返し物質存在の海へ、様々な悪魔的な種類の生物へ戻し入れます。」(BG16.19)

彼らは神の地位を妬むので、地獄的な状況に入れられます。最初は彼らはこの物質世界で高い地位を得ようとし、この試みで欲求不満になると「では神の地位につこう」と考えます。もちろん、この試みも欲求不満に終わります。誰も神になることはできないからです。神は神であり、生命体は生命体です。神は至高にして無限大であり、私たちは無限小です。私たちの地位は神に仕えるというものであり、地位に従って行動すると私たちは幸せになります。神の真似をすることで幸せになることはできません。(サンスクリット引用)(Bs5.48)無数の宇宙が存在し、マハー・ヴィシュヌの一度の呼吸によってこれらの宇宙は彼の体の中へ吸い込まれて消滅します。それでは、どうして生命体が神になれるでしょうか。神はそれほど安価ではありません。したがって、私たちは知識を培ってヴァースデヴァ、クリシュナを至高存在として受け入れなければなりません。クリシュナが人間であるということはあり得ません。主は地上にいらっしゃる間、一度も普通の生命体として現れてはいらっしゃいませんでした。赤ん坊の頃でさえ、一般的な生命体の能力をはるかに超える奇跡的な手柄を立てられました。人はクリシュナに服従するとき、普通の人間に服従しているのだと考えるべきではありません。至高の人格神に服従するのです。実に、そのことはすべてのヴェーダ文献によって確認されています。(サンスクリット引用)罪深い行いへのすべての結果は、人がクリシュナに服従するときに取り消されます。バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナご自身が主への個人的な服従を助言なさっています。
(サンスクリット引用)
「あらゆる種類の宗教性を放棄し、ただ私に服従しなさい。見返りに私はすべての罪深い結果からあなたを守ります。だからあなたは何も恐れることはありません。」(BG18.66)

したがって、献身者である者(ヴァースデヴァ・パラーヤナー)そして、ただ献身奉仕に携わる者は、直ちにすべての罪深い行いから自由になります。

クリシュナ、あるいはクリシュナ意識への献身奉仕は、どれだけ推量を重ねても得ることはできませんが、クリシュナの純粋な献身者の理由のない慈悲によって得られます。それは、堕落した生命体のためにマハートマーすなわち偉大な魂が同情心から授けてくださる比類なき贈り物です。クリシュナの恵みによって、人はグル、すなわち霊的指導者を得て、霊的指導者の恵みによって人はクリシュナを得るのだと言われています。これは日の出という贈り物のようなものです。夜の間は闇がありますが、朝には太陽が昇るのと同時に直ちに何百万マイルもの闇が取り除かれます。同じように、もし私たちがクリシュナの太陽が心の中に昇るように努めると、私たちのすべての問題は解決するのです。

第7章比類なき贈り物、クリシュナ意識での解脱

もし私たちが単に根源の人(アーディプルシャム)を崇拝すれば、私たちは誰かに誤って導かれる心配はありません。シュリマッド・バーガヴァタムのもともとの解説者であるシュリーダーラ・スヴァーミーは、人は単に献身奉仕(ケヴァラヤー・バークテャー)だけによって人生の完成に至ることができると解説していらっしゃいます。人は他のどんな方法に頼る必要もないのです。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、人は物質的な人生を一打で終わらせることができるとおっしゃいます。まず厳しい苦行や禁欲をしたり、性生活を避けたり、心と感覚を統御したり、施しをしたり、大きな犠牲を捧げたり、非常に誠実で清らかになったりする必要はありません。単に一打によって―――クリシュナ意識を受け入れることによって―――人は直ちに最高の位置に上ります。単にクリシュナ意識を習慣づけることによって、人はすべての超越的な資質を培います。金職人は小さな金づちを使って何度も金を打ちますが、鍛冶屋は大きな金づちを使って一打で仕事を終わります。これは鍛冶屋の方法なのです。私たちは、バークティ・ヨガという大きな金づちをとって、すべての物質的な人生を終わらせます。多くのより低い訓練を耐え忍ぶ必要はなく、他のどんな方法に従う必要もありません。実際には、他のヴェーダの方法に従って完成に至る可能性は全くないのです。例えば、ハサ・ヨガの方法には次のようなものがあります。「あなたは厳格なブラーマチャーリーになり、森の中で体を地面に対して正しい角度にして座り、指で鼻を6ヶ月押さえていなければなりません。」誰がそんな指示に従えるでしょうか。そのような方法は今の時代には現実的でないので、金職人の方法は捨てなくてはなりません。解決策は、鍛冶屋のクリシュナ意識の金づちをとって、すべての罪深い結果を一打で終わらせることです。

献身奉仕によって、人はヴァースデヴァ・パラーヤナ、主ヴァースデヴァすなわち主クリシュナの献身者にならなくてはなりません。言い換えると、私たちはどうやってヴァースデヴァの恋人になれるかを学ばねばなりません。もし世界がこのクリシュナ意識を身につけるなら、この惑星は必ず平和になります。今は地球は急速に地獄的な惑星になりつつあり、もしこのクリシュナ意識が根付かないなら、この地獄的な状況は教育や経済的な発展におけるすべての進歩にも関わらず悪化するでしょう。したがって、思慮深い者はこの運動を非常に真剣に受け止めて、その価値を理解しようとすべきです。それは一人の人間や弟子達の集団によって作り出された何かではありません。それは権威的で太古から続いており、何千年も前に遡るヴェーダ文献に基づいています。

ニーハーラム・ィヴァ・バースカラー。バースカラは太陽を指します。太陽は闇だけでなく霧や霞も直ちに散らします。前述のように、私たちは心の中にクリシュナの太陽が昇るように努めるべきです。チャイタンニャ・チャリタームリタにおいても、クリシュナは太陽のようであり、マーヤー、幻想エネルギーは闇であると述べられています。(サンスクリット引用)クリシュナの太陽が昇ると、直ちにマーヤーの闇は消え去ります。この方法を辿らなければ、マーヤー、闇の大海を乗り越えることはとても難しいのです。もし私たちが単にクリシュナ、神に服従することを教えれば、すべての幻想の霧と霞は消えます。方法はとても単純です。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ、と唱えるのです。

唱えれば唱えるほど、多くの生の闇が散らされます。(サンスクリット引用)唱えることによって、人は心の鏡から埃を払うことができ、物事を大変はっきりと知覚できます。そして人は、自分は何か、神とは何か、この世界とは何か、この世界での私たちの神との関係は何か、この世界においてどのように住むか、そして私たちの来世は何かを知るようになります。そのような知識は、人がいかにして感覚の満足のために物を作ったり得たりできるかが教えられる学校では教えられません。物質自然を支配するための人間の試みに関わる厳しい苦しみが、常に続いています。しかし、人が作り出し得たすべての利便に対して、不便が伴っているのです。例えば、近年、何人かのエンジニアたちが危険なく非常に高速で飛べる飛行機をデザインしました。しかし、その飛行機が飛ぶとき、町中の窓が壊れます。私たちの時間は、このように、相応の不便と引き換えに一時的で人工的な利益を与える非常に多くの機器を作ることに無駄に費やされます。これはすべて、カルマの法、動きと反動の法の一部なのです。私たちがなすことの全てに対して、私たちがそれによって呪縛される反動が存在しなければなりません。それはバガヴァッド・ギーターに述べられています。
(サンスクリット引用)
「ヴィシュヌへの犠牲としてなされる仕事が行われなければなりません。さもないと、仕事は人をこの物質世界に呪縛します。したがって、おお、クンティーの息子よ、主の満足のために規定された義務を果たしなさい。そして、そうすることであなたはいつも執着せずにいることができ、呪縛から自由でいられます。」(BG3.9)
人が感覚の満足のために行動するとき、仕事は良い仕事であっても悪いものであっても、その人を呪縛します。しかし、もし人がクリシュナのために働くなら、(サンスクリット引用)その人は彼の仕事が可能性として望ましいものであってもそうでなくても自由になります。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、混じりけのない献身奉仕をお薦めになるだけでなく、さらに献身奉仕によって人の罪深い行いが打ち消されるとおっしゃいます。私たちの一人一人は、大なり小なり罪深いのです。もし私たちが罪深くなければ、物質的な体に入れられることはなかったからです。人は罪深い人生から自由になると同時に解放されて、霊的な体で霊的な世界に移行されます。プロセス全体が人が自分自身を罪深い、すなわち物質的な人生の汚染から清めることなのです。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーはおっしゃいました。「親愛なる王よ、罪深い者は、タパ・アーディブヒフ、苦行をなすことによって汚染から清められることができます。」スカデヴァは、しかし、この苦行の方法を実行することで完全に清められる者はいないともおっしゃいました。苦行をしたけれど完全には純粋にはならなかったヨギーの例がたくさんあります。たとえば、ヴィスヴァーミトラ・ムニはブラーマナになりたいと望んだクシャトリヤだったので、苦行を始めました。しかし後に彼は天上の惑星の売春婦であるメナカーの被害者になりました。ヴィスヴァーミトラは純粋ではなかったので、彼女と関わってしまって子供をもうけました。したがって、たとえ人が苦行と禁欲を行っても、俗世の状況はとても強力に人をそそのかすので、何らかのあり方でそれは人を繰り返し自然の物質的な相に関わらせるのです。「私はブラーマンに帰依する」と言い、世界を虚偽であるとして放棄するサンニャースィーの例は多くありますが、彼らは病院を建てたり博愛主義的な仕事や慈善の活動をしたりするときに再び世界の仕事に呪縛されます。もし世界が虚偽なら、なぜ彼らは慈善活動に惹きつけられるのでしょうか。クリシュナ意識の哲学は、この世界は虚偽ではなく一時的であると主張します。神がこの世界をお作りになり、神は真実です。それなら、なぜ神の創造が虚偽でありうるでしょうか。これは神の創造であり神は完全真理なので、この創造も同じく真理です。私たちは単に幻想によってそうでないように見るのです。世界は事実です。しかし、それは一時的な事実です。

人はこの世界の何かを自分の財産であると主張するかもしれません。しかし、それは誤った主張です。それが誰かの財産であるというのは事実ですが、しかしそれは神の財産です。(サンスクリット引用)しかし、これは財産が虚偽であるということを意味するのではありません。誤りであるのは、財産に対する所有権の主張です。それは個人が所有者、主人、あるいは神であるという、驕り高ぶった謝った意識に基づいているからです。すべての人が、何かの主人や所有者、それから大臣、それから大統領、それから神になりたいと望みます。他のすべてが失敗するとき、生命体は神になりたいと思うのです。すべての中で最も偉大なものになりたいという傾向はそこにありますが、神が最も偉大であり生命体は主に比べると小さいという事実は変わりません。最も小さいものは虚偽ではなく、最も偉大なものも虚偽ではありませんがm小さなものが自分は偉大だと考えるとき、それは誤りです。

私たちはヴェーダ文献から、ブラーマン、すなわち霊はアノル・アニーヤームサム、原子より小さく、かつマハト・マヒーヤームサム、最も大きなものより大きい、と理解します。私たちが近くできる限り、宇宙を含有する空間が最大のものです。しかし、クリシュナはご自分の口の中に無数の宇宙をお見せになりました。神の偉大さは、神の欠かすべからざる一部である生命体によっては理解され得ません。生命体として、私たちは大変小さく、無限小であり、神は無限大なのです。実に、個々の霊魂の大きさはとても微細なので、見ることができません。人は自分の物質的な感覚では創造することさえできません。したがって、霊魂は原子より小さいと言われます。(アノル・アニーヤームサム)

生命体とクリシュナ、至高主はどちらも霊なので、両者は質的には同一です。量的には、しかし、主は偉大で生命体は微小です。この事実はヴェーダの情報に基づいて直ちに受け入れることができます。ブラーマ・サムヒターには、(サンスクリット引用)神が息を吐くとき無数の宇宙が主の体から出てきて、それらは主が息を吸うとき再び消える、と述べられています。単に主の呼吸によって無数の宇宙が作られ、滅ぼされます。もしそうであれば、どうして生命体が何ものに対しても所有権を主張できるでしょうか。人の地位は、その人が神や所有者であるという虚偽の宣言をしない限りにおいて安泰です。神であると主張することはファッショナブルになり、愚かな者たちはそのような主張を受け入れます。しかしヴェーダ文献から私たちは神はそう安くないと理解するのです。

驕り高ぶった自己中心的な主張をしない限り、私たちはすでに解放されています。実際に解放を探し求める必要はないのです。しかし、「自分はこの体である」と考える限り、人は解放されません。解放とは、人の自己は体とは離れたものであることを完璧に知ることを意味します。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーはおっしゃいました。(サンスクリット引用)「あなたの知識を培いなさい。それは慰めをもたらします。」私たちの知識は、私たちは霊的な火花のとても小さな粒であって、神、至高存在は最も偉大な霊的な自我であり、私たちの必要なもののすべてを供給していると知るようになるときに完成します。(サンスクリット引用)私たち自身を小さな粒として、神の欠かすべからざる小片として知ることによって、私たちは私たちの義務が神に仕えることであるのを理解することができます。神はすべての創造の中心であり、宇宙全体の中心です。主は享楽者であり、私たちは主の従者です。この概念が明らかになると、私たちは解放されます。

解放はすべての誤った概念からの自由を必然的に伴います。解放されると十本の手が得られるというようなものではありません。シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、解放はムクティル・ヒトヴァーニャサー・ルーパムと定義されています。ムクティは「放棄すること」を意味し、アニャサー・ルーパムは人生の誤った概念を指します。これは、人がすべての誤った概念を放棄して本来のあるべき立場に位置するとき人は解放されているということです。シュリマッド・バーガヴァタムには、知識を得ることによって人は直ちに解放されるとも書かれています。その知識は単純なので、とても簡単に得られます。神は大きく、私はとても小さい。主はすべての必要なものを供給する至高の所有者で、私は主の従者である。誰がこれに反論することができるでしょうか。それは事実なのです。私たちは単に、自分たちはあれである、これである、という誤った印象の下にあり、これが私たちを自分たちが神であるという至高の誤った印象に導きます。それなのに私たちは自分たちがどのような種類の神であるかを考えません。体の小さな不調で私たちは医者にかからねばなりません。至高存在であると主張する者は、したがって、マーヤーの最後の罠に陥ったのだと理解されるべきです。このように堕落した者は、解放されることさえできません。彼は誤った印象によって縛られているのです。

正しい知識を得たときだけ、人は本当に解放されることができます。解放の段階はブラーマ・ブーダーの段階とも呼ばれます。この段階に達した者は、バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナが次のように特徴づけていらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「このように超越的に位置する者は、直ちに至高のブラーマンを悟ります。その人は決して嘆かず、何かを得たいと望んだりしません。彼はすべての生命体に対して平等に好意を持ちます。そしてその状態で彼は私への純粋な献身奉仕を達成します。」(BG18.54)

悟りに続く喜びは、次のような理解から生じます。「私はとても長い間誤った考えによって幻惑されていた。何と愚かだったのだろう!私は自分が神だと思っていたが、今は神の永遠の従者だと理解できる。」そのような悟りを得ると、人は解放され、プラサンナートマー、すなわち喜びに溢れます。これが生命体の本来の立場だからです。

人が純粋な意識にあるとき、嘆きはありません。彼は自分が至高主に守られた小さな部分、霊的な火花だと知っているからです。それではどこに嘆きの余地があるでしょうか。小さな子供は、父親がそこにいると知っている限り自由に感じます。彼は「お父さんがそばに立っているから、僕は自由だ。誰も僕を傷つけることはできない」と考えます。同様に、人がクリシュナに服従するとき、彼はクリシュナが彼を守っているので危険はないという完全な信頼を持っています。このようにクリシュナに服従したものは、嘆きにも欲望にも無関係です。一方で、神意識でない者は単に欲望の対象を追い求め、嘆きます。彼は持っていないものを追い求め、持っていたけれど無くしたものを嘆きます。神意識の人はそのような悲惨さに左右されません。もし何かが無くなれば、彼はそれが神の意思であると知っています。そして「神がこれを望まれた。だからいいのである」と考えます。彼は何も欲しません。必要なものはすべてクリシュナ、至高の父が与えてくださっていることを知っているからです。

人が神と自分の関係を理解するとすぐ、彼は普遍的な兄弟愛に気づきます。彼はすべての人と動物―――実に、すべての命そのもの―――が、すべて至高の全体の部分であり、したがってすべてが平等であることを理解するからです。これを見ると、人は他の生命体をうらやましがったり搾取したり、侵害したりしません。このように、クリシュナの献身者である者は自動的にすべての良い資質を培います。彼は正しい意識にあるからです。(サンスクリット引用)

発達したクリシュナ意識を持つ者は、半神たちのすべての良い資質を現します。実に、(サンスクリット引用)ヴァイシュナヴァすなわちクリシュナの献身者は他者への慈悲の大海である、と述べられています。彼は社会へ最も偉大な贈り物を与えます。社会はクリシュナ意識を緊急に必要としているからです。ヴァイシュナヴァは、マハーマントラという値段の付けようのない貴重な贈り物を授けます。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。単にこのマントラを唱えることによって、人は解放された状態に留まることができます。 

しかし、人はこの状態が単に人が何日も隅っこに座禅を組んで座っている陶酔状態だと考えるべきではありません。違います。解放は奉仕を意味します。人は単に「今、私はクリシュナに人生を捧げた。じっと座ってサマーディーに耽ろう」と言うことはできません。服従の水準はニシェヴァヤー、奉仕によって、維持されません。人が至高主に仕えると、主はご自分を心の中に明かしてくださいます。主への献身奉仕のプログラムは朝から晩まで実行されます。実に、クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、人は一日24時間主への献身奉仕に携わらねばならないとおっしゃいます。一日に15分間瞑想して、それからありとあらゆる下らないことをすべきであるというわけではないのです。奉仕すればするほど、私たちはよりクリシュナに献身的であるようになります。したがって、人は何であれ持てる能力をクリシュナのために使うべきなのです。献身奉仕には9つの方法があります―――聞くこと、マントラを唱えること、覚えていること、奉仕すること、寺院で神像を拝むこと、祈ること、命令を遂行すること、主に友人として仕えること、そして主のためにすべてを犠牲にすることです―――そして人はいつもこれらの9つの方法のうち、少なくとも一つにいそしんでいるべきでし。いつもクリシュナへの奉仕に携わっている者は、決してうんざりしません。(サンスクリット引用)奉仕は愛と共になされねばなりませんが、初めはそれは難しいかもしれません。だから人はうんざりするようになるかもしれません。しかし、クリシュナへの奉仕に秀でてくると、人はそれを喜ばしいと感じるようになります。これはクリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて示していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「初めはちょうど毒のようであるけれど、最後には蜜のようであるもの、そして人を自己認識に目覚めさせるものは、徳の相における幸せだと言われます。」(BG18.37)

人がいったん霊的な水準に達すると、実際に嫌な感じになるのは物質的な奉仕です。例えば、もし人が生涯ハレ・クリシュナを唱えれば、その人はその名前に飽きません。しかし人が物質的な名前を繰り返し唱えると、程なくうんざりするでしょう。クリシュナの名前を唱えれば唱えるほど、人はそれに愛着を覚えるようになります。このように、スラヴァナムとキールタナム、クリシュナについて聞くことと唱えることは始まりです。次のプロセスはスマラナム、いつもクリシュナを覚えていることです。人が唱えることと聞くことにおいて完璧であるとき、人はいつもクリシュナを覚えているようになります。この三番目の段階で、人は最も偉大なヨギーになります。

クリシュナ意識での進歩は、決して失われることもありません。物質的な世界では、もし人が工場を建て始めて完成させないなら、その工場は全く何の役にも立ちません。もし工事が中止されて建物が未完成に終わるなら、投資されたお金はすべて失われます。これはクリシュナ意識にはあてはまりません。たとえ人が完成点に到達しなくても、彼が為したすべての働きは彼の永遠の財産であり、彼は来世においてその地点から始めることができます。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナ意識を始める者は何も失い得ないとも確認していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「この努力においては、失うことや減ることはなく、この道におけるわずかな進歩は人を最も危険な種類の恐れから守ります。」(BG2.40)

バガヴァッド・ギーターの第6章では、アルジュナが不成功に終わったヨギーの運命について尋ねるとき、シュリー・クリシュナはこう答えられます。
(サンスクリット引用)
「プルサーの息子よ、縁起の良い行いに携わった超越主義者は、この世でも霊的な世界でも、破滅に遭うことはありません。我が友よ、善行をなす者は悪によって打ち負かされることはありません。」(BG6.40)

それから主は、不成功に終わったヨギーは来世において前に終わった地点から始めてクリシュナ意識の訓練を始めると示していらっしゃいます。言い換えると、もし人が人生で50%を終えたなら、来世では51%から始めるということなのです。しかし、私たちが人生で蓄える物質的な財産は、すべて死のときに滅ぼされます。私たちは物質的な富を持っていくことはできないからです。しかし、人は来世まで待ってクリシュナ意識になる方がいいと考えるべきではありません。私たちはクリシュナ意識という使命を今世において達成する努力をすべきです。クリシュナは、主の献身者になる者は間違いなく主のもとへ行けると約束なさいます。
(サンスクリット引用)
「いつも私のことを考えなさい。私の献身者になりなさい。私を礼拝し、あなたの忠誠を私に捧げなさい。その結果、あなたは間違いなく私のところへ来るでしょう。私はあなたにこのことを約束します。あなたは私のとても愛しい友達だからです。」(BG18.65)

私たちがクリシュナのもとへ行くことを考えるとき、私たちは空虚さや非人格的な明るい光の前に立つのだと考えるべきではありません。クリシュナ、神は人格です。ちょうど私たちが人格であるようなものです。物質的に、私たちの父は人格であり、彼の父もまた人格であり、その父の父も、その前も、至高の父まで遡っても同じく人格でなければならないことを理解できます。これを理解するのはそれほど難しくありません。そして、神がヴェーダだけでなく聖書や他の聖典においても至高の父と呼ばれているのは特筆すべきことです。ヴェダーンタ・スートラもまた、完全真理は元々の父であってその人からすべてが生を受けた、すなわち放射された、と確認しています。これはヴェーダにおいても確認されています。
(サンスクリット引用)
「主はすべての永遠存在の中の至高の永遠存在であり、すべての生命体の中の至高の生命体である。主は他のすべてを維持している。」すべての生命体によって現されている欲求と生命の兆候は、単に至高の父の欲求と生命の兆候の反映に過ぎません。言い換えると、私たちの欲求は主が欲求を持っていらっしゃるから生じるのです。私たちは主の欠かすべからざる小片なので、私たちは神のすべての本能を微量に持っています。私たちが物質世界で目にする性的な遊戯と性生活は、霊的世界に見られる愛の歪んだ反映に過ぎません。この世界は、ここでは神が忘れられているので物質的ですが、一旦主が思い出されると世界は直ちに霊的になります。言い換えると、霊的な世界とはクリシュナが忘れられていない場所のことです。それはヴェーダ文献によって与えられている霊的世界の定義でもあります。したがって、私たちは一瞬たりともクリシュナを忘れることが不可能であるような生活を計画しなければなりません。このようにしてクリシュナへの奉仕に携われば、私たちはいつもヴァイクンサ、あるいはヴリンダーヴァナ、すなわちクリシュナのお住まいに住むでしょう。

現在では、私たちの汚染された意識によって、私たちは世界を物質主義的で地獄的な場所へと変えつつあります。そして私たちは本来の立場を知らないので、数え切れないほどの問題を作り出してしまいました。ちょうど、夢ではたくさんの問題を作り出すようなものです。しかし、本当は問題はありません。私は自分が大嵐の中にいるとか、追いかけられているとか、誰かにお金を盗られるとか、トラにむさぼり食われているとかいう夢を見るかもしれません。しかし、本当はこれらはすべて私の心が作り出したものです。(サンスクリット引用)ヴェーダには、プルシャ(アートマー、すなわち魂)はそのすべての夢に似た物質的な活動とは全く関係がない、と書かれています。したがって私たちはこの夢見る状態から目覚めるためにこのクリシュナ意識運動に携わらねばなりません。

バークタ、すなわちクリシュナの献身者は、結果を求めて働く人々、推量する人々、および神秘主義的なヨギーたちよりも上に位置します。バークタは完全に平安であることができますが、他の人たちはそうできません。純粋な愛を持つバクター以外のすべての人は欲求を持っているからです。スッダー・バークタには欲求がありません。彼は単にクリシュナに仕えることで幸せだからです。彼はクリシュナが神であるかどうか知らず、気にもかけません。彼は単にクリシュナを愛したいのです。彼はクリシュナが万能であるとか、あまねく存在するとかいう事実も気にしません。ヴリンダーヴァナでは、牛飼いの少年達やゴピーは、クリシュナが神であるかどうか知りませんでした。しかし彼らは単にクリシュナを愛しました。彼らはヴェダーンティストでもヨギーでもカルミーでもありませんでしたが、彼らはクリシュナに会いたかった純朴な村の少女たちや少年たちだったので幸せでした。これは、(サンスクリット引用)すなわち人がすべての物質的な自己認識から解放された純粋さの段階と呼ばれ、非常に高度な位置です。

ヨギーとジナーニーは神を理解しようとしていますが、彼らは自分たちの幻想的な立場に気づいていません。(サンスクリット引用)彼らは幻想的な幸せのためにあくせく働いているので、愚か者です。彼らには平和はあり得ません。ジナーニー、すなわち推量する者たちは、この物質世界の重労働から逃れたくてこの物質世界を拒絶します。(サンスクリット引用)彼らはカルミーより少し高い場所にいます。カルミーはこの物質世界がすべてだと思っているからです。彼らは「私たちはここで幸せになろう」と言います。そして彼らのダールマ、すなわち宗教は、この物質世界の中で平和的な雰囲気を作り出そうとすることで成り立っています。愚かな人々は、これが何億年でも試みられてきたけれど未だに実現せず、今後も決して実現しないということを知りません。クリシュナ、創造主ご自身がこの場所は困難と悲惨さのためにあるとおっしゃるとき、どうして物質世界に平和が可能でしょうか。
(サンスクリット引用)
「物質的な世界では、最高の惑星から最低のまで、すべてが悲惨な場所です。そこでは生と死が繰り返されます。」(BG8.16)
(サンスクリット引用)この世界は苦しみに満ちているだけでなく、一時的でもあります。人は単に三重の苦しみを苦しみ続けることに同意してここに留まることはできません。それさえも許されないのです。この世界では、人はここに留まっている間は罰を受けるだけでなく、最後には追い出されるのです。人は銀行の口座にたくさんのお金を貯めたり、高価な家や、妻や子供たちや、生活を快適にするためのたくさんの物を集めたりして、「私はとても平和に暮らしている」と思うかもしれません。しかし、彼はいつ「出て行ってください」と言われるか分かりません。

「なぜですか」と彼は尋ねます。「これは私の家で、支払いも終わっています。私にはお金も仕事も責任もあります。なぜ私が出て行くべきでしょうか。」

「いいから出て行きなさい。黙りなさい。出て行きなさい。」

その日に、人は神を見ます。「おお、私は神を信じなかった」と彼は思うかもしれません。「しかし、今ここに神がいて、すべてを終わらせている。」こうして、悪魔的な人はクリシュナを死として認識すると言われます。その時に主は彼らからすべてを取り去られるからです。

私たちが神を死として見たいということがあるでしょうか。悪魔ヒランヤカスィプがクリシュナを見たとき、彼は主を人格化された死として見ました。しかし、献身者プラーラーダは、主を自分の愛する主人として主の個人的な姿で見ました。神に挑戦する者は、主をそのぞっとするほど恐ろしい顔つきにおいて見ます。しかし、主に献身的な者は主をその個人的な形で見ます。どちらにしても、すべての人が究極的には神を見るのです。

正直な者は、いつもあらゆるところにクリシュナを見ることができます。クリシュナは「私を理解しようとしなさい。私をいたるところに見るように努めなさい」とおっしゃいました。この方法を容易にするために、主は(サンスクリット引用)「私は水の味である」とおっしゃいました。喉が渇いてコップ一杯の水が必要なとき、私たちは自分の渇きを癒す水の力がクリシュナであることを知って、飲んで幸せに感じることができます。同様に、太陽や月の明りを見ると同時にクリシュナを見ることができます。(サンスクリット引用)「私は太陽であり月である。」さらに進んだ段階では、私たちはクリシュナをすべてのものの中の生命力として見ることができます。クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーターの中に示していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「私は地球のもともとの香りであり、炎の明りです。私はすべての生けるものの生命であり、すべての苦行者の苦行です。」(BG7.9)

すべてのものが存在のためにクリシュナに依存していることを知ると、私たちが主を見失う可能性はなくなります。バガヴァッド・ギーターにおいて、主は、「すべてのものは始まりと終わりと、また中間の状態でも主の中に住む」と示していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「この世界のすべての物質的なものと霊的なものについて、私がその始まりであり終わりであると確かに知りなさい。おお、富を征服する者(アルジュナ)よ、私に優る真理はありません。真珠が糸に通っているように、すべては私に依っています。」(BG7.6.7)

クリシュナは簡単に見ることができますが、主に献身的な者だけが見ることができます。うらやましがる者、愚かな者、知性的でない者には、主はご自分をマーヤーのヴェールで覆い隠されます。
(サンスクリット引用)
「私は愚かな者と知性的でない者の前には決して顕現しません。彼らにとっては私は私の永遠の創造力(マーヤー)に覆われています。このように、騙された世界は、生まれることなく誤りのない存在である私を知ることがありません。」

知性的でない者からクリシュナを隠すこの永遠の創造力、すなわちヨガ・マーヤーは、愛によってかき消されます。これがブラーマ・サムヒターの意見です。
(サンスクリット引用)
「クリシュナへの愛を育んだ者は、心の中に一日24時間クリシュナを見ることができます。」

このようにクリシュナを見る者は、死に際して自分がどこに行くか知っているので、不安ではありません。クリシュナ意識という贈り物を受け取った者は、自分がこの物質世界に戻って別の体に入る必要はなく、クリシュナのところへ行くのだということを知っています。クリシュナのそれのような体、(サンスクリット引用)永遠性と知識と幸せに満ちた体を得なければ、クリシュナのところへ行くことはできません。人は自分自身が火にならなければ火に入って死なずにいることはできません。そして同様に人は霊的でない体を持って霊的な王国に入ることはできません。霊的な体では、ゴピーや牛飼いの少年たちのようにラーサの踊りでクリシュナと一緒に踊ることができます。これは普通の踊りではありません。至高の人格神と共に踊る永遠性の踊りです。クリシュナへの愛の中で清められた者がけが参加することができます。したがって人はこのクリシュナ意識の方法を安いものと受け取るべきではなく、主ご自身が苦しんでいる人類に賜った比類なき贈り物として受け取るべきです。単にこの方法に携わるだけで、本当は死の恐怖を中心に回っている人生のすべての不安と恐怖は軽減されます。