『クリシュナ意識への上昇』(Elevation to Krishna Conciousness)

リンク「クリシュナ意識の単語帳」より(一部編集)


第一章「人間の生活と動物の生活から選択する」

第一段落

(サンスクリット引用)

「私は霊的指導者に謹んで敬意を捧げます。彼は無明の闇で閉じられていた私の目を知識の松明の灯りで開いて下さいました。」

第二段落

超越的な知識の事柄について弟子を啓蒙する霊的指導者に対しては、この節と共に敬意を表する習慣があります。ヴェーダのプロセスは調査研究を必要としません。世俗的な学問においては、私たちは何らかの研究によって理論的な学識を証明しなければなりませんが、ヴェーダのプロセスは違います。ヴェーダのプロセスにおいては、調査研究は既になされています。それは完全であり、単に師から生徒へと師弟継承によって手渡されるのです。調査研究の余地は全くありません。人がそのような研究を行うのに用いる機器や手段は、鈍くて不完全だからです。

第三段落

私たちの物質的な存在の現在の段階では、私たちは多くの自然の法則によって制約されています。すべての制約された魂は、感覚の不完全さに起因する四つの欠陥を運命づけられています。一つの欠陥は、制約された魂は必ず間違いを犯すということです。間違いを犯さない人はいません。たとえば、インドではマハートマー・ガンディーは大変素晴らしい名士であると考えられていましたが、彼も間違いを犯しました。殺されることになった会合へ行く5分前に、彼は信任の厚い仲間から行かないように警告されました。しかし、彼はどうしても行くと言い張りました。間違いを犯すのは、生命の制約された状態においては大変自然なことです。実際、よく使われる「過ちを犯すは人の常」という表現が生まれたほどです。

第四段落

制約された魂のもう一つの不完全さは、必ず幻惑されるということです。幻惑されるというのは、そうでないものをそうであるとして受け入れること、去来する幻想を事実と考えることを意味します。私たちの一人一人は、自分はこの体であると思っています。しかし、実際には私たちは体ではありません。体を自己として受け入れることは、幻想、すなわちマーヤーと呼ばれます。

第三の不完全さは、制約された魂は騙す傾向があるということです。私たちは、店の主人が次のように言うのをよく耳にします。「あなたは私の友人ですから、私はあなたからは利益を上げません。」しかし、実際には私たちは彼が少なくとも50%の利益を上げていることを知っています。この騙す傾向の例は非常にたくさんあります。また、本当は何も知らないのに「多分」や「かもしれない」などの言葉を使って理論を発表する教師の例もたくさんあります。実際には、彼らは単に生徒を騙しているのです。

第四の不完全さは、生命体の感覚は完全ではないということです。私たちの視力はとても限られているので、あまり遠いところやあまり近いところは見えません。目はある条件の下でのみ見ることができるのです。したがって、私たちの視力は限られていると理解できます。同様に、私たちの他のすべての感覚もまた限られています。無限なるものをこれらの不完全で限られた感覚によって理解することは不可能です。結論は、ヴェーダのプロセスは私たちが自分の様々に制約された現在の感覚を使って完全真理を学ぼうと努力することを奨励しない、ということです。もし私たちが何がしかの知識を得るなら、それはこれらの四つの不完全さによって制約されていない優位の源から来るものでなければなりません。その源がクリシュナです。主はバガヴァッド・ギーターの至高の権威であり、非常の多くの聖者や賢者によって完璧な権威として受け入れられています。

第五段落

ヴェーダ文献を真剣に学ぶ者は、権威を受け入れます。たとえば、バガヴァッド・ギーターは多大な調査研究の成果として形成された学究的な発表作品ではありません。それはクルクシェトラの戦場で主クリシュナがアルジュナにお教えになった完全な知識であり、私たちはそこから次のことを知ります。すなわち、(現在のカリの時代よりも)以前の時代において、シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターを太陽神ヴィヴァスヴァーンにお教えになり、それははるかなる太古からヴィヴァスヴァーンに始まる師弟継承によって伝えられてきました。

(サンスクリット引用)

「聖なる主はおっしゃいました。“私はこの不滅のヨガの科学を太陽神ヴィヴァスヴァーンに伝えました。そしてヴィヴァスヴァーンはそれを人類の父であるマヌに教え、次にマヌはそれをイクシュヴァークに教えました。”」(BG4.1)

第六段落

もし私たちがバガヴァッド・ギーターを学究的な知識や自分の精神的な推量によって学ぶなら、私たちは必ず間違いを犯します。バガヴァッド・ギーターをそのような方法で学ぶのは不可能なのです。注意深くアルジュナの足跡を辿ることが必要です。以前の時代には、解釈と精神的な推量によって、バガヴァッド・ギーターの本当の意味が見失われました。そのため、クリシュナはそれをアルジュナに与えることで再び教えを確立なさいました。

(サンスクリット引用)

「この至高の科学は、このように師弟継承によって受容されました。そして、聖人的な王たちは、そのようにして理解しました。しかし、時が経って継承は途切れ、そのためありのままの科学は失われたように見えます。至高存在との関係という非常に古い科学が、今日、私からあなたに語られます。あなたは私の献身者であり、私の友でもあるからです。したがって、あなたはこの科学の超越的な神秘を理解することができます。」(BG4.2.3)

第七段落

このように、アルジュナの足跡を辿り、献身の念を持ってクリシュナに近づく者は、バガヴァッド・ギーター並びに他のすべてのヴェーダ文献の目的を理解することができます。

第八段落

ヴェーダには四つあります。サーマ、リク、ヤジュール、そしてアサルヴァです。そして、イソパニシャッド、カサ・ウパニシャッド、およびタイティリヤ・ウパニシャッドを含む108のウパニシャッドがあります。また、ヴェダーンタスートラ、シュリマッド・バーガヴァタム、およびバガヴァッド・ギーターがあります。これらの文献は、ある特定の階級の人々のためのものではなく、人類の社会のすべてのために存在します。すべての社会が人間の人生を完全なものとするためにヴェーダの知識を利用することができます。前に指摘したように、人間の人生は感覚を満足させるためにあるのではなく、神と宇宙と、自分が誰であるかを理解するためにあります。

第九段落

ヴェーダ文献から、この物質世界は単に神の創造全体の一部の顕現に過ぎないことを理解することができます。神の創造の大部分は、ヴァイクンサという霊的な世界に見られます。シュリー・クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて述べておられるように、この物質的な自然を超えたところに優性なる霊的な自然が存在します。

(サンスクリット引用)

「土、水、火、空気、エーテル、精神、知性、および虚偽の自己、これらの八つが私の離れた物質エネルギーを形成します。この劣性の自然のほかに、おお、強大なるアルジュナよ、私の優性なるエネルギーがあります。それは物質自然の中で苦しみ、宇宙の重さに耐えているすべての生命体です。」(BG7.4.5)(訳注、最後の一文は「宇宙を維持している(sustain)すべての生命体」とも読めますが、文脈からいって「sustaining (the weight of ) the universe, 宇宙(の重さ)に耐える」としたほうが意味が通じるように思います。)

第十段落

多くの物質的な宇宙が群れをなして存在し、これらすべての宇宙が物質的な創造を形成しています。これらの無数の物質宇宙群の向こうにあるのが霊的な天空であり、それはバガヴァッド・ギーターにも記述があります。

(サンスクリット引用)

「その私の住処は太陽や月で照らされてはおらず、電気でも照らされていません。そして、そこに至った者は誰であれ二度とこの物質世界には戻りません。」(BG15.6)

第11段落

この物質自然を超えたところにあるその優性の自然は永遠です。それが始まったという歴史はありません。それは始まりも終わりもないのです。

(サンスクリット引用)

「もう一つの、永遠の自然が存在します。それは、この顕現したりしなかったりする物質を超越しています。それは至高であり、決して滅びることがありません。この世界のすべてが滅ぼされるとき、その部分はそのままで変わりません。その至高の状態は、非顕現にして決して誤ることがない、と呼ばれ、最高の目的地です。そこに至ると、その私の至高の住処から人は決して戻りません。」(BG8.20.21)

第12段落

ヴェーダの宗教、すなわちヴァルナースラマ・ダールマもまた、永遠と呼ばれます。誰にもその始まりを見つけることができないからです。キリスト教徒の宗教は二千年の歴史があります。イスラム教徒の宗教は千三百年の歴史を持っています。しかし、もし私たちがヴェーダの宗教の始まりを辿ろうとすると、それを見つけることはできません。ヴァルナースラマ・ダールマは生命体の永遠の宗教として受け入れられています。

第13段落
私たちはしばしば神がこの物質世界を創造なさったと言います。そしてこれは神が世界の前に存在していたことを意味します。この物質顕現の前に存在していらしたので、主はこの創造の影響を受けることはありません。もしも物質世界の法則の影響の下にあるなら、どうして神がそれを創造したということがあり得るでしょうか。主が同時に、ご自分の創造と同一であって、なおかつそれから離れてご自身の完全性の中に存在なさる、ということは、バガヴァッド・ギーターに述べられています。

(サンスクリット引用)

「私の超越的な形において、私はこの創造すべてにあまねく存在します。すべてのものは私の中に存在していますが(resting in Me)、私は彼らの中にはありません。しかしまた、創造されたもののすべてが私に拠り頼む(rest on Me)わけではありません。私の神秘的な栄光を見なさい。私はすべての生命体を維持するものであり、あらゆるところに存在しますが、それでも私自身が創造の源そのものなのです。」(BG9.4.5)

第14段落

実際には、私たちは皆霊魂であり、無数の霊的な惑星と無数の霊的な生命体が存在する霊的な天空において神と関わりを持つのが本来の姿です。しかし、その霊的な世界に住むのにふさわしくない者は、この物質世界に送られます。まさにこれと同じ概念がミルトンの「失楽園」にも表されています。霊魂であるにも関わらず、私たちは自発的にこの物質的な体を受け入れました。そして、それを受け入れることによって同時に物質自然の三重の悲惨さをも受け入れました。正確にいつそれを受け入れたのか、そして、どうやってそうするに至ったのかは、辿ることができません。制約された魂が最初にこの物質的な体を受け入れ始めたのはいつなのか、誰にもその歴史を辿ることはできないのです。

第15段落

現在では、高等学習の機関ではダーウィンによる有機物質の進化の理論が非常に突出しています。しかし、パドマ・プラーナや他の権威ある聖典には、生命体が一つの形の体から別の形の体へと霊的な進化をするという情報があります。このプラーナは、生命体には840万の異なる形があり、そのうち90万は水中に棲む、と私たちに知らせています。植物だけでも200万あります。現在では誰もがダーウィンの理論に重点を置いていますが、ヴェーダ文献には異なる種に関する莫大な情報が存在します。ダーウィンは、種は下位の生命体から進化しているという意見を表明していますが、それは真実のすべてではありません。魂は低位の形から高位の形へと向上するかもしれませんが、バガヴァッド・ギーターに示されているように、創造の始まりにおいてすべての種はシュリー・クリシュナによって創造されたのです。

(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子よ、(ブラーマの)千年(millennium)の終わりにすべての物質顕現は私の自然の中に入り、そして次の千年の始まりのときに私は自分の力で再び創造します。宇宙秩序の全体が私の下にあります。私の意志によってそれは繰り返し顕現し、私の意志によって最終的に滅亡します。」(BG9.7.8)

第16段落

これら生命体のすべてが、体と心に関係する悲惨さを含む三重の苦しみを受けます。動物は自分が苦しんでいることを理解できませんが、人間はできます。自分が苦しんでいることを知らない者は、動物の意識にあります。動物は柵の後ろにいて屠殺される運命にあるかもしれません。しかし、彼らはそれを理解できません。人間として、私たちは自分たちが生老病死の痛みを苦しんでいることを気付いているべきであり、これらの悲惨さを避けるにはどうしたらいいのかを知ろうとすべきです。私たちは生の初めから苦しんでいます。胎児のころ、私たちは母親の子宮の中に9ヶ月も窮屈に詰め込まれていました。生まれてからも苦しみは続きます。母親は大事に子供の面倒を見るかもしれませんが、それでも子供は泣きます。なぜでしょうか。子供は苦しんでいるからです。虫が刺したか、お腹が痛いか、その他の病気だったりします。何であれ、苦しみは続きます。また、学校に行きたくないのに行かされることにも子供は苦しみます。子供は勉強したくありませんが、先生は構わず宿題を出します。もし私たちが注意深く自分の人生を分析するなら、それが苦しみに満ちていることが分かるでしょう。一般的に、制約された魂はあまり知性的ではありません。そして、そのために彼らは「なぜだろう」と問うことなく苦しみ続けるのです。私たちは、しかし、この苦しみが存在することを理解すべきです。そして、もし治療法が存在するのならそれを利用しなければならないのです。

第17段落

偉大なる賢者リシャバーデヴァは、息子たちに次のように教えました。「私の愛しい息子たちよ。この世において、あなたがたはこの美しい体を得ました。さて、あなた方は、それが豚や犬の体のように感覚の満足のために使われるべきものではなく、霊的な理解のために使われるべきものであることを知るべきです。」つまり、リシャバーデヴァは、感覚の満足のための人生は豚のように糞を食べる者のためにあり、今こうして高度な形の生命を得た私たちは低位の生命の真似をすべきではない、とおっしゃるのです。最近、ニューヨーク市のセントラル・パークを歩いていたとき、アメリカ人の若い男女が豚を崇拝しているのを見かけて驚きました。私たちがハレ・クリシュナを唱えていたとき、これらの若者たちの集団は「豚!豚!豚!」と唱えていました。彼らは実際にセントラル・パークの中を豚と一緒に行進していて、豚の前で頭を下げて彼らを崇拝していました。彼らは実際に一頭の豚が大統領になることを望み、豚たちに彼らを率いて欲しいと望んでいました。これは本当に度を過ぎてしまい、シアトルでのあるビー・インでは、若い男女が衣服を脱ぎ捨てて泥に入り、豚と一緒に遊ぶ、というデモンストレーションさえありました。そして、このようにして彼らは自分たちの崇拝する豚と付き合っていたのです。これらのことのすべてが、若い人々が見た目の良い体とたくさんのお金と、他の国の若者たちが持たない多くの有利さを持っている国で行われているのです。これらのすべての有利さを得た結果、彼らは単に豚を崇拝するようになってしまいました。そのような豚の崇拝は、遠い遠い昔に予知されており、少なくとも五千年前に編纂されたシュリマッド・バーガヴァタムに描写されています。要点は、人生における美しい状況は、堕落した崇拝の形のためではなく、美しい結末のために使われるべきだということです。

第18段落

ヴェーダの歴史において、非常に多くの高貴な皇帝たちや王たちが禁欲と苦行を実行しました。ドゥルヴァ・マハーラージャ、アムバリシャ・マハーラージャ、そしてユディシュシラ・マハーラージャは、皆偉大な王であり、非常に裕福でしたが、同時に偉大な聖人でもありました。このようにして彼らは、経済的な発展と快適な暮らしのためのすべての便宜を備えた美しい人間の形をした生命形態という幸運を得た者たちのために、見本をお示しになったのです。この機会は、さらに良い暮らしを得るために使われるべきです。そして、それは苦行を実行することによって実現できます。現在では、私たちはこの物質的な体の中に存在していますが、もし私たちがクリシュナ意識のプロセスを習慣づけるなら、私たちの意識は浄化されるでしょう。アメリカ人であってもヨーロッパ人であっても、自発的にクリシュナ意識を訓練している生徒たちは、とても喜んでそうしています。そのプロセスは面倒なものではなく、喜ばしいものです。今では彼らは、動物の暮らしと人間の暮らしの違いは浄化された存在にある、ということを理解しつつあるのです。

第19段落

もし私たちが単にクリシュナ意識の基本的な規制に従うことによって自分の存在を浄化するなら―――それは不道徳な性交と肉食と陶酔物と賭け事を慎むことですが―――私たちは徐々に完全に純粋な本来の霊的な存在にたどり着けるでしょう。賢者ルシャバーデヴァは息子たちに、彼らが自分の存在を浄化するなら無限の幸せを得るだろう、とおっしゃいました。私たちは皆、平和と幸せを得るように意図されています。しかし、私たちがこの物質的な世界で見つける平和と幸せは、どれも有限です。もし私たちが自分の存在を浄化して霊的な存在に辿り着きさえすれば、私たちは無限の平和と幸せを経験するでしょう。

第20段落

霊的な世界は無味乾燥でもなく抽象的でもありません。先に指摘したように、そこには多様性があるのです。ヴァイクンサで経験される霊的な喜びの一つは踊ることです。そこにも若い娘たちや若者たちがいます。実際、そこには老齢や病や死や、誕生の痛みというようなものはないのです。もし私たちが霊的な世界における私たちの本来の生得権である無限の幸せと知識と永遠の生命に加わりたいなら、私たちはこの人生を感覚の満足のためにがむしゃらに働いたり豚を崇めたりすることで無駄にすべきではありません。私たちは、クリシュナ意識を培うことに捧げられた人生を受け入れるべきであり、そうすれば無限の幸せと無限の喜びを得るでしょう。これがクリシュナ意識運動の要点なのです。 

第二章 幸福への厳しい苦悩

第1段落

明かされた聖典において、至高主はサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハと表現されています。サットは永遠を意味し、スィットは完全に気付いていることを意味し、アーナンダは喜びに溢れていることを意味し、そしてヴィグラハは主が人格であることを意味します。このように、主、すなわち比類なき至高神は、完全なる自己認識と完全なる知識を持つ、永遠の喜びに溢れた人格です。主に対等の者や、主に勝る者は存在しません。これが至高主の簡潔な描写です。

第2段落

生命体(ジーヴァ)は、至高主の微細な見本(サンプル)であり、そのため自らの行いの中に永遠の存在と完全な知識と幸せを望む気持ちを持っています。これらの願望は、人間の社会においては明らかであり、高位の天体系(スヴァルガロカ、ジャナロカ、タポロカ、マハルロカ、ブラーマロカなど)においては、生命体はより長い寿命とより多くの知識と、全体的により幸せな存在を楽しむことができます。しかし、この地球上よりも寿命と楽しみのレベルが何千何万倍も多い、この物質世界のもっとも高位の天体においてさえ、それでも老いと病と死があります。結果的に、至高主との交わりにおいて享受できる永遠の喜びに比べると、その喜びは取るに足らないものです。様々に異なる関係において至高主に愛情のこもった奉仕をすることは、非人格的なブラーマンの喜びでさえ大海と比べたときの一滴の水ほどにも取るに足らないものにします。

第3段落

すべての生命体はこの物質世界で最も素晴らしい楽しみを求めますが、それにも関わらず、ここでは誰もが不幸せです。この不幸はすべての高位の惑星にも存在します。寿命が長く、楽しみや快適さの水準が高いにも関わらず、それは物質自然の法則によるのです。私たちは寿命を最大限に延ばし、生活の水準を最高位にまで引き上げることができますが、それでも物質自然の法則によって私たちは不幸せです。その理由は、私たちの本来の在り方にとって適切な幸せの質は、物質的な活動から得られる幸せのそれとは異なるからです。生命体はサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハである主の優位な霊的エネルギーの微小な一部であり、したがって質的に霊的な喜びを必然的に求めるのです。不幸にして、生命体は物質自然という異質な環境で喜びを得ようとして無駄な努力をしています。

第4段落

水から出された魚は、どんな工夫をしても陸の上では幸せになれません。魚には水が必要なのです。同様に、微小なサック・スィッド・アーナンダである生命体は、この物質宇宙の中では、その幻惑された脳でいかに作戦を練っても、それで幸せになることはできません。生命体には本質的に霊的な幸せが必要なのです。私たちの志は、この一時的な幸せではなく、霊的な至福を楽しむためにむけられるべきです。哲学者の中には、物質的な幸せと物質的な存在を否定することで霊的な幸福を得られると主張する者もいます。スリパーダ・サンカラチャーヤが提示なさったように、物質的な活動を理論的に否定することは、人類のごく一部にとっては効果的かもしれません。しかし、すべての人にとって霊的な幸せを得るために最良にして最も確実な方法は献身奉仕である、と主シュリ・チャイタンニャ・マハープラブが提示なさいました。これらの献身奉仕は、物質自然の在り方そのものを変えることができます。

第5段落

物質的な幸せを追い求めることは欲望と呼ばれ、欲望に基づいた行動は長期的には必ず満たされない気持ちをもたらします。ヘビの体はとても冷たいですが、もし人がその冷たさを楽しみたくて体の周りに有毒なヘビを巻けば、その人はきっとそのヘビの毒で殺されるでしょう。物質的な感覚はヘビのようなものです。物質的な幸せにふけると、私たちの霊的な自己認識は必ずや殺されるでしょう。したがって、正気な者は幸せの本当の源を探すことに意欲的であるべきです。

第6段落

この源を見つけるためには、しかし、その幸せとは何かということについて幾らか知っておく必要があります。サトウキビを見たことのなかった愚かな男の話があります。サトウキビとはどんな特徴があるのか友人に尋ねてみると、形が竹に似ているという誤った答えが返ってきました。そのため彼は竹の棒から汁を絞ろうとしましたが、当然ながら全然うまくいきませんでした。これが幻惑された生命体の在り方なのです。永遠の幸せを求めて、この物質世界から幸せを得ようとしています。しかし、ここは悲惨さに溢れているだけではなく、一時的であり、明滅的でもあるのです。バガヴァッド・ギーターにおいて、物質世界は悲惨さに溢れていると表現されています。

(サンスクリット引用)

「物質世界では、最高位の惑星から最低位の惑星にいたるまで、すべてが悲惨な場所で、生と死が繰り返されます。しかし、私の住処に辿りついた者は、おお、クンティーの息子よ、二度と生まれることはありません。」(BG8.16)

第7段落

幸せに対して意欲を持つのは自然で良いことですが、それをいわゆる科学的な工夫によって不活性な物質から得ようとすることは、間違いなく満たされない結果に終わる、幻惑された試みです。騙されている者だちは、これを理解することができません。人がどのように物質的な幸せに対する欲望によって動かされるかということが、バガヴァッド・ギーターに描写されています。

(サンスクリット引用)

「悪魔的な者は次のように考えます。“今日は私はこれだけの富を持っている。そして私は自分の計画に沿ってもっと多くを得るだろう。今はこれだけが自分のもので、将来はもっともっと増えるだろう”」(BG16.13)

第8段落

この無神論的な、すなわち神のない文明は、私たちの感覚を満足させるために企てられた巨大な社会情勢です。そして今、私たちは皆、この空っぽの殻を維持するためにお金を得ようとして、正気を失っています。お金は感覚の満足のための物と交換するための媒体なので、皆が欲しがっています。明らかに、そのようなゴールドラッシュの大混乱の雰囲気においては、平和を期待することはユートピア的な夢です。ほんのわずかでも感覚の満足の気配があれば、すなわち感覚の満足を求める気持ちがあれば、平和ははるかに遠いものであり続けるでしょう。これは、私たちは本質的に至高主の従者であり、したがって自分たちの個人的な利益のためには何物をも楽しむことができないからです。

したがって、主に超越的な奉仕をするために自分たちの感覚を利用するための方法を学ぶこと、および主の利益に奉仕するためにすべてのものを利用することが、私たちには必要です。これだけが望んでやまない平和をもたらします。体の一部は、それだけが独立して幸せになることはできません。それは体全体に奉仕をすることによってのみ、幸せと喜びを得ることができます。

至高主は全体であり、私たちは一部ですが、しかし私たちは皆自分の利益のための活動に忙しくいそしんでいます。主に奉仕をしようとする者は誰もいません。これが私たちが物質的な存在において制約されていること、並びにその結果としての不幸の、基本的な原因なのです。

第9段落

超高層ビルのオフィスにいる最も偉い重役から路上の苦力(クーリー、単純労働者)に至るまで、誰もが合法的、あるいは非合法的に富を蓄えようとしています。本当は、すべてが非合法なのです。自分の個人的な利益のために働くのは、不法かつ破壊的だからです。自分の個人的な利益のために霊的な認識を培うことでさえ、不法であり破壊的です。要点は、すべての活動はクリシュナの満足と主への奉仕に向けられなければならないということです。

第10段落

至高主への超越的で愛情に溢れた奉仕に携わっていない者は、自分たちが日々たくさんのお金を蓄えているという誤った考えを持っています。

(サンスクリット引用)

「何百何千という望みと欲と怒りに縛られ、彼らは感覚の満足のために非合法な方法によってお金を蓄えます。」(BG16.12)

第11段落

結果として、世界にはお金の不足はないにも関わらず、平和が欠けています。人間のエネルギーの非常に多くがお金を稼ぐことに向けられています。人口の多くがもっともっとお金を稼ぐ能力を身に着けたからです。しかし長期的には、結果として、この無制約にして不法な金融インフレーションは世界中に劣悪な経済を作り出し、私たちはそのような安易な金稼ぎの結果そのものを破壊するための巨大で高価な武器を作ってしまいました。

たくさんのお金を稼ぐ大きな国の指導者たちは、平和を楽しんではいません。核兵器による切迫した破壊から身を守るための計画を立てています。実際、これらのおそるべき兵器の実験のために、巨額のお金が海に捨てられています。そのような実験は、多額のお金がかかるだけではなく、多くの命も奪っています。このようにして国々はカルマの法則に縛られます。人々が感覚の満足のための衝動によって突き動かされているときは、それで稼いだお金はすべて穢されます。人類の破滅のために使われたからです。人がすべてのエネルギーの本当の持ち主である主に反感を持ったために、自然の法則にしたがって、人類のエネルギーはこのように無駄にされます。

第12段落

富は崇拝され、母なるラクシュミ、すなわち幸運の女神と称されます。すべてのナラ、すなわち生命体の、その源であるナーラーヤナに仕えることが彼女の役割です。ナラもまた、幸運の女神の指導のもとでナーラーヤナに仕えることになっています。生命体はナーラーヤナに仕えずして幸運の女神を享受することはできません。そのため、正しくない方法で幸運の女神を享受しようと望む者は、自然の法によって罰せられます。これらの法は、お金それ自体が平和と繁栄の代わりに必ず破壊をもたらすようにするのです。

第13段落

正しくない方法で集められたお金は、将来的な内戦と国家間戦争の資金のために、様々な方法による国家の税金によってケチな市民から取り上げられます。その資金は、無駄が多くて破壊的な方法による支出金です。市民はもはや、人間の生活にとって必要不可欠である二つのこと、すなわち、家族を適切に養い、霊的な知識を培うということに必要なお金だけでは満足しません。今、人々は皆、飽くことを知らない欲望を満足させるために際限なくお金を欲しがります。人々の不正な欲望に比例して、彼らが貯めこんだお金は、医療者、弁護士、収税人、社会、国家構造、いわゆる聖者、飢餓、地震、そのほか多くの類似する苦難という形をとった幻想エネルギーの代理人たちによって取り去られます。「バック・トゥ・ゴッドヘッド」を一部買うのを渋ったケチな人は、一週間の薬代に二千ドルを払い、そして死にました。主への奉仕のために1セント出すのさえ拒否した別の人は、家族内の法的なトラブルに何千ドルも無駄にしました。幻想的な自然の支配によって引き起こされた同様の事例はいくらでもあります。実に、それが自然の法なのです。もしお金が主への奉仕のために使われないなら、それは法的な問題や病気などの形で、駄目になったお金として使われねばならないのです。愚かな人々は、そのような事実を見る目を持ちません。したがって、至高主の法は彼らをたぶらかすのです。

第14段落

自然の法律は私たちに適切な維持に必要とされる以上のお金を受け取ることを許しません。自然の法によって、すべての生命体にそれぞれの相応な食べ物と住処の分け前を供給する、有り余るほどの配剤があります。しかし、人間の飽くことを知らない欲望は、すべての種の生命の万能の父によって整えられた配剤を乱しました。至高主の配剤によって、塩に満ちた海が存在します。塩は生命体にとって絶対に必要なものだからです。神は同様に、同じく必要不可欠である空気や光が十分になるようになさいました。誰でも自然の倉庫からいくらでも塩を取ることができますが、本来は私たちは自分たちが必要とする以上の塩を取ることはできません。もしも塩が多すぎると、スープが駄目になります。そして塩が足りないと、食べ物が味気なくなります。一方で、もし私たちが必要な分だけ塩を取れば、私たちの食べるものはおいしくなり、私たちは健康になります。現在、私たちの天然資源が汚されて使い尽くされることに関して多大な懸念があります。本当は十分に与えられているのです。しかし、誤った使い方と貪欲さによって、すべてが駄目にされています。自然保護論者と生態学者が理解していないのは、このクリシュナ意識のプロセスを人々が習慣づけない限り、すべては人類の止まるところを知らない欲望によって駄目にされ続けるということです。クリシュナ意識なくしては、存在のどの水準においても平和を得ることは不可能です。

第15段落

したがって、人は自らの飽くことのない欲望と貪欲さによって苦しんでいません。苦しんでいるのは、人だけではありません。人が住む天体、すなわちシュリマッド・バーガヴァタムの中で母なる牛として表されている母なる地球もまた、苦しんでいます。かつて、インドの著名なスヴァーミーが、人類の苦しみに対して神や摂理は責任があるのか、と尋ねられたことがあります。スヴァーミーは、これらの苦しみはすべて神の娯楽、リーラーだと答えました。質問した人は、なぜ生命体はカルマの法の支配の下に置かれるべきなのか、と尋ねました。スヴァーミーは、彼の問いが満足されるような答えを与えることができませんでした。至高主と生命体が一つであることだけに基づいて考える一元論者や非人格主義者は、そのような問いに対して満足な答えを与えることができません。そのような不完全な答えは、生命体の心をほとんど満足させることができません。

第16段落

主は、すべての聖典においてリーラー・プルソッタマ、すなわち、本来的にいつも超越的な娯楽に興じている至高の人格神と描写されています。ヴェダーンタ・スートラにおいては、主はアーナンダマヨ・ブヤーサートとも描写されています。一元論者と非人格主義者は、一つであるということと非人格であるということという、彼らの二つの不完全な理論を支えるために、このスートラを様々な方法で説明しようとして大変な苦労をしています。しかし、アーナンダ、すなわち快楽は一人では楽しめないという事実が残ります。多様性が喜びの母であるということは、よく知られた事実です。例えば、都会はそこに様々なものがあれば魅力的です。生命体は、魅力的な通りや建物、映画、公園、乗り物、会社、雇用、食べ物その他、多様性によって自然にひきつけられます。これらすべての多様性にも関わらず、イギリスの詩人パウパーは、かつてこう言いました。「都市は人間によって作られる。しかし、田舎(訳注、country、森などの人里離れた自然を含む)は神によって作られる」。田舎もまた、天然のままも形の多様性に満ちています。一方で、都市ではこの多様性は現代化された科学的な在り方で示されます。カウパーのような詩人は田舎の多様性にひきつけられます。そして都市に住む平凡な人々は人間によって作られた華やかな多様性にひきつけられます。どちらにしても、田舎や都市に人々をひきつけるのは多様性なのです。これがヴェダーンタ・スートラの節の正しい解説です。

第17段落

非常にしばしば都市にひきつけられる多くのいわゆるスヴァーミーたちは、しばしば社会と女性との関わりの中にある種の喜びを求めます。一般に、彼らは森に住むことに向いている者のような格好をするかもしれませんが、森の自然な美しさには魅了されません。そのようなスヴァーミーは、物質の中に様々な喜びを捜し求めています。彼らは霊的な生活の多様性について何の情報も持たないからです。彼らは一方では物質の多様性を楽しみ、他方で絶対存在に対しては霊的な多様性を否定します。彼らは一元論と非人格主義の理論に忠誠を誓っているので、物質に関するものは何であれ霊にも関係するということを否定します。彼らによると、霊は物質の否定です。しかし、事実は、霊は物質の否定ではなく、物質は霊の歪んだ反映であるのです。

第18段落

多様性の本当の喜びは、相対性を損なう(訳注、delude、あざむく)ことなく、霊の中に存在します。一方で、静的な物質は動的な霊との関わりによって、その霊的な多様性そのものの誤った複製、すなわち歪んだ反映を顕現します。いわゆるスヴァーミーの一元論的な階級の人々は、その霊的な多様性そのものを非常に頑固に否定します。

第19段落

以前に述べたように、至高主はサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハ、すなわち本来的に喜びに満ちており、したがって主はご自分を、自らの異なるエネルギー、部分、および分離された分化体や完全体の部分によって、拡大なさいます。至高主は完全真理であり、比べるもののない唯一無二の存在であり、しかしまた、主はご自分と同時に一つであって異なる様々なエネルギー、部分、および完全な部分を含有なさいます。主は本来的に喜びに満ちていらっしゃるので、ご自分を様々な方法で拡大され、、これらの拡張体の活動は主の超越的な娯楽、すなわちリーラーと呼ばれます。しかし、これらの娯楽は盲目的で静的ではありません。それらは完全な感覚と独立性と、そして行為と反応の自由を示します。完全真理の様々なエネルギーの行動と反応の複雑さは、神の超越的な科学と呼ばれる膨大な科学の主題(subject matter)を成し、バガヴァッド・ギーターはその科学に興味のある学生のためのABC,すなわち知識の入門書です。すべての知性ある人間は、この超越的な知識に興味を持つべきです。実に、聖人たちの意見によれば、人間の生はこの科学を学ぶためだけにあるのです。ヴェダーンタ・スートラの始まりの言葉は、「今こそブラーマンについて問うときである」と宣言しています。

第20段落

人間の人生は本質的に苦しみに満ちており、より低い生命体の人生はもっと惨めです。正しい分別を持った正気の者は誰でも、物質世界の人生は悲惨さに満ちており、そのような悲惨さの行為と反応から自由である者は誰もいない、ということを理解することができます。これは人生を悲観的に見ているわけではなく、私たちが盲目的であるべきではない実際の事実なのです。人生の悲惨さは3つに分類されます。すなわち、体と心に起因する悲惨さ、他の生命体に起因する悲惨さ、および自然な災害に起因する悲惨さです。正気な者は、これらの悲惨さを取り除いて人生で幸せになることを目指さねばなりません。私たちは皆、少なくとも無意識的には、これらの悲惨さから逃れて平和と自由を得ようとしています。そして、より高位の学識ある人々の間では、巧妙な計画とデザインによってこれらの悲惨さを捨て去ろうとする試みがあります。しかし、最も知的な人の計画やデザインでさえ、すべてくじく力がマーヤー・デヴィーの力、すなわち幻想エネルギーです。カルマの法則、すなわち物質界におけるすべての行為と反応の結果は、この絶大な力のある幻想エネルギーによってコントロールされています。このエネルギーの活動は原則と規則に基づいて機能しており、それらは至高主の指導の下で意識的に活動します。すべては自然によって完全な意識の中でなされます。盲目的に、あるいは偶発的に起こることは何一つないのです。この物質エネルギーはドゥルガーとも呼ばれます。それは、乗り越えるのが非常に難しい力であることを示しています。子供じみた計画をどれだけたくさん練っても、ドゥルガーの法則を乗り越えることは誰にもできません。

第21段落

人類の苦しみを捨て去ることは、とても難しいことであり、同時にとても簡単なことでもあります。自然の法則に縛られた制約された魂が三つの悲惨さを捨て去ろうとして計画を立てている限り、解決策はありません。唯一の効果的な解決策はバガヴァッド・ギーターに述べられているそれであり、私たちはそれらを私たち自身の利益のために、私たちの実際的な暮らしに取り入れなければなりません。物質自然の三つの悲惨さは、至高主の娯楽の中にはありません。前述のように、主は永遠に喜びに満ちており、主の超越的な娯楽は主ご自身と異なるものではありません。主は完全真理であるので、主の名、名声、形、性質および娯楽はすべて主と全く同じなのです。したがって、主の娯楽はいわゆるスヴァーミーが主張するように人類の苦しみと同一視することはできないのです。至高主の娯楽は人間たちの実際の悲惨さや苦しみを超越しています。

第22段落

人類の苦しみは、分別をつける力、すなわち個々の魂に与えられた小さな独立性の誤用によって生じます。詐欺的なスヴァーミーたち、あるいは精神的な推察をする人々は、一元論の理論に合致させるために、人類の悲惨さを神の娯楽として無視せねばなりません。しかし、実際にはこれらの悲惨さは、誤って導かれた制約された魂の上に科されたマーヤー・デヴィーの罰が執行されたものに過ぎないのです。

第23段落

生命体として、私たちは至高主の欠かすべからざる小片です。実に、私たちは本当は主の優性エネルギーに属しているのです。そのため、制約されていない状態の人生では、私たちは主の超越的な娯楽に参加することができるかもしれません。しかし、私たちがカルマの法則によって制約されている限り、劣性エネルギーに関係している限り、私たちの苦しみは、自分たちの小さな独立性を甚だしく使い間違えたことから生じた、自分で作り出した苦しみなのです。非人格主義者の一元論者たちは、三重の苦しみは主の娯楽の一部だと主張することによって単に人々を誤って導くだけです。そのような非人格主義者と一元論者は、至高主と個々の魂はすべてにおいて平等であると誤って考えるため、従う人々を誤って導いてきました。たしかに、個々の魂は至高主と性質においては同じです。しかし、量においては違います。もしも個々の魂が量において至高主と同じなら、そもそも物質自然の法則の下に置かれることはなかったでしょう。物質自然は至高主の意思に従属します。したがって、主は物質自然の法則の下には置かれ得ません。主がご自分の劣性エネルギーの法の下にあるというのは矛盾しているのです。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ、私に優る真実はありません。すべては私に依り従います。真珠が糸に繋がっているように。」(BG7.7)

第24段落

再び、クリシュナは述べられます。

(サンスクリット引用)

「三つの相(徳、熱情、無明)に惑わされ、世界全体が私を知りません。私は彼らの上にあり、無尽蔵です。」(BG7.13)

第25段落

物質世界の悲惨さの中に入れられた個々の魂は、自らの許されない活動の結果である反応に苦しんでいます。これがバガヴァッド・ギーターの判断です。

(サンスクリット引用)

「うらやましがり、有害な、人類の最低の者たち。これらの者たちを、私は永遠に物質存在の海へ、様々な悪魔的な種類の生命の中に入れます。」(BG16.19)

第26段落

部分は全体に奉仕するのが本楽の役割です。そして、彼らが自分の独立性を誤用すると、物質の法則の悲惨さの影響を受けます。ちょうど犯罪者が警察の行動の影響を受けるようなものです。国家は、その市民を欠かすべからざる構成部分と考えます。そして、市民が自分の相対的な独立性を誤用するとき、国家はその人を警察の権威のもとに置きます。刑務所の外の市民の生活と中の市民の生活は同じではありません。同様に、物質自然という刑務所の中の生命体の苦しみは、サック・スィッド・アーナンダの完全な自由の中に存在する至高主の娯楽と同一視することはできません。

第27段落

市民が刑務所に行って苦難しなければならないような行動をすることを望む政府はありません。刑務所は、もちろん国家政府が建てたものです。しかし、これは国家がぜひともその市民をそこに放り込みたいと思っていることを意味するのではありません。間接的に、法に従わない市民は政府に刑務所を建てることを強制しているのです。それは政府の楽しみのためになされているのではありません。政府は刑務所を建てて維持するために多額の出費をしなければなりません。反対に、もしも国家に法に従わない市民が一人もいないなら、政府は喜んで刑務所を取り壊すでしょう。同じように、この物質世界は至高主によって作られましたが、至高主は生命体がそこに入れられることを望んでおられません。生命体自身がその決断をするのです。この物質世界の住人は、したがって、至高主の超越的な娯楽に永遠に関わっている人たちとは違うのです。

第28段落

非人格主義者の一元論者たちは、永遠なる霊的な王国における十分に発達した独立の生活に関して、何の情報も持ちません。彼らによれば、霊的な王国は単なる虚空です。これは、囚人が刑務所の外には生活がないと考えるようなものです。刑務所の外の暮らしには、確かに刑務所の活動はありませんが、活動がないわけではありません。魂は本来的に活動的であり、しかし、非人格主義者たちは霊的な王国における魂の活動を否定しようとします。こうして彼らは刑務所の生活の悲惨さを至高主の娯楽であると誤解します。これは彼らの知識が乏しいことに起因します。

第29段落

至高主は個々の魂の活動と反応を創られることはありません。バガヴァッド・ギーターには、この事項は以下のように明確に定義されています。

(サンスクリット引用)

「体に入れられた霊、すなわち自分の体という街の主人は、活動を作り出しません。人々に活動を促すこともありません。活動の結果を作り出すこともありません。これらすべては、物質自然の相によって引き起こされます。至高主が誰かの罪深い行動や敬虔な行いの責任を負うこともありません。しかし、体に入れられた存在は、彼らの本当の知識を覆う無明のために惑わされます。」(BG5.14-15)

第30段落

これらの節から、人類の苦しみは至高主の娯楽と同一視されるものでないことや、至高主がそれらの責任があるのではないことは明らかです。主は決して誰の悪徳や美徳に対しても責任はありません。悪い行いによって、私たちはますます苦難に満ちた状況に置かれます。一方で、敬虔な行いによって私たちは自分を幸せへの道に置きます。このように、人は自分自身の物質的な苦しみや幸せの建築家なのです。主は、生命体が活動の反応にからまることを望まれません。それが良い反応であれ、悪い反応であれ。主は単に皆が家に帰ることを望んでいらっしゃるのです。私たちが神との純粋で永遠の関係に目覚めない限り、私たちは必ず自分の行いにおいて惑わされます。私たちの行いは、善悪に関してすべて無明の水準で行われます。私たちは純粋な知識の水準に上がらねばなりません。それは、私たちが至高主の永遠の従者であって、主の超越的な娯楽の享受者であるという純粋な認識です。至高主はそれらの娯楽を主として楽しむ方であり、私たちは従者として楽しむ者であるのです。

第31段落

バガヴァッド・ギーターに描写されているように、超越的な知識は超越的な献身奉仕によってのみ得ることができます。

(サンスクリット引用)

「常に変わらず献愛の念を持ち、愛情をもって私を崇拝する者に対して、彼らが私のところへ来ることができるように、私は必要な理解を与えます。」(BG10.10)

第32段落

そのような献身奉仕をすることによってのみ、そして、ただ単に大量の識別的な知識を得ることによってではなく、私たちは至高主をありのままに知ることができます。私たちが至高の人格神を本当に知るとき、そのとき私たちは主の娯楽に入ることができます。それがすべての明かされた聖典の判断です。

第3章 平和的な社会へ

第1段落

(サンスクリット引用)

「至高主はおっしゃいました。”この体は、おお、クンティーの息子よ、地表(フィールド)と呼ばれ、この体を知る者は、地表を知る者と呼ばれます。”」(BG13.2)

第2段落

至高の人格神クリシュナは、クシェトラとクシェトラジナに関する知識をアルジュナに教えておられます。クシェトラは地表、すなわち体を指し、クシェトラジナは地表を知る者、すなわち個々の魂を指します。もし土地が耕されるなら、耕す人がいなくてはなりません。そして、もしも地表に例えられるこの体が耕されるなら、それを耕すことのできる所有者がいなくてはなりません。今、私たちはこの物質的な体を持っており、それを正しく耕すことは私たちの義務です。その耕作はアカルマ、すなわち仕事と呼ばれます。ある人は私たちの土地へクワを持って耕しに来るかもしれません。あるいは、単にコーヒーやお茶を飲みにくるだけかもしれません。私たちは、耕し、そして私たちの望みに添った感覚の満足の対象を得るために、この特定の体を与えられました。この体は神からの贈り物です。神はとても親切です。そして、もしも誰かが主から何かを欲しがれば、それをお与えになります。「いいでしょう」と主はおっしゃいます。「これを受け取りなさい。」主と私たちとの関係は、ちょうど父と息子のようなものです。息子は父に何かをくれとせがむかもしれません。そして父は、彼が欲しがっているものは彼のためにはならない、と説得しようとするかもしれません。「愛しい息子よ、これに触ってはいけません。これはあなたにとって良いものではありません。」しかし、もし少年がどうしてもと言うなら、父は持たせてあげるでしょう。愛情深い父は、息子に彼が欲しがるものを与えるのです。同様に、至高の父は御自分の息子や娘たちに彼らが望むものを与えます。バガヴァッド・ギーターには、すべての種のすべての生命は主の子供たちであると述べられています。

(サンスクリット引用)

「すべての種の生命は、おお、クンティーの息子よ、この物質自然の中に宿りました。(made
possible by birth)そして私が生命を与えた父です。」(BG14.4)

第3段落

この物質世界では、母、すなわちプラクリティ、物質自然が私たちに体を供給し、至高の父がこの物質を生きた魂で孕ませます。人間だけが魂を持っていて他の生命体は持たないという誤った理論がありますが、私たちはヴェーダの権威から、草や木を含む八百万以上の種類の体があり、それらがすべて魂を持っていることを理解します。魂がなければ発達して育つことができないからです。この節において、シュリー・クリシュナは、この物質世界でまとう形のいかんに関わらず、すべての生命体は御自分の息子たちであり、彼らは息子が父と関係があるように御自分と関係がある、と主張なさいます。

第4段落

このクリシュナ意識は、特に魂の位置づけと神との関係を理解するためにあります。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタの末裔よ、私がまたすべての体における知る者であり、この体とその持ち主を理解することは知識と呼ばれることを、あなたは理解すべきです。それが私の意見です。」(BG13.3)

第5段落

もしも私たちがこの体について瞑想して、私たちが本当にこの体であるかどうかを調べるなら、私たちは自分はクシェトラジナ、すなわち体を知る者であって、体ではない、という結論に達するでしょう。もし私たちが自分の指を調べ、自分が指であるかどうかと考えるなら、私たちは自分は指でもなく他のどの部位でもなく、逆に指や腕や脚や頭などは「私たちの」指、腕、脚、頭などであるという結論にたどり着くでしょう。このようにして、私たちは自分がこの体ではなく体が自分に属しているのだという結論を導き出せます。したがって、私たちは「これは私の体です」といいます。不幸にして、この現代文明に生きる人々は、自分が何であるか、あるいは誰であるかを立ち止まって問いません。彼らは単に「自分はこの体である」という印象の下で、一日中、工場や事務所で一生懸命働いています。そして、もし私たちが人々に彼らは誰であるかと尋ねると、彼らは「私はヒンズー教徒です、イスラム教徒です、スウェーデン人です、アメリカ人です、キリスト教徒です」等々と答えます。これらは体のさまざまな認識、あるいは識別の違いですが、事実は、私たちはこの体ではないのです。体は単に私たちの活動の地表に過ぎません。土地を耕す人が土地ではないように、私たちも体ではないのです。 

第6段落

異なる種類の体が存在し、それぞれに応じて異なる活動が存在します。犬はある種の活動を楽しみ、猫は他の活動を楽しみ、そして人間はまた別の活動を楽しみます。体の違いに応じて異なる活動があります。しかし、私たちが真実の水準に至るときは、そして自分はこの体ではないと理解するときは、そのときは私たちの活動は物質的な活動から霊的な活動へと変化します。私たちが自分は体だと思って暮らしている限り、私たちの活動は物質的です。しかし、「私はこの体には属さない。アハム・ブラーマースミ、私は霊魂だ」と理解した途端に、私たちの活動はその認識に添ったものになるでしょう。つまり、それらの活動は、物質的な、あるいは体に基づく水準によって触発されないようになります。体から離れた自分の正しい自己認識を知ることは、本当の知識です。しかし、この知識は私たちが体に基づく自己認識に執着する限りは否定されます。

第7段落

聖典には、私たちが自分を体だと思って生きている限り私たちのすべての行いは敗退する、と書いてあります。子供は無明の中に生まれます。そしてもしも彼が成長しても自分は体だと思ったままでいれば、彼は闇の中で生きます。彼の位置づけはスードラのそれです。ヴェーダ文献によって、今の時代には誰もがスードラとして生まれるということを私たちは知ります。したがって、誰もが自分の本当の自己について教育される必要があります。しかし、もしも私たちが自分の父と母による誕生に満足していれば、私たちはスードラのままでいるでしょう。私たちは清めの過程を辿ってブラーマンの(brahminical)水準に上がらねばなりません。


第8段落

前述のように、不純な生活には四つの基本的な特徴があります。不正な性生活、陶酔物を摂取すること、肉食すること、および賭け事をすることです。ヴェーダの原則によれば、結婚関係の外で性交にふけるべきではありません。したがって、人間の社会には私たちを犬や猫から区別する結婚の制度があります。私たちがヒンズー教徒であれ、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、私たちは結婚の制度を認めます。この制度の目的は不正な性交を避けることです。ヴェーダの制度によれば、陶酔物もまた、薦められません。肉食も良しとされません。人間は非暴力的であるべきだからです。私たちには十分な穀物と果物と牛乳と野菜が与えられており、かわいそうな動物を殺す必要はありません。肉を食べなければ栄養が足りないという人たちもいます。しかし、このクリシュナ意識運動の生徒たちは肉食を止めて大変健康ですが、肉を食べている人々は肉を食べているにも関わらず、いろいろな病気にかかったり不健康な状態になったりしています。賭け事もまた、薦められません。単に心を乱すだけだからです。

第9段落

つまり、これが人がブラーマナになるための浄化過程なのです。この道は誰にでも開かれています。ブラーマナは正直で純粋であり、忍耐強く、質素で、知識と神への信仰に満ちた者です。その人は自分の心と感覚を統御することもできます。現在では、ブラーマナが切迫して必要とされています。ほとんどすべての人がスードラだからです。ほとんどすべての人が、体を維持することと食べることと眠ることと性交することと身を守ること、それだけに気持ちを完全に向けています。これらはすべて動物とスードラの特徴です。

第10段落

互いに調和して機能している四つの区分がなければ、人間の社会は平和ではあり得ません。これらの四つの区分とは、ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、スードラです。これらについて、クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中で次のように述べておられます。

(サンスクリット引用)

物質自然の三つの相と、それらにあてがわれた仕事に合わせて、私は人間社会の四つの区分を作りました。そして、私はこの制度を創った者ではありますが、私は変化しないので、行為者ではありません。あなたはこのことを知るべきです。」(BG4.13)

第11段落

人間社会のこれらの四つの区分は、人工的ではなく自然なものです。物質世界ではすべてが物質自然の三つの相ーーー徳、熱情、無明ーーーの影響のもとで機能しているからです。私たちが物質世界にいる限り、すべての人を同じ枠の中に振り入れることは不可能です。皆それぞれに物質自然の相の影響のもとで動いているからです。しかし、私たちが物質の水準を超越するとき、そこには一体性があります。そのときはすべての区別が崩壊します。したがって、問うべきは「いかにして物質自然の相を超越するか」ということであり、その超越こそがクリシュナ意識のプロセスそのものなのです。クリシュナ意識に至ると、私たちは直ちに物質自然の相を超越します。

(サンスクリット引用)

「どのような状況にあっても堕落しないで完全に献身奉仕に身を捧げる者は、直ちに物質自然の相を超越し、そうしてブラーマンの水準に至ります。」(BG14.26)

第12段落

このように、クリシュナ意識の活動にいそしむ者は直ちに超越的な位置に上げられます。本質的に、私たちはは物質ではなくブラーマン(アハム・ブラーマースミ)です。サンカラーチャーリャの哲学は、主に「私たちは自分がこの物質自然の産物であると考えるべきではない」という原則に基づいています。何らかの不幸な出来事によって、私たちは物質自然と関わることになったのです。本当は私たちの性質はブラーマンのそれであり、その性質が呼び覚まされなければなりません。この物質的な人生は病的な状態です。ブラーマンにあるとき、私たちは健康です。その健康的なブラーマンの状態は、私たちが100%クリシュナ意識になれば直ちに得られます。

第13段落

クリシュナに奉仕をすることで物質自然を超越するとき、私たちの位置づけはどうなるでしょうか。私たちはゼロになるのでしょうか。いくつかの哲学は、物質生命から解放された後、すなわちこの物質的な体のニルヴァーナの後、私たちはゼロ、無になると主張します。これは危険な理論です。本質的に生命体は無にはひきつけられません。病気があって様々な症状に苦しんでいても、もし医者が来て「殺して苦しみを終わらせてあげましょう」と言えば、私たちは直ちに「いいえ、いいえ!病気で苦しむほうがマシです」と言います。私たちは、単に苦しみを終わらせるために殺されたくはありません。このように、物質の生命の後には無があるという理論は、まったく魅力的ではありません。事実でもありません。私たちはサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハ、永遠で喜びに満ちて知識に溢れていて、至高存在の欠かすべからざる小片です。至高主はサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハであり、私たちは質的には主と同一です。一滴の海水は、とても小さいとはいえ、海と同じ塩辛さをもっています。そして私たちは霊的な原子に過ぎませんが、至高の霊的全体と同じ性質を持っているのです。

無であるということは有り得ません。生命体として、私たちの霊的な性質はすべて無限の多様性の中に存在するからです。しかし、もしも物質存在に於ける苛立ち(フラストレーション)から自殺をすれば、私たちは(それで)自分の悲惨さを終わらせはしません。私たちは単に他の悲惨さを作り出します。もし人が自殺を試みて失敗すれば、あるいは何らかの方法で蘇生されれば、その人は法律によって罰せる対象となります。同様に、自然の法則は自殺を犯罪行為と見なします。私たちは本当の永遠なる喜びに満ちた人生を発見した後にだけ、この物質的な人生を終えることになっているのです。私たちは、単にフラストレーションからこの人生の悲惨さを終わらせようとするべきではありません。そうではなく、私たちは自分を霊的な人生に上昇させる活動にいそしむべきです。

第14段落

人間社会の四つの区分は、この上昇の過程を容易にするためにシュリー・クリシュナによって作られました。学生が初級クラスから上級クラスに上げられるように、労働(チャートゥル・ヴァルニャム)の区分は私たちを一番下の意識の水準からクリシュナ意識の一番上の水準まで引き上げるように作られています。この過程は協調の過程です。人間の体において、最も大切な部分は頭です。そして、腕、胴体、脚があります。頭が最も大切とはいえ、脚や他の部分をおろそかにすることはできません。同様に、人間社会の区分においても、どの一つの部分も他の部分を必要としないほど重要ではありません。これらの区分のうち、ブラーマナは学識のある階級、教師の階級と考えられます。クシャトリヤは管理と軍務の階級です。ヴァイシャは商業と農業の階級です。そしてスードラは一般労働者の階級です。正しく運営される社会には、これらすべての階級が必要とされます。もしも彼らがクリシュナ意識への進歩において協力すれば、彼らの中に葛藤はありません。

第15段落

現在の社会の状況では、私たちはこれらの四つの階層の中に存在していますが、協調がありません。誰もが不満を抱えています。今日では、資本家階級と労働者階級の間にひどい反目があります。両者のあいだに妥協がないからです。摩擦しかありません。階層内に於けるこれらすべての反目は、クリシュナ意識の欠落が原因です。実に、クリシュナ意識がなければ協調の可能性さえありません。クリシュナ意識は、人間社会のすべての側面(構成員)を調和させるために絶対必要なのです。私たちがどの階層に属していようと、もしも私たちがクリシュナ意識で協調すれば世界に平和があるでしょう。

第16段落

このように、クリシュナ意識は社会のすべての階層にとって最も必要なものです。バガヴァッド・ギーターのすべての章とすべての結論はクリシュナ意識を指しています。バガヴァッド・ギーターを語っておられるシュリー・クリシュナは、いつも五字分の人格的な存在への献身を強調なさいます。

(サンスクリット引用)

「いつも私のことを考え、私の献身者になりなさい。私を崇拝し、私に従いなさい(臣従の礼を捧げなさい)。そうすればあなたは間違いなく私のところに来るでしょう。私はあなたにこのことを約束します。あなたは私のとても愛しい友だからです。」(BG18.65)

第17段落

バガヴァッド・ギーター全体を通して、マームという語が強調されています。マームは「私に」、すなわちクリシュナに、ということを意味します。しかし、このマームを「皆」を意味すると解釈する不信心者がたくさんいます。私が「私に一杯の水を持ってきてください」と言うとき、それは私があなたにすべての人のところに一杯の水を持って行って欲しいのだということを意味するでしょうか。独立性は存在しますが、彼らは言葉を曲解することによって「私」を「皆」と解釈します。結果として、クリシュナが「私」と言うとき、不信心者はこの「私」を自分自身と見なします。これは甚だしい誤解釈です。バガヴァッド・ギーターは世界中で非常に人気がありますが、世俗の学者たちによるこの誤解釈によって、それは正しく理解されていません。

第18段落

バガヴァッド・ギーターは、このチャートゥル・ヴァルニャムの制度はクリシュナによって確立されたけれど、クリシュナご自身はこの制度の外にある、と明確に説明しています。化身としておいでになるとき、クリシュナはブラーマナや他のどの階層にも属することなくいらっしゃいます。クリシュナがいらっしゃったとき、主はデヴァキーとヴァスデヴァの息子としておいでになりました。ヴァスデヴァは王族に属していたので、したがってクシャトリヤでした。そのためクリシュナはクシャトリヤの役割を演じられましたが、これはクリシュナがクシャトリヤの階層に属していらしたということを意味するのではありません。クリシュナの化身は様々な生命の形をとったものが存在します。ある化身においては、主は魚として、魚の共同体の一員としてお現れになりました。しかし、これは主が魚であることを意味するのではありません。もし私たちが魚を見て、それがクリシュナの家族に属すると考えるなら、私たちは間違っています。

もちろん、他の見方をすれば、すべてはクリシュナです。しかし、クリシュナはすべてから離れていらっしゃいます。これがクリシュナの超越的な性質であり、もしも私たちがそれを理解するなら、私たちは生と死から解放されるでしょう。クリシュナは人間社会の四つの階層を設立なさいましたが、主はそのどれにも属されません。(サンスクリット引用)クリシュナはクシャトリヤの家族にお生まれになったけれど、クシャトリヤではいらっしゃらない、ということを理解すれば、私たちは本当に解放されるでしょう。もしも私たちが、クリシュナがある特定の方法で行動なさるのでーーー例えば、戦場でアルジュナに戦うように諭されたようにーーー主はその行動の反応に縛られると思うなら、私たちは間違っています。

「仕事は私を汚さない」とシュリー・クリシュナはおっしゃいます。(サンスクリット引用)結論として、私たちは、クリシュナが私たちの一員としておいでになるとき、主は実際には「私たちの一人」ではないという事実を受け入れなければなりません。主は超越的でいらっしゃるのです。この事実を私たちは、バガヴァッド・ギーターや完全にクリシュナ意識に覚醒した霊的指導者などの権威ある源から従順に探究する(submissive inquiry、知識を求めて謙虚に問うこと)ことによって学ばねばなりません。

第19段落

今日では、人間社会のすべての側面(構成員)が、自分たちの利益はこの体を維持することにあると考えています。結果的に、今日の社会は単に猫や犬や豚の社会です。ヴェーダ文献から、単にこの体を維持するためだけに一日中一生懸命働く必要はない、ということを私たちは理解することができます。私たちは感覚を満足させるという目的のために物質自然を統御しようとして非常に熱心に働いています。クリシュナがすべてのものの根源であると理解できる者は、クリシュナが至高の統御者である(イシュヴァラー・パラマー・クリシュナー)の意味を理解することができます。宇宙には多くのイシュヴァラ、統御者がいますが、クリシュナがそれらすべての中の至高の統御者です。クリシュナ意識は、私たちにこの知識を与えます。それなくしては、私たちは自分の本当の利益を知らないままでいることになります。

第20段落

現代の社会は、世界中に本当の霊的な知識を述べ伝えることのできる学識ある人々、すなわちブラーマナを切迫して必要としています。それは単に自然を侵略するためだけに懸命に働いている社会にとって、絶対的に必要なものです。もしも人々が持てる限りの知識と判断力をもってこのクリシュナ意識運動を科学的かつ哲学的に理解しようとするなら、そして協力しようとするなら、世界中に平和がもたらされるでしょう。私たちは単にハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。と唱え、前述の規制的な原則に従うだけでいいのです。規制的な原則に従うことによって、私たちは罪深い生活の四つの大きな柱を避けられます。ハレ・クリシュナ・マントラを唱えることで、私たちは常に神と関わることができます。そうすれば、すべての階層の人々のあいだに平和があるでしょう。 

第4章 ありのままのクリシュナを知る

第1段落

至高の人格神に祈りを捧げるには、高度な資格は何ら必要ありません。私たちの社会的な地位や学識の高さがどうであれ、祈りを捧げることができます。高い教養があったり、学識があったりする必要はありません。詩的だったり修辞学的だったり、比喩的だったりする、注意深く選ばれた素敵な言葉で祈りを飾る必要もありません。このようなものがあれば、それは素晴らしいことですが、必要ではありません。私たちは単に自分の気持ちを表せばよいのです。しかし、そうすることができるようにするには、私たちは自分の位置づけに気付いていなければなりません。いったん自分の位置づけに気付くと、私たちの気持ちは誠実に、かつ自動的に表されるようになります。

第2段落

私たちの位置づけとは何でしょうか。これは主チャイタンニャによって教えられました。主はご自分の祈りの中で、どうやって祈るかを私たちに教えていらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、万能なる父よ。私は富を貯えたいとも、美しい女性を楽しみたいとも、弟子が欲しいとも思いません。私が望む唯一のものは、何度生まれ変わってもあなたへの献身奉仕をさせていただきたい、ということです。」(スィクシャーシュタカム、4)

第3段落

この祈りにおいて、ジャガディーサという語は「宇宙の主」を意味します。ジャガッドは宇宙を意味し、イーサは主を意味します。私たちがヒンズー教徒であれイスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ何であれ、私たちはこの宇宙の志向の統御者が存在することを認めねばなりません。これは神への信仰がある者は誰も否定することができません。私たちの信念は、私たちの至高の父はジャガディーサ、すなわち宇宙全体の主である、ということであるべきです。主ジャガディーサだけが統御なさいます。他の者はすべて統御されます。しかし、無神論者はこの関係を好みません。彼らは自分たちが統御していると考えたいからです。しかし、本当はそうではありません。物質世界の中のすべての者は、物質自然の三つの相ーーー徳、熱情、無明ーーーに影響されます。しかし、至高主はこれらの相の上におられます。

(サンスクリット引用)

「三つの相(徳、熱情、無明)に惑わされて、世界全体がそれらの上にあって尽きることのない私を知りません。」(BG7.13)

第4段落

ブラーマ・サムヒターもまた、至高存在ジャガディサについて私たちに情報を与えています。それにおいて、主ブラーマーは至高の統御者は主クリシュナご自身であるとおっしゃいます。(イースヴァラー・パラマー・クリシュナー)イースヴァラーという語は統御者を意味し、パラマーは至高を意味します。私たちは皆、ある限られた範囲における統御者です。もしも何も統御する対象がなければ、時として私たちは犬や猫を飼い、「かわいい犬よ、ここにおいで」と言います。このようにして私たちは「私は統御者だ」と考えることがえきます。しかし、時として立場が逆転します。犬が主人を統御するのです。これは実際には誰も統御者ではなく、皆が統御されているからです。不幸にして、私たちはこの状況を忘れがちです。そして、この忘却がマーヤーと呼ばれます。私たちは、この宇宙を統御する者を受け入れるのを拒否します。なぜなら、もし私たちが統御者を受け入れるなら、ちょうど政府を受け入れたときに違法行為の責任を負わねばならないように、私たちは自分の罪深い行いの責任を負わねばならないからです。

私たちの立場は、自分の罪深い行いを続けたいというものです。そのため、私たちは統御者の存在を否定します。これが無神論(godlessness)の基本原則です。現在は「神は死んだ」という宣伝が広まっていますが、これは人々が制約なく悪人でいつづけたいからです。これが神の存在を否定することの底にある基本的な理念です。しかし、私たちがどれだけ主の存在を否定しようとも、神は死にません。

このことについて、ベンガル語の諺があります。「サクニ・サーペ・ゴルマラナ。」サクニという語はハゲタカを意味します。ハゲタカは動物の死体、特に牛の死体を好みます。時として、ハゲタカが何日も死体にありつけないかもしれません。したがって、この諺は「ハゲタカは牛が死ぬようにと呪いをかける。」と語っています。しかしこれは、牛は単にハゲタカを喜ばせるために死ぬ、ということを意味するのではありません。同様に、無神論者のハゲタカたちは、自分たちが「さあ、神は死んだ。これで何でも好きなことができる」と考えて喜ぶことができるように、神に死んで欲しいのです。

第5段落

それでは私たちは、統御者が存在するということをしっかりと知らねばなりません。それが知識の始まりです。なぜ私たちはこの真実を否定すべきでしょうか。すべての活動の場において、私たちは何らかの限られた統御者がいるのを見ます。それでは、どうして私たちはこの創造における無限の統御者の存在を否定できるでしょうか。したがって、主チャイタンニャ・マハープラブが特にこのジャガディーサ、宇宙の主という言葉をお使いになるのは、理由のないことではないのです。主はこの用語を作り上げられたのではありません。多くの異なるヴェーダのマントラの中にそれは見受けられるからです。例えば;

(サンスクリット引用)

「おお、わが主よ、あなたの手はとても美しく、ハスのようです。しかし、その長い爪であなたは毒蜂(悪魔のような者、という比喩。wasp)ヒラニャカスィプを引き裂かれました。宇宙の主よ、私はあなたに謹んで服従します。」

第6段落

ヒラニャカスィプは神の存在を否定した無神論者でしたが、神は半分が人で半分がライオンの化身、主ヌリスィムハデヴァとしておいでになり、彼を殺しました。したがって、主は宇宙とすべての生命体の統御者として称えられます。(ジャヤ・ジャガディーサ・ハレ)

第7段落

もう一つ、別の祈りがあります。(サンスクリット引用)「おお、宇宙の主よ、どうぞ私にお姿を見せてください。」これらすべての祈りにおいて、そして他の多くの祈りにおいて、宇宙の至高の統御者が認められています。皆が至高の統御者になろうとしていますが、それは個々の、共同体の、あるいは国家単位の努力では不可能です。皆が至高の存在になろうとしているので、世界には大いなる競争があります。しかし、世界は誰も至高にはなれないように創られています。どのような位置につこうとも、私たちは自分の下にも誰かがいて、自分の上にも誰かがいることに気がつくでしょう。どの個人も「私は至高だ。私の上に立つ者はない」とは言えません。また、誰も「私は最低だ。私より下にいる者はない」とも言えません。自分が一番低いと思ったとたんに、私たちは自分よりもっと低い者がいることに気がつくでしょう。そして、自分が至高だと思ったとたんに、私たちは自分より上の者がいることに気がつくでしょう。これが私たちの位置づけです。

第8段落

しかし、神の位置づけはこのようなものではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは自ら御自分の優位性について次のように確認しておられます。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ。私に優る真実はありません。すべてが私に依り従います。真珠が糸に繋がっているように。」(BG7.7)

第9段落

神はアサマウルダー、すなわち、主と同等の者や主に優る者は存在しません。もしも私たちが上に立つ者のない者を見つけるなら、私たちはその者を神として受け入れることができます。神は、上に立つ者がなく同等である者もない存在である、と定義できます。これがヴェーダの見方です。ウパニシャッドには(サンスクリット引用)、主に同等の者や主に優るものは見つけられない、と書いてあります。

第10段落

神のもう一つの性質は、何もすることがない、というものです。物質的な世界では、ある人が非常に重要な人物であると見なされる場合、その人はいつもすることが山ほどあります。たとえば、合衆国の大統領は国家で最高の人物だと考えられています。しかし、中央ヨーロッパや世界の他のどこかで何か騒動が起これば、彼は直ちに閣僚を集めて、その状況にどう対処すべきかと会議を開かねばなりません。つまり、彼でさえ多くのことをしなければならないのです。もしも彼が何もしなければ、彼はもはや至高の人物ではありません。しかしヴェーダ文献から私たちは神には何もすることがないということを知ります。(サンスクリット引用)クリシュナは世界でいろいろな行動をなさるかもしれませんが、それは主がそうすることを強いられているからではありません。これはバガヴァッド・ギーターに示されています。

(サンスクリット引用)

「おお、プルサーの息子よ。三つの天体系のどこにも私にあてがわれた仕事はありません。私には何も欲しいものはなく、何かを得る必要もありません。それでも私は仕事をします。」(BG3.22)

第11段落

このことに関して、おもしろい話があります。あるヨーロッパ人の紳士がカルカッタに行って、いくつかの寺院を訪ねました。女神カーリーの寺院では、神像が手に刀を持って悪魔たちの頭を切り落とし、それを首飾りにしているという恐ろしい姿をしているのを見ました。他の寺院でも、彼は神像が同様な活動をしているのを見ました。しかし、ラーダー・クリシュナ寺院に来たとき、彼は「この寺院には神様がいらっしゃいますね」と言いました。なぜそういう結論を出したのかと尋ねられたとき、彼はこう言いました。「どの寺院でも、神像は何かをしていました。しかし、ここでは神は単に楽しく笛を吹いておられます。明らかに主には何もすることがないのです。」これは実に知的な結論です。それはヴェーダの結論です。

第12段落

昨今は、瞑想によって神になりつつある、と主張するのがはやっています。これは、瞑想によって人が自分を神に変えることが可能であるということを意味します。言い換えると、神は瞑想をなさり、主は瞑想して神におなりになるのです。これは全く意味をなさないことです。神は神であり、主はいつも神であられたし、いつも神でいらっしゃるでしょう。幼児として母親のひざの上におられたときも、クリシュナは神です。瞑想も苦行も禁欲も必要とされません。魔女プータナーが赤ん坊のクリシュナに毒を盛りに来たとき、彼女は美しい若い娘としてやってきて、主の母ヤソダーに「おお、ヤソダーマイー。あなたの赤ちゃんはとても愛らしいですね。どうぞ私に赤ちゃんを抱いて乳を与えさせてください」と頼みました。ヤソダーはとても素朴な村の女だったので、「どうぞ。抱いて乳を与えてください」と言いました。プータナーは乳房に毒を塗っていました。クリシュナに乳を含ませて殺そうとしていたのです。これは悪魔的な精神です。悪魔たちは、「神は死んだ。神はいない。神は非人格だ」と言えるように、いつもクリシュナを殺そうとしています。

クリシュナはプータナーに大変親切でいらしたので、彼女が乳を与えることを湯rしました。しかし、彼女の乳房を含んだとき、主は毒だけでなく彼女の命をも飲み込まれました。プータナーは死んで地に倒れ、直ちに本来の悪魔的な姿に変わりました。つまり、これが神なのです。母の膝の上にあって、主は神でいらっしゃいます。主は瞑想や苦行や禁欲や規律や規制に従うことで神になる必要はありません。主は本質的に(substantially、実質的に、大いに)、かつ永遠に神であり、主は何もすることがありません。もしも誰かががあれやこれやの神像を崇拝したり瞑想したりして神になれると主張するなら、私たちは直ちにその人は神(GOD)ではなく犬(DOG)であると理解するべきです。神を理解するうえで、私たちはヴェーダの結論だけを受け入れるように注意を払わなければなりません。(サンスクリット引用)「主には何もすることがない。」なぜ神が神になるために何かをしなければならないでしょう。もしも私たちが金を作り出すなら、それは人工的な金です。本物の金ではありません。金は自然なものであり、同様に神も自然なものです。子供時代の娯楽において、母の膝の上で、主は神であられます。友人の男の子たちと遊んでいらっしゃるとき、主は神でいらっしゃいます。踊っておいでになるとき、主は神でおられます。クルクセトラで戦われているとき、主は神でおわします。妃たちと結婚なさったとき、主は神でおいでになります。そして、お話しになっているとき、主は神です。神を理解するのに難しいことはありません。私たちがしなければならないのは、クリシュナのおっしゃることに耳を傾けることだけです。

第13段落

バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはアルジュナにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私はすべてのものの源です。私から創造全体が流れ出ます。これを知り、賢い者は心のすべてをもって私を崇拝します。」(BG10.8)

第14段落

これは、シュリー・クリシュナが主シヴァの源泉であって、ヴィシュヌとブラーマーと、もちろん他の半神たちと他の生物たちの源であるということを意味します。主はさらにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「この制約された世界にいる生命体は私の微細な一部であり、彼らは永遠です。しかし、制約された生活のために彼らは心を含む六つの感覚に大変な苦労をしています。」(BG15.7)

第15段落

ブラーマ・サムヒターの中で、主ブラーマーは、もしも私たちが主を探しているなら、ここに神がおいでになる、と説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主はシャーマスンダラ、クリシュナご自身であり、計り知れない無数の特質をお持ちです。純粋な献身者は、愛の膏薬を塗られた献身の目で、心の奥底に主を見ます。」(Bs 5.38)

第16段落

ヴェーダ文献の中には、あちこちに同様の描写があります。しかし、クリシュナが至高神であることは12人の基準となるアーチャーリャたち(ブラーマー、ナーラダ、シヴァ、ビーシュマ、クマーラたち、カピラ、マヌなど)およびヴャーサ、デヴァラその他多くの献身者たちによって確認されているにも関わらず、悪人たちや悪魔たちはとても頑固なので、主を受け入れることを拒否します。主チャイタンニャ・マハープラブもまた、クリシュナが至高神であると確認しています。また、シュリマッド・バーガヴァタムには神のすべての化身が列記されており、最後には、この表に現れるクリシュナという名前が至高の人格神を指しており、他のすべての名前は顕現あるいは化身を表すのである、と結論づけられています。(サンスクリット引用)他のすべての神の名前は、神の一部であるか、一部のさらにその一部です。部分はアムサと呼ばれ、部分の部分はカラーと夜bれます。生命体として、私たちはアムサです。しかし、私たちはとても微細なアムサです。他のすべてはアムサかカラーですが、クリシュナはバーガヴァーン・スヴァヤム、至高の人格神です。

第17段落

私たちの祈りは、他の誰でもなく、至高の人格神に向けられるべきです。したがって、私たちはブラーマーと共に祈ります。

(サンスクリット引用)

「私は太古の主ゴヴィンダ、最初の先祖を崇拝します。主は牛の世話をなさっており、すべての望みを叶え、霊的な宝石で建てられたお住まいにおいて、無数の「望みを叶える木」に囲まれ、いつも大いなる崇敬と愛情をもって何百人何千人ものラクシュミー、あるいはゴピーたちが仕えています。」(Bs5.29)

第18段落

ここでクリシュナは最初の人格(アーディスルシャム)と呼ばれています。私たちは皆、人格(person)です。私たちの父は人格でした。ですから私たちも人格です。もしも私たちが自分の父の父へと遡れば、その人もまた人格であったことが分かります。そして、その人の父もまた人格であり、このようにして、この宇宙で初めて作られた人格である主ブラーマーに至るまで、皆が人格であったことが分かります。さらに、私たちは主ブラーマーの父ヴィシュヌもまた人格であることを知ります。皆が人格であり、クリシュナは至高の人格です。 

非人格主義者の理解する神はニラーカーと呼ばれます。ニーは「否定」を意味し、アーカーは「形」を意味します。つまり、ニラーカーは「否定的な形」(negative form)を意味します。非人格主義者たちが神は何の形も持たないと考えるとき、彼らは間違っています。ニラーカーという語は、主には形がないということを指しているのではありません。そうではなく、主には私たちのような物質的な形がないということを指しているのです。形はありますが、物質的ではなく、霊的な形なのです。

第19段落

私たちの形の価値は何でしょうか。この形は、私たちが体を捨てた途端に、2~3年もすると変わります。私たちの体は、ちょうど私たちが衣類(suits and dresses)を替えるように変わります。しかし、神はこのような形をお持ちではありません。したがって、主は時としてニラーカーと呼ばれます。形はあり、それもまたブラーマ・サムヒターに説明されています。主ブラーマーは、主の形を次のように描写なさいます。

(サンスクリット引用)

「私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主は笛を吹くことに熟達しておられ、蓮の花びらのような若々しく美しい目をしておいでになり、頭は孔雀の羽根で飾り立てられ、青い雲の色に薄く染まった美しいお姿をしていらっしゃり、主の独特の愛らしさは無数のキューピッドを魅了します。私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主の超越的な形は喜びと真実と実在性に満ち、そして最も輝かしい素晴らしさに満ちています。その超越的なお姿の一つ一つの手足(limb, この場合は「体の部位」という意味が近い)が、それご自身の中にすべての内臓の十分に発達した機能を持ち、永遠に霊的および俗世の無限の宇宙を見て、維持し、顕現しておられます。(Bs5.30,32)

第20段落

この体は物質的な形とは全く関係がありません。非人格主義者たちは、次のように言います。「おお、あなたはクリシュナには形があると言います。もしそうなら、なぜあなたは主が至高存在であると言えるのですか。非人格のブラーマンが至高存在です。そして非人格のブラーマンには形がありません。」しかし、私たちはバガヴァッド・ギーターから、クリシュナが非人格のブラーマンの源であることを知っています。

(サンスクリット引用)

「そして私は非人格のブラーマンの源です。それは滅びず、永遠で、最高の幸せの本来的な立場です。」(BG14.27)

第21段落

クリシュナは確かに形をお持ちですが、しかし主の形は前述のようにサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハ、すなわち永遠で、喜びに満ちて、知識に満ちています。主の超越的な体の特質は、主ブラーマーによって次のようにまとめられてます。

(サンスクリット引用)

「ゴヴィンダとして知られるクリシュナは至高神です。主は永遠にして喜びに満ちた霊的な体をお持ちです。主はすべての源です。主には他の源は何もなく、すべての原因の最高の原因です。」(Bs5.1)

第22段落

ゴヴィンダという語は「感覚に喜びを与える者」を意味します。したがって、喜びの貯蔵庫であるクリシュナはゴヴィンダと呼ばれます。もしも私たちが浄化された感覚でクリシュナに奉仕するなら、私たちはその至高の貯蔵庫の喜びを味わい始めるでしょう。

第23段落

私たちはどうやって神を描写したり主の栄光を理解したりできるでしょうか。それは不可能です。神は無限です。しかし、私たちは自分の有限な限界にも関わらず、自分の感情を表して「私の神よ、私の主よ」と言うことができます。これは受け入れられます。主チャイタンニャ。マハープラブは、私たちに次のように祈ることをお教えになります。

(サンスクリット引用)

「おお、マハーラージャ・ナンダの息子よ。私はあなたの永遠の従者です。しかし、それにも関わらず私は生と死の海に落ちてしまいました。ですから、どうか私をこの死の海から救い出し、あなたの蓮の御足の足元に原子の一つとして置いてください。」(スィクサースタカム4.5) 

第24段落

これが祈りの基準であるべきです。私たちは、ただ単にクリシュナの蓮の御足のもとに原子の一つとして置いてもらって主に奉仕ができることを望むべきです。皆が何らかの利益を求めて神に祈っています。たとえ私たちが「お金をください。助けてください。いい家を、いい妻を、いい食べ物をください」と祈っても、それも良いことです。しかし、それは主チャイタンニャ・マハープラブの祈りの基準ではありません。私たちの唯一の祈りは、主が私たちに何度生まれ川っても奉仕をさせてくださることです。私たちの祈りは、次のようであるべきです。「親愛なる主よ。あなたはとても偉大でいらっしゃるので、私はあなたにお仕えしたいと望みます。私はずっと多くの悪人たちに仕えてきましたが、満足していません。今、私はあなたのところに来ました。どうぞ私に奉仕をさせてください。」これが祈りの最後の言葉です。一部の人々は、神に祈るときに主の存在を感じないと不満を言います。私たちは、これは自分の能力のなさが原因であって、主のせいではないことを知るべきです。

存在の形には二つあります。物理的な形と振動の形です。物理的な形は一時的ですが、振動の形は永遠です。私たちがバガヴァッド・ギーターの中のクリシュナの教えの振動を味わうとき、あるいはハレ・クリシュナを’唱えるとき、これらの振動によって主は直ちに存在なさるということを私たちは知るべきです。主は絶対であり、そのため主の振動は主の物理的な存在と全く同じく大切なのです。私たちがクリシュナ、あるいは霊的指導者から離れているのを感じるとき、私たちはただ、彼らの教えの言葉を思い出そうとするべきです。そうすれば、私たちはもはや離れているとは感じません。クリシュナや霊的指導者とのそのような関わりは、振動による関わりであるべきであり、物理的な存在によるべきではありません。それが本当の関わりです。私たちは見ることに大変な重きを置きますが、クリシュナがこの地上においでになったとき、非常に多くの人が主を見ても主が神であると気がつきませんでした。それでは、見ることの利点は何でしょうか。クリシュナを見ても、私たちは主を理解できません。しかし、主の教えを注意深く聞くことによって、私たちは理解の水準に至ることができます。私たちは、音の振動によって直ちにクリシュナに触れることができます。したがって、私たちはクリシュナと霊的指導者の音の振動にもっと重きを置くべきです。そうすれば私たちは幸せに感じ、離れていると感じないでしょう。

第25段落

シュリマッド・バーガヴァタムから、私たちは、クリシュナがこの世界を去っていかれたときにアルジュナがひどく悲しんだけれど、バガヴァッド・ギーターの教えを思い出し始めたら慰められた、ということを理解します。アルジュナはずっとクリシュナの友人でした。ですから、クリシュナが御自分のお住まいにお帰りになったとき、アルジュナは非常に悲しみました。しかし、単に主の教えを思い出しただけで、彼は離別の痛みから救われました。このように、私たちが離別を感じるときはいつでも、教えを思い出すのが一番です。バガヴァッド・ギーターの教えは、彼の幸せのために、そしてすべての人の幸せのためにアルジュナに述べ伝えられました。これはクリシュナによって10章の初めに示されています。

(サンスクリット引用)

「おお、強大なるアルジュナよ。もういちど私の至高の言葉を聞きなさい。私はこれをあなたの利益のために伝えます。それはあなたに大きな喜びをもたらすでしょう。」(BG10.1)

第26段落

主クリシュナの言葉を聞いてそれらに注意深く従うことにより、私たちは世界の平和を得るだけでなく、至高の平和(パラーム・サーンティム)をも得るでしょう。必要とされるのは、私たちがクリシュナの蓮の御足に救いを求め、主の栄光を唱えることと、このクリシュナ意識運動を世界中のすべての町と村に広めることによって主に奉仕することだけです。クリシュナは、そのような服従によって自動的にへ宇和と永遠の生命が得られると約束していらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタの末裔よ。主に全面的に服従しなさい。そうすれば、主の恵みによってあなたは超越的な平和と永遠の住処を持つことができます。」(BG18.62)

第5章 クリシュナのエネルギーを知る

第1段落

クリシュナにとっては、物質エネルギーと霊的なエネルギーの違いはありません。主にとっては全く同じです。時として、電気は冷やすという目的のために働き、別のときは暖めるという目的のために働きます。しかし、発電所で作られるエネルギーはどれも同じです。同様に、クリシュナのエネルギーはどれも霊的ですが、異なるふうに活動しています。町には福祉の部署と警察の部署があるかもしれません。政府にとっては、どちらも同じです。どちらも政府に従属する部分だからです。しかし、個人にとってはそれらは異なるサービスを提供します。物質エネルギーは生命体にとってはそれほど好ましくない方法で働いているかもしれませんが、それはクリシュナが物質エネルギーを好まれないということを意味するのではありません。霊的なエネルギーと同じくらい大切ですが、それは制約された魂を罰するために働いています。警察が犯罪者を罰するために働いているようなものです。ブラーマ・サムヒターにおいて、クリシュナのエネルギーはいつも霊的であるけれど、異なる活動の場において異なるふうに活動している、と確認されています。クリシュナによっては、エネルギー間の違いはありませんが、私たちは自分たちの理解のために区別をつけて、時々はエネルギーは物質的に働き、時々は霊的に働く、と言います。私たちは、エネルギーが熱いとか冷たいとか、良いとか悪いとか、心地よいとか心地よくないとか考えますが、事実はエネルギーは同じなのです。

第2段落

クリシュナは劣性ではないので、劣性のエネルギーを出すことはできません。主はいつも優性で霊的であり、したがって主のエネルギーはいつも霊的です。スバードラーはクリシュナの妹であり、彼女から物質エネルギーの人格体であるドゥルガーの化身が生じます。スバードラーは霊的世界にいて、主のエネルギーとして永遠にクリシュナと関係があります。しかし、ドゥルガーがこの物質世界で活動するとき、彼女が劣性であると考えられるわけではありません。バガヴァッド・ギーターにおいても、ブラーマ・サムヒターにおいても、ドゥルガーあるいはマーヤーはクリシュナの指揮のもとで行動している、と述べられています。それではどうして彼女は劣性だと考えられるでしょう。犯罪者たちは警察は政府の中の劣った部署だと考えるかもしれませんが、法に従う市民はそのようには考えません。それは単に特定のあり方で機能しているのです。同様に、物質エネルギーはクリシュナの指揮の下にある生命体を惑わせるように働かねばなりません。

第3段落

私たちは物質エネルギーの中の生命体であり、物質自然を支配したいと望んだので、この立場にあります。クリシュナは私たちに設備を与え、「いいでしょう、やってみるが良いでしょう。しかし、あなたたちは成功することはできません」とおっしゃいました。クリシュナの至高の指揮のもとで自然の法則がどのように働いているかを知らないでいる限り、私たちは自分の活動において敗北を繰り返すでしょう。私たちがクリシュナを完全に理解するとき、私たちは自動的に自然の法則を知り、それがどのように働いているかを知るでしょう。ヴァイシュナヴァは物質自然の法則の背景について考えます。私たちがクリシュナを完全に理解するとき、実際には劣性やエネルギーや物質エネルギーなどはなく、すべては霊的である、ということを私たちは理解するでしょう。高い次元においては、私たちの経験していることのすべては至高主の異なるエネルギーとその反応である、ということを、私たちは理解することができます。私たちがクリシュナを完璧に理解するとき、そのとき、優性と劣性というエネルギーの違いは消え去ります。クリシュナへの奉仕のために働いているものは、すべて優性エネルギーです。より高い意味では、すべてがクリシュナに仕えており、非常に進歩した者はこれを理解します。

第4段落

主が様々なエネルギーをお持ちであることはヴェーダ文献で確認されています。それでも至高主は個人的にすることは何もありません。これはどういうことでしょうか。主は富を得ようとしてあくせくする必要はありません。すべての富は主のものだからです。知識を求める必要もありません。すべての知識は主のものであるからです。力を求める必要もありません。すべての力は主のものであるからです。美しさや名声や放棄を求める必要もありません。それらはすべて完全に主のものであるからです。主が直接に宇宙の出来事を管理なさることもありません。主がご自分のお住まいに留まっておられる間に物事を運行する多くの助手をお持ちだからです。これはシュリー・イソパニシャッドに確認されています。

(サンスクリット引用)

「至高の人格神は、ご自分のお住まいに留まっておられるにも関わらず、心より速く、他の誰よりも速く走れます。強力な半神たちも主に近づけません。一つのところにいらっしゃるにも関わらず、空気と雨を供給する者を統御しておられます。主は素晴らしさにおいて何者にも優ります。」(シュリー・イソパニシャッド、マントラ4)

第5段落

このように、クリシュナにはするべき仕事はありません。至高の人格神として、主は単にゴピーたち(牛飼いの娘たち)や主の恋人(consort、通常は妃を指す)ラーダーラーニーと楽しく過ごすだけです。クリシュナは、クリシュナとしては悪魔たちを殺すこともなさいません。クリシュナが悪魔たちを殺すとき、主は本来のクリシュナではなく、ヴァースデヴァ・クリシュナとして知られます。クリシュナがご自分を拡大なさるとき、主はまずバララーマとして、さらにサンカルサナ、プラデュムナ、アニルッダ、そしてヴァースデヴァとして拡大します。ヴァースデヴァとして、主はマスラーとドゥヴァーラカーにて活動なさいますが、本来のクリシュナとしては、主はヴリンダーヴァンに留まられます。これはややこしく見えるかもしれません。ベンガルの最も偉大な小説家の一人でさえ、ヴリンダーヴァンのクリシュナとドゥヴァーラカーのクリシュナとマスラーのクリシュナは三人の異なる人物であると誤解していました。しかし、もし私たちがクリシュナの拡張体の性質を知るなら、理解するのは難しいことではありません。クリシュナは同じであり、主には比肩するものなく、しかし主はご自分を無数の形に拡大することができます。これはすべて主の楽しみという目的のためです。

第6段落

バガヴァッド・ギーターの10章において、クリシュナはアルジュナに次のようにご自分の異なる顕現についてご説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「馬の中では、不滅性(immortality)の霊薬から生まれ、海から上がってきたウッチャイフスラヴァーが私であると知りなさい。王者のような象の中では、私はアイラーヴァタです。人の中では、私は独裁君主です。武器の中では、私は雷霆(「らいてい」、稲妻の矢、サンダーボルト)です。牛の中では、豊富な乳を与えるカーマドゥークです。子を作るものの中では、私は愛の神カンダルパです。そして大蛇の中では私は首領のヴァースキです。」(BG10-27.28) 

第7段落より

主クリシュナは、さらに物質想像の多くの偉大な顕現を列挙し、それぞれがいかにご自分の代理であるかを説明なさいました。主は次のようにおっしゃって、これがの顕現の長く詳細な報告を結論付けられました。

(サンスクリット引用)

「しかし、アルジュナよ。これらすべての詳細な知識がなぜ必要でしょうか。私は自分のほんの小さなカケラの一つでこれらすべての宇宙に充満するし、支えているのです。」(BG10.42)

第8段落

このように、この物質世界はクリシュナの一つの完全部分の上に存在しています。もしもクリシュナがこの宇宙にお入りにならかなったなら、それは存在しえなかったのです。同様に、クリシュナの微細な小片である霊魂がこの体に入らないなら、この体は存在することができません。霊魂が去れば、体は直ちに無用になります。クリシュナが物質にお入りになるとき、物質は価値をもちます。これは微細な個々の原子にとっても偉大な宇宙にとっても真実なのです。

第9段落

クリシュナの顕現はとても偉大なので、私たちは主の快楽は私たちのよりもはるかに大きいということを知るべきです。私たちは、クリシュナがどのような種類の快楽をお好みであるかを理解しようとしなければなりません。誰もが神は偉大であると知っています。そして私たちはこのことから、主の快楽もまた偉大であると結論付けることができます。このことに関して、スヴァルーパ・ダーモダラ・ゴスヴァーミーは、ラーダーとクリシュナの恋愛は普通の物質的な出来事にように見えるかもしれないけれど実際はそうではない、という節を書かれました。ラーダーラーニーはクリシュナの喜びの潜在力です。ヴェダーンタ・スートラの中に、完全真理はいつも喜びの潜在力を楽しんでいる、と書かれています。私たちが喜びを欲するとき、私たちはそれを一人で得ることはできません。友人や家族がいるときに喜びを感じます。私は部屋で一人で話すかもしれませんが、もしも私が部屋で他の人たちの前で話すなら、喜びは増します。喜びとは、他者が存在しなければならないことを意味します。したがって、いつも楽しんでいらっしゃる完全真理であるクリシュナは、多くの他者をお持ちなのです。

第10段落

私たちはクリシュナの欠かすべからざる小片であり、クリシュナに喜びを与えるために作られました。主たる喜びの潜在力はラーダーラーニーであり、そのためラーダー・クリシュナはいつも一緒です。物質エネルギーは外部の潜在力であるマーヤーによって管理されている一方で、霊的世界は内部の潜在力であるラーダーラーニーによって管理されています。私たちはしばしばラーダーラーニーに祈ります。なぜなら、彼女はクリシュナの喜びの潜在力だからです。「クリシュナ」という語自体が「すべてを魅了する」という意味ですが、ラーダーラーニーはとても素晴らしいので、彼女はクリシュナを魅了します。もしもクリシュナがいつも誰もにとって魅力的で、ラーダーラーニーがクリシュナにとって魅力的なら、どうして私たちはシュリーマティー・ラーダーラーニーの立場を想像することができるでしょう。私たちは謙虚に彼女を理解しようとし、次のように言って服従すべきです。「ラーダーラーニー、あなたはクリシュナの恋人(beloved)です。私たちは尊敬をもってあなたに服従します。」ラーダーラーニーはクリシュナにとってとても愛しい方なので、もしも私たちがラーダーラーニーの恵みを通してクリシュナに近づけば、私たちは簡単に主を得る(主に辿り着く)ことができます。もしもラーダーラーニーが献身者を薦めれば、それがどんなに愚かな者であってもクリシュナは直ちに受け入れます。結果的に、ヴリンダーヴァンでは献身者たちはクリシュナの名前よりもラーダーラーニーの名前の方をより頻繁に唱えています。インド中どこに行っても、献身者が「ジャヤ・ラーデー」と言っているのが聞こえます。私たちはラーダーラーニーを崇拝することにもっと興味を持つべきです。私たちがどんなに堕落していても、もしも何らかの方法で彼女を喜ばせることができれば、私たちはとても簡単にクリシュナを理解することができるからです。もしも私たちが推察の過程を通してクリシュナを理解しようとすれば、私たちは何度も生まれ変わって推察しなければなりません。しかし、もしも私たちが献身奉仕を習慣づけて単にラーダーラーニーを喜ばせようとするなら、そうすればクリシュナはとても簡単に理解できます。ラーダーラーニーはとても偉大な献身者なので、彼女はクリシュナに命令することができます。

第11段落

クリシュナでさえラーダーラーニーの性質を理解することができません。彼女はとても偉大なので、主は理解することに失敗します。ラーダーラーニーを理解するために、クリシュナは実際に彼女の立場を受け入れました。クリシュナはこう考えました。「私はすべてにおいて完全で完璧なのに、それでもラーダーラーニーを理解できない。それはなぜだろうか。」これがクリシュナにラーダーラーニーの性癖を受け入れることを必要とさせました。これがクリシュナの主チャイタンニャ・マハープラブとしての顕現にあたります。主チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナご自身ですが、主はラーダーラーニーの性癖を受け入れたクリシュナです。ラーダーラーニーは、いつもクリシュナからの別離を感じています。同様に、ラーダーラーニーの立場にあって、主チャイタンニャはいつもその別離を感じていました。さらに、主チャイタンニャの教えに従う者は、会うことではなく、別離の感情を経験して味わうべきです。

第12段落

最も完璧にして高度に発達した存在である主チャイタンニャ・マハープラブの弟子であるゴスヴァーミーたちは、決して「私はクリシュナを見たことがある(私はクリシュナに会った)」とは言いませんでした。その代わり、彼らは絶え間なく「ラーダーラーニーはどこだ?ラリターとヴィサカーと、ヴリンダーヴァンの他の(高貴な生まれの)少女たちはどこだ?」と呼んでいました。(cried,泣くように呼び求める)。ヴリンダーヴァンに住んでいたとき、至高神への愛が十分に育った状態でも、ゴスヴァーミーたちは「ラーダーラーニー、あなたはどこにいらっしゃるのですか。あなたの御友人たちはどこにいらっしゃるのですか。おお、ナンダ・マハーラージャの息子よ、あなたはどこにいらっしゃるのですか。あなたがたは皆、どこにおいでになるのですか」と呼んでいました。このようにして彼らはクリシュナを探しました。そして彼らは一度も「昨晩、私はクリシュナがゴピーたちと踊っているのを見ました」とは言いませんでした。発達した献身者は、そのような主張はしません。物事を安価に受け取る者たちがそうするのです。一部の人々は、ラーダーとクリシュナはとても安いので夜毎見ることができると考えますが、それはゴスヴァーミーたちの教えではありません。彼らはいつもクリシュナを探してこう呼んでいました。「あなたがたはどこにいらっしゃいますか?ラーダーラーニー、あなたはどこにおいでになりますか?クリシュナ、あなたはどこにいらっしゃるのですか?ゴヴァルダーナの丘のそばですか?ヤムナー川の土手の上ですか?」このようにして、ヴリンダーヴァンの地域全体をゴスヴァーミーたちは狂人のようにラーダーとクリシュナを探し求めて呼んでいました。 

第13段落

私たちはゴスヴァーミーたちの足跡に従い、このようにラーダーとクリシュナを探し求めねばなりません。ヴリンダーヴァンは私たちの心の中にあり、私たちは主をそこで探さねばなりません。これがチャンタンニャ・マハープラブがお奨めになる別離の中の崇拝の過程です。クリシュナからの別離を感じ、主チャイタンニャ・マハープラブは海に身を投げました。真夜中に部屋を出て行って、いなくなることもありました。主がどこに行かれたのか、誰も知りませんでしたが、その間主はクリシュナを探しておられたのです。このように、私たちは何かのスポーツのショーの見物人のようにクリシュナとラーダーの愛の交歓を楽しんだりするものではないのです。私たちは彼らからの別離を感じなければなりません。私たちがより強く別離を感じると、私たちはより強く自分が進歩しているのだと理解すべきです。私たちの物質的な感覚をもってしては、私たちはクリシュナを見ることはできず、主のお名前を聞くことさえできません。私たちは献身奉仕に進歩したときに主を知覚し始めることができます。その献身奉仕は、脚や目や耳ではなく、舌から始まります。舌は「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」と唱え、クリシュナのプラサーダムを食べることに使われなければなりません。舌には二つの機能があり、このように使うことで私たちはクリシュナに気付くことができます。私たちは自分の物質的な目でクリシュナを見ることはできず、物質的な耳でクリシュナについて聞くこともできず、私たちの手でクリシュナに触ることもできません。しかし、もしも私たちが自分の舌を主への奉仕に使えば、主は「私はここにいます」と言ってご自分を明かしてくださいます。

第14段落

このハレ・クリシュナを唱えるという行いは、物質自然の燃え盛る火を消します。これは霊的指導者への以下の祈りの説明でもあります。

(サンスクリット引用)

「霊的指導者は慈悲の海から天福を得ています。山火事の上に雲が水を注いで火を消すように、霊的指導者は物質存在の燃え盛る火を消します。私は霊的指導者の蓮の御足に尊敬をこめて服従します。」(シュリー・グルヴァスタカム、1節)

第15段落

この物質自然は、しばしば自動的に発生する山火事に例えられます。誰も山火事を望んではいませんが、しばしば落雷があり、不注意や摩擦やその他のことがあり、火事は直ちに発生します。同様に、この物質世界は問題の燃え盛る火に包囲されています。皆がここで平和に暮らしたいと思っていますが、何らかの状況が発生し、誰も平和に暮らせません。私たちは物事を非常に多くの方法で調整しようとして大変な苦労をしますが、自然の法則はとても残酷で危険なので、私たちの望みと計画にも関わらず、物質存在の問題という燃え盛る火は続きます。

第16段落

例えば、この世紀では(1900年代)私たちは戦争の火を消そうとしましたが、まだそうできていません。第一次世界大戦があり、第二のそれを防ごうとして国際連盟が作られましたが、その試みにも関わらず、第二の戦争が起こりました。今では戦争を終わらせる助けとなるように国際連合が作られましたが、戦争はベトナムやエジプトやパキスタンや他のところで続いています。誰も第三次世界大戦を望んでいませんが、それは一触即発に見えます。消防隊と、水の入ったバケツを持った何人かの人を送って、それで大きな山火事を消すことはできません。吠えるような山火事を消すためには、大量の水が必要です。言い換えれば、人間の努力を超えた配剤がなければなりません。山火事の上に恵み深い雲があるとき、雲ははじけ、雨が土砂降りとなって降り、燃え盛る火は直ちに消えます。雲が海から水を集めるように、同様に霊的指導者はクリシュナの恵みの海から水を集め、物質自然の燃え盛る火の上に注ぎます。このように、クリシュナの恵み深い雨を与え、あるいは配る者は、霊的指導者、あるいはグルと呼ばれます。

第17段落

ヴェーダ文献には、クリシュナ意識の超越的な科学を理解するために私たちはこの問題の燃え盛る炎を消すための知識を得ようとしなければならない、と書いてあります。科学者や哲学者や他の教育のある人々はそれを消そうとして大変な努力をしていますが、その結果はもっともっと大きな爆弾であるように見えます。カーミー、すなわち結果を求めて働く労働者たちは、この火を消そうとして、すなわち大変な労働によって物質存在の惨めな状態を減少させようとして、昼も夜も精魂を込めて働いています。ジナーニー、すなわち哲学者たちもまた努力していますが、彼らはうんざりして、そのため「この世界は偽りだ」と主張します。このように考えて、彼らは至高存在と一体化しようとし、そうやって火を消そうとします。これは、蔓(つる)からブドウを取ろうとして失敗し、「どうせこのブドウは酸っぱいんだから」と言うキツネのようです。(訳注、原文はjackel、ジャッカル。現在は jackalという綴りのほうが一般的。)ヨギー、すなわち瞑想うる人々は、一番大きなものよりも大きく、一番小さなものよりも小さく、一番軽いものよりも軽く、一番重いものよりも重くなることで優れた神秘的な力を得ようとしますが、これは単に全く子供のお遊びです。大きくても小さくても、軽くても重くても、どんな物質的な体にも物質存在の問題は存在します。このようにして、人は一つの段階から別の段階へ進歩するかもしれません。カーミー、すなわち結果を求めて働く労働者の段階から、ジナーニー、すなわち哲学者の段階へ、ヨギー、すなわち瞑想者の段階へと上がっても、どちらにしても人は最後にはバクティー、すなわち献身奉仕の段階に至らねばなりません。これが本当に進化の過程なのです。これはバガヴァッド・ギーターにおいて次のように示されています。

(サンスクリット引用)

「多くの生と死のあと、本当に知識のある者は、私がすべての原因の原因であり、存在のすべてであると知って、私に服従します。そのように偉大な魂は甚だ稀有です。」(BG7.19)

第18段落

クリシュナに服従することが要点です。それが人生の目的であり、バークタ、すなわち世界の知性ある人々は直ちにこの水準にやってきます。そのためクリシュナは彼らを賢い人々と呼びます。もしも非常に多くの生のあとで人がこの服従の場に至らねばならないのなら、なぜ今すぐそうしないのでしょう。

第19段落

物質自然の燃え盛る火はドゥルガーによって管理されています。しばしば彼女は手に武器を持った姿で描かれます。彼女には10本の手があり、それぞれが異なる武器を持っています。これは、彼女がこの宇宙の10の方向のすべてを支配していることを示しています。彼女は悪魔を懲らしめるために異なる武器を巧みに使います。ある有名な絵においては、悪魔がライオンと争っていて、女神ドゥルガーが悪魔の髪を引っ張り、三叉の槍を悪魔の胸に押し付けています。もしも私たちがこの絵を研究するなら、私たちは悪魔であり、三叉の槍は私たちがいつも苦しめられている三重の悲惨さであると結論付けられます。ある悲惨さは他の生命体によってもたらされ、別の悲惨さは自然の災害によってもたらされ、さらに別の悲惨さは心と体そのものによって引き起こされます。何らかの方法で私たちはいつもこれらの三つの種類の悲惨さに苦しんでいます。物質創造の中には、自分はそれらから自由だ、と言える人はいません。この物質自然の三叉の槍は、皆の胸に押さえつけられています。そしてこの理由により、この物質世界における純粋な幸せは不可能です。私たちは母なるドゥルガーを崇拝したり捧げ物をしたりして彼女を満足させようとするかもしれませんが、ドゥルガーはそう簡単には買収されません。

第20段落

したがって、私たちは人生の目的は至高の人格神を理解することであると知るべきです。私たちはあらゆる側面から―――社会的、政治的、哲学的、宗教的に―――工夫すべきです。しかし、目的は至高人格に近づくことであるべきです。ヴェーダには、学識があって発達した人々、すなわち創造の半神たちは、単にクリシュナの蓮の御足を求める、と書いてあります。人間の文明においても、目的は同じであるべきです。クリシュナの蓮の御足を求めることなくしては、すべての宗教的、社会的、あるいは政治的な努力は失敗します。私たちの欲望が物質世界に錨(いかり)を下ろしている限り、進歩することはできません。これに関して、川下にある花嫁の家に向かわねばならなかった花婿一行の話があります。計画では、彼らは夜に船で出発し、早朝には目的地に着くことになっていました。そのため、夕食のあと、浮かれた一行は夜になって船に乗り込んで船上で寛ぎ、船を漕ぐ人たちに出発するように言いました。一行は全員が気持ちよく座っていて、川のそよ風がとても心地よかったので、彼らはその夜、深く眠りました。朝になると彼らは皆、早くに目を覚まし、驚いたことに船が目的地に向かって全く進んでいないことに気がつきました。船乗りたちが夜中懸命に漕いでいたにも関わらずです。結局、調べてみると、船乗りたちが漕いでいたにも関わらず、彼らが錨を上げることを忘れていたので船が全く進んでいないことがわかりました。結婚の儀式は、愚かな間違いのためにこうして駄目になりました。

第21段落

私たちの現在の文明は、したがって、誤った文明です。なぜなら、誤った指導者たちが執着の錨を上げるのを忘れているからです。反対に、彼らは社会の秩序を感覚の満足に基づいて作り上げたため、錨はますますしっかりと下ろされています。様々な計画と企画(plans and schemes)によって維持されているこの感覚を満足させる社会的および政治的な仕組みは、バガヴァッド・ギーターに次のように描写されています。

(サンスクリット引用)

「飽くことを知らない欲望と高慢さと偽りの栄光に拠り頼み、そうして幻惑されちる悪魔的な人々は、永遠でないものに魅了され、いつも清らかでない仕事に誓いを立てます。彼らは人生の最後のときまで感覚を満足されることが人間の文明の主要な必要性であると信じています。したがって、彼らの不安には限界がありません。」(BG16.10-11)

第22段落

船乗りたちのように、指導者たちは皆惑わされています。彼らは私たちが何らかの一時的な益を得るように誤って導きますが、彼らの計画や企画がいつまでもつでしょうか。もしも彼らが心臓麻痺で死んだり暗殺者に殺されたりするまで地位に留まりつづければ、その後には彼らと全く同じような人々がその地位につきます。現代の社会のいわゆる哲学者たちでさえ、物質的な名声と栄誉に捕られられていて、一般の人々を正しい方向に導きません。したがって、人生の錨は感覚を満足させるという目的のために無知の水の中に深く下ろされ、こうして私たちのいわゆる文明はよどんだ水溜りの中で腐ります。私たちは動いていないので、いつも同じ、問題の多い人生という港にいます。すべての計画は、戦争と飢餓と地震とその他の破滅的な出来事の前では無用の紙くずです。これらのすべての破滅的な出来事は、母なるドゥルガーからの警告です。そしてそれらによって、彼女は幻惑された計画作り人たちに対する彼女の永遠の優位を確認するのです。私たちを物質的な人生に縛り続ける錨の異なる重さは、私たちが霊的な事実を知らないことと、身体的な関係による親戚(訳注、kinsmen、家族、親戚、一族、民族など)への執着と、生まれた土地と物質的な所有物への執着と、物質科学への執着と、本来の目的を知らずして宗教的な形や儀式に執着していることから来る私たちの物質的な形への執着です。これらすべてが人間の体という船を物質的な宇宙に縛り付けます。シュリー・クリシュナは、しっかりと根を下ろしたバンヤンの木の例を使って、バガヴァッド・ギーターの中で私たちにどうやってこの執着を一度に完全に捨て去るかを助言なさいます。

(サンスクリット引用)

「この木の本当の形は、この世界では知覚できません。それがどこで終わるか、どこから始まっているか、あるいはその基盤がどこなのか、誰も理解できません。このバンヤンの木は、切除(detatchment、切り離すこと)という武器を使って、心を決めて切り倒されねばなりません。その後は、人は一度辿りついたら二度とは戻ってこない場所を探さねばなりません。人は、そこからすべてが始まり、誰の記憶にも無いほどの太古から拡大し続けているところのその至高の人格神に服従しなければなりません。」(BG15.3,4)

第23段落

ご自分の創造の中のすべての物事に完全に気付いていらっしゃる至高の人格神は、私たちの最善の利益のために、私たちはこの物質存在を捨て去ろうと望まねばならない、とお知らせになります。私たちは自分をすべての物質的なものから切り離さねばなりません。悪い状況の中で最善を図るため、私たちの物質的な存在は、クリシュナのメッセージと主の献身者および主の御名と常に関わることで、100%霊化されるべきです。したがって、普通は物質的な物事に関わっているすべての人が、このクリシュナ意識運動から最高の利益を得ることができます。すべての霊的な努力は、多かれ少なかれ、物質的な汚染に染められています。しかし、純粋な献身奉仕はあらゆる汚染を超越します。私たちは人工的に物質主義の原則を受け入れる必要はありません。私たちは単に、至高主、至高の人格神シュリー・クリシュナの蓮の御足に心を定める必要があるだけです。 

第6章 クリシュナ意識に専念すること

第1段落

インドでは、すべての聖典と、非人格主義者であるサンカラーチャーリャを含む偉大な霊的教師たちがクリシュナを至高主として受け入れています。サンカラーチャーリャは、彼のバガヴァッド・ギーターの解説の初めに、ナーラーヤナはこの顕現あるいは非顕現の創造を超越していると述べ、同じ解説の中で、至高の人格神であるナーラーヤナはデヴァキーとヴァスデヴァの息子として現れたクリシュナであると述べています。このように、このことに関して、クリシュナに対する意見の違いはほとんどありません。人格主義者であれ、非人格主義者であれ、権威ある者たちはクリシュナが至高神であるということで合意しています。

第2段落

クリシュナが地上にいらしたとき、主はご自分の活動と栄華によって、至高主であると証明なさいました。もしも私たちが本当に至高主が誰であって何であるか知りたいと願うなら、すべての情報はヴェーダ文献に与えられています。もしも私たちが何であれ持てるものを神を理解するために使うなら、クリシュナはご自分が至高の人格神であると証明なさいます。もしも私たちが単にこの一つの事実を受け入れるなら、そうすれば私たちの教育のすべては完全です。神が誰であるかを知るために研究するのがはやっていますが、これは必要ではありません。神は存在しておられ、自ら次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ。私に優る真実はありません。真珠が糸に繋がっているように、すべては私に拠り頼みます。」(BG7.7)

第3段落

この情報はバガヴァッド・ギーターだけでなく他の聖典においても与えられています。そして、そもそもの初めから、サンカラーチャーリャやラーマーヌジャチャーリャやマドゥヴァーチャーリャや主チャイタンニャなどのアーチャーリャ(教師)や、他の多くの忠誠心の篤い権威者によって受け入れられています。現在においてさえ、クリシュナを至高主として受け入れない者たちがクリシュナによってアルジュナに与えられた知識を受け入れています。つまり、そのようにして彼らはクリシュナを間接的に受け入れているのです。もしも人がバガヴァッド・ギーターを偉大な知識の書として受け入れるなら、その人はクリシュナをも受け入れています。至高の完全真理がクリシュナであって、私たちが主と永遠の関係を持っていることは、疑いようもありません。

第4段落

私たちの神との永遠の関係はサバージャナです。つまり、神は偉大であり、私たちは従属しています。主は支配者であり、私たちは支配されます。従属する者の義務は支配者を喜ばせることです。同様に、もしも私たちが幸せになりたいなら、私たちはクリシュナを幸せにする方法を学ばねばなりません。これがクリシュナ意識の過程です。

第5段落

しかし、至高主が私たちの奉仕と労働によって満足なさるということが、どうやって理解できるでしょうか。私たちの奉仕、すなわち職業的な義務(訳注、
occupational duty、それぞれの性質に合った、義務としての仕事。Occupationは必ずしも雇用を意味しない。)を完成させることは、実際に可能です。誰でもそれぞれの性質(designation)に従って果たすべき奉仕があります。インド人であれアメリカ人であれ、ヒンズー教徒やイスラム教徒やキリスト教徒であれ、男であれ女であれ、ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、スードラや他の何であれ、どちらにしても人は何らかの仕事をすることにあんっていて、その仕事がその人の職業的な義務です。義務の完成は至高主やその実行によって満足しているかによって計られます(tested、試される)。至高主の満足は、主の代理人である霊的指導者によって計られます。したがって、至高の人格神の本当の代理人を探し、その人の下で働くことが大切です。もしも霊的指導者が満足しているなら、私たちは至高主もまた満足していると知るべきです。それはヴァイスヴァナーサ・チャクラヴァルティー・サークラによって説明されています。

(サンスクリット引用)

「霊的指導者の慈悲によって、人はクリシュナの恵みを賜ります。霊的指導者の恵みがなければ、誰も全く進歩できません。したがって、私はいつも霊的指導者を思い出しているべきです。少なくとも一日3回は私は自分の霊的指導者の蓮の御足に尊敬を込めて服従の礼を捧げるべきです。」(シュリー・グルヴァシュタカム、第8節)

第6段落

霊的指導者は至高主の代理人です。どうやって彼は代理人になれるのでしょうか。もしも誰かが「あんなふうでこんなふうな物体は眼鏡である」と言い、もしもその人(訳注、それを聞いた人)が弟子にそのように教えるなら、(訳注、弟子が)その物体を確定するにあたって間違いはありません。霊的指導者とは、ある特定の師弟継承の言葉を身につけた者のことです。上記の例では、鍵となる言葉は「眼鏡」です。それだけです。霊的指導者は、それ以上何も言う必要はありません。これが資格です。クリシュナは「私が至高存在です」と言い、霊的指導者は「クリシュナが至高存在です」と言います。クリシュナの代理人であるために、すなわち霊的指導者であるために、人が何か非常に突出した資格を持っていなければならないわけではありません。彼は単に、個人的な解釈を加えないで権威者からのメッセージを伝えなければならないだけです。何らかの個人的な解釈が加わると同時にメッセージは失われ、教えは不快なものになります。自分の独自の思いつきにしたがって聖典を解釈する者は、直ちに退けられるべきです。

第7段落

かつて、主チャイタンニャ・マハープラブは「あなたは少なくとも誰が霊的指導者で誰がそうでないかを見極めるのに十分な知性(sense)を持たねばなりません」とおっしゃいました。例えば、もしも私たちが何かを買いたいなら、私たちは少なくともそれが何であるのかについて、何らかの知識を持っていなければなりません。さもないと、私たちは騙されます。もしも私たちが市場からマンゴーを買いたいなら、私たちは少なくともマンゴーなるものがどのような種類の食べ物でどんな姿をしているのかを知っていなければなりません。同様に、私たちは真正な霊的指導者の資格について、幾らかの入門的な知識を持つ必要があります。バガヴァッド・ギーター自体の中に、霊的指導者の継承についていくらかの情報があります。主クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私はこの滅びることのないヨガの科学を太陽神ヴィヴァスヴァーンに教えました。そしてヴィヴァスヴァーンはそれを人類の父マヌに教え、マヌは次にイクシャヴァークに教えました。この至高の科学とは、このように師弟継承の鎖を通して受け取られ、聖なる王たちはそれをそのようにして理解しました。しかし、時が経つにつれて継承は途切れ、したがってありのままの科学は失われたように見えます。その、至高存在との関係という非常に古い科学は、今日私によってあなたに語られます。なぜならあなたは私の献身者であり、私の友人でもあるからです。したがってあなたはこの科学の超越的な神秘を理解することができます。」(BG4.1-3)

第8段落

そのもともとの霊的な師弟継承は途切れましたが、今私たちはバガヴァッド・ギーターを学ぶことで同じメッセージを受け取ることができます。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはちょうど太古の昔に太陽神にお話しになったのと同じようにアルジュナに語られます。もしも私たちがアルジュナとクリシュナの言葉を受け入れるなら、私たちにとってバガヴァッド・ギーターを理解することは可能かもしれません。しかし、もしも私たちがそれを自分の独自なふうに解釈するなら、結果は無意味です。バガヴァッド・ギーターを理解する最も良い方法は、真正な霊的指導者を受け入れることです。これはあまり難しくありません。

第9段落

アルジュナは、クリシュナは至高の人格神なので、自分はクリシュナが自分に語ったことをすべて受け入れる、と言います。

(サンスクリット引用)

「アルジュナは言いました;親愛なるクリシュナよ。おお、決して誤ることのない者よ。私の幻想は今や消え去りました。あなたの恵みによって、私は自分の記憶を取り戻しました。今、私は何の疑いもなく心が定まり、あなたの指導に従って活動する準備ができました。」(BG18.73)

第10段落

アルジュナのように、私たちはクリシュナを至高の人格神として受け入れ、主のおっしゃるようにすべきです。

(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子よ。あなたのすることのすべて、食べるもののすべて、捧げるものや与えるもののすべて、そして行う苦行のすべては、私への捧げものとして為されるべきです。」(BG9.27)

第11段落

クリシュナをこのような精神で受け入れることによって、私たちは完全な知識を得ることができます。しかし、もしも私たちがクリシュナを受け入れず、バガヴァッド・ギーターを独自に解釈するなら、すべては駄目になります。

第12段落

もしも私たちが誠実であるなら、クリシュナの恵みによって私たちは誠実な霊的指導者を得ます。しかし、もしも私たちが騙されたいなら、クリシュナは騙す人を送ってくださり、私たちは生涯騙され続けます。それが実際に起こっているのです。クリシュナをありのままに理解しようと望まず、自分の不完全な視野の力(訳注、物事を観察する力)によって理解したいと望む者にとっては、神、すなわちクリシュナは未知であり続けます。

第13段落

クリシュナと主の教えを受け入れ、そして主に献身奉仕を捧げる、というのが過程のすべてです。完全な献身奉仕の具現そのものであるのがシュリーマティー・ラーダーラーニーです。ブラーマ・サムヒターにおいて、ラーダーラーニーはクリシュナの霊的な潜在力の拡張体であると描写されています。このように、彼女はクリシュナと異なりません。ラーダーとクリシュナに仕えるゴピーたちは、普通の女性や少女たちではありません。彼らのクリシュナの喜びの潜在力の拡張体です。ラーダーラーニーとゴピーたちは、決して普通の女性として受け入れられるべきではありません。実に、彼女たちの立場を理解するためには、私たちは霊的指導者の導きを必要とします。もしも私たち生命体が実際にラーダーラーニーと関わりたいなら、彼女は普通の女性ではありませんが、それは可能かもしれません。私たちは献身奉仕に熟練して資格を得ることによって、ラーダーラーニーの仲間になることができます。

第14段落

献身奉仕にはフラストレーションはありません。たとえ私たちがほんの少しの奉仕をしても、それは育ちます。献身奉仕は決して失われることがありません。物質的なものの場合は、私たちが世界において得るものはすべて、体が終わったときに失われます。しかし、私たちは永遠なる霊的な火花なので、私たちの霊的な財産は私たちと共に行き、徐々に実を結びます。このようにして、過去に超越的な知識を培った者は、この運動を通してクリシュナ意識に出会います。クリシュナ意識への興味は一般的なものではありません。バガヴァッド・ギーターのなかに、何万何億という人の中で、ほんの一人が完全を得ることに興味を示す、と書いてあります。もしも私たちが「単にこの本を読んで15分間瞑想するだけで、誰でも直ちに(特別な)力を得て、ビジネスで成功し、試験に合格します」と宣伝すれば、多くの人がその本に惹きつけられるでしょう。人々はマーヤーに騙されることのほうを好むので、クリシュナ意識に惹き付けられません。彼らは、人生の完成とは、たくさんの食べ物を食べ、20時間眠り、毎日毎晩異なる相手と生殖をすることだと考えます。人々はこういうことに興味がありますが、人生の完成には興味がありません。

第15段落

すべての知性ある人は、少なくともクリシュナ意識を試みてみるべきです。彼は次のように言うべきです。「分かりました。私はもう何度も生まれかわって、この食べることと眠ることを楽しんできました。これらのことは、私が鳥や動物の体にいたときにも与えられていました。今、この人生において、動物的な人生の四つの原則―――食べること、眠ること、身を守ることと生殖すること―――を制限し、クリシュナ意識を培うことに時間を使うことにします。こうすることで私の人生は成功します。」

第16段落

私たちがこの「クリシュナ意識」という言葉を作り出したのではありません。クリシュナ意識とは、世界の歴史の中で一番古い言葉です。

(サンスクリット引用)

「いつも私のことを考えていなさい。私の献身者になりなさい。私を崇拝し、あなたの臣従の礼を私に捧げなさい。結果として、あなたは間違いなく私のところにやってきます。私はあなたにこれを約束します。あなたは私のとても愛しい友達だからです。あなたの心でいつも私のことを思いなさい。あなたの体でいつも私に奉仕をしなさい。そして私に服従しなさい。完全に私に夢中になれば、確実にあなたは私のもとに来ます。」(BG18.65,9.34)

第17段落

マン・マナー・バーヴァ・マッド・バークトは、「ただいつも私を意識していなさい」という意味です。これがすなわちクリシュナ意識です。バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナは繰り返し、私たちが主を崇拝し、主に服従し、主のもとに来る(行く)べきである、とおっしゃいます。(訳注、英語および日本語の一部の方言では「来る」ですが、日本語の標準語表現では「行く」のほうが正しいかもしれません。)バガヴァッド・ギーターはクリシュナ意識の絶対的な必要性をはっきりと指し示しており、バガヴァッド・ギーターはウパニシャッドの真髄として受け入れられています。歴史的な観点から見ても、比類すべきものはありません。考古学的な証拠に基づいて、クリシュナは五千年以上前にクルクシェトラの戦場でバガヴァッド・ギーターを語ったと計算されています。つまり、このクリシュナ意識運動は、歴史的な観点からも五千年の歴史があるのです。その哲学は世界の歴史の中で最も古いものです。もしも私たちがもっと遡りたいと望むなら、私たちはシュリー・クリシュナがこのバガヴァッド・ギーターをかつて太陽神に語られたということを知ります。クリシュナは永遠であり、クリシュナ意識もまた永遠です。クリシュナ意識はこのようにして近づかれるべきであり、単なる理論であると考えられるべきではありません。

第18段落

クリシュナ意識が何らかの意識で覆われているとき、私たちは汚染されて制約された人生を経験します。空が澄んでいるとき、私たちは太陽の明るく輝く光を見ることができますが、雲に覆われているときは見ることができません。私たちは太陽光を知覚することはできるかもしれませんが、太陽そのものを見ることはできません。空が澄んでいるとき、それは自然な状態にあります。同様に、私たちは永遠にクリシュナの欠かすべからざる小片なので、私たちの意識は永遠にクリシュナ意識なのです。これはバガヴァッド・ギーターの15章に断言されています。

(サンスクリット引用)

「この制約された世界にいる生命体は、私の微細な一部であり、彼らは永遠です。しかし、制約された人生によって、彼らは心を含む六つの感覚に大変な苦労をしています。」(BG15.7)

第19段落

どういうわけか、私たちは物質自然に関わることになってしまいました。そして、心と六つの感覚のために、存在するのに大変な苦労をしています。それがダーウィンの理論―――生存のための苦労、最も強い者が生き残る、というものです。しかし、本当の事実は、私たちの本来の立場は、苦労するようなそれではない、ということです。苦労は動物の人生の立場です。人間の人生は喜びに満ちている(blissful、幸せ、至福、天上の喜びに溢れた状態)べきであり、霊的な発達を目的としているべきです。かつて、それがインドにおいて人生の原則でした。そして、霊的な文化だけにいそしむ階層の人々、ブラーマナがいました。ブラーマナの文化生活はインドの聖典に明確に述べられていますが、それはインドだけのものではなく、すべての人間のためのものです。ヴェーダはすべての人類のために書かれましたが、ヴェーダが書かれたときには、たまたま現在インド文化として知られているものが存在する唯一の文化だったのです。その頃は、惑星全体がリシャバーデヴァの息子、皇帝バーラタ・マハーラージャにちなんでバーラタヴァルシャと呼ばれていました。バーラタ・マハーラージャは惑星全体を統治していましたが、徐々に惑星は分割されていきました。つまり、ヴェーダ文化のダルマは単に宗派的な意味でインドやヒンズーのものであると考えられるべきではないのです。

第20段落

ダルマという語は往々にして宗教を意味すると翻訳されますが、ダルマを宗教として受け取るのは語の誤解です。一般的な使い方では、宗教という言葉はある特定の信仰を指します。ダルマという言葉はそうではありません。ダルマは生命体の自然な職業(occupation、この場合は属性)を指します。例えば、火があれば熱と光もあります。そのため、熱と光は火のダルマだと言われます。火は自分のダルマを変えることはできません。同じように、液体性は水の本源的な性質であり、この性質は変えられません。もし変えられるなら、それはもはや水とは考えられません。個々の魂のダルマは決して変えられません。そしてそのダルマとは至高主に奉仕をするという職業的な義務です。信仰と宗教は変えられ得ます。今日は私はヒンズー教徒であるかもしれませんが、明日はキリスト教徒やイスラム教徒になるかもしれません。このように信仰は変わることがありますが、ダルマは自然な帰結、自然な職業、あるいは繋がりなのです。

第21段落

クリシュナは、生命体のダルマの遂行に食い違いが起こって不自然な活動の急激な高まりがあるときは直ちに降臨するとおっしゃいます。主の降臨の主な目的の一つは、宗教的な原則を再確立することです。最も優れた宗教制度とは、私たちを至高主に服従するように最も良く訓練するものです。これがバガヴァッド・ギーターの底に流れる基本原則です。私たちは、宗教の本当の目的を知っている限り、自分の宗教を選んでヒンズー教徒になったり、イスラム教徒や仏教徒やキリスト教徒になったり、他の何かになったりすることができます。実際のところ、シュリマッド・バーガヴァタムは私たちが今持っている宗教を放棄することを薦めていません。しかし、宗教の目的を示します。目的は至高神の愛であり、至高神を愛するにはどうしたらいいかを最もよく教える宗教が最上の宗教です。

第22段落

現代では特に、大衆の意識に一般的な衰退があります。神が存在することを覚えている人は少しはいますが、ほとんどの人は主を忘れています。だから彼らは幸せになれません。人々は神に対して何の恩義もないと考えたり、神はいないと考えたりしています。このような考えは、決して幸せを作り出しません。今日のように文明が無神論的であるとき、神あるいは主の代理人は人々に至高の意識との関係を思い出させるためにおいでになります。

第23段落

サナータナ・ゴスヴァーミーが主チャイタンニャに「私は何ですか?なぜ私はいつも惨めな状態にいるのですか?すべての生命体の立場は何ですか?」と聞いたとき、シュリー・チャンタンニャ・マハープラブは直ちに、本当の自己認識は神の従者というそれである、とお答えになりました。私たちは「従者」という言葉を物質的な従者のような意味で理解すべきではありません。神の従者になるというのは偉大な立場です。人々は、いつも何かの政府の地位や有名な企業の役職を得ようとしています。そのような地位で奉仕をすると、大きな利益があるからです。私たちは政府への奉仕の中でいい地位を得ようとして躍起になりますが、神への奉仕の中で地位を得ようと立ち止まって考えることをしません。神はすべての政府の中の政府なのです。

第24段落

神への奉仕はダルマです。このダルマは、異なる文化的および気候的な状態あるいは状況によって、異なる国々で異なるように描写されるかもしれませんが、すべての宗教的な聖典において、神への服従が教えられています。神はいない、とか、私たち生命体は独立している、などと説く聖典はありません。聖書や、コーラン、ヴェーダ、仏教徒の聖典でさえそうです。一般に、仏教徒の哲学では、個々の魂というものはなく、至高の魂もありません。しかし実際には主ブッダはヴェーダ文献によって神の化身として受け入れられているので、主ブッダに従うことによって人は実際は神に従っています。シュリマッド・バーガヴァタムには、神の化身の表があり、主ブッダはその一人として受け入れられています。シュリマッド・バーガヴァタムはヴャーサデヴァによって五千年前に編纂され、主ブッダは2600年前にお現れになりました。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムは実際に主の来臨を予言していました。主ブッダは、神も魂もなく、この体は物質の複合であり、この物質の複合が分解すれば悲惨さや幸せなどの感覚はもはや無くなる、と教えられました。そしてサンカラーチャーリャが現れ、ブラーマンの外的な特質、すなわち体は、単なる幻想である、と教えました。すべての宗教において、寺院での崇拝と権威の受容が存在します。私たちは、クリシュナや主イエス・キリストやエホバや主ブッダやサンカラーチャーリャやグル・ナナクなどを受け入れるかもしれませんが、どの場合でも権威を受け入れることが要求されます。

第25段落

バガヴァッド・ギーターにおいて、主シュリー・クリシュナは至高の権威として受け入れられています。時にはクリシュナは自ら降臨され、時には化身として降臨されます。時には主は音の振動として降臨なさり、時には献身者としておいでになります。アヴァターには多くの異なる分類があります。今の時代においては、クリシュナはご自分の聖なる御名、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」としていらっしゃいました。主チャイタンニャ・マハープラブも、今のカリの時代にクリシュナは音の振動として降臨された、と確認なさっています。音は主がお取りになる形の一つです。したがって、クリシュナと主のお名前に違いはないと述べられています。

第26段落

今日では、人々は神との関係を忘れてしまいましたが、この、主の聖なるお名前という形のクリシュナの化身、このハレ・クリシュナを唱えることは、世界のすべての人々を彼らの忘却から救い出すでしょう。主チャイタンニャ・マハープラブは、もしも私たちが(このマントラを)唱えれば、あるいはクリシュナの聖名を唱えることに関われば、私たちは人生の全き完成の水準に至る、とおっしゃいます。シュリマッド・バーガヴァタムによると、異なる時代のための異なる課程が存在しますが、それぞれの過程の原則はすべての時代において有効であり続けます。ハレ・クリシュナを唱えることが、今の時代には有効だけれど、サチャ・ユガではそうではない、ということではありません。また、サチャ・ユガでは人々がクリシュナの聖名を唱えていなかったというわけでもありません。サチャ・ユガにおいては、瞑想が主な課程であり、偉大なムニたちは6万年以上も瞑想しました。しかし、今の時代には私たちの寿命はとても短いので、この方法で完成を得ることは不可能です。結果的に、この時代では特に私たちが皆で座ってハレ・クリシュナを唱えることが勧められているのです。それはとても簡単です。誰でも参加することができます。教育の必要もなく、あらかじめ何らの資格が要求されるわけでもありません。今の時代は、人々は大変鈍くて、不運でもあり、悪い関わりによって汚染されています。チャイタンニャ・マハープラブは、神の愛を広めるための素晴らしい宣伝手段として「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を導入なさいました。それはカリ・ユガだけに薦められているわけではありません。実際はすべての時代において薦められているのです。すべての時代を通して、マントラを唱えて完成に至った献身者がたくさんいます。それがこのクリシュナ意識運動の美点です。それは一つの時代や一つの国や、一つの階層の人々のためのものではありません。ハレ・クリシュナは、どのような社会的な地位の、どのような国の、どんな年齢の人でも唱えることができます。クリシュナは、すべての社会的な地位と、すべての国々と、すべての年齢の人々の至高主であられるからです。