「生は生より来たる」
A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ
西山葉子 訳

生命と宇宙の起源に関する現代の科学的な理論への驚くべき挑戦―――ISKCON創設者、尊師A.C.バクティヴェダンダ・スワミ・プラブパーダ睨下との朝の散策

裏表紙

「私は科学者たちに言います。“もしも生命が化学物質から生じたのであれば、そしてもしもあなたたちの科学がそれほど発達しているのであれば、それならなぜ、あなたがたこそ生化学的にあなたがたの実験室で生命を作り出せないのですか”」

「彼らは原子エネルギーを発見しました。今では彼らは無数(の生命体)を一度に殺すことができます。彼らは単に死への道を整えたのです。そして、それなのに彼らは図太くも自分たちは生命を作るのだと宣言するのです。」

前書き

第1段落

現代科学者のすべての意見を、試験されて証明された真実である、と受け入れるようになった人にとって、この本は目からうろこが落ちるようなものでしょう。「生命は生命より来たる」は、今世紀(20世紀)の最も偉大な哲学者であり、学者の一人である尊師A.C.バクティヴェダンダ・スワミ・プラブパーダ睨下による、現代の科学と科学者のいくつかの支配的な方針、理論、および仮定に関する、即興でありながら見事な批評です。シュリーラ・プラブパーダの鮮やかな分析は、生命の起源と目的に関する現代もてはやされている学説の底流にある、隠れた、そして明らかに根拠のない仮定を露わにします。

第2段落

この本は、シュリーラ・プラブパーダがロサンゼルス地域で1973年に何人かの弟子と朝の散策の折に交わした会話の録音テープに基づいています。科学に焦点を当てた朝には、シュリーラ・プラブパーダは主に弟子のソーダム・D・シング博士と話しました。有機化学者であるシング博士は、現在は、科学、哲学および進学における高度な研究と調査のための国際センターであるバークティヴェダーンタ協会を指揮しています。

第3段落

世界のどこに居合わせようと、シュリーラ・プラブパーダは毎日早朝の肌寒い静けさの中で長い散歩にいらっしゃいました。そして、暖かい毛布にくるまって、少数の生徒、弟子、および特別な客人と一緒に親密な時間を共有なさいました。ときには、彼は沈思黙考や周囲を静かに楽しむことにふけり、ほとんど対話のない朝もありました。別のときには、彼は様々な主題に関して、しばしば相当の熱意をもって、大いに語りました。これらの生き生きとした会話の間に、彼は、哲学的な分析は退屈で難解なものである必要はなく、人生のすべての側面への動的な刃先でありうる、ということを実証なさいました。彼の鋭い知性、深い霊的な理解および非凡な英知を逃れることのできるものはありませんでした。表面的で教条的な考え方を退け、彼は自分の生徒たちを啓発し、挑戦し、おだて、魅了し、教化しました。そして彼は注意深く彼らをより深い洞察と理解に導きました。

第4段落

シュリーラ・プラブパーダ(1896-1977)は、国際的に認められた著者、学者、ならびに霊的な教授者です。また、彼はインドの世界に対する最も偉大な文化大使であるとして広く尊敬されています。「生命は生命より来たる」の中で、シュリーラ・プラブパーダは哲学者・社会批評家の役割を演じられます。哲学的な厳格さ、卓越した常識、および心を和らげる率直さをもって、彼は現代科学の方法論的な欠点と調査されていない偏見だけでなく、信じやすい大衆に科学者が既知の事実として提供する立証されていない(そして立証され得ない)推察をも白日の下にさらします。こうしてシュリーラ・プラブパーダは、科学と偽って現代の文明を惑わせた、物質的で虚無的な社会通念の魔法を解きます。

―――出版者


はじめに―――科学:真実と虚実

第1段落

「科学の絶え間ない進歩の結果、生命は永遠であるが物質はそうではない、と科学者たちが結論づけることにならないと誰が言えるだろう。今から一万年の後に、物質は生命より生じた可能性が高い、と科学者たちが考えないと誰が言えるだろう。」―――ルイ・パスツール

第2段落

昔々、(おとぎ話のように、)私たちのほとんどは、私たちの食べるものは基本的に健康的で栄養があって、危険な化学物質は含まれない、と、そして広告は信用できる、と、そして製品のラベルは私たちの食べるものの品質と内容物を正しく描写していると信じていました。昔々、世界のほとんどは私たちの国家の指導者たちや位の高い政治的な役人たちや地方の指導者たちの高潔さを信じていました。昔々、私たちは自分たちの子供たちは公共の学校でしっかりした教育を受けていると信じていました。昔々、私たちの多くは、原子力エネルギーは完全に安全で、かつ幸せで健康的な社会と調和した「平和時の用途」があると信じていました。

第3段落

しかし、近年では私たちの幻想は粉々にされました。蔓延した消費者詐欺、大規模な政治スキャンダル、および有害廃棄物の投棄の繰り返しは、私たちのかつての無邪気さを完全に破壊しました。私たちは今では、マスメディアを通じた空前の専門技術によってファンタジーと誤魔化しのヴェールが作られ、実体と仮想、現実と幻想の区別をつけるのを不可能にしていることを知っています。

第4段落

階層としての科学者たちは、長い間不実さから免除されて、自分たちの象牙の塔に守られて座っていました。他のすべての分野の中で、科学は真実を捜し求める者たちと分け与える者たちにとって、究極の会合の場であるとみなされていました。現代の科学の輝かしい技術的な達成は、科学に絶対的な確実性のオーラを与えました。「地上の道」(Passages About earth)の中で、ウィリアム・アーウィン・トンプソンは次のように書いています。「かつて天罰の危険を冒すことなく宗教の力から逃れることができなかったように、今では非合理あるいは狂気の罪という危険を冒すことなく科学の力から逃れることはできない。」しかし、学術界、産業界、および政府の重要な地位にある科学者たちは、彼らが実際に個人的な信念と野心を自分の研究と混同し、そうして結果を変える力があるということを示しました。

第5段落

これが起こるとき、私たちはもはや真実の探求を相手にしているのではなく、偽物の科学とその結果たる様々な歪みや作り事や偽りの情報を相手にしています。不幸にして、この非科学的な方法は科学の最も基礎的な探求―――生命の特質と起源に当てはめられました。しかし、科学者が生命の起源に関する、試験されておらず立証もし得ない推察を提示するとき、人々はそれらを盲目的な信頼をもって受け入れがちです。

第6段落

一部の科学者は、人間は単なる意識のない分子の寄せ集めであるという概念を広めています。しかし彼らは、どうやって単なる分子が愛する人を見て喜びを感じるのか、あるいはその死によって動揺するのかを説明することができません。

第7段落

ロサンゼルス自然歴史博物館における最近の展示会では、それぞれ人体に見られる化学物質を入れたいくつものフラスコとビーカーを展示していました。説明書きには、これらの化学物質は人体のすべての内容物を正しい重さと割合で表しているけれど、それらは生命であるとは考えられず、いかなる科学的な操作をもってしてもこれらに命を吹き込むことはできない、と説明してありました。

第8段落

「原子反応」の著者、マイケル・ポリアンニは次のように述べています。「現在の生物学は、生命の過程を化学と物理学によって説明することができるという仮定に基づいています。そしてもちろん物理学と化学は究極的には原子の粒子間で働く力によって表されています―――これが人間を無感覚な自動装置、あるいは食欲の塊にまで引き下ろした、私たちの人間に関する概念の崩壊の原因です。これが、科学がいともたやすく全体主義的な暴力を支えるように行使される理由です。これが、科学が危険な誤信の最も重大な源になった原因です。」

第9段落

今日では、多くの科学者が生命は物質から生じるという教義を広めています。人気のある研究や教科書は、生命は徐々に化学物質から、アミノ酸とたんぱく質と他の必要不可欠な材料からなる「原初のスープ」から生じた、と断定しています。しかし、科学はこの証拠を実験的にも理論的にも示すことができません。事実、これらの科学者は、様々な科学的な反論を前にしてさえ、彼らの立場を本質的には信仰に基づいて維持します。物理学者ヒューバート・ヨッキーは、情報理論によって、サイトコームなどのたった一つの情報分子でさえ、(複雑な生命体は言わずもがな、)推定された地球の年齢の間に偶然によって生じたことはあり得ないと論証しました。「人は、確立された現在の知恵に反し、信仰ではなく事実に基づいて受け入れられるところの、地球上の生命の起源を偶然と自然な要因によって描写する筋書きは未だ書かれていない、と結論しなければならない。」

第10段落

同様に、一部の科学者たちは太陽や星や惑星や銀河や意識ある生命が突然「ビッグ・バン」から弾け出たという、広く受け入れられた信仰(belief,考え)を奨励しています。プリンストン大学の生物学者エドウィン・ゴッドウィン博士は、私たちのそれのような惑星が「ビッグ・バン」から生じる確率を、印刷工場における爆発の結果として完全な辞書が出来上がる可能性になぞらえています。

第11段落

有名な生物学者W.H.ソープは次のように書いています。「私たちは、宇宙の起源のように、生命の起源が科学にとっての破られえない境界線、および生物学と化学と物理学へ変形させようとするすべての試みに抵抗する障害物になる可能性に直面するかもしれない。」そしてアインシュタインはこう述べます。「科学を追究することに真剣に関わる者は誰しも、宇宙の法則の中に霊が―――人間よりはるかに優れた霊が―――顕現していることを確信するにいたる。そしてそれに対峙したとき、自分たちの慎ましやかな力を前に、私たちは卑小に感じざるを得ない」

第12段落

「生命は生命より来たる」は、生命は原子と分子に変形され得ない、そして物質―――生命力、あるいは霊の無い―――は、いかなる形であれ生命を生じさせることはできないという単純な論理を立証します。また、この本が科学者をして、真実と知識のためのもっと本物で熱心な探求に自らを改めて捧げさせ、そうして彼らの価値ある知性と資源と研究を世界の本当の利益のために向けなおすことも望まれています。

ソーダム・ダモダラ・シング博士 

朝の散策―――1

1973年4月18日、ロサンゼルスのチェヴィオット・ヒルズ公園にて録音

シュリーラ・プラブパーダの同行者は、ソーダム・ダーモダラ・シング博士、カランダーラ・ダーサ・アディーカーリー、ブラーマーナンダ・スヴァーミーおよび他の生徒たち。

1.「他の惑星上の生命」

シュリーラ・プラブパーダ(以下、SP):太陽や月にさえ生命体がいます。科学者の意見は何ですか?

シング博士(以下、Dr.S):彼らは、そこには生命はいないと言います。

SP:それは無意味です。そこには生命が存在しているのです。

Dr.S.:彼らは、月では生命を見つけられなかったから月には生命はいない、と言います。

SP:なぜ彼らはそんなことを信じるのですか?月という星は埃で覆われていますが、その埃の中に生命体は住むことができます。すべての環境は生命に適しています。どんな環境でもです。したがって、ヴェーダ(脚注1)は生命体をサルヴァ・ガターと描写します。「すべての状況において存在する」という意味です。生命体は物質ではありません。物質の体の中に閉じ込められてはいますが、物質ではありません。しかし、私たちが異なる環境のことを語るとき、私たちは異なる物質的な環境を指します。

カランダーラ:彼らは、月の環境は生命には適さない、と言います。しかし、彼らが道理的に言えるのは、それは私たちが知っているような生命には適さないということです。

SP:ヴェーダは、生命体は物質的なものとは何の関係もない、と言います。生命体は焼かれたり切られたり乾燥したりふやけたりすることはありません。これはバガヴァッド・ギーター(脚注2)において論じられています。

Dr.S:科学者たちは、この惑星における生命に関する彼らの知識を拡張します。それは他の惑星の生命にも当てはまるに違いないと考えているのです。

SP:そうです。彼らは何よりもまず自分たち自身のことを考えています。彼らは、自分たちの状況から推し量って、有限な考え方をしているのです。これは私たちが「カエル博士の哲学」と呼ぶものです。(笑)

昔々、井戸にカエルがいました。友達が大西洋の存在について教えたとき、彼は友達に尋ねました。
「ほう、その大西洋というのは何ですか?」
「とても大きな水たまりです」と友達は答えました。
「どれくらい大きいのですか?この井戸の2倍くらいですか?」
「いえ、いえ―――もっともっと大きいのです」と友達は答えました。
「何倍くらい大きいのですか?10倍くらいですか?」
このようにしてカエルは計算を続けました。しかし、こうすることで大洋の広大さを理解できる可能性があるでしょうか。私たちの才能、経験、推察の力は非常に有限です。科学者たちの推察は、そのようなカエルの哲学を生むだけです。

カランダーラ:彼らが「科学的な誠実さ」と呼ぶものの基本は、彼らが直接経験できることだけについて語ることです。

SP:あなたはあなた自身の経験について語るかもしれず、私は私自身の経験について語るかもしれません。しかし、なぜ私はあなたの経験を受け入れるべきでしょうか。あなたは愚か者であるかもしれません。では、なぜ私もまた愚か者になるべきでしょう?あなたはカエルであるかもしれませんが、私はクジラであると仮定しましょう。なぜ私があなたの井戸を存在のすべてとして受け入れるべきでしょうか。あなたはあなたなりの科学的な知識を得る方法を持っています。そして私は私の方法を持っています。

Dr.S.:科学者たちは月の表面に水を見出していないので、彼らはそこでは生命は生存し得ないと結論しました。

SP:彼らは月の表面をすべて見たわけではありません。たとえば、誰かが他の惑星からここに来たとして、アラビア砂漠に着陸してから家に帰ったと仮定しましょう。彼は地球全体の性質について完全な結論に達することができるでしょうか。彼の知識は完全ではあり得ません。

カランダーラ:彼らは水を察知する機器を持っています。彼らはそれを月の軌道に乗せて周回させ、そして月には水がないので従って生命もないと結論しました。

SP:たとえ太陽の上のように水がないように見えるところにも、それでもそこに生命体はいます。サボテンは一見水がないように見える砂漠でどうやって育つのですか?

カランダーラ:大気中から水分を得るのです。

SP:そうです。大気には生命を維持するためのすべての要素―――土、水、火、空気とエーテルが含まれているからです。あらゆる物質的な物の中には、これらの要素のすべてが存在します。たとえば、見ることはできませんが、私の体の中には水があります。同様に、あなたは私の体の中の火を見ることはできませんが、それでも私の体は温かいのです。この温かさはどこから来るのでしょうか。あなたはいかなる火も見ることはできません。あなたは私の体の中で燃えている火を見ることができますか?では、どこから温かさが来るのですか?答えは何ですか?

2.「原子の中の宇宙」

SP:すべての物質は5つの密度の濃い要素(土、水、火、空気、およびエーテル)および3つの密度の薄い要素(心、知性、および偽りの自我)の組み合わせです。

カランダーラ:ヴェーダの科学によると、物質エネルギーは偽りの自我に始まり、それから知性へ、そして心へ、そして密度の濃い要素―――エーテル、空気、火などに発達します。ですから、同じ基本的な要素がすべての物質に存在します。これが正しいですか?

SP:はい。物質宇宙の創造は、偉大なバンヤンの木(脚注3)が小さな種から育つようなものです。誰も種の中に木を見ることはできませんが、木にとって必要な材料のすべてはそこにあります。それには、必要とされる知性も含まれます。実際、すべての者の体は単に宇宙のサンプルなのです。あなたの体と私の体は、異なる宇宙、小さな宇宙なのです。したがって、私たちの体の中には8つの要素のすべてが存在します。それらが宇宙全体に存在するのとちょうど同じように。同様に、虫の体は別の宇宙です。

カランダーラ:原子はどうですか?

SP:同じ公式が当てはまります。これらの構成物質のすべてが原子の中にもあります。(サンスクリット引用))(カサ・ウパニシャッド1.2.20)これは、何かが極度に大きくても微細であっても、それがやはり同じ基本的な要素から作られているということを意味します。これは物質世界のどこにおいても真実なのです。ちょうど女性の小さな腕時計にもそれが滑らかに機能するのに必要なすべての機器が備わっているように、アリにも自分の用事をうまく管理するのに必要な脳の成分があります。どうしてそれが可能でしょうか?これに正しく答えるためには、あなたはアリの脳細胞を精密に調べなければなりません。しかし、あなたにはそれはできません。さらに、アリよりも小さな虫が無数に存在するのです。つまり、これらすべての詳細な活動のための機械的な配剤が存在していなければなりませんが、科学はそれを発見することができません。

3.「相対性と知識」

SP:すべての生命体は、4つの原則―――食べること、眠ること、性交、防衛―――を実行するのに必要な知性を備えています。これらの4つの原則は、原子にさえ存在します。人間における唯一の違いは、人には神を理解するための付加的な知性があるということです。これが違いです。(サンスクリット引用)食べること、眠ること、性生活および防衛はどこででも見られます。あなたは木が育つのを見たことがあります。コブがあるところでは、幹はこっちには行かず、あっちに行きます。(シュリーラ・プラブパーダ、木の幹がコブの上ではなくその周りに育つ仕草をする。)木には知性があります。「もしもこっちに行けば、私は阻まれるだろう。だからあっちに行こう。」しかし、木の目はどこにありますか?どうやって見ることができるのでしょう?木は知性を持っているのです。その知性はあなたのほど良くはないかもしれませんが、それは知性なのです。同様に、子供にも知性があります。しかし、彼の父親のそれほどは発達していません。やがて時が来てその子供が彼の父親のそれに似た体を得るとき、子供の知性は完全に発達して表面化します。

Dr.S:それでは知性は相対的なのですね。

SP:そうです。すべては相対的です。あなたにはあなたの体とあなたの寿命とあなたの知性があり、アリにはアリのそれがあります。私たちもアリも百年生きますが、私たちの百年の寿命は私たちの体に比例したものです。この宇宙で最も寿命の長いブラーマーでさえ、100年生きます。私たちにはアリの寿命はほんの2-3日に見えるかもしれません。同じように、地球とは異なる環境を持つ別の天体には、それらの状況に適した生命形態が存在します。しかし、科学者たちはすべてを地球という天体の相対的な状況に沿って見ようとします。これは無意味なことです。なぜ彼らはそうしているのでしょうか?もしも宇宙の顕現全体が相対性の法則にのっとっているなら、どうして科学者たちはこの天体の状況が他の天体の生命に当てはまるに違いないといえるのでしょうか?

ヴェーダは私たちに、知識は常にデシャ・カーラ・パートラに基づいて考慮されなければならない、と教えます。デシャは「状況」を意味し、カーラは「時間」を意味し、パートラは「対象」を意味します。私たちはすべてのことをこれらの3つの要素を考慮に入れることによって理解しなければなりません。たとえば、魚は水の中でとても快適に暮らしていて、私たちは海岸で凍えています。これは私のデシャ・カーラ・パートラと魚のデシャ・カーラ・パートラが異なるからです。しかし、もしも私たちがカモメもまた水中で凍えると結論付けるなら、それは無意味です。彼らのデシャ・カーラ・パートラもまた異なるのです。物質宇宙の顕現の中には840万の異なる種類の生命が存在します。そしてそれぞれの種が状況に対して異なるふうに適応しなければなりません。この惑星においてさえ、あなたはアラスカに行って快適に暮らすことはできません。そこもアメリカであるにも関わらずです。同様に、アラスカで生活を楽しんでいる生命体はここには来ません。

カランダーラ:では、相対性は私たちの個々の状況に基づいているのですね。

SP:そうです。したがって、ある者にとって食物であるものは別の者にとっては毒である、と言われます。

ブラーマーナンダ:科学者たちは、自分たちが月で生存できないので他の誰も生存できないと考えます。

4.「86億年の一日」

DrS:世界の問題は、ほとんどすべての人が自分自身の状況だけに基づいて考えているということです―――そしてそれは無意味なことです。

生徒:自分の村から一度も出たことのない者は、自分の村が全世界だと考えます。

SP:そうです。カエルはいつも自分の井戸との相対性に基づいて考えています。彼にはそれ以外の方法で考える力がありません。海は巨大ですが、彼は海の巨大さを自分自身の大きさとの相対性に基づいて考えています。同様に、神は偉大ですが、私たちは神を相対的な偉大さ、すなわち私たち自身のそれと相対的な偉大さに基づいて考えています。ある種の虫は夜に生まれ、彼らは朝が来る前に育ち、子供をもうけ、そして死にます。彼らは決して朝を見ることがありません。ですから、もしも彼らが朝は存在しないと結論づけるなら、それは無意味です。同じように、シャーストラ(明かされた聖典)にブラーマーの寿命が私たちの何百万年にも相当すると書いてあるのを知ると、私たちは直ちに不信の念を持ちます。私たちは、「どうしてそんなことがあるでしょうか」と言います。しかし、バガヴァッド・ギーター(8.17)には、(サンスクリット引用)と書いてあります。「地球の43億年がブラーマーの12時間に当たります。」ギーターの偉大な学者として知られていたインドの主要な政治家でさえ、この情報を受け入れることができませんでした。彼はこれが心理的な推察であると言いました。なんという悪者でしょう!それでも彼は重要な学者として通っているのです。悪者と愚かな者たちが学者や科学者や哲学者として通っていて、そのために全世界が誤って導かれているのです。

朝の散策―――2

1973年4月19日、ロサンゼルスのチェヴィオット・ヒルズ公園にて録音。

シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、カランダーラ・ダーサ・アディーカーリー、ブラーマーナンダ・スヴァーミーおよび他の生徒たち。

1.「ダーウィン主義の絶滅」

SP:この物質世界は、どこででも働いている3つの性質―――サットヴァ、ラジャス。およびタマス(徳、熱情、無明)の組み合わせです。これらの三つの性質は、すべての種の生命において様々な割合で存在しています。たとえば、ある種の木々はおいしい果物を実らせますが、他のものは単に薪に向いているだけです。これは自然の特定の性質との関わりによるものです。動物の中においても、これらの三つの性質は存在します。牛は徳の性質にあり、ライオンは熱情の性質にあり、猿は無明の性質にあります。ダーウィンによれば、ダーウィンの父親は猿です。(笑)彼は愚かな理論付けをしました。

DS:ダーウィンは、一部の種は生存のための苦闘の中で絶滅すると言いました。生き延びる力のある者は生き延びますが、そうでないものは絶滅します。ですから彼は生存と絶滅は表裏一体であるといいます。

SP:絶滅したものはありません。猿は絶滅していません。ダーウィンの直径の先祖である猿は今も存在しています。

カランダーラ:ダーウィンは、自然の選択があるに違いないと言いました。shかし、選択とは選ぶことを意味します。では、誰が選んでいるのですか?

SP:それは人格(のある存在)でなければなりません。ある者は生存して別の者は殺されることを、誰が許しているのでしょうか。そのような命令をする、思慮分別を備えたなんらかの権威が存在しなければなりません。それが私たちの最初の提案です。その権威が誰であるかは、バガヴァッド・ギーターに説明されています。クリシュナは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「自然は私の指揮監督の下で働いています。」(BG9.10)

DS:ダーウィンはまた、異なる種は同時に作られたのではなく、徐々に進化した、とも言いました。

SP:では、進化の過程がどのように始まったかということに関する彼の説明は何ですか?

カランダーラ:ダーウィン主義の現代の支持者は、最初の生命体(living organism)は化学的に作られたと言います。

SP:そして私は彼らにこう言います。「もしも生命が化学物質から生じたのならば、そしてもしもあなたがたの科学がそれほど進歩しているのであれば、ではなぜあなたがたが自分の実験室で生化学的に生命を作り出すことができないのですか?」

2.「未来において」

カランダーラ:彼らは、未来において生命を作り出すと言います。

SP:いつの未来ですか?この大変重要な点が挙げられるとき、彼らは「私たちは未来においてそうします」と答えます。なぜ未来なのですか?それは無意味です。「未来を信用するな。それがいかに素敵なものであっても。」(ことわざ)もしも彼らがそんなに発達しているなら、彼らは生命がいかにして化学物質から作られるか、今やってみせなければなりません。そうでなければ、彼らの発達の意味は何でしょうか?彼らは無意味なことを話しているのです。

カランダーラ:彼らは、自分たちは創造のほんの一歩手前にいると言います。

SP:それは単に同じことの、「未来において」ということの、異なる言い方でしかありません。科学者たちは、自分たちがいまだに生命の起源を知らないということを認めなければなりません。すぐに生命の化学的な起源を証明するという彼らの主張は、誰かに後付けの小切手を切るようなものです。例えば、私があなたの1万ドルの後付け小切手を切るけれど、実際は私は全くお金を持っていないと仮定しましょう。その小切手の価値は何でしょうか?科学者たちは、自分たちの科学はすばらしいと主張していますが、現実的な例が求められるとき、彼らはそれを未来において提供すると言います。

例えば、次のように仮定しましょう。私が何百万ドルも持っていると言って、あなたが私にいくらかのお金を求めるとき、私は「はい、今、私はあなたに巨額の後付け小切手を切ってあげます。それでいいですか?」と言います。もしもあなたが知性的であるなら、あなたはこう答えます。「今は、少なくとも現金で5ドルをください。実体のなる何かを見ることができるように。」同様に、科学者たちは実験室の中で草の葉の一枚も作り出せません。それなのに、彼らは生命は化学物質から作られると言うのです。この無意味な話は何ですか?誰もこれに疑問を持たないのですか?

(訳注:日本では小切手は一般的ではありませんが、西洋では小額の支払いの方法として一般的です。通常はその日の日付を書き、受け取った人は銀行などに持っていって換金します。そのときに額面の分のお金が引き落とされるので、当然、小切手を書いた人の口座にお金が入っていなければなりません。しかし、例えば今はお金がないけれど2週間後にはお金が入るということが分かっている場合には、あらかじめ2週間後の日付を書いて渡します。これを後付け小切手といいます。)

カランダーラ:彼らは、生命は科学の法則によって作られると言います。

SP:法則(法律)が存在するときは直ちに、私たちはだれかがその法を作ったということを考慮しなければなりません。彼らのすべてのいわゆる発展にも関わらず、実験室にいる科学者たちは草の葉の一枚さえ作り出すことができません。彼らは一体どんな科学者なのですか?

DS:彼らは、究極の解析においてはすべてが物質から生じた、と言います。生命のある物質は生命のない物質から生じたと言うのです。

SP:では、今は生命のある物質はどこから来ていますか?科学者たちは、過去においては生命は物質から生じたけれど、今はそうではないと言うのですか?今はアリはどこから来るのですか―――土からですか?

3.「欠けた継ぎ目」(missing link)

DS:実際のところ、生命がいかにして物質から生じたか、生命のある物質がいかにして生命のない物質から生じたかについては、いくつかの理論があります。

SP:(Dr.シングを物質主義的な科学者の役割にあてはめて)いいでしょう、科学者さん。なぜ今、生命は物質から生じていないのですか?あなたは悪者(rascal)です。なぜ生命は今は物質から生じているのですか?

(訳注:ラスカルというのは、ろくでもない人を指す言葉です。やや古びた言い方で、あまり一般的ではありませんが、プラブパーダは好んでお使いになります。翻訳では一様に「悪者」としています。)

実際にそのような科学者たちは悪者です。彼らは、なんとも子供じみたことにも、生命は物質から生じたと言います。彼らには全くそれを証明することができないにも関わらずです。私たちのクリシュナ意識運動は、これらすべての悪者たちを暴露すべきです。彼らは単にはったりで騙しているのです。なぜ彼らは直ちに生命を作り出さないのですか?彼らは、過去において生命が物質から生じたといいます。そして彼らは、これがまた未来において生じるとも言います。彼らは自分たちが物質から生命を作り出すとも言います。これは一体、何という理論ですか?彼らはすでに生命は物質から生じたと表明しました。「生じた」―――これは過去に言及するものです。では、なぜ彼らは今、未来のことを語るのですか?それは矛盾ではありませんか?彼は過去が未来に起こることを期待しているのです。これは子供じみた無意味な話です。

カランダーラ:彼らは、過去において生命は物質から生じ、彼らはそのようにして未来において生命を作り出すと言います。

SP:この無意味なことは一体何ですか?もしも彼らが生命は現在において物質から生じると証明できないなら、どうやって彼らは生命が過去においてそのように生じたと知るのですか?

DS:彼らは推察しているのです。。。

SP:誰でも推察することができます。しかし、これは科学ではありません。誰もが何かを推察することができます。あなたは何かを推察でき、私も何かを推察できます。しかし、証拠が存在しなければなりません。私たちは生命は生命から生じると証明することができるのです。例えば、父親は子供をもうけます。父親は生きており、子供も生きています。しかし、父親が死んだ石でありうるという証拠はどこですか?彼らの証拠は一体どこにあるというのですか?私たちは、生命は生命から始まると容易に証明することができます。そして、原初の生命はクリシュナです。それもまた証明され得ます。しかし、子供が石から生まれるということにどんな証拠があるのですか?彼らは、生命が物質から来たるということを実際に証明することはできません。彼らはそれを未来に後延ばしにしているのです。(笑)

カランダーラ:科学者たちは、彼らは今では酸を、アミノ酸を編み出すことができると言います。それはほとんど単細胞生物のようなものです。彼らは、これらの酸は生命に非常によく似ているので、彼らが生命を作り出せる前には単に一つの継ぎ目が欠けているだけだと言います。

SP:無意味なことです!欠けている継ぎ目。私は彼らに面と向かって挑戦しましょう!(笑)彼らに欠けているのは、この挑戦です。欠けている継ぎ目は、面と向かって彼らに向けられるこの挑戦です。

4.「ロバのためのノーベル賞」

DS.ある科学者たちは、未来において彼らは試験管の中で赤ん坊を作ることができるようになると望んでいます。

SP.試験管?

DS.そうです。彼らは男性と女性の要素を生物学的な実験室の中で組み合わせようとしているのです。

SP.もしも彼らが生命体を使って始めるなら、この試験管の目的は何ですか?それは単なる組み合わせの場所です。しかし、子宮もそうです。もしもこれがすでに自然の試験管の中でなされているなら、科学者たちの栄誉はどこにあるのですか?

カランダーラ:それはすでに自然によってなされていますが、誰か科学者がそれをすると、人々は彼にノーベル賞を与えるのです。

SP.そうです。それはシュリマッド・バーガヴァタムに述べられています。9サンスクリット引用)(脚注4)この節は、動物のような者たちを称える者は犬や豚やラクダやロバより優れた者ではない、ということを示しています。「シュヴァ」は「犬」を意味し、「ヴィドヴァラーハ」は「フンを食べる豚」を意味し、「ウシュトラ」は「ラクダ」を意味し、「カーラ」は「ロバ」を意味します。もしもノーベル賞が悪者である科学者に与えられるならば、彼にその賞を与える委員会の人々は、犬や豚やラクダやロバよりも優れたものではありません。私は彼らを人間としては受け入れません。ある動物が別の動物によって称えられているのです。それのどこに栄誉があるのですか?もしも委員会の人々が動物よりも優れたものでないなら、科学でノーベル賞を受賞する人は誰であれ一番の愚か者です。人間ではなく動物たちが彼を称えているからです。

DS:一部の科学者にとって、ノーベル賞は究極です。

SP:彼らは悪者です。彼らは無意味なことを話しており、彼らが言葉を巧みに操っているので、他の者たちは誤って導かれているのです。

ブラーマナンダ:ノーベルはダイナマイトを発明した人です。

SP:彼は大きな不幸を作り出し、自分のお金を更なる不幸を作るために残しました。(笑)

ブラーマナンダ:ギーターには、悪魔的な人々は世界を滅ぼすことになる活動をする、と書かれています。

SP:そうです。(サンスクリット引用)(BG16.9)彼らは、不運と世界の滅亡につながる行いをするのです。

5.「生きているものと生きていないものの違い」

(シュリーラ・プラブパーダ、杖で枯れた枝を指す)
SP:かつて、この木から葉や小枝が育っていました。今は育っていません。科学者たちはこれをどう説明しますか?

カランダーラ:彼らは、木の化学的な組成が変化したのだと言うでしょう。

SP:その理論を証明するためには、彼らは葉や小枝が再び育つことができるように、正しい化学物質を注入することができなくてはなりません。科学的な方法には、観察、仮説、そしてその後に実証が含まれます。そうすれば、それは完璧です。しかし、科学者たちは生命が物質から来たるということを彼らの実験室において実際に実証することができません。彼らは単に観察して、そして無意味なことを話します。彼らは子供のようなものです。私たちの子供時代において、私たちは蓄音機を観察し、箱の中には歌を歌う人が、電気人間が入っていると考えました。私たちは、その中には電気人間か、何かの幽霊が入っているに違いないと考えていました。(笑)

DS:私たちが生物学を学び始めるとき、よく浮かぶ疑問の一つは「生きた体と生きていないものの違いは何か」というものです。教科書には、両者を区別する主要な特徴は、生命体は動いて再生産することができ、一方で死んだ物質はどちらもできないということだ、と書いてあります。しかし、本には決して魂の特徴や生命体の意識については書いてありません。

SP:しかし、意識は生命が存在することの主要な指標です。意識があればこそ生命体は動いて再生産をすることができます。人は意識があるので結婚することや子供をもうけることを考えます。そして原初の意識はヴェーダに描写されています。(サンスクリット引用)(チャーンドグヤ・ウパニシャッド6.2.3)これは、神、すなわち原初の意識ある存在が「私は多くになるであろう」と言ったということを意味します。意識なくしては、副産物の可能性はありません。

6.「個々の生命力」

SP:庭師は緑の木に水をやります。では、なぜ彼らはこの枯れた木に水を与えて緑にしないのですか?

DS:経験から、彼らはそれが育たないと知っているんどえす。

SP:それでは、欠けている要素は何ですか?科学者たちは、化学物質が生命の根源であると言います。しかし、この木が生きていたときに存在していたすべての化学物質はまだそこにあります。そしてこれらの化学物質は、今も微生物や虫などの多くの生命体の命を支えています。ですから、彼らは木の体の中に生命エネルギーが欠けているということはできません。生命エネルギーはそこにあります。

DS:しかし、木そのものの生命エネルギーについてはどうですか?

SP:そうです。それが違いです。生命力は独立した存在であり、木であった特定の個たる生命体は去りました。そうでなければならないのです。生命を支えるのに必要なすべての化学物質はまだそこにあり、それにも関わらず木は枯れています。

ここにもう一つの例があります。私がアパートに住んでいて、それからそこを出ると仮定しましょう。私はいなくなりましたが、他の多くの生命体はそこに留まります―――アリ、クモなどです。ですから、単に私がアパートを去ったからそれはもはや生命を維持することができないというのは真実ではありません。他の生命体はまだそこに住んでいます。ただ単に私が―――一つの独立した生命体が―――去ったというだけなのです。木の中の化学物質はアパートのようなものです。それらは単に個々の生命力―――魂―――がそれを通して活動するところの環境に過ぎません。そして魂は個別の存在です。私は個人であり、そのため私はアパートを出るかもしれません。同様に、微生物もまた個人です。彼らには個々の意識があります。もしも彼らがある方向に向かって動いていて、しかし何らかの原因でさえぎられるなら、彼らは「別の方向に行こう」と考えます。彼らには人格があるのです。

カランダーラ:しかし、死体には人格はありません。

SP:これは個別の存在である魂がその体を去ったことを示しています。魂が去り、したがって木は育ちません。

DS:シュリーラ・プラブパーダ、生きた体の中には無数の小さな生命体がいます。しかし、その体を所有する個別の自我もまたそこに住んでいます。これは正しいですか?

SP:はい。私の体の中には無数の生命体がいます。私の内臓の中には多くの寄生虫がいます。もしも彼らが強くなれば、そうすれば私が食べたものは何でも彼らが食べ、そして私は食べ物から何の利益も得ません。したがって、十二指腸虫を山ほど抱えている人は、たくさん食べますが育ちません。彼らはやせ細り、ひどくおなかを空かせています。これらの小さな生命体が彼らの食物を食べているからです。私の体の中には無数の生命体がいます―――彼らは個別の存在であり、私も個別の存在です―――しかし、私は体の所有者です。ちょうど、私が無数の生命体の住む庭の所有者であるかもしれないようなものです。

生徒:では、もしも私がクリシュナ・プラサーダ(主クリシュナに捧げられた食べ物)を食べれば、私の体の中の生命体もまたプラサーダを食べているのですか?

SP:そうです。あなたは非常に情け深いのです。(笑)あなたは他者のためにクリシュナ・プラサーダを食べます。

カランダーラ:福祉ですね。

SP:そうです。しかし、あなたの中には彼らの食べるものがたくさんあるので、あなたは彼らに食べさせるために別の努力をする必要はありません。

7.「最小限の言葉、最大限の解決策」

SP:個々の魂は決して失われることがありません。彼は死ぬことも生まれることもありません。彼は単にある体から別の体へ移ります。ちょうど人が衣類を変えるようなものです。これは完璧な科学です。

DS:しかし、なぜ科学者たちはこれを受け入れないのですか?

SP:彼らは良い人たちではないのです。彼らは悪者です。彼らは紳士でさえありません。ある状況の下にあっては、紳士はいくらかの慎ましさや、いくらかの羞恥心を持ちます。しかし、これらの人々は恥知らずです。彼らは私たちの挑戦に正しく答えることができず、それでも恥知らずにも自分たちは科学者であって生命を作り出すであろうと主張します。彼らは紳士でさえありません。少なくとも、私は彼らをそのようにみなします。紳士は無意味なことを話すのを恥じるものです。

DS:彼らは話す前に考えません。

SP:それは彼らが人間ではないということを意味します。人間は何か言う前に2度考えます。(訳注:よく考える、という意味の表現)クリシュナは、体の中の生命の存在をとても分かりやすくしてくださいます。主は次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「体に閉じ込められた魂が絶え間なくこの体の中を若者から老齢へと通り過ぎるように、同様に魂は死の際に別の体へ入ります。自己を認識した魂は、そのような変化によって惑わされません。」(BG2.13)これらの2節の中で、クリシュナは生物学的な問題のすべてを解決なさいます。それが知識です。最小限の言葉、最大限の解決策。無意味なことを詳述している何巻もの本は何の意味も持ちません。物質主義的な科学者は、ケロケロと鳴いているカエルのようなものです。ケロケロケロ、ケロケロケロ。(シュリーラ・プラブパーダはカエルの鳴きまねをし、他の者たちは笑う。)カエルたちは、「私たちはとても素敵に話している」と考えています。しかし、その結果、蛇が彼らを見つけて言います。「おお、ここに素敵なカエルがいる!」(シュリーラ・プラブパーダは、蛇がカエルを食べる物音を真似する。)ガブリ!おしまいです。死が来るとき、すべては終わります。物質主義的な科学者たちは、鳴いています―――ケロケロケロ―――しかし、死が来るとき、彼らの化学的な努力は終わります。そして彼らは犬や猫や、そのような何かになるのです。 

1973年4月28日、ロサンゼルスのチェヴィオット・ヒルズ公園にて録音。

シュリーラ・プラブパーダの同行者はDr.シング、カランダーラ・ダーサ・アディーカーリーおよび他の生徒たち。

1.「泥棒としての科学者」

SP:(手にバラの花をもって)このような花を実験室で作ることのできる科学者はいますか?

DS:それは可能ではありません。

SP.その通りです。不可能です。御覧なさい、クリシュナのエネルギーのなんとすばらしく働いていることか!このような花を実験室で作ることのできる科学者はいません。彼らは砂の二粒三粒さえ作ることができません。それにも関わらず彼らは宇宙の中で最も進んだ知性を持っていると主張します。これは愚かです。

DS:彼らはクリシュナから物質を取り、それを操作して、そして他ならぬ自分たちが何か素晴らしいものを作り出したと主張します。

SP:少なくとも、もしも彼らが自分たちはクリシュナから物質を取ったのだと認めるなら、それは良いことです。私たちは、すべてはクリシュナから生じたと理解しています。

DS:しかし、彼らはクリシュナから何かを取っていると認めません。その代わり、彼らは自分たちこそが創造者であると言います。

SP:どうやって彼らが何かを作り出したというのでしょう?彼らは砂を取り、何かの化学物質と混ぜてガラスを作ります。彼らは砂も化学物質も作りませんでした。彼らはそれを地球から取ったのです。彼らがどうやって何かを作り出したというのでしょう?

DS:彼らは「私たちは自然から材料を取った」と言います。

SP:「自然から」とは、人格のある者から、ということを意味します。彼らは自然から取りましたが、自然の中のすべてはクリシュナに所属するので、彼らは泥棒です。(サンスクリット引用)「すべては神の創造である。」(イショパニシャッド1)バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナは、もしも人がヤジナ(犠牲)を行わないならその人は泥棒である、とおっしゃいます。ヤジナとは、物がクリシュナから取られたことを認めることを意味します。私たちは次のように考えるべきです。「クリシュナ、あなたは私たちの維持のために非常に多くのものを下さいました。」ただこれだけの認識をクリシュナは欲していらっしゃいます。それだけです。そうでなければ、主は他ならぬあなたから何を期待することができるでしょうか?主の臨在にあって、あなたは何ですか?私たちはクリシュナの慈悲を認めるべきです。したがって、私たちは食べる前に食べ物をクリシュナに捧げ、「クリシュナ、あなたは私たちにこのおいしい食べ物を下さいました。だから、まずあなたが味わってください。」と言います。それから私たちはそれを食べます。

クリシュナはおなかを空かせてはいらっしゃいません。それでも主は、全世界を食べて、そしてそれを再び全く元通りに作り出すことがおできになります。(サンスクリット引用)(イショパニシャッド、祈り)クリシュナはとても完璧なので、もしもあなたがクリシュナから主のエネルギーのすべてをとっても、もともとのエネルギーのすべてはクリシュナの元に残ります。それこそが完全なエネルギーの保存です。

2.「自然の源」

DS:「Nature(ネイチャー)」という科学雑誌があります。そこには植物や花や鉱物などの自然な物質に関する記事がありますが、神に言及することはありません。

SP:私たちは、植物は自然によって作られたと正しく観察するかもしれません。しかし、私たちが尋ねなければならない次の問いは、「誰が自然を作ったのか」というものです。他ならぬこのことを問うことが本当の知性です。

DS:彼らは一般にこのことについて考えません。

SP:では、彼らは愚かです。自然はどこから来るのですか?私たちが自然について語れば直ちに、次の問いは「いったい誰の自然なのか」であるべきです。そうではありませんか?例えば、私は私自身の自然(訳注:原語はnature、性質、自然、などを意味する)について語り、あなたはあなた自身の自然について語ります。したがって、私たちが自然について語れば直ちに、次の質問は「いったい誰の自然なのか」であるべきです。自然とはエネルギーを意味します。そして、私たちがエネルギーについて語れば直ちに、私たちはそのエネルギーの源について問わねばなりません。例えば、もしもあなたが電気エネルギーについて語るなら、あなたはその源、発電所を受け入れなければなりません。どうしてあなたはそれを否定できるでしょうか?電力は自動的に私たちのもとへ来るのではありません。同様に、自然は自動的に働いてはいません。それはクリシュナの統御の下にあります。

生徒:ヴェーダには、物質エネルギーはクリシュナの指揮の下で働くと書いてあります。

SP:そうです。あなたがエネルギーについて語れば直ちに、源が存在しなければなりません。

3.「物質世界の蜃気楼」

カランダーラ:地質学者たちは、地球の源を突き止めるために、地球の地殻の地層を研究します。

SP:しかし、これらの地層は毎瞬作られては破壊されています。今はそれらはある状態にありますが、今から30分すれば異なります。それらはジャガット、いつも変化しているのです。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(8.4)において(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「物理的な自然は、終わりなく変化しうるものとして知られます。」したがって、人は単にエネルギーそのものを観察することによってすべてのエネルギーの源を見つけることはできません。今は地球の地層は黒であるかもしれず、のちにはそれは白であるかもしれず、そしてまた黒となるかもしれません。そこで、地質学者は黒色を、そして白色を、そして再び黒を、等々と調べます。これは(サンスクリット引用)、「すでに噛まれたものを噛む」(脚注5)と呼ばれます。今は寒く、昼間は暖かくなり、そして夜にはまた寒くなります。このように、物質的な宇宙の顕現全体が異なる種類の変化の影響の下にあります。私たちの体さえも変化しています。すべてが変化しています。しかし、この変化の背後の永遠性は何ですか?それが本当の知識の主題なのです。科学者たちは、その永遠性を見つけません。そしてそのために彼らは落胆します。彼らは、すべてのものの背景は虚無、ゼロであると考えます。彼らは永遠性とはゼロであると考えるのです。そして、このゼロはどこから来るのかと尋ねられると、彼らは「それは無から来ます」と言います。ですから私たちは彼らに「多様性はどうして生じたのですか?」と尋ねなければなりません。ヴェーダの結論は、科学者たちが物質世界で調べる変化する多様性は一時的であるけれど、多様性そのものは永遠である、というものです。物質世界の多様性は影の多様性です。本当の多様性は永遠に霊的な世界に存在します。

DS:では、物質的な宇宙は蜃気楼のようなものですか?

SP:そうです。例えば、水のない時に私が砂漠で水を見ると仮定しましょう。これは幻想です。水は存在しますが、蜃気楼の中にではありません。同様に、私たちが見る物質的な多様性―――多様な楽しみ―――は、蜃気楼のようなものです。私たち生命体は、本来楽しむべき存在ですが、私たちは楽しみを誤ったところに―――幻想の中に探しています。私たちは、蜃気楼の中の水を追いかけて、やがて喉が渇いて死ぬ砂漠の動物のようなものです。彼らはそのような幻想の水では渇きを癒すことができません。同様に、私たちは自分たちの楽しみへの渇きを満足させるために多くのものを作り出そうとしていますが、物質存在は幻想であるため、至るところにおいて当惑させられています。したがって、本当の知性とは「現実はどこにあるのか、幻想の背後の永遠なる本質はどこにあるのか」と問うことを意味します。もしも私たちがそれこそを見つけることができれば、私たちは本当の楽しみを経験することができます。

朝の散策―――4

1973年4月29日、ロサンゼルス近くの太平洋岸にて録音。

シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、ブラーマーナンダ・スヴァーミー、カランダーラ・ダーサ・アディーカーリーおよび他の生徒たち。

1.「ロバの進歩」

SP:誰もがこの物質世界で苦しんでいます。そして科学的な発展とは、科学者たちが更なる苦しみの状況を作り出していることを意味します。それだけです。彼らは事態を改善してはいません。バクティヴィノダ・タークラ(脚注6)は、次のように述べてこれを確認していらっしゃいます。(サンスクリット引用)「いわゆる科学的な発展によって、科学者はロバになりました。」(訳注:ロバは愚かな者の代名詞)そして、科学者はもっともっと立派なロバになりつつあり、ただそれだけです。例えば、ロバのように大変懸命に働いて、人が高層ビルを立てるとしましょう。彼は一生涯このために働くかもしれませんが、究極的には彼は死なねばなりません。彼は留まることはできません。物質的な人生は非永遠なので、彼は自分の高層ビルから追い出されます。科学者たちは常に研究をしています。そしてもしもあなたが彼らに彼らは何をしているのかと尋ねれば、彼らは「ああ、これは次の世代のため、未来のためです」と言います。しかし、私は言います。「あなた自身はどうなのですか?あなたの高層ビルはどうなのですか?もしもあなたが来世において木になるならば、そのときあなたはあなたの次の世代をどうしますか?」しかし、彼はロバです。彼は自分が自分の高層ビルの前に一万年の間立ち続けることになると知りません。そして次の世代はどうでしょうか?もしも石油がなければ、次の世代はどうするでしょうか?そして、もしも彼が猫や犬や木になれば、次の世代はどうやって彼を助けるでしょうか?

科学者たち―――そして他のすべての者たち―――は、繰り返す生と死からの自由を得ようと努力すべきです。しかし、その代わりに誰もが生と死の循環にますます深く絡まりつつあります。(サンスクリット引用)これはシュリマッド・バーガヴァタム(1.8.35)からの引用です。ここで、一行の中に物質存在のすべてが説明されています。これこそが文献です。この一行は、何千年分もの研究の価値があります。それは、生命体がいかにしてこの世界に生まれるか、彼がどこから来るか、彼がどこに行くのか、彼の行いは何であるべきか、そして他の多くの非常に重要なことを説明しています。バーヴ・スミン・クリシャマーナームという言葉は、存在のための苦闘を指します。なぜこの苦闘が存在するのでしょうか?アヴィデャー、無明のためです。そして、その無明の性質は何でしょうか?カーマ・カルマービー、単に感覚のために働くことを強いられること、言い換えると、物質的な感覚の満足にとらわれることです。

生徒:では、科学者は究極的には自分の感覚を満足させるために働いているので、現代の科学的な研究は体の要求を増加させるというのは本当ですか?

SP:本当です。

2.「言葉を巧みに操ることと世界の危機」

SP:ヴェーダには(サンスクリット引用)と書かれています。「もしも人が完全真理を知るなら、そうすれば他のすべてのことも知ることができる。」私は博士ではありませんが、それでも私は科学者たちに挑戦することができます。なぜでしょうか?私はクリシュナを、完全真理を知っているからです。(サンスクリット引用)「もしも人がクリシュナ意識にあるなら、そうすれば最もひどい苦難の中にあっても、彼は平安を妨げされません。」(BG6.22)シュリマッド・バーガヴァタム(1.5.22)には、(サンスクリット引用)と宣言されています。「偉大な人々が、クリシュナ意識は人生の完成である、と断定しました。」このような知識が必要とされています。私たちがいくらかの研究をして理論を思いつき、15年後には「いやいや、それは正しくない―――もっと別のものだ」というようなものではないのです。それは科学ではありません。それは子供の遊びです。

DS:それが彼らが物事を発見する方法です―――研究によってです。

SP:そして、その研究の費用とは何ですか?それは他者からお金を引き寄せるための科学的な方法、それだけです。言い換えると、それは騙すことです。科学者たちは、プルトニウムや光中性子や水素や酸素などの言葉を巧みに操りますが、人々はこれから何の益を得るでしょうか?人々がこの言葉の操りを聞くとき、彼らは何と言えるでしょう?ある科学者が別の科学者に何かを説明し、そして別の者がやってきて、それをもう一度、しかし異なるふうに、違う言葉で説明します。そしてその間ずっと現象は変わらないままです。どのような発展があったでしょうか?彼らは単に何巻もの本を作り出しただけです。現在は石油の問題があります。科学者たちが作り出したのです。もしも石油の供給が少なくなれば、これらの悪者たる科学者たちは何をするでしょう?彼らにはどうすることもできないのです。

3.「10億ドルの埃の山」

SP:今はインドには水が不足していますが、科学者たちはそれについて何をしていますか?世界には十分な量の水があります。それでは、なぜ科学者たちは緊急に必要とされているところへ水を持っていかないのですか?彼らは直ちに灌漑をすべきです。しかし、その代わりに彼らは月へ、埃の多い惑星へ、それを肥沃にするために向かっています。なぜ彼らは他ならぬこの惑星を灌漑しないのですか?十分な量の海水が存在します。では、なぜ彼らはサハラやアラビアやラジャスタニの砂漠を灌漑しないのですか?「はい」と彼らは言います。「未来においてそうします。私たちは努力しています。」誇りがあるので、彼らは直ちに「はい、はい。私たちは努力しています」と言います。バガヴァッド・ギーターには、人が不必要な欲求を満足させることに携わるとき、その人はすべての知性を失うようになる、(サンスクリット引用)と書かれています。

この月の計画は子供じみています。月へ行きたがる人は、泣いている子供のようなものです。子供が「お母さん、月をちょうだい」と泣きます。そこで母親が子供に鏡を与え、「ここに月がありますよ、坊や」と言います。そして子供は鏡を受け取って、「やあ、月を手に入れた」と言います。不幸にして、これは単なるお話ではありません。

カランダーラ:月へ行っていくつかの岩を持ってくるのに多額のお金を費やしたあと、宇宙計画に携わった人々は、そこでは他にすることは何もないと判断しました。

ブラーマーナンダ:今では彼らは別の惑星へ行こうとしていますが、お金が足りません。他の惑星に行くには、何十億ドルというお金がかかるのです。

SP:人々は一生懸命に働き、その一方で悪者たる政府は税金を集めて不必要にお金を使います。それほど多くの一生懸命に稼いだお金が市民から集められて、それほど愚かに費やされるとき、同情するべきではありません。今では、指導者たちは別のはったりを提示しています。「ご心配なく。私たちは別の惑星へいきます。そして私たちは更にもっと埃を持ち帰ります。私たちは山ほどの埃を持ってきます。そうですとも。今度は私たちは山ほどの埃を持ち帰ってきます。」

DS:彼らは火星に生命がいるかもしれないと信じているのです。

SP:彼らは信じるかもしれず、信じないかもしれません。何の違いがあるでしょう?他ならぬここに生命が存在しており、人々は戦っています。そこで、火星に生命がいると仮定しましょう。疑いもなく、火星には確かに生命が存在します。しかし、私たちはこのことから何の益を得るでしょうか?

DS:人々はそこで何が起こっているかについて好奇心を持っているのです。

SP:それは、彼らの子供じみた好奇心のために彼らが巨額のお金を費やさねばならないことを意味します。この滑稽さを御覧なさい。そして、彼らが多くの貧困なる国々の一つを助けるように頼まれると、彼らは「いいえ。お金がありません」と言います。分かりますか?

4.「サーンキャー哲学と現代科学」

DS:シュリーラ・プラブパーダ、サーンキャー哲学について私たちに少し聞かせてくださいませんか?

SP:実際には、2種類のサーンキャー哲学が存在します。もともと主カピラデヴァによって教えられた古代のサーンキャー哲学と、もっと近年に無神論者であるカピラによって教えられた近代的なサーンキャー哲学です。主カピラのサーンキャーは、いかにして物質から非執着となって心の中に主ヴィシュヌを探すかを説明します。このサーンキャーは、実際には献身奉仕の過程です。しかし、新しいサーンキャー哲学は、単に物質世界を様々な要素に解析します。その点に関して、それはちょうど現代の科学的な研究のようです。サーンキャーは「数える」を意味します。私たちもまた、ある程度はサーンキャー哲学者です。なぜなら、私たちは物質的な要素を数えるからです。これは土、これは水、これは火、これは空気、これはエーテル。さらに、私は私の心、私の知性、そして私の自我を数えることができます。しかしクリシュナは、自我の先に何かが確かに存在しており、それは生命力である、とおっしゃいます。これが科学が知らないことです。彼らは生命は単に物質的な要素の組み合わせであると考えますが、クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーターにおいて否定なさいます。(7.5)

(サンスクリット引用)

「この劣性の自然(土、水、火、空気、エーテル、心、知性、および偽りの自我)のほかに、私の優性なるエネルギーが存在します。それは、物質自然に苦しみ宇宙を維持している、すべての生命体から成ります。」

DS:劣性と優性の両方のエネルギーが近代のサーンキャー哲学で研究されているのですか?

SP:いいえ。近代のサーンキャー哲学者たちは、優性エネルギーを研究しません。彼らは、ちょうど科学者たちがしているように、単に物質的な要素を解析します。科学者たちは霊魂が存在すると知りません。サーンキャー哲学者たちも知りません。

DS:彼らは創造的な物質要素を解析しているのですか?

SP:物質的な要素は創造的ではありません!魂だけが創造的なのです。生命は物質からは創造され得ず、物質はそれ自身を創造することはできません。あなた、すなわち生命体は、水素と酸素を混ぜて水を作ることができます。しかし、物質そのものには創造する力はありません。もしもあなたが水素の瓶を酸素の瓶の近くに置けば、それらはあなたの助けなく自動的に混ざりますか?

DS:いいえ。それらは誰かによって混ぜられなければなりません。

SP:もちろんです。酸素と水素はクリシュナの劣性のエネルギーです。しかし、あなた、すなわち優性エネルギーがそれらを混ぜると、そうすればそれらは水になります。

5.「遠い原因とすぐ近くの原因」

SP:優性エネルギーが関わらない限り、劣性エネルギーには何の力もありません。この海(太平洋を指して)は穏やかで静かです。しかし、優性な力、空気がそれを押すとき、それは高い波を作り出します。海は空気という優性の力がなければ動く力はありません。同様に、空気より優性の力があり、その上にもその上にもあり、究極的に私たちはクリシュナに至ります。これが本当の研究です。

クリシュナは、ちょうどエンジニアが列車をコントロールするように自然をコントロールします。エンジニアは一つの車両を引っ張る機関車をコントロールし、その車両は次に別の車両を引っ張り、それが更に別のを引っ張り、そしてそのため列車全体が動いています。同様に、創造によってクリシュナが最初の一押しをし、そして次に次々と順に押すことによって宇宙の顕現の全体が現れ、維持されています。これはバガヴァッド・ギーターに説明されています。(9.10)(サンスクリット引用)「この物質自然は私の指揮の下で働いており、すべての動く存在と動かない存在を作り出しています。」そして14章(14.4)ではクリシュナは次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子よ。すべての種類の生命はこの物質自然の中に生まれさせられたのであり(made possible by birth)、私が命を与えた父です。」例えば、もしも私たちがバンヤンの種をまけば、やがて巨大な木が育ち、それとともに無数の新しい種が現れます。これらの種のそれぞれが次には無数の新しい種を持った木となり、それが続いていきます。これが、いかにしてクリシュナ、原初の命を与える父が、私たちの見るすべてのものの最初の原因であるのか、ということです。

不幸にして、科学者たちは直接的な原因だけを観察します。彼らは遠因を近くすることができません。クリシュナはヴェーダにおいてサルヴァ・カーラナ・カーラナム、すべての原因の原因、と描写されています。もしも人がすべての原因の原因を理解するなら、そうすればその人はすべてを理解します。(サンスクリット引用)「もしも人が原初の原因を知るなら、従属する原因は自動的に知られます。」科学者たちはもともとの原因を探していますが、ヴェーダ、完璧な知識が原初の原因は至高の人格神である、と宣言するとき、科学者たちはそれを受け入れません。彼らは自分たちの部分的で不完全な知識に固執するのです。これが彼らの病気です。

6.「宇宙という機械」

SP:科学者たちは、劣性と優性という2種類のエネルギーが存在することを知りません。彼らは実際には毎日これらの二つのエネルギーを使って働いているにも関わらずです。物質エネルギーは決して独立して働くことはできません。それはまず霊的なエネルギーと接触しなければなりません。ですから、どうして人々は物質に過ぎない宇宙顕現全体が自動的に生じたと受け入れることができるでしょうか?有能な機械は、それを動かす方法を知っている人がボタンを押さない限り動きません。キャデラックは良い車ですが、もしも運転手がいないならば、それが何の役に立つでしょう?つまり、物質宇宙もまた機械なのです。

非常に多くの部品のある大きな機械を見て、人々は驚嘆します。しかし、知性のある人は、ある機械がいかに素晴らしくても操作する人が来て正しいボタンを押さなければそれは動かないということを知っています。したがって、どちらがより重要でしょうか?操作する人でしょうか、機械でしょうか?ですから私たちは、物質的な機械―――この宇宙の顕現―――ではなく、それを操作する人、クリシュナについて考慮します。さて、あなたはこう言うかもしれません。「では、どうやって私は主が操作する人であると本当に知ることができるのですか?」クリシュナはこうおっしゃいます。(サンスクリット引用)「私の指揮の下で宇宙の顕現のすべてが動いています。」もしもあなたが「いいえ。クリシュナは宇宙の背後で操作している人ではありません」と言うなら、それならあなたは別の操作する人を受け入れなくてはならず、そしてあなたはその人を提示して見せなければならないのです。しかし。これはあなたにはできません。したがって、あなたの証拠が欠落している状態では、あなたは私のを受け入れるべきです。

朝の散策―――5

1973年5月3日、ロサンゼルス近くの太平洋岸にて録音。

シュリーラ・プラブパーダの同行者はDr.シングとブラーマーナンダ・スヴァーミー。

1.「目に見えないパイロット」

SP:世界のほとんどの人は生命が物質から生じるという誤った印象の下にあります。私たちは、この無意味なりろんを挑戦されないままにさせておくことはできません。物質は生命から発生させられます。これは理論ではありません。これは事実です。科学は不正確な理論に基づいています。したがって、そのすべての計算と結論は誤っており、人々はこのために苦しんでいます。これらすべての誤った現代の科学的な理論が修正されるとき、人々は幸せになります。ですから私たちは科学者に挑戦して彼らを打ち負かさなければなりません。そうでなければ、彼らは社会全体を誤って導くでしょう。物質は6つの段階で変化します。誕生、成長、現状維持、副産物の生産、衰退、そして死です。しかし、物質の中の生命、霊魂は永遠です。それはそのような変化を経験しません。生命は一見すると成長して衰退しているように見えますが、実際はそれは単にこれらの6つの段階のそれぞれを物質的な体がもはや維持できなくなるまで通り過ぎているだけです。それから古い体は死に、魂は新しい体に入ります。私たちの衣服が古くなって擦り切れると、私たちはそれを取り替えます。同様に、いつの日か私たちの体は古くなって役に立たなくなり、そして私たちは新しい体に移ります。

クリシュナはバガヴァッド・ギーター(2.13)で次のようにおっしゃいます。(サンスクリット引用)「体に閉じ込められた魂がこの体の中を少年時代から若者から老齢へと通るように、魂は同様に死に際して別の体に移ります。」そして、その少しあとには(2.18)こう書かれています。(サンスクリット引用)これは、 破壊されることのない永遠なる生命体の、単に物質的な体だけが破壊の影響を受ける、という意味です。物質的な体は滅亡し得ますが、体の中の生命はニッチャ、永遠です。

すべてはこの生命力を基本として働きます。これは太平洋であり、これらの高い波は生命力によって操作されています。この飛行機は(シュリーラ・プラブパーダ、通過する飛行機を指す)飛んでいますが、それは指揮されずに飛んでいますか?

DS:誰かがそれを指揮しています。

SP:そうです。すべては誰かの指揮の下で働いています。なぜ悪者たる科学者たちはこれを否定するのですか?飛行機は大きな機械です。しかし、それは小さな霊的な火花、パイロットの指揮の下で飛んでいます。科学者たちは、この大きな747型飛行機が小さな霊的な火花無くして飛ぶことができると証明することはできません。ですから、小さな火花が大きな飛行機を指揮することができるように、大きな霊的な火花は宇宙の顕現全体を指揮するのです。

2.「本当の問題を脇に置く」

SP:シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッドには、次のように書かれています。

(サンスクリット引用)

この節によれば、体の所有者である魂の大きさは、髪の毛の先の千分の一の大きさです。これはとても小さく、原子的です。しかし、その原子サイズの霊的エネルギーが原因で私の体は働いています。その原子サイズの霊的エネルギーは体の中にあり、そのため体は機能し、飛行機は飛びます。それはそれほど理解するのが難しいことですか?

例えば、ある男が自分はとても頑強で強いと考えていると仮定しましょう。いったいなぜ彼はがっしりして強いのでしょうか?それは彼の中に霊的な火花が存在しているからに他なりません。小さな霊的な火花が去れば直ちに、彼の力と活力は消え去り、ハゲタカが来て彼の死体を食べます。もしも科学者たちが物質が生命の起源であると言うなら、では彼らに一人の死人を、アインシュタイン教授のような一人の偉大な人物を生き返らせるように頼みましょう。一人の死人が生き返って再び機能するように、彼らに何かの化学物質を注射させましょう。しかし、彼らにはこれはできません。彼らの知らないことは非常にたくさんありますが、それでも彼らは科学者と呼ばれます。

DS:時として、問題があまりにも手に負えないほど深刻なとき、私たちはそれを軽く受け取ります。

SP:そうです。猿が虎に出会うとき、猿は目を閉じ、虎は直ちに襲い掛かります。同様に、もしも科学者が問題を解決できないなら、彼らは「いいでしょう。そのままにしておきましょう」と考えるかもしれません。これが実際に彼らがしていることです。私たちの本当の問題は死だからです。誰も死にたくありませんが、科学者は死を止めることはできません。彼らは死について表面的に語ります。彼らは死からの救いを全く与えることができないからです。私たちは死にたくなく、年を取りたくなく、病気をしたくもありません。しかし、科学者が何の助けを提供できるでしょうか?彼らはそれについて何もすることができません。彼らは大きな問題を脇に置いたのです。

3.「ジャッカル大統領」

SP:ベンガル地方には、ジャンガル・キー・ラージャーというお話があります。森の王様になったジャッカルの話です。ジャッカルはそのずる賢さで知られています。ある日、このジャッカルは村にやってきて、青い染料が入った桶に落ちました。彼は森に逃げ帰りましたが、青くなってしまいました。そのため、すべての動物たちが「これは何ですか?これは何ですか?この動物は何ですか?」と言いました。ライオンでさえ驚きました。「私たちはこれまでにあなたにお目にかかったことはありません。あなたはどなたですか?」ジャッカルは答えました。「私は神によって送られてきました。」そのため、彼らは彼を神として拝み始めました。しかし、ある夜、他のジャッカルたちがほえ始めました。「ワン、ワン、ワン!」そして、ジャッカルたちは他のジャッカルからの呼びかけに答えることを抑えられないので、この青いジャッカルも吠えはじめました。「ワン、ワン、ワン!」そして、こうして彼は他の動物たちの前で自分がただのジャッカルでしかないことを晒してしまいました。多くのジャッカルたちが逮捕されて、あなたの政府を辞めていきました。

ブラーマーナンダ:ウォーターゲート事件です。それはウォーターゲート・スキャンダルと呼ばれます。

SP:現実的に言って、現在では正直な人は政府の役人になれません。これはどこにおいても事実です。詐欺師、不正直な人でなければ、自分の政府の地位を維持できません。したがって、高潔な人は誰も政府に入りません。しかし、あなたに何ができるでしょう?(訳注:この場合の「あなたに」というのは英語の特徴的な表現で、実際の意味は「人に、私たちに」というあいまいな主語です。話相手の「あなた」を指しているわけではありません。このような表現は多いですが、私の翻訳文では基本的に直訳していますので、前後の文脈から判断してください。)

DS:政治家たちは最大のペテン師です。

SP:そうです。彼らは無頼漢です。ある哲学者は、政治は無頼漢たちの最後の頼みの綱であると言いました。

4.「科学は死を止めるべきである」

ブラーマーナンダ:科学者たちは癌の原因を知っていますか?

DS:いくつかの理論があります。

SP:例えば、あなたが癌の原因を知っていると仮定しましょう。その利益は何ですか?たとえあなたが癌を止めることができても、あなたは人を永遠に生きさせることはできません。それは可能ではありません。癌であろうがなかろうが、人は死なねばなりません。人は死を止めることはできません。死は、もしも癌によってではなかったにしても、単に事故によってでも招かれ得ます。本当の科学的な研究は、死を止めることを目的とすべきです。これが本当の科学であり、それがクリシュナ意識です。単に病気を治す何かの薬を見つけることは勝利ではありません。本当の勝利は、全くすべての病気を止めることです。バガヴァッド・ギーター(8.16)は、本当の問題は誕生と死と老いと病であると断言しています。(サンスクリット引用)「物質世界の最も高位の惑星から低位のそれまで、すべては生と死が繰り返す悲惨な場所です。」生と死の繰り返しという問題の解決策はクリシュナ意識です。私たちはそれを実行しており、すべての人に提供しています。これを実行することの完全な結果は、現在の体が役に立たなくなって死んだ後、人はもはや生と死と病と老いの影響を受ける物質的な体を受け入れることを強いられないということです。これがまさに本当の科学です。

朝の散策―――6

1973年5月7日、ロサンゼルス近くの太平洋岸にて録音。

シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、ブラーマーナンダ・スヴァーミー、および他の生徒たち。

1.「神秘的な力から生じる化学物質」

SP:科学者たちは生命は化学物質から生じると言います。しかし、本当の問いは「化学物質はどこから来たのか」というものです。化学物質は生命から商事、そしてこれは生命が神秘的な力を持っていることを意味します。例えば、オレンジの木にはたくさんのオレンジが成り、それぞれのオレンジが化学物質を含んでいます―――クエン酸やその他のものです。それでは、これらの化学物質はどこから来たのでしょうか?明らかに、それらは木の中の生命から生じました。科学者たちは化学物質の源を見落としています。彼らは、自分たちの探査を化学物質から始めましたが、彼らは化学物質の源を特定することができません。化学物質は至高の生命―――神より生じます。ちょうど人の生きた体が多くの化学物質を作り出すように、至高の生命(至高主)は大気中と水中と人間の中と動物の中と土の中に見られるすべての化学物質を作り出しています。そして、それは神秘的な力と呼ばれます。主の神秘的な力が受け入れられない限り、生命の起源という問題に対する解答はありません。

DS:科学者たちは、自分tナチは神秘的な力は信じられないと返答するでしょう。

SP:しかし、彼らは化学物質の起源を説明しなければなりません。誰もが普通の木が多くの化学物質を作り出しているのを見ることができます。しかし、それだどうやってそれらを作り出すでしょうか?科学者たちはこれに答えることができないので、彼らは生命体は神秘的な力を持っていることを受け入れなければなりません。私は私の爪がどうやって私の指から伸びているのかさえ説明することができません。それは私の脳の能力を超えています。言い換えると私の爪は、計り知れない力、アチンテャ・シャクティによって伸びています。ですから、もしもアチンテャ・シャクティが普通の人に存在するなら、神はどれほどのアチンテャ・シャクティを持っておいでになるか、想像しなさい。

神と私の違いは、私は神と同じ力を持っているにも関わらず私は少量の化学物質しか作り出せず、一方で主は大量のそれを作り出せるということです。私は発汗という形で少しの水を作り出せますが、神は海を作ることができます。一滴の海水を解析すれば、海の性質的な解析が何の間違いもなく得られます。同様に、普通の生命体は神の欠かすべからざる小片です。そのため、生命体を研究することで私たちは神を理解し始めることができます。神の中には大いなる神秘的な力があります。神の神秘的な力は敏速に働いています。ちょうど電気的な機械のようです。ある種の機械は電力によって機能し、そしてそれらはとても良くできているので、すべての仕事は単にボタンを押すことによってなされます。同様に、神は「創造あれ」とおっしゃいました。そして創造が現れました。このように考えると、自然の働きは理解するのがそれほど難しくありません。神はとてもすばらしい力をお持ちなので、主の命令一つで創造は直ちに現れます。

ブラーマーナンダ:一部の科学者は神もアチンテャ・シャクティも受け入れません。

SP:それは彼らが悪者だからです。神は存在しており、主のアチンテャ・シャクティもまた存在します。鳥の飛ぶ力はどこから来るのでしょうか?あなたも鳥も生命体ですが、鳥はそのアチンテャ・シャクティのために飛ぶことができ、あなたはそうできません。別の例を挙げると、精子は血液から作られます。人は自分の体の中に神秘的な力を持っており、そのため彼には性的な傾向があることから血液が精子に変化させられます。何かの神秘的な力がない限り、どうやってこれがなされるでしょうか?生命体の中にはたくさんの神秘的な力があります。牛は草を食べて牛乳を作り出します。誰もがこれを知っていますが、あなたはいくらかの草を食べて乳を作り出すことができますか?できますか?したがって、牛の中には神秘的な力があります。牛が草を食べれば直ちに彼女はそれを牛乳に変化させます。男と女は基本的に同じですが、男性であるあなたは食物を食べて母乳を作り出すことはできませんが、女性はできます。これらは神秘的な力です。

DS:科学者たちは、異なる種類の体の中には異なる酵素や化学物質があり、そしてこれらが牛が牛乳を作り出せる原因だと言うでしょう。

SP:そうです。しかし、誰がその酵素とその配剤を作り出したのですか?それは神秘的な力によってなされました。あなたはこれらの酵素やその配剤を作り出すことはできません。あなたは実験室において干草から牛乳を作り出すことはできません。あなたの体の中で、神秘的な力によってあなたは食べ物を血と生組織に変化させることができますが、実験室の中では、神秘的な力無くしてはあなたは草を牛乳に変えることさえできません。したがって、あなたは神秘的な力の存在を受け入れなければなりません。

2.「神秘的な力の源」

SP:ヨギーは主に異なる神秘的な力を発達させることに興味があります。ヨギーはおぼれないで水の上を歩くことができます。重力の法則は彼の上には働きません。それはラグヒマーと呼ばれる神秘的な力です。ラグヒマーは、人が綿よりも軽くなって重力の法則を打ち消すことを意味します。ヨガの体系は、単にすでに修験者の内にある計り知れない力を発達させます。これらの男の子たちは泳いでいますが、(サーフボードに乗っている人々を指して)私は泳げません。それでも、その泳ぐ力は私の中にあります。私は単にそれを練習しなければならないだけです。そのため、もしもヨガの力が人間の中にあってそれほど強力であるなら、神がそれよりどれほど多くのヨガの力を持っておいでになるか、考えなさい。したがって、ヴェーダの中で主はヨゲシュヴァラと呼ばれます。それは、「すべての神秘的な力の主」を意味shます。バガヴァッド・ギーター(10.8)において、クリシュナは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「私は霊的および物質的な世界すべての源です。すべては私から生じます。」私たちが神からのこの言明を受け入れない限り、物質自然の源への結論的な説明はありません。神は神秘的な力の存在を受け入れること無くしては理解され得ません。しかし、もしもあなたが神を科学的に理解するなら、そうすればあなたはすべてを理解するでしょう。

DS:それでは、あなたは科学は最初の地点ではなく中間の地点から始まったとおっしゃるのですか?

SP:そうです。まさにその通りです。彼らは源に関して無知なのです。科学者たちは、ある地点から開始します―――しかし、その地点はどこから来るのですか?それを彼らは知りません。広範な研究にも関わらずです。人は、もともとの源は神秘的な力であるということを受け入れなくてはなりません。神はすべての神秘的な力に満ちており、神からすべてが生じます。主はバガヴァッド・ギーターにおいて自らおっしゃいます。(サンスクリット引用)「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべては私から生じます。」私たちの結論は、盲目的な信仰に基づいてはいません。それは最も科学的なものです。物質は生命より生じます。生命の中―――源の中には、無限の物質的な資源があります。それが創造の大いなる神秘です。

もしもあなたが針を落とすならば、それは直ちに落ちます。しかし、何キログラムもある鳥は空中に浮かぶことができます。私たちはこの浮かぶことの源こそを立証しなければなりません。もしも私たちが自然を研究すれば、私たちはすべての生命体が何かの神秘的な力を持っていることを見出します。人間は水中では2-3時間以上過ごすことはできませんが、魚はずっとそこで暮らします。それは神秘的な力ではありませんか?

DS:それは私にとっては神秘的な力ですが、魚にとってはそうではありません。

SP:そうです。それは、神秘的な力は平均的に配分されてはいないからです。しかし、すべての神秘的な力は、神、すなわちすべてのものの源の中に存在します。私は主の神秘的な力の一部を得て、あなたも一部を得て、鳥も一部を得ます。しかし、神秘的な力の倉庫は神です。

神秘的な力には、8つの基本的な種類があります。その一部は、ラグヒマー(それによって人は羽よりも軽くなれる)、マヒマー(それによって人は山よりも大きくなれる)、プラープティー(それによって人は他の存在を完全に征服してコントロールすることができる)です。もう一つの種類の神秘的な力は太陽の中に見られます。太陽光からは無数のものが不思議にも作り出されるからです。科学者たちが神秘的な力の存在を受け入れない限り、彼らはこれらの現象を説明することができません。彼らは単に藪の周りを叩いてるのです。(訳注:ことわざ。核心に迫らないでいること)

DS:賢い(訳注:原語はclever、小賢しい、という意味合いがある)科学者たちは、自分の論点を証明するために、実際にそれを証明することなくどんなことでも言うかもしれません。本当の科学者は、究極の、もともとの原因―――最終的な解析に至らねばなりません。

SP:そうです。彼が究極の源を見つけない限り、彼は本当には科学を修めていません。

DS:神秘主義を理解することは、私たちの体が日々死んでいるということを知ることを意味するのですか?

SP:そうです。

DS:しかし、普通の人は自分が死につつある(訳注:原文は「継続的に死んでいる」)とは思いません。

SP:それは愚かさに起因します。毎瞬、人は死んでいます。しかし彼は「私は永遠に生きるだろう」と考えています。実際には、死は誕生の瞬間から始まります。問題に関する私たちの解析は、人々が死んでいるので、私たちは彼らの死を止めるべきである、というものです。しかし、いわゆる科学者たちは死の過程を加速化させているだけではなく、自分たちを修正するための建設的な助言を受け入れることを拒否しています。

朝の散策―――7

1973年5月8日、ロサンゼルス近くの太平洋岸にて録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者はDr.シングおよび他の生徒たち。

1・「だます人々とだまされる人々」

SP:重力の法則や重さの無さなどの自然現象は、アチンテャ・シャクティ、計り知れないエネルギーと呼ばれます。そして、本当の科学とはこのアチンテャ・シャクティを理解することを意味します。一連の出来事を単にある時点からのみ観察するのは非科学的であり、不完全な知識だけをもたらします。私たちは、物事がどこから始まっているのかを知らねばなりません。もしも私たちが自分たちの研究を十分に突きつめるならば、私たちは自然の源はアチンテャ・シャクティであることを見出します。例えば、脳と筆と絵の具を使って私たちは花を描くことができます。しかし私たちは地球全体にわたって植生がいかにして自動的に成長して結実しているかを知覚することはできません。私たちは絵に描いた花を説明することはできますが、本当の花を説明することはできません。科学者たちは、実際には生物学的な成長を説明することはできません。彼らは単に「分子」や「染色体」などの言葉を巧みに操りますが、実際に現象を説明することはできません。

いわゆる科学者たちの基本的な欠点は、彼らが自分たちの結論に到達するために帰納法の過程を採用したということです。例えば、もしも科学者が帰納法的な過程によって人間が不死身であるかどうかを見極めようと思えば、彼はすべての人を調べて、そのうちの何人か、あるいは一人が不死身であるかどうかを見出そうとしなければなりません。科学者はこう言います。「私はすべての人間が必ず死ぬという命題を受け入れることはできません。不死身の人もいるかもしれません。私はまだすべての人を調べていません。したがって、私はどうして人が必ず死ぬということを受け入れることができるでしょう?」これが帰納法的な過程と呼ばれます。そして演繹法的な過程とは、あなたの父、あなたの教師、あるいはあなたのグルが人間は必ず死ぬと言い、そしてあなたがそれを受け入れるということを意味します。

DS:では、知識を得るための昇順的な過程と降順的な過程があるのですね?(脚注7)

SP:そうです。昇順的な過程は決して成功しません。なぜなら、それは感覚を通して集められた情報に頼っており、そして感覚は不完全だからです。そのため私たちは降順的な仮定を受け入れます。

神は帰納法的な過程によっては知られ得ません。したがって主はアドークシャジャと呼ばれ、それは「直接的な知覚では知られ得ない」ということを意味します。科学者たちは神はいないと言います。彼らは神を直接的な知覚によって理解しようとしているからです。しかし主はアドークシャジャなのです!したがって、科学者たちは神について無知です。彼らには神を知るための方法が欠けているからです。超越的な科学を理解するためには、人は真正なる霊的指導者に近づき、彼から従順に聞き、彼に奉仕をしなければなりません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(4.34)においてそれを次のように説明なさいます。(サンスクリット引用)

私のグル・マハーラージャ(脚注8)は、かつておっしゃいました。「現代の世界は、騙す者と騙される者の社会である。」不幸にして、騙される者は騙す者を賞賛しており、小さな騙す者が大きな騙す者を崇拝しています。例えば、ロバの群れが来て「おお、あなたはジャガッド・グルです(脚注9)」と私を賞賛すると仮定しましょう。彼らの賞賛の価値は何でしょうか?しかし、もしも紳士や学識のある人が来て賞賛すれば、彼の言葉にはいくらかの価値があります。しかし、一般には賞賛している者たちと彼らに賞賛されている者たちは、どちらも無明にあります。ヴェーダはこれを次のように表現しています。(サンスクリット引用)「大きな動物が小さな動物によって称えられている。」

2.「同情」

SP:法律が騙しており、医科学が騙しており、そして政府が騙しています。最高位の政府の役人が賄賂を受け取って有罪となっています。もしも知事が賄賂を受け取り、警察官が賄賂を受け取るならば、それならどこに良い社会があるでしょうか?人々は彼らに幸せを約束する指導者を選出します。しかし、その幸せはマーヤー(すなわち幻想)であるため、彼は決してそれを達成することはできません。そして社会は単に騙す人で満たされるようになります。しかし、人々は実際にこの幻想の幸せを求めているので、彼らはそのような非良心的な指導者を何度も何度も選出し続けます。

ヴァイシュナヴァ(脚注10)の立場とは、これらすべての無明なる人々に同情するというものです。偉大なヴァイシュナヴァ。プラーラーダ・マハーラージャは、かつて主に次のように祈りました。「わが主よ。私自身に関しては、私は何の問題も持ちません。私の意識はいつもあなたの非常に強力な超越的な活動に夢中になっており、そしてそのため私は物事を明瞭に理解しました。しかし、私は幻想的な幸せのための活動にいそしむこれらの悪者たちのために深く心配しています。」

ヴァイシュナヴァは、いかにして人々が幸せになれるのかということだけを考えます。彼は、彼らが決して実現しないものを無駄に捜し求めていることを知っています。40年や50年の間、人々は幻想の幸せを捜し求めます。しかし、それから彼らは仕事を完成させることなく、そして死後に何か起こるかを知ることなく死なねばなりません。実際は、彼らの立場は動物のそれのようなものです。動物もまた、死後に自分に何が起こるかを知らないからです。動物は人生の価値を知らず、なぜ自分がここに来たのかも知りません。マーヤーの影響によって、彼は単に食べ、眠り、性交して、身を守り、死にます。それだけです。人生を通して、無明なる動物―――そして動物的な人間たちは、これらの5つのことだけ―――食べること、眠ること、性交すること、身を守ること、死ぬこと―――をするために、大いなる努力をします。したがって、ヴァイシュナヴァの仕事は人々に「神が存在し、私たちは神の従者であり、そして私たちは主に奉仕をして主への私たちの愛情を育んで、永遠に幸せな人生を楽しむことができる」ということを教えることなのです。

3.「檻の向こうに」

DS:しかし、生命体は物質世界にいる限り物質を必要とするのではありませんか?」

SP:いいえ。生命体は純粋に霊的です。したがって、彼は物質を必要としません。しかし、彼の考えが病んでいるので、彼は自分がそれを必要とすると信じているのです。制約された生命体は、お酒を飲むことを必要としないのにどちらにしても「飲まなければ死んでしまう」と考える酔っ払いのようなものです。こればマーヤー、幻想と呼ばれます。酔っ払いがお酒を飲まなければ死ぬというのは本当ですか?

DS:いいえ。しかし、人が食べなければ、彼は死にます。

SP:それも事実ではありません。昨夜、私たちはラグーナーサ・ダーサ・ゴスヴァーミー(脚注11)について議論しました。晩年、彼は食べることと眠ることをほとんど完全に断ちました。彼は3日か4日に一度、ほんの少しのバターミルクを飲むだけで、2-3時間眠り、一日に22時間働きました。(訳注:バターミルクは日本では一般的ではありませんが、西洋で市販されているのは甘くない飲むヨーグルトのようなものです。でも、もともとはバターを取った後の牛乳を指す言葉であり、これは質感が全然違うそうです。)そして、全然眠らない日もありました。そのため、あなたは「彼はどうやって生き延びることができたのですか?」と尋ねるかもしれません。実際には、彼は100年生きました。食べること、眠ること、性交すること、および身を守ることは、ラグーナーサ・ダーサ・ゴスヴァーミーにとっては問題ではありませんでした。しかし、それでも彼は生きました。彼はクリシュナの純粋な献身者であったので、彼は魂がこの体という実際には必要としない檻に入れられているにも関わらず永遠であって独立していることに完全に気づいていました。例えば、鳥が籠に入れられていると仮定しましょう。彼は単に籠に入っているから生きているのですか?籠がなければm彼は自由です。人々は、体の中に閉じ込められていることによって自分たちは幸せなのだと考えています。それは無意味なことです。実際は、この体に閉じ込められていることは私たちを臆病にします。しかし、私たちが自分たちの存在を浄化すれば直ちに―――私たちは自分たちの体から出てくる必要さえありません―――私たちは即座にアバーヤ、勇敢になります。

(サンスクリット引用)(脚注12)

私たちは直ちに私たちの本来の霊的な存在を目覚めさせることができます。そこにはもはや恐れはなく、もはや嘆きもなく、そしてもはや物質的な欲望もありません。

DS:しかし、科学者たちは、生命体がいかにして物質から独立していられるかということについて、まだもっと説明を求めるでしょう。

SP:あなたが制約されている限り、あなたは物質に依存しています。例えば、アフリカから来た人は制約されています。彼はこの寒い天気を耐えられないからです。したがって、彼は不快さを感じます。しかし、ここには寒さに影響されない多くの人々がいます。(海辺で遊んでいる子供たちを指して)耐える能力は単に制約の問題なのです。

制約されているとき、あなたは暑さと寒さや痛みと喜びなどの二重性によって考えます。しかし、解放されるときにはあなたはそのような制約された考えは持ちません。霊的な人生とは、制約されていない状態になることを―――ブラーマ・ブータの水準に至ることを―――意味します。これが人生の完成です。制約されているということは、生命体が永遠であるにも関わらず、制約によって彼が自分が生まれ、自分が死に、自分が病気になり、自分が老いると考えることを意味します。しかし、制約されていない人物は老いることさえありません。クリシュナはブラーマ・サムヒターの中で(サンスクリット引用)と描写なさっています。これは、主がもっとも年長の人物、最初の人物であり、しかし主には老齢はない、ということを意味します。主はいつもちょうど二十歳の若者のように見えます。主は完全に霊的であられるからです。

朝の散策―――8

1973年5月11日、ロサンゼルス近くの太平洋岸にて録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者はDr.シングと他の生徒たち。

1.「意識の進化」

DS:シュリーラ・プラブパーダ、私はバガヴァッド・ギーターの中に840万種の生命体が同時に作られたという趣旨の言明を見つけました。これは正しいですか?

SP:はい。

DS:それは、一部の生命体は進化の過程を経ることなく直接人間という種に至るということを意味するのですか?

SP:そうです。生命体は、ある身体的な形から別のそれへと移動します。形は既に存在しています。生命体は単に自分自身を移動させるのです。ちょうど人が自分自身を一つのアパートから別のそれへと移動させるようなものです。あるアパートは高級であり、別のは中級であり、もっと別のは低級です。例えば、ある人が低級なアパートから高級なアパートへ来たと仮定しましょう。その人は同じ人ですが、今では彼の支払い能力、あるいはカルマ(脚注13)に応じて、彼はより高級なアパートに住むことができます。本当の進化とは物理的な発達を意味するのではなく、意識の発達を意味します。分かりますか?

DS:分かると思います。もしも人が生命のより低い水準に落ちれば、彼は一段一段、より高い水準へと進化しなければならない、ということをあなたはおっしゃっているのですか?

SP:そうです。より多くのお金を得るにつれて、あなたはより良いアパートに引っ越すことができます。しかし、アパートは既に存在します。低級なアパートが高級なアパートに変化するわけではないのです。これはダーウィンの無意味な理論です。彼は、アパートが高級になったと言うでしょう。現代の科学者たちは、生命が物質から生じたと考えます。彼らは、はるか大昔には単に物質しかなく、生命は存在しなかったと言います。私たちはそれを受け入れません。二つのエネルギー―――生命と物質―――のうち、生命、すなわち霊は本来的で優性なるエネルギーであり、物質は結果的で劣性なるエネルギーです。

DS:それらは同時に存在しますか?

SP:はい。しかし、霊は独立的であり、物質は依存的です。例えば、私はたとえ手や脚がなくても生きることができます。もしもそれらが切断されても、私は生存できます。したがって、私は私の手や脚に依存した存在ではありません。私の手や脚が私に、私の体の中の霊魂に依存しているのです。

2.「永遠の欲望のための体」

DS:しかし、生命と物質は同時に生じるのですか?

SP:いいえ。それらはそもそも「生じる」ことはありません。それらは既に存在しているのです。「生じる」という考えは、私たちの心の中にあります。私たちはこの限られた世界に住んでおり、そこでは私たちはすべてに始まりがあるのを見ます。したがって、私たちは物事を「生じる」という観念に基づいて考えます。しかし実際には物質と霊は既に存在しているのです。私が生まれたとき、私は自分の誕生が世界の始まりであると考えます。しかし、世界は既に存在しています。もう一つの例は火です。あなたが火を灯すとき、光と熱は後から始まりますか?いいえ。火が灯されるときはいつでも、直ちに光と熱が存在します。しかし、例えば私が次のように考えると仮定しましょう。「さあ、火が灯された。しかし、私は光と熱が後からやってくるのを待たねばならない。」それは愚かさではありませんか?

DS:しかし、火は熱と光の源です。

SP:そうです。しかしそれでも熱と光は火と同時に存在します。同様に、永遠なる生命体は多くの異なる永遠の欲望を持っています。そして、様々な種のすべてもまた、これらの様々な永遠の欲望に添うように永遠に存在しています。

DS:そして生命体はこれらの欲望にしたがって異なる体に住むように作られているのですか?

SP:そうです。例えば、政府は刑務所を作ります。犯罪者が現れると知っているからです。そのため、犯罪者が裁判にかけられて有罪とされるとき、刑務所は既に存在しています。判決時の前であってもです。同様に、神はサルヴァ・ジナ、すべてを知る者と描写されています。つまり、主は一部の生命体が犯罪者になって主への奉仕に反抗すると知っておられます。さらに、主は生命体が物質世界において物質自然の三つの相に応じて得る様々な欲望をご存知です。したがって主はすべての制約された魂を収容するために、そもそもの初めから生命のすべての種をお作りになります。

物質自然の三つの相は、サットヴァ・グナ(徳)、ラジョ・グナ(熱情)、およびタモ・グナ(無明)です。これらの三つの性質によって、物質世界の中のすべての異なるものは作られています。ちょうど人が三つの原色(青、赤、黄)を混ぜて非常に多くの色調を作り出すようなものです。この配剤を扱うのに必要とされる大いなる専門知識は、自然の中に存在します。バガヴァッド・ギーター(3.27)には、(サンスクリット引用)と書かれています。「すべての活動は物質自然の相によってなされます。」そして、これらの相は異なる種類の種において顕現しており、種には草、木、水生生物、人類、半身、猫、犬、その他多数、合計840万が含まれます。

至高主は、すべての人の心の中にご自身をパラマートマ、すなわち超魂として拡張なさいます。物質の体の中に住んではいても、この超魂は物質的ではありません。主が物質の体のもともとの源であるにも関わらずです。熱と光は太陽のエネルギーなので、太陽は決して「暑すぎる」とは感じません。同様に、パラマートマーにとっては霊的と物質的の区別はありません。物質的および霊的なエネルギーの両方が主から発しているからです。時として、私たちは雲が太陽を覆うのを見ます。しかし、それは実際は私たちの不完全さです。この地上の私たちは太陽光と曇りの両方を経験しますが、太陽上では、太陽が雲を作り出すにも関わらず、太陽光だけが経験されます。同様に、物質と霊の間の区別は私たちの経験であり、神のそれではありまえん。主がいわゆる物質的な体でおいでになろうが、霊的な体でおいでになろうが、主はいつも霊的でいらっしゃいます。主はエネルギー的(訳注:言語はenergetic、この場合はエネルギー源を指す。Energyに対する源としての表現。)なので、主にとって物質と霊は同じです。主は物質を霊へ、霊を物質へと変えることがおできになります。

3.「水に神秘的な力を加える」

DS:化学者たちと科学者たちは、ある特定の要素が霊魂が物質世界に留まるのを可能にすると考えます。これらの要素は、彼らによれば、炭素、水素、窒素、および酸素―――生命単位を形成する主な要素です。ヴェーダでは、生命あるものが発達するためには霊魂がまずこれらのあらかじめ存在している化学要素の中に入らなければならないと教えている、と私は思います。それは正しいですか?

SP:はい。例えば、土は植物が育つのに必要なすべてのものを含んでいます。しかし、あなたはまず土に種を植えなければなりません。同様に、母親は彼女の子宮の中にもう一つの体を作るのに必要なすべての材料を持っていますが、まず父親が精子、すなわち種を子宮に注入しなければなりません。そうすれば子供が発育します。犬は犬の体を形作り、人間は人間の体を形作ります。なぜでしょうか?それぞれに、必要とされるすべての材料がそこにあるからです。

私たちは、私の体の中にはある特定の量の化学物質を、蟻の体の中にはより少量を、そして象の体の中にはより多くの量を見出します。そのため、もしも私が蟻よりもずっと多くの化学物質を作り出すことができ、象が私がそうできるよりもずっと多くの化学物質を作り出せるのであれば、それなら神はどれほどより多くの化学物質を作りだせるか、考えてもみてください!これこそが基本なのです。それに基づいて、科学者たちはいかにして水素と酸素が組み合わさって水を形づくるかと考えるべきです。そうでなければ、彼らは海を作るのに必要とされる大量の水素と酸素の源を特定することができません。しかし、私たちはできます。この水素と酸素は、ヴィラート・ルーパ、主の偏在的な体の中に存在します。なぜ科学者たちはこの単純な真理を理解し損ねるのですか?水素と酸素が結びついて、海の中の水を形作ります。私たちはどちらもこの事実を受け入れます。しかし、科学者たちはこの大量の水素と酸素の源が実際はアチンテャ・シャクティ、すなわち主の計り知れない神秘的な力であるということを聞いて驚きます。

4.「生命の定義」

DS:私は、科学界の中で「生命」と「非生命」の定義について意見の不一致があるのに気が付きました。ある者は、もしもある存在が再生産をすることができればそれは生きているといいます。したがって、彼らは生命を作り出したと主張します。実験室で作られたある種の大きなDNA分子(脚注14)は、それ自身を複製することができるからです。それはどういうことかというと、それらは自分自身の力によって他の分子の鎖を再生産することができるということです。ある科学者たちはこれらのDNAは生きているといい、他の者たちはそれらが生きてはいないと言います。

SP:ある者はこう言い、別の者はああ言うので、彼らの知識は不完全であるに違いありません。

DS:私たちは「生命」を「意識を含む」と、そして「非生命」を「意識を含まない」と定義することはできますか?

SP:はい。それが違いです。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(2.17)において、次のようにおっしゃいます。(サンスクリット引用)「体全体に広がっているものは、滅びることがありません。」誰でも、何が生きた体全体に広がっているか理解することができます。それは意識です。死のときの私たちの意識に合わせて、私たちは特定の身体的な体を授けられます。もしもあなたが犬の意識を持っていれば、あなたは犬の体を得ます。そしてもしもあなたが神のような意識を持っていれば、あなたは半神の体を得ます。(脚注15)クリシュナは誰にでも何でも自分の欲しい体を得る自由を与えるのです。

(サンスクリット引用)

「半神たちを崇拝する者は半神たちの中に生まれます。幽霊や悪霊(spirits)を崇拝する者は、そのような存在の中に生まれます。先祖を崇拝する者は先祖のところへ行きます。そして私を崇拝する者は私と共に暮らします。」(BG9.25)

5.「ダーウィン批判」

DS:もしも人間が解放に到達しないならば、彼はもう一度人間の体に至るまでに840万すべて生命の種類を通らなければならないのですか?

SP:いいえ。低い生命の形においてのみ、生命体は一段一段、自然の法に従って進歩しなければなりません。人間の体の生命においては、彼は発達した意識を授けられています―――彼は自由意志を持っているのです。したがって、もしも彼が意識において発達していれば、彼は犬や猫の体を得ることはありません。彼は別の人間の体を得ます。

(サンスクリット引用)(脚注16)

ヨガ・ブラシャターという言葉は、ヨガを実行していたけれどなぜか十分に成功しなかった人を指します。ここには進化の余地はありません。彼はまた人間の体を与えられます。彼は猫の体や犬の体を得たりしません。私たちが議論していたアパートのように、もしもあなたがより多く支払うことができれば、あなたはより良いアパートを得ます。あなたはまず低級なアパートに来る必要はありません。

DS:あなたがおっしゃっていることは、ダーウィンの進化論と完全に矛盾しています。

SP:ダーウィンは悪者です。彼の理論が何でしょうか?私たちはダーウィンの哲学を蹴りだします。私たちがダーウィンの哲学をもっと蹴り出すほど、私たちはもっと霊的な意識において進歩します。

DS:多くの科学者がダーウィンの理論に疑いを持っています。しかし、ダーウィンの支持者は、生命は物質から始まって単細胞生物から複細胞生物へと進化したと言います。彼らは動物や人間などの高度な種は創造の始めには存在しなかったと信じています。

SP:ダーウィンと彼に従うものたちは悪者です。もしももともと高度な種が存在しなかったのならば、なぜそれらは今は存在しているのですか?たとえば、現時点において私たちは知性ある人と愚かなロバの両方を見ます。なぜこれらの生命体の両方が同時に存在しているのですか?なぜロバの形は上方向に進化して消滅していないのですか?なぜ私たちは決して猿が人間を産むのを見ないのですか?人間の生命がいついつの時代に始まったというダーウィン主義者の理論は無意味です。バガヴァッド・ギーターには、あなたの努力次第であなたは直接どのような生命の種でも好きなものへ転生できると書いてあります。時として私はアメリカへ旅し、ときにはオーストラリアへ、そして時にはアフリカへ旅します。国々はすでに存在しています。私は単にそれらの国々を訪れて通り抜けているだけなのです。私がアメリカに来たから私がアメリカを作り出したとか、アメリカになったとか、そういうわけではありません。そして、私がまだ見たことのない国がたくさんあります。それはそれらが存在しないということを意味しますか?ダーウィンを支える科学者たちは馬鹿げているのです。バガヴァッド・ギーターには、すべての種は同時に存在し、あなたはどの種でも好きなものに行けると、明瞭に書かれています。あなたは、もしもあなたがそう欲するのであれば、神の王国へさえ上がっていくことができます。これらすべてのことはバガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナによって宣言されています。

朝の散策―――9
1973年5月13日、ロサンゼルスのチェヴィオット・ヒルズ・パークにて録音。シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、カランダーラ・ダーサ・アディーカーリーと他の生徒たち。

1.「人間から犬への進化」

SP:いわゆる科学者たちは、誤った理論に彼らの信頼を置いています。クリシュナは(サンスクリット引用)「私がすべての源です」(BG10.8)とおっしゃいます。クリシュナは生命です。クリシュナは死んだ石ではありません。

DS:では物質は生命に起因するのですか?

SP:そうです。そして物質は生命の上に育ちます。私の体は、私、霊魂の上に育ちます。たとえば、私はこのコートを着ました。これは私の体の大きさに合わせて作られています。しかし、もしも私が「私はこのコートである」と考えたならば、私は愚かです。

生徒:シュリーラ・プラブパーダ、鉱山学者は、山は堆積性の活動によって成長しているのであると証明しました。この成長は霊魂の存在によるものですか?

SP:そうです。シュリマッド・バーガヴァタムは、山を神の骨として、そして草を主の体の毛として描写しています。つまり、この意味では主は最も大きな体をお持ちです。

DS:シュリーラ・プラブパーダ、動物の体における魂の転生と人間の魂の転生との違いは何ですか?

SP:動物は一方向―――上向きにだけ転生しますが、人間はより高い生命の形へも、より低いものへも転生することができます。体は生命体の欲求に応じて授けられます。低位の動物たちは一つの種類の欲求を持っていますが、人間は何千何百万もの欲求―――動物的な欲求および人間的な欲求を持っています。自然の法によって、低位の種は動物の体からより高い人間の体へと上がってきます。しかし、いったんあなたが人間の形へ来ると、もしもあなたがクリシュナ意識を培わないならば、あなたは猫や犬の体へ戻るかもしれません。

2.「ニルヴァーナ」(涅槃)

DS:科学者たちは、人間の水準から上、あるいは下への進化があるということについて、何の情報も持ちません。

SP:したがって私は、彼らは悪者であると言います。彼らは何の知識も持ちません。それなのに彼は科学者であると主張します。本当の科学はバガヴァッド・ギーターの中にあります。その中でクリシュナは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。(BG9.25)これは、何であれ人がこの人生において崇拝しているものが、彼が次の人生において得る体を決定するという意味です。しかし、もしも人がクリシュナを崇拝するなら、彼は転生の過程を完全に終了します。(サンスクリット引用)「人が私の至高の住処に至るとき、彼は決して(この生と死の物質世界に)戻りません。」(BG8.21)霊的な世界に昇格されること(サムスィッディーム・パラマーム)は、人間の人生の究極の完成です。バガヴァッド・ギーターを読みなさい。すべてはそこにあります。しかし、科学者たちはここ完成について何も知りません。彼らは密度の濃い体とは別の、生命体の存在さえ信じません。

生徒:彼らの概念は仏教に近いものです。仏教徒は、体は家のようなものだと言います。ちょうど家が木でできているように、体は化学物質でできています。そして体が死ぬときは、それはちょうど家が木切れになってもはや家が無くなるように、体は単に化学物質になって、もはや体もなく、生命もないのです。

SP:その状態はニルヴァーナと呼ばれます。そしてそれから、その材料を使って、あなたは別の家や別の体を作ることができます。それが仏教です。仏教徒は魂に関して何の情報も持ちません。

3.「運命とカルマ」

生徒:一部の科学者たちは、それぞれの体の中にいくつかの魂があるという議論をします。彼らはミミズを例として使います。もしも人がそれを半分に切れば、両方の部分が生きます。彼らは、もともとのミミズの体に二つの魂が住んでいたことをこれが証明すると言います。

SP:違います。それは単に新しい魂がミミズの体の半分に入ってきたのです。

DS:魂は、霊的、あるいは物質的どちらかの体を必ず持たねばならないのですか?

SP:魂は既に霊的な体を持っています。それを物質の体が覆っているのです。私の物質的な体は、私―――私の霊的な体―――の上に育ちますが、私の物質的な体は不自然です。本当の体は霊的です。私は私の本来の姿にとって不自然な様々な体を受け入れています。私の本当の本来的な立場は、クリシュナの従者であるというものです。私がその立場に至らない限り、私は物質の従者として留まり、物質エネルギーの法則に従って多くの物質的な体を得ます。私はある体を得て、そしてそれを放棄します。私は他の何かを欲し、再び別の体を得ます。この過程が物質自然の厳格な法律の下で続いています。人々は、自分たちが自分の運命を完全に統御していると考えますが、彼らはいつもカルマという自然の法則の下にあるのです。

(サンスクリット引用)

「幻惑された霊魂は、物質自然の三つの相の影響の下で自分は活動の主体だと考えますが、実際はそれは自然によって実行されます。」(BG3.27)この幻惑の源は、生命体が「自分はこの体である」と考えることです。

(サンスクリット引用)

この節において、ヤントラ、すなわち「機械」という言葉は、どの生命の種においても私たちは物質自然によって提供された機械のような体をまとって旅している、ということを意味します。時として私たちはより高い種へ、時々はより低い種へと旅します。しかし、もしも霊的指導者とクリシュナの慈悲によって人が献身奉仕の種を得て、それを育むなら、彼は生と死の循環から自由になることができます。そうすれば彼の人生は成功します。さもなければ、彼は時にはライオンになったりなどしながら生命の異なる種の間を上へ下へと旅しなければなりません。

4.「無明を知識であると広告する」

生徒:それでは、これらの物質的な体を取る原因となるのが「楽しみたい」という私たちの欲望であり、私たちを自分たちの自然な立場に戻すのが「クリシュナを得たい」という欲望なのですか?(訳注:原文はちょっとややこしいので、意味をはっきりさせるために括弧を付けています)

SP:そうです。

DS:しかし、私たちの低位の性質との継続的な苦闘があるように見えます。私たちはクリシュナに奉仕したいと思いつつも、いつも感覚の満足のための自分たちの欲望と戦っています。これはいつまで続くのですか?

生徒:体は、ほとんど内からの独裁者のようです。

SP:はい。それはあなたが物質エネルギー、すなわちマーヤーに強く統御されているということです。

DS:私たちがクリシュナに奉仕したいと思っているにもかかわらずですか?

SP:そうです。泥棒は、もしも自分が盗めば逮捕されて牢屋に入れられるだろうと知っているかもしれません―――彼は他の人が逮捕されるのさえ見たことがあるかもしれません―――それでも彼は盗みます。彼は自分が国家の権威の下にあると知っているにも関わらず、それでも自分の欲望に従って行動するのです。これはタマス、すなわち無明と呼ばれます。したがって、知識は霊的な人生の始まりです。バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナはアルジュナに知識を授けられます。主は「あなたはこの体ではありません」と教えられ、これが知識の始まりです。しかし、この知識を教える大学はどこにありますか?シング博士、この知識を教える大学がどこにあるか、私に教えてくれませんか?

DS:一つもありません。

SP:それが教育の現状(position)です。知識がないのです。彼らは単に無明を知識として広告します。

DS:しかし、もしも科学者たちが自分たちが体でないと知れば、彼らの見解全体が変わるでしょう。

SP:はい。私たちはそれを望んでいます。

生徒:しかし、彼らは自分たちの失敗を認めたくありません。

SP:それなら、それは更なる愚かさです。もしもあなたが愚か者であり、そして知性的である振りをするなら、それは更なる愚かさです。そうするとあなたは進歩することができません。そしてもしもあなたが無明の内に留まり、自分自身を知識ある者として広告するなら、あなたは偉大なペテン師です。あなたは自分自身と他者を騙しています。人々は文明の物質的な発展を狂気のように求めているので、彼らはちょうど猫や犬のようになります。たとえば、彼らは移民局を作りました。そしてあなたがどこかの国へ入れば直ちに、これらの犬たちが「わん!わん!わん!なぜ来たのか?何の用事だ?」と騒ぎます。これは番犬の活動です。一流の紳士がリボルバー(訳注:銃の一種)を持っていないかと調べられます。人々は信用ならず、今では非常に多くの教育のある無頼漢や泥棒がいます。それでは、発展の意味は何ですか?私たちは教育が発展を意味すると言えますか?これが文明ですか?

5.「議論と知識をもって無明と戦う」

生徒:ある人々は、ベトナム戦争の原因の一つは共産主義者たちが無神論者であることだと言います。それは有神論者と無神論者の間の論争でした。少なくとも、それが戦争に対して出された弁明の一つでした。

SP:私たちもまた、無神論者を殺す用意ができています。しかし、その殺しは伝道によってです。もしも私があなたの無明を殺せば、それもまた殺しと呼ばれます。殺すことは、必ずしも誰もが剣を手にしなければならないことを意味するのではありません。

DS:戦争の新しい方法ですか?

SP:いいえ。議論と知識で無明と戦うことは、いつも存在していました。体の概念に基づいた人生は動物の人生です。そして、体の概念に基づいた人生のもとにある者は、動物より優れているわけではありません。動物が「語る」とき、知性ある人は笑います。そのような語りは無意味です。動物は知識を語っていません。

生徒:少なくとも、動物はある特定の基準に沿って生きます。彼らは不必要に殺さず、そして彼らは必要なときだけ食べます。他方で、人間は不必要に殺し、不必要に食べます。そのため、ある意味では人間は動物に劣ります。

SP:したがって、私たちは動物よりももっと苦しまねばなりません。クリシュナ意識は、偽物で感傷的な宗教運動ではありません。それは人間の苦しみを和らげるために設計された科学的な運動です。

DS:科学者たちと他の人々は、宇宙の中のすべては偶然によって起こっていると言います。

SP:それでは、彼もまたその主題について偶然本を書いているのですか?

カランダーラ:彼らは、本もまた偶然に書かれると言います。

SP:では、彼らの栄誉は何なのですか?偶然によって、何でも書かれ得ます。

DS:フランスの科学者、Dr. J.モノッドは、1965年にノーベル賞を受賞しました。彼は、すべては偶然に始まったと---偶然によってある特定の化学物質が組み合わさり、基本的な分子を作ったと言います。

SP:しかし、それらの化学物質はどこから来たのですか?

DS:彼らによれば、それらは単に偶然によって作られ、必要性が生じたときに化学物質の分子がそれ自身を新しい環境に適応させました。

SP:もしもすべてが偶然によって起こっていたのであれば、どうして必要性があり得るでしょうか?どうして彼は偶然と必要性を同時に語れるのですか?(訳注:原文はin one breath、直訳すると「一つの息の中で」)それは無意味です。もしもすべてが偶然によって指揮されているなら、なぜ人々は自分の子供たちを学校に送るのですか?なぜ偶然育つに任せないのですか?たとえば、私が法律を破ると仮定しましょう。もしも私が「まあ、それはただ偶然起こったのです」と言えば、私は許してもらえますか?

DS:では、犯罪は無明によって犯されるのですか?

SP:そうです。それこそが原因です。私の無明です。

生徒:バイオリンのような美しい楽器が偶然作られたというのは、確かに馬鹿げています。

SP:そうです。そのような悪者が評価を得ることができるというのは、この上なく残念なことです。彼は愚かさを語り、評価を得ているのです。

朝の散策---10

1973年5月14日、ロサンゼルス近くのチェヴィオット・ヒルズ公園にて録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シングと他の生徒たち。

1.「科学者たちの誤り」

SP:科学者たちの誤りは、彼らが二つのエネルギー---物質的および霊的なそれについて無知であることです。彼らは、すべては物質的であってすべては物質から生じると言います。彼らの理論の欠陥は、彼らが霊ではなく物質から始めることです。物質は霊から生じるので、ある意味ではすべては霊的です。霊的なエネルギーは源であり、物質的なエネルギー無くして存在することができます。しかし、物質エネルギーは霊的エネルギー無くしては存在しません。暗闇が光から始まるというのは正しいのです。光が暗闇から始まるのではありません。科学者たちは、意識が物質から生じると考えます。実際は、意識は常に存在していますが、それが無明によって覆われている、あるいは曇らされているとき、それは無意識という形にあるのです。

そのため、「物質的」とはクリシュナを忘れていることを意味し、「霊的」とはクリシュナを完全に意識していることを意味します。これがはっきりと分かりますか?理解しようとしなさい。暗闇は光から生じるのです。光が視界にないとき、そのときは私たちは闇にあります。太陽には雲は見つけられません。それは太陽の性質に反するのです。しかし、太陽のエネルギー(訳注:「エネルギー」を強調)によって霧や雲や暗闇などの他のものが一時的に作られます。これらの創造は一時的ですが、太陽はそのままであり続けます。同様に、物質自然は一時的ですが、霊的な自然は永久的です。クリシュナ意識とは、この一時的な自然から抜け出て、永遠で霊的な自然に至ることを意味します。誰も本当はこの一時的な自然を望んではいません。誰もこの曇った環境を好んではいないのです。

DS:この曇った意識は霊的なエネルギーから作られているのですか?

SP:そうです。

DS:そして、物質もまた優性エネルギーから作られているのですか?

SP:(サンスクリット引用)クリシュナはおっしゃいます。「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべては私から生じます。」(BG10.8)クリシュナは、良いもの悪いものすべての創造者です。本当は、「良し悪し」は物質的な創造です。クリシュナの創造は善です。神は善なのです。あなたが悪と考えるものは、神にとっては善なのです。したがって、私たちはクリシュナを理解できません。主は、私たちの考えにおいては悪であるかもしれないことをしていらっしゃいますが、主にとっては善悪などというものはないのです。たとえば、クリシュナは一万六千人の妻と結婚なさいました。ある人々は「ああ、主は全くの女狂いだ」と非難するかもしれません。しかし、彼らは全体像を見ません。クリシュナの力はとても偉大なので、主はご自身を一万六千の異なる夫に拡張なさったのです。

2.「{すべては一つ}は無意味である」

DS:あなたは、この物質自然という霧は一時的だとおっしゃいました。しかし、私たちはなぜそもそも、やがて過ぎ去るものから自分自身を解き放とうとすべきなのですか?

SP:なぜあなたは自分の体を覆うのですか?あなたは裸で歩いても良いのです。2-3時間もすれば天気も晴れるでしょう。なぜあなたは自分自身を覆うのですか?

DS:危険は今なのです。

SP:それがいつであれ、なぜあなたはこの、自分の体を覆うという段階を経るのですか?

DS:不快さを避けるためです。

SP:そうです。そうしなければあなたは不快でしょう。わざわざ衣類をまとうことをしない、というのは、マーヤーヴァーダ理論です。「すべては自動的に来たる。だから、なぜわざわざする必要があるだろうか?」それは無意味な理論です。マーヤーヴァーダ哲学は、神は一つであり、すべてのものとすべての生命体は神と同等である、というものです。

私たちは、もしも化学者たちが生命から始めるのであれば彼らと何の論争もしません。しかし、不幸にして彼らはすべては暗闇---死んだ物質から始まると言います。それが私たちが異議を唱える点です。私たちは「生命から始めなさい」と言い、そして彼らは「いいえ、物質――-、暗闇から始めなさい」と言います。なぜ彼らが暗闇にいるのかという理由は単純です。もしも人が暗闇から光に至れば、彼は暗闇が始まりだと考えます。たとえば、あなたが一生暗闇の中にいて、今突然光の中に来たと仮定しましょう。あなたは、「おお、暗闇から光が生じた」と考えるでしょう。実際には、暗闇は光が暗くなるときに生じるのです。暗闇は光を作り出しません。

DS:それでは、暗闇は光に依存しているのですか?

SP:そうです。あるいは言い換えると、光の中には暗闇はありません。光が暗いとき―――そのときに私たちは暗闇を経験します。同様に、私たちの霊的な意識、すなわちクリシュナ意識が暗いとき、私たちの意識は物質的です。朝には私たちは目覚め、一日の終わりには私たちは疲れて眠ります。生活がなんらかの理由で中断されるとき、私たちは眠ります。私たちは夜には眠り、そして私たちが朝目覚めるとき、私たちは自分の覚醒、すなわち「命」が眠い状態から生じたのではないことを理解します。私は眠っていた間も生きていました。そして、目覚めてもまだ私は生きています。これははっきりと理解されるべきです。赤ん坊は彼の母親の子宮から来ます。彼は自分の人生は自分が子宮から出てきた日に始まったと考えます。しかしそれは事実ではありません。実際は、彼は永遠なのです。彼は無意識でいた間に彼の母親の子宮の中で自分の物質的な体を作りました。そして自分の身体的な機能が十分に発達すると、直ちに彼は子宮から出てきて再び意識を持つに至りました。

DS:そして彼は死のときに再び眠りに落ちるのですね。

SP:そうです。それはバガヴァッド・ギーターに描写されています。(8.19)

(サンスクリット引用)

「何度も何度も朝が来て、このおびただしい存在は活動的になり、そして、おお、パールサよ。再び夜がやってきて、彼らは無力にも消滅させられます。」

3.「私たちはこの体ではない」

SP:この花が見えますか?これは意識のある状態に戻りました。そして、まもなく乾いて死にます。これが物質的な人生です。しかし、霊的な人生とは花咲くことだけを意味します。消滅はありません。それが物質と霊の違いです。私はこの体を私の以前の人生における意識に応じて得ました。そして私はこの人生における私の意識に応じて自分の次の体を受け取ります。これもまたバガヴァッド・ギーター(8.6)において確認されています。

(サンスクリット引用)

「何であれ、人が自分の体を去るときに覚えている心の状態(state of being、存在のあり方)を、彼は間違いなく得ます。」

DS:シュリーラ・プラブパーダ、もしも私たちの次の体がいつもこの人生における私たちの意識によって得られるのであれば、どうして私は自分の過去の人生を覚えていないのですか?

SP:あなたは自分が去年したことや、昨日したことでさえ、すべてを覚えていますか?

DS:いいえ、覚えていません。

SP:それがあなたの性質です。あなたは忘れるのです。

DS:いくらかのことなら、忘れます。

SP:そして、ある人々は他の人々よりももっと忘れます。しかし、私たちは皆忘れます。

DS:それは物質自然の原則なのですか?

SP:そうです。それは盗みのようなものです。ある人はスリであり、別の人は銀行強盗です。しかし、どちらも盗んでいます。

DS:私たちが夢を見るとき、私たちは密度の薄い要素によって運び去られているのですか?

SP:あなたは自然によって運び去られています。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて(3.27)おっしゃいます。

(サンスクリット引用)物質自然の三つの相の影響の下で幻惑されている霊魂は、自分が活動の行為者であると考えます。その活動は、実際は自然によって実行されています。」私たちは自分の本当の自己認識を忘れます。私たちは物質自然の支配の下にあるからです。

霊的な人生における最初の教えは、私たちはこの体ではなく永遠なる霊魂であるということです。かつて、あなたは子供でした。今ではあなたは成長した大人です。あなたの子供時代の体はどこにあるのですか?その体は存在しませんが、あなたはまだ存在しています。あなたは永遠だからです。二義的な体は変化しましたが、あなたそのものは変わっていません。これが永遠性の証拠です。あなたは、自分が昨日あることをして今日別のあることをしたということを覚えていますが、あなたは他のことは忘れます。昨日のあなたの体は、今日の体ではありません。あなたはそれを認めますか?それとも認めませんか?あなたは今日が1973年の5月13日であるということはできません。13日は昨日でした。日付が変わったのです。しかし、あなた自身は昨日を覚えています。そして、その覚えているということ自体があなたの永遠性の証拠なのです。体は変化しましたが、あなたはそれを覚えています。したがって、体は一時的であるにもかかわらず、あなたは永遠です。この証拠はとても単純です。子供でさえそれを理解することができます。それは理解するのが難しいですか?

4.「変化する体」

DS:人々はもっと多くの証拠を欲します。

SP:これ以上、何が必要とされるでしょうか?魂の永遠性は単純な事実です。私は永遠なる魂です。私の体は変化しつつありますが、私自身は変化していません。たとえば、私は今では老人です。ときどき、私は考えます。「おお、私はかつては飛び跳ねて遊んでいた。しかし今では私は飛び跳ねることができない。私の体が変化してしまったからだ。」私は飛び跳ねたいと欲しているのです。しかし、私にはそうできません。その飛び跳ねるという傾向は永遠ですが、私の老いた体のため、私にはそうすることができません。

DS:反論者たちは、自分たちの観察によれば「意識の性質はひとつの体の間だけ存続する」というものだ、と言うでしょう。

SP:それは愚かさです。バガヴァッド・ギーター(2.13)において、クリシュナは説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「体に閉じ込められた魂がこの体の中を少年時代から若者から老齢へと永続的に通り過ぎるように、同様に魂は死のときに別の体に入ります。自己を認識した魂は、そのような変化によって幻惑されません。」ちょうどこの体がいつも変化しているように(私が自分の毎日の経験で見ることができるように)、死のときには同じような変化があるのです。

DS:しかし、科学者たちによれば、私たちは実際にこの最後の変化を観察するということができません。

SP:彼らの目はとても不完全なので、彼らは非常に多くのことを観察できません。彼らの無明がバガヴァッド・ギーターを非科学的にするということはありません。なぜ科学者たちは自分たちの感覚の不完全さを認めないのですか?彼らはまず自分たちの感覚の不完全さを認めなくてはありません。彼らの見る力は、何が科学であって何が科学でないかを規定しません。犬は自然の法則を理解できません。これは自然の法則が存在しないことを意味しますか?

DS:ああ、科学者たちはその論点を認めますが、彼らは完全になるための方法は客観的な情報と経験を通してであると言うのです。

SP:違います。それは完全になるための方法ではありません。誰も不完全な思考を通して完全になることはできません。そして、私たちの思考は必ず不完全です。私たちの感覚と心は不完全だからです。

DS:シュリーラ・プラブパーダ、もうひとつの問いが挙げられます。魂が三つや四つや五つの体を受け入れ、それから死ぬということは可能ではありませんか?

SP:あなたは無数の体を受け入れています。綿非は、昨日のあなたの体は今日のあなたの体ではないと言います。それでは、もしもあなたが100年生きるなら、あなたは何回体を変えましたか?計算してみなさい。

DS:13回です。

SP:なぜ13回なのですか?

DS:医学によれば、すべての身体的な細胞は7年ごとに入れ替わるからです。

SP:違います。7年ごとではありません。毎瞬間なのです。毎瞬、血液の遊離細胞は変化しています。そうではありませんか?

DS:そうです。

SP:そして血液の遊離細胞が変われば、直ちにあなたは自分の体を変えます。

DS:科学的な用語では、魂の永遠性はエネルギーの保存と比較することができますか?

SP:エネルギーを保存するということはありえません。エネルギーは常に存在しているからです。

DS:しかし、科学的な用語によれば、エネルギーの保存の法則とはエネルギーは作り出されることはなく、滅ぼされることもない、ということです。それは、それが永遠であるということを意味すると私は考えるのです。

SP:おお、はい、それは私たちは認めます。クリシュナは永遠です。したがって、主のエネルギーのすべては永遠です。

DS:それが生命体もまた永遠である理由ですか?

SP:そうです。もしも太陽が永遠であれば、そのエネルギー、、、熱と光、、、もまた永遠です。

DS:では、このことから生命は作り出されたり滅ぼされたりしないということにつながりますか?

SP:そうです。生命は永遠です。それは作り出されたり滅ぼされたりしません。それは単に一時的に覆われているのです。私は永遠ですが、昨夜、私は眠りによって覆われていました。だから私は昨日と今日ということを考えます。これが物質世界の制約なのです。

5.「すべては霊的である」

DS:物質的な意識とはクリシュナ意識の欠落ですか?

SP:そうです。

DS:そして、クリシュナ意識があるとき、物質自然はどこにあるのですか?

SP:もしもあなたがクリシュナ意識を継続すれば、あなたは何ものも物質的ではないことを見出すでしょう。クリシュナは、物質的なものは何もお受け取りになりません。そしてこれは、花は木に咲いているときは物質的であって、あなたがそれをクリシュナに捧げるときに霊的になる、ということを意味するのではありません。違います。花は、あなたがそれがあなたの楽しみのために作られたと考えている限り「物質的なのです。しかし、あなたがそれがクリシュナの楽しみのためにあると見れば直ちに、あなたはそれをその本当の姿―――霊的な姿として見るのです。

DS:では、世界全体は実際は霊的なのですか?

SP:そうです。したがって、私たちはすべてをクリシュナへの奉仕のために使いたいのです。それが霊的な世界です。

DS:私たちはその見方においてクリシュナの創造のすばらしさを味わう(訳注:言語はappreciate、価値を認めて感謝する)こともできますか?たとえば、私たちは「この木はとても美しい。それはクリシュナの所有物だからだ」と考えることはできますか?

SP:はい。それがクリシュナ意識です。

DS:もしも誰かが寺院の中のクリシュナの神像を見て、それが単に石や木であると考えるなら、それは何を意味しますか?

SP:彼は事実について無知なのです。どうして神像が物質的でありうるでしょうか?石もまたクリシュナのエネルギーです。ちょうど電気エネルギーがどこにでもあるのに電気技師だけがそれをどう利用するかを知っているように、同じくクリシュナはどこにでもおいでになり―――石の中にさえ―――しかし、主の献身者だけがクリシュナのすばらしさを味わうために石をどう利用すればよいかを知っているのです。献身者は、クリシュナ無くして石は存在し得ないことを知っています。したがって、献身者が神像を見るとき、彼らは「ここにクリシュナがいらっしゃる」と言います。彼らはクリシュナと主のエネルギーとの真の一体性を見るのです。

6.「同時に一つであり異なる」

DS:クリシュナ意識の人は、石に彫られた神像におけるのと同じくらいに、ただの石のなかにクリシュナを知覚するというのは本当ですか?

SP:はい。

DS:全く同じくらいにですか?

SP:はい。なぜそうでないことがあるでしょうか?バガヴァッド・ギーター(9.4)において、クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

これはクリシュナのエネルギーが―――つまり、特定の顕現した形におけるクリシュナが―――宇宙のすべての原子に行き渡っていることを意味します。しかし、主の完全に顕現した個人的な形は、主の指示に従って形作られた神像の中に存在します。これがアチンテャ・ベーダーベーダ・タットヴァ、神と主のエネルギーの同時の一体性と相違です。たとえば、あなたの部屋に太陽光があるとき、それは太陽それ自体があなたの部屋にあることを意味するのではありません。太陽とその離れたエネルギー、熱や光などは、性質においては同じですが、量においては違うのです。

DS:しかし、それでも、あなたは人がクリシュナを普通の石の中に見ることができるとおっしゃるのですか?

SP:そうです。なぜそうでないことがあるでしょうか?私たちは石をクリシュナのエネルギーとして見ます。

DS:しかし、私たちは石の中の主を崇拝することができますか?

SP:私たちは主を石の中の主のエネルギーを通して崇拝することができます。しかし私たちは石をクリシュナであるとして崇拝することはできません。私たちはこの長椅子をクリシュナであるとして崇拝することはできません。しかし、私たちはすべてを崇拝することができます。私たちはすべてをクリシュナのエネルギーであるとして見るからです。この木は崇拝の対象となり得ます。クリシュナと主のエネルギーは、どちらも崇拝の対象であるからです。しかし、それは私たちが木を私たちが寺院においてクリシュナの神像を崇拝するのと同じような方法で崇拝するということを意味するのではありません。

子供の頃、私は両親に決してクリシュナのエネルギーを無駄にしないように教えられました。彼らは私に、もしもたとえ小さな米粒が床板の間に挟まっていても、それを無駄にしないように私はそれを拾って額に当て、食べるようにと教えられました。私はいかにしてすべてをクリシュナとのかかわりの中で見るかを教えられました。それがクリシュナ意識です。したがって私たちは、何物も無駄にされたり誤って使われたりするのを見るのを好みません。私たちは弟子たちに、いかにしてすべてをクリシュナのために使うか、そしていかにしてすべてはクリシュナであると理解するかを教えています。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(6.30)において、次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「すべてのところに私を見て、私の中にすべてを見る者にとって、私は決して失われず、私にとっても彼は決して失われません。」

朝の散策―――11

1973年5月15日、ロサンゼルスのチェヴィオット・ヒルズ公園にて録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シングと他の生徒たち。

1.「霊魂を探知する」

DS:科学者たちは霊魂を見るのに大変な困難を感じています。彼らは、その存在は大変疑わしいと言います。

SP:彼らはどうしてそれを見ることができるでしょうか?それは見るには小さすぎるのです。誰がその見る力を持っているでしょう?

DS:それでも彼らはそれを何らかの方法で感知したいのです。

SP:もしもあなたが誰かにほんの一粒の100分の1の非常に有毒な毒を注射すれば、彼は直ちに死にます。誰も毒やそれがどのように働くかを見ることはできませんが、それにも関わらず、それは働いています。では、なぜ科学者たちは魂をその働きによって見ないのですか?そのような場合には、私たちは効果によって見なければなりません。ヴェーダには、魂と呼ばれる微細な粒が原因で体全体がうまく機能している、と書かれています。もしも私が自分自身をつねれば、私はそれを直ちに感じます。私は体中の皮膚に意識が行き渡っているからです。しかし、魂が体を去れば直ちに、私の体が死ぬときはそうなるのですが、あなたは同じ皮膚を取って切り刻むことができますが、誰も文句を言いません。なぜこの単純なことがそれほど理解し難いのですか?これは霊を探知しているのではありませんか?

DS:私たちは霊をこの方法で探知するかもしれませんが、神についてはどうですか?

SP:まず、魂を理解しましょう。魂は神の小片です。もしもあなたが小片を理解することができれば、そうすればあなたは全体を理解することができます。

2.「現代科学:助けか、危害か」

DS:科学者たちは、生命を作り出そうという努力の過程にあります。

SP:「過程」!「努力」!それを私たちは蹴り出します。それは私たちは認めません。物乞いが「私は億万長者になろうと努力しています」と言います。私たちは「あなたが億万長者になったとき、そのときに語りなさい。今はあなたは貧しい物乞いです。それだけです」と言います。科学者たちは、自分たちは努力していると言います。しかし、私があなたに「あなたは何ですか」と尋ねると仮定しましょう。あなたは、「私は何々になろうと努力しています」と言いますか?あなたは今は何ですか?それが問いです。「私たちは努力しています」は正しい答えではなく、科学的な提言でないことは言うまでもありません。

DS:ああ、彼らは今のところ生命を作り出していませんが、彼らはすぐにそうできるであろうと言います。

SP:どの悪者であってもそう言うかもしれません。もしもあなたが「未来において私は何か非常にすばらしいことをすることができるでしょう」と言うなら、なぜ私はあなたを信用したり信頼したりすべきでしょうか?

DS:ああ、科学者たちは自分たちが過去において多くを為し、未来にはもっと多くを達成するであろうと言うのです。

SP:過去において死が存在し、人々は今も死んでいます。では、科学者は何をしたでしょうか?

DS:彼らを助けました。

SP:科学者たちは寿命を縮める助けをしたのです!かつて人間は100年生きていました。今では彼らは滅多に60年や70年以上は生きません。そして科学者たちは原子エネルギーを発見しました。今では彼らは何百万人もの人を殺すことができます。そのため、彼らは死ぬことだけ助けたのです。彼らは生きることは助けていません。そして、それでも彼らは図々しくも自分たちが創り出すと宣言するのです。

DS:しかし、今では私たちは飛行機を持ち、そして―――

SP:科学者たちは死を止めることができません。彼らは誕生を止めることができません。彼らは病を止めることができません。彼らは老齢を止めることができません。それでは、彼らは何をしたでしょうか?かつて、人々は老いていました。そして、今でも人々は老いています。かつて、人々は病んでいました。今でも彼らは病んでいます。今はもっと多くの薬があり―――そして、もっと多くの病があります。それでは彼らは何を達成したでしょう?科学者たちは世界の秩序を改善する手助けをしてはいません。私たちは、生命が物質から生じたというすべての悪者たる科学者に挑戦します。事実は、物質が生命から生じたのです。

3.「進歩という幻想」

SP:科学はどれくらいの間人々を騙すことができるでしょうか?100年、それとも200年くらいでしょうか?彼らはずっと人々を騙すことはできません。

DS:騙すことは、記憶にないほどの太古から続いています。ですからおそらく彼らは自分たちが永遠に騙し続けられると考えるでしょう。

SP:記憶にないほどの太古からではありません!科学は人々を過去の200-300年の間だけ騙しているのです。その前ではありません。

DS:おお、そうですか?

SP:そうです。過去200年の間、彼らは生命は物質から生じると布教しています―――何千年もの間ではありません。そして、欺きは今後50年で終わるでしょう。

DS:はい。今は反知性主義運動があります。人々は科学と現代的な進歩に反抗しているのです。

SP:そして、その科学とは何ですか?それは科学ではありません!それは無明です。無明が科学として通用しており、非宗教が宗教として通用しているのです。しかし、この欺きは長続きすることはできません。一部の人々は知性的になりつつあるからです。

DS:米国で一番大きな雑誌の一つであるニューズウィーク誌の中に、キリスト教の堕落に関する記事がありました。その記事の中に、悪魔が地震を起こしている漫画がありました。最近、南アメリカで大きな地震があり、何千人もの人が死にました。その漫画はそのようなことを悪魔のせいと考えていました。悪魔のすぐ横にはリチャード・ニクソンが描かれ、彼は自分をキリストの信者であるとしつつも東南アジアを爆撃していました。この漫画の中で、悪魔はリチャード・ニクソンのほうを向いて「キリスト教徒についていくのは全く大仕事だ」と言いました。

SP:そうです。人々はそのように非難するでしょう。人々は発達しつつあるのです。どれくらい長く彼らはいわゆる科学やいわゆる宗教によって騙され得るでしょうか?もしもニクソン氏が自分の同胞を愛しているなら、なぜ彼は自分の国の牛たちを愛さないのですか?彼らもまた同じ土地に生まれ、同じ生きる権利を持っています。なぜ彼らは殺されるのですか?「汝、殺すべからず。」しかし、動物たちは殺されています。それは不完全さです。クリシュナは牛とラーダーラーニー(脚注18)の両方を抱きしめられます。それこそが完成です。クリシュナは鳥とさえもお話になります。あるとき、ヤムナー川の河岸において、主は鳥と話しておいでになりました。主は鳥たちの言葉でさえお話しになるからです。ある老女がこれを見て驚嘆しました。「おお、主は鳥とお話しになっている!」

DS:あなたは主が実際に鳥が話すようにお話しになっていたとおっしゃるのですか?

SP:そうです。ヴェーダに描写されているクリシュナの性質の一つは、主がどんな言語でもお話しになれるというものです。主はすべての生命体の父であり、父は自分の子供たちの言葉を理解することができます。

クリシュナは至高の享楽者です。実際には、クリシュナ意識である者以外は、誰も本当の知識を持つこともできず、楽しむこともできません。人は単に苦しみます。しかし彼は、苦しみが楽しみだと考えるのです。これはマーヤー、すなわち幻想と呼ばれます。アメリカでは、人々は日夜懸命に働き、そして彼らは「私は楽しんでいる」と考えます。これはマーヤーです。制約された魂は、何も楽しむことはできません。彼は単に苦しみます。しかし、彼は自分が楽しんでいると考えるのです。

したがって、シュリマッド・バーガヴァタムの中で、制約された魂はラクダと比べられています。ラクダは、彼の舌を切るトゲのある小枝を食べるのを非常に好みます。彼がそれを食べている間、彼の舌から血が出てトゲのある小枝と混じります。それらは少しおいしくなり、彼は「おお、これらの小枝はとても良い」と考えているのです。それはマーヤーと呼ばれます。マーヤーとは「それでないもの」を意味します。「マー」は「―――でない」を意味し、「ヤー」は「これ」を意味します。そのため、マーヤーは「これでない」を意味します。それがマーヤー、すなわち幻想の本当の説明です。科学者たちはマーヤーの中にいます。彼らは、自分たちが物事を改良して幸せになりつつある、と考えるからです。しかし、この世界とその中にあるすべては、やがて終わります。それはマーヤーだからです。それは私たちがそれと考えるものではありません。シュリマッド・バーガヴァタムに説明されているように、物質主義者たちは自分たちは勝利しつつあると考えていますが、彼らは実際は敗北しているのです。


 

朝の散策―――12

1973年5月17日、ロサンゼルスのチェヴィオット・ヒルズ公園で霧のある朝に録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、カランダーラ・ダーサ・アディーカーリー、クリシュナカーンティ・ダーサ・アディーカーリーと他の生徒たち。

1.「ヨガの武器」

SP:あなたには霧を消し去る力はありません。科学者たちは、かろうじてそれをいくらかの言葉を巧みに操ることで、それには何か特定の化学物質が含まれていると言って説明するだけです。(プラブパーダ、笑う)しかし、彼らはそれを消し去ることはできません。

DS:彼らはいかにして霧が形成されるかということについては説明することができます。

SP:それはそうかもしれません。そして私もそうできるかもしれません。しかし、それはあまり大した栄誉ではないのです。もしもあなたが本当にそれがどうやって形成されるのかを知っているなら、それならあなたはそれを相殺することができるべきです。

DS:私たちはそれがどうやって形成されるかを知っています。

SP:それでは、どうやってそれを相殺するかを発見しなさい。かつて、ヴェーダの時代の戦争では、原子的なブラーマーストラが使われました。(脚注19)そしてそれを相殺するために、対する軍はそれを水に変化させる武器を使わねばなりませんでした。しかし、今日そのような科学はどこにありますか?

DS:霧は牛乳のようなものです。牛乳は白く見えますが、それは実際は特定のたんぱく質の分子のコロイド状の懸濁液(けんだくえき)です。同様に、霧は水のコロイド状の懸濁液です。

SP:それでは、もしもあなたがある種類の火を創り出せれば、霧は直ちに消し去られるでしょう。水は火によって消し去られます。しかしそれはあなたにはできません。もしもあなたが爆弾を爆発させるなら、それは熱を発生させ、すべての霧は消えるでしょう。

カランダーラ:それは町全体に危害を加えるかもしれません。

SP:火が水を相殺することができるということは誰もが知っていますが、あなたは人々を殺したり不動産を破壊したりすることなく霧を消し去ることはできません。しかし、自然の方法によって、太陽が昇れば直ちに霧は消え失せます。太陽の力はあなたの力より偉大なのです。したがって、あなたは計り知れない力が存在することを受け入れなくてはなりません。

2.「神の兆候」

SP:計り知れない力の原則を受け入れること無くしては、誰も神を理解することはできません。神は、どんないわゆるヨギーでも神になれる、というほど安くはないのです。そのような模造品の神は、悪者と愚か者のためのものです。知性のある者は、そのような人が計り知れない力を持っているかどうかを試します。私たちは、クリシュナを神として受け入れます。主はご自分の計り知れない力をお見せになったからです。子供の頃、クリシュナは大きな丘を持ち上げられました。そして、クリシュナの化身である主ラーマは、水の上に石を浮かばせることで、脚柱のない橋を作りました。つまり、人は神を安っぽく受け入れるべきではないのです。今日では、ある悪者たちがやってきて、「私は神の化身です」と言い、別の悪者が彼を受け入れます。しかし、主ラーマと主クリシュナは、実際に彼らの計り知れない力をお見せになりました。時として、人々は、彼らの活動の描写は単なる作り話や神話であると言います。しかし、これらの文献はヴァールミーキ(脚注20)、ヴャーサデヴァ、および他のアーチャーリャたちによって編纂されました。彼らは皆、偉大で大変に学識のある賢者たちです。なぜこれらの偉大な賢者たちが単に神話を書くことで彼らの時間を無駄にするでしょうか?彼らは、決してそれが神話であるとは言いませんでした。彼らは出来事(の記述)を実際の事実として取り扱いました。たとえば、シュリマッド・バーガヴァタムの10巻において、ヴャーサデヴァはヴリンダーヴァンにおける山火事について語っています。クリシュナの牛飼い少年の友人たちは、皆恐れ、助けを求めてクリシュナのほうを見ました。主は単にすべての火を飲み込まれました。それは計り知れない神秘的な力です。それが神です。私たちは神すなわちクリシュナの微細な小片なので、わたしたちもまた自分たちの体の中に計り知れない神秘的な力を持っています―――しかし、ほんの少しの量なのです。

3.「科学的な知識はクリシュナから来る」

クリシュナカーンティ:医者たちは人間の脳の複雑な性質に驚嘆します。

SP:はい。しかし、体を働かせるのは脳ではありません。それは霊魂です。コンピューターはそれ自体で動きますか?いいえ。人間が動かします。彼がボタンを押します。そうするとそれから何かが起こるのです。そうでなければ、機械の価値は何ですか?あなたは機械を何千年も持っておくことができますが、それは人間が来てボタンを押すまで動きません。しかし、誰が働いているのですか?機械ですか?それとも人間ですか?同様に、人間の脳もまた機械です。そしてそれはパラマートマー、誰もの心臓にいらっしゃる神の拡張体の指揮の下で動いているのです。

科学者たちは、神と主の神秘的な力を受け入れるべきです。もしも彼らがそうしないなら、彼らは愚かであると考えられるべきです。超越的な知識に基づいて、私たちは多くの有力な科学者や哲学者たちに直接的に挑戦しています。先日、あなたはあの化学者を連れてきました。そして私は彼に「あなたは愚かです」と言いました。しかし、彼は怒りませんでした。彼はそれを認め、私は彼の議論のすべてを破りました。おそらくあなたは覚えているでしょう。

DS:はい。事実、彼は、自分の実験を行うのに必要なすべての手続き上の段階をおそらくクリシュナが自分に与えて下さらなかったのだろう、と認めました。

SP:彼はクリシュナに反抗しています。ですから、なぜクリシュナは彼に何らの便宜も与えるべきでしょうか?もしもあなたがクリシュナに反抗していて、あなたがクリシュナ抜きで栄誉を欲するなら、あなたは失敗します。あなたはまず従順でなければなりません。そして、そうすればクリシュナにあなたにすべての便宜をくださいます。私たちは大胆にいかなる科学者や哲学者とも対面し、彼に挑戦します。どうやって?クリシュナの力によってです。私が彼らと話すとき、クリシュナは私に彼らを破るのに必要な知性を下さることを私は知っています。そうでなければ、科学的な資格という視点からは、彼らは私たちよりもずっと優れた資格があります。私たちは、彼らの前では俗人です。しかし、私たちはクリシュナを知っており、クリシュナはすべてを知っておいでです。したがって、私たちはいかなる科学者にも挑戦することができます。ちょうど、小さな子供がとても大きな人に挑戦できるようなものです。彼は「僕のお父さんがここにいる」と知っているからです。彼は自分の父親の手をしっかりと握り締めます。父は決して誰も彼を傷つけないようにします。

DS:クリシュナ意識を理解しようとしない者にとって、人間の形の人生は駄目にされるのですか?

SP:そうです。自分の神との関係を理解しようとしない人々は、単に動物―――犬や猫のように死にます。彼らは生まれ、食べ、眠り、子供をもうけ、そして死にます。これが彼らの人生の総計です。これらの悪者たちは、「私はこの体だ」と考えます。彼らはアートマーについて何も知りません。アートマーは、自己、すなわち個々の魂を意味します。シュリマッド・バーガヴァタムとバガヴァッド・ギーターは私たちにアートマーに関する知識を与えますが、人々はこれに気づいていません。

人々はヴェーダ文献の中で人間社会に与えられた知識に気づいていません。たとえば、ヴェーダは私たちに牛の糞は純粋であると教えます。特にここアメリカでは、人々は糞をさせるために犬を道に連れ出します。もちろん、犬の糞は大変不潔です―――ばい菌が大繁殖しています。しかし、人々は大変な悪者なので、彼らはこれを考慮しません。その代わり、彼らは犬の糞をそこここに撒き散らしました。しかし、どこにも牛の糞は見当たりません。ヴェーダが牛の糞は純粋であると言うにも関わらずです。ここに看板があります。「ゴミを捨てることは違法です。」しかし、犬の糞は許されています。人々がいかに愚かであるか、見ても御覧なさい。草の上に紙切れを落とすのは非合法ですが、あなたの犬は糞をしてもかまわないのです。政府の権威者は、あなたに他の国から一個のマンゴーを持ってくることさえ許しません。しかし、彼らはあなたの犬にどこにでも糞を撒き散らすことを許すのです。この糞は感染性のばい菌にあふれているにも関わらずです。(訳注:現在では市町村の条例で犬の糞は飼い主が回収することが義務づけられている場合が多いです。実行していないケースも多いですけど。)

4.「宇宙計画:時間とお金の子供じみた無駄遣い」

DS:宇宙飛行士たちが月から地表に戻ったとき、宇宙計画の科学者たちは非常に注意深く行動しました。彼らは、宇宙飛行士たちが未知の何か新しいばい菌を持ってきたかもしれないと考えました。

そのため、彼らは宇宙飛行士たちを数日間隔離施設に入れました。念のために―――

SP:まず、彼らが月に行ったかどうかを確認しなさい。私はそう確信がありません。16年前、私が「Easy Journey to Other Planets(訳注:このサイトに邦訳あり)」を書いたとき、私は、宇宙を探査しようという科学者たちの試みは子供じみており、決して成功しないだろう、と書きました。何年もあとでサンフランシスコを訪れたとき、新聞の記者が私に聞きました。「月の探査に関するあなたの意見は何ですか?」私は彼に言いました。「それは、単に時間とお金の無駄遣いです。それだけです。」

クリシュナカーンティ:宇宙計画は最近別の失敗をしました。

SP:それはいつも起こっています。何だったのですか?

クリシュナカーンティ:彼らは、地球の周りを回って宇宙前哨地として機能するように、宇宙船を打ち上げました。しかし、それは失敗しました。それは20億ドルかかりました。

SP:なぜ彼らはそのように時間とお金を無駄にしているのですか?

クリシュナカーンティ:彼らは新聞で非難されていました。

SP:彼らは単に子供じみた愚か者たちです。彼らは何を得たでしょう?過去の―――何年ですか?何年の間彼らは月へ行こうとしているのですか?

DS:10年以上です。ロシアは1957年にスプートニクで始めました。

SP:しかし、彼らはその前も試みていました。ですから、仮に25年の間彼らが試みていると仮定しましょう。彼らは埃以外何も得ていませんが、それでも彼らは試み続けています。なんと執拗なのでしょう!宇宙計画は決して成功しません。

DS:彼らは、未来には火星の地表に行きたいと言います。

SP:彼らは皆、未来に関する彼らの言明で「偉人」になりつつあります。

DS:彼らは、それは約10年後に起こると言います。

SP:では、もしも彼らが1年と言えばどうでしょうか?彼らは10年あるいは1年と言うかもしれませんが、私たちはそのような提言は受け入れません。私たちは、彼らが今現在何をしているかを見たいのです。

DS:彼らは、小型の模型を作って技術を開発しています。

SP:彼らは単に子供じみています。子供の頃、私はトロッコが線路を走るのを見ていました。一度、私は考えました。「僕は棒を持ってきて電線を触ろう。そうすれば僕も線路を走れるだろう。」これらすべての計画を立てる科学者たちは、ちょうどこれと同じように子供じみています。彼らは非常に多くの時間とお金を使いますが、彼らの目的は何ですか?彼らの努力は救いがありません。彼らは実際には人生の目的を知らないからです。科学者たちは多額のお金を使っており、政治家は彼らに資金を提供していますが、結果はゼロです。彼らは、ある特定の病気を理解していないのに、それでも自分の患者にこう言う医者のようなものです:「いいでしょう、まずこの薬を試してみなさい。そして、もしもその薬が効かないなら、それならこの薬を試してみなさい。」医者は決して自分が病気の治療法を知らないとは認めません。科学者たちは単に虚勢を張り、騙しています。彼らは人生の本当の問題―――生、死、老、および病―――を解決することができません。そしてそのため、彼らの計画のすべては非実際的な水準で行われています。それはサンスクリットではアーカーシャ・プーシュパと呼ばれます。アーカーシャ・プーシュパとは、「空からの花」を意味します。宇宙を探査することで真実を知ろうとする彼らの努力のすべては、空からの花を摘もうとするようなものです。もう一つの例を挙げると、科学者たちは愚かな鴨のように行動します。インドでは、私たちは時として鴨が一日中雄牛の後をついて回っているのを見かけることがあります。鴨は、雄牛の睾丸を魚だと思っています。インドではこれはありふれた光景です。雄牛は歩き、一日中鴨はその後ろを歩いています。その大きな魚を追いかけ、「あれは落ちてくるだろう。そしたら食べよう」と考えているのです。

朝の散策―――13

1973年12月2日、ロサンゼルス近くの太平洋岸にて録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、フリダヤーナンダ・ダーサ・ゴスヴァーミー、クリシュナカーンティ・ダーサ・アディーカーリーおよび他の生徒たち。

1.「欲望を超えた献身者たち」

SP:さて、誰かカルミーとジナーニとヨギーとバークタの違いを知っていますか?

フリダヤーナンダ:カルミーは物質的な感覚を楽しみたいと欲し、ジナーニーはかすかな心―――精神的な推察―――を楽しみたいと欲し、ヨギーは神秘的な力で宇宙を操作したいと望みます。

SP:これらはすべて物質的な力です。

フリダヤーナンダ:そして、バークタは物質的な欲望を持ちません。

SP:そうです。そして、人が実際に欲望のない状態にない限り、彼は幸せではあり得ません。カルミーとジナーニーとヨギーは欲望に満ちています。したがって彼らは不幸です。カルミーは最も不幸せで、ジナーニーはそれよりは少し不幸せではなく、そしてヨギーはさらにもっと発達しています。しかし、バークタ、献身者は完全に幸せです。一部のヨギーは、何千キロも離れた他の国からザクロの実を採ってくることができるような神秘的な力を持っています。飛行機を使わずに飛ぶことができるような者もいます。そして、誰でも催眠術にかけることのできるヨギーもいます。そうして彼らは、ある人を指して「この人が神です」と言い、彼らの被害者は彼らを信じます。私は実際にそのような魔術的な無意味な行いを見ました。
(訳注とは言えませんが、、、私もすごいのを目の前で見たことがあります。現実と思い込んでいたものなんて何てあっけないのだろう、と思ったのを鮮烈に覚えています。)

クリシュナカーンティ:純粋な献身者はクリシュナよりも慈悲深いですか?

SP:はい。本当のヴァイシュナヴァ、本当の献身者は、クリシュナよりももっと慈悲深いのです。たとえば、主イエス・キリストを御覧なさい。主イエスはすべての人の罪をその身に被ったと言われています。それでも彼は十字架に架けられました。私たちは、彼がいかに慈悲深かったかを見ることができます。今日では、悪者たちがこう考えます。「罪深い行いを続けよう。キリストが私たちのために苦しむという契約をしてくれた。」(長い、思いにふけった静寂あり。)

2.「物質と霊の違い」

DS:科学者たちは、木にもまた意識があると言います。

SP:そうです。それは本当です。しかし、木の意識と私の意識は違います。私の意識はもっと発達しています。もしもあなたが私の体をつねれば、私は直ちに抗議します。しかし、もしもあなたが木を切れば、それは抗議しません。本当は、すべてのものがその中に意識を持っています。それは単に程度の問題なのです。意識が物質によって覆われていればいるほど、それはより物質的であると考えられます。そして、意識が発達していればいるほど、それはより霊的であると考えられます。これが物質と霊の違いです。

霊魂はどこにでもあります。彼らは土から出てこようとしているのです。(草を指し示す)機会があれば直ちに彼らは自分たちの意識を表現したいと望みます。より高位の惑星からこの惑星に降りてくる魂は、時として雨粒に入って地面に落ちます。それから彼らは草になり、徐々により高位の形の生命へと進化します。

DS:おお、それはひどい。

SP:これらは、密度の薄いエネルギーの働きです。科学者たちは、これらについて何を知っていますか?実際には、彼らの知識はマーヤー、幻想によって奪い去られています。そして彼らは「おお、私は非常に学識のある学者だ」と考えているのです。

3.「魂の移植?」

DS:シュリーラ・プラブパーダ、心臓移植についてはどうですか?私たちは、霊魂は心臓の中にあると知っています。しかし、昨今では医者たちは古い心臓を新しい心臓と入れ替えることができます。それぞれの心臓の中の霊魂には何が起こるのですか?新しい心臓を受け取る人は、新しい人格も得るのですか?

SP:いいえ。

DS:なぜそうではないのですか?

SP:たとえば、私が一つの椅子から降りて別の椅子に座るとしましょう。私の人格は変わりますか?私は席を替わるかもしれませんが、それは私が変わったということを意味しますか?

DS:しかし、心臓が取り替えられます。そして心臓は霊魂を内包しています。

SP:ヴェーダは心臓を霊魂の座る場所として描写します。そのため、心臓が移植されるとき、彼らは単に魂の席を替えるのです。同じ魂が留まります。もしも彼らが心臓を取り替えることによって患者の寿命を延ばしたと証明することができれば、そうすれば彼らは霊魂を捉えたと証明できます。しかし、彼らは寿命を延ばすことはできません。人々は高位の配剤(訳注:原語はsuperior arrangement、人間より優れた誰かが取り決めること)によってそれぞれの体を得たからです。あなたはこの体を持っています。そしてあなたは、ある一定の期間その中で生きなければなりません。もしもあなたが単にあなたの体のある部分を取り替えるならば、それはあなたの人生を長くする助けにはなりません。それは不可能なのです。医者たちは心臓を取り替えることによって寿命を延ばすと考えますが、それは可能ではありません。

DS:それでは、心臓移植は古い心臓から新しいそれへの、魂の一種の人工的な転生なのですか?

SP:そうです。それはクリシュナがバガヴァッド・ギーター(2.13)において説明なさるようなものです。

(サンスクリット引用)

「体に閉じ込められた魂が継続的にこの体の中を少年時代から若者から老齢へと通り過ぎるように、魂は同様に死のときに別の体に入ります。自己を認識した魂は、そのような変化によって惑わされません。」心臓を取り替えることは、単なる物質的な身体の内臓の変化です。心臓は本当の生命の源ではありません。そして、そのため心臓を取り替えることは寿命を延ばしません。

DS:はい。心臓移植患者のほとんどは、手術の後、ほんの短い時間しか生きません。しかし、魂を一つの体から別の体に移植することができる可能性はありますか?

SP:時として、一部のヨギーはそうすることができます。彼らはより良い体を見つけて自分をその中に移すことができます。

DS:医者たちが心臓移植をするとき、彼らは死んだばかりの人から心臓を取って、別の人の体の中の弱い心臓と取り替えます。死んだ心臓の魂は、弱い生きた心臓の中の魂と場所を替わるのですか?

SP:いいえ。魂はすでに死んだ心臓を去っています。別の魂を持ってくるということはあり得ません。

DS:私があなたのおっしゃることを正しく理解しているかどうか、確認させてください。医者たちが死んだばかりの人の心臓を取り除くとき、魂はすでに彼の心臓を去っています。そして、彼らが彼の死んだ心臓を患者の体に移植するとき、患者の魂が移植された心臓に入ります。

SP:そうです。魂は、ある特定の体の中である特定の年数を生きるように運命づけられています。あなたはどれでも体の好きな部分を取り替えるかもしれませんが、あなたはその体の寿命を変えることはできません。

DS:それでは、心臓は単なる機械―――道具なのですか?(訳注:原語は、前者がmachine, 後者がinstrument)

SP:そうです。それは魂の座する場所です。

4.「からし種の袋の中のからし種」

DS:シュリーラ・プラブパーダ、生物学者たちは私たちに、性交せずに再生産することのできる種がたくさんあると言います。ヴェーダはこれに同意しますか?

SP:もちろんです。

DS:それでは、私たちは彼らの再生産を削減することはできないのですか?

SP:できません。どうして私たちがそうできるでしょうか?この物質世界に人生を楽しみにきた生命体がたくさんあります。そして、そのため再生産は継続しなければなりません。この物質世界は牢獄のようなものです。あなたは牢獄を終わらせることはできません。一人が牢獄を去れば、直ちに別の人が入る用意があります。この同じ問いは、主チャイタンニャ・マハープラブ(脚注21)によって論じられました。主の献身者の一人、ヴァースデヴァ・ダッタが言いました。「この宇宙全体のすべての生命体をお連れになり、彼らを物質的な呪縛から解放してください。そして、もしもあなたが彼らが改められるにはあまりにも罪深いとお考えになるのであれば、彼らの罪のすべてを私に与えてください。」しかし、チャイタンニャ・マハープラブはおっしゃいました。「たとえば、私がこの宇宙全体とその中のすべての生命体をつれていると仮定しましょう。これは単に無数の宇宙の中の一つに過ぎません。それはちょうど、とても大きなカラシ種の袋の中の一粒のカラシ種のようなものなのです。もしもあなたが袋から一粒を取り去れば、それで何の違いがあるでしょうか?」(訳注:この場合のカラシ種は、唐辛子ではなくてマスタード。一ミリくらいと小さいので、とても小さいものの例えとして使われることが多い。)再生産は、実際には止められないのです。生命体は無数にあり、そしてそのため、それは継続しなければなりません。

DS:あなたは、この物質世界は人に物質的な呪縛と繰り返す生と死の循環から抜け出る方法を教える更正施設のようなものである、とおっしゃいました。

SP:そうです。したがってあなたはクリシュナ意識を実行しなければなりません。 

朝の散策―――14

1973年12月3日、ロサンゼルス近くの太平洋岸にて録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、Dr. W.H.ウルフ・ロットケイ(以後、DWR)、および他の生徒たち。

1.「惑星間のガスの源」

DS:科学者たちは、ある時点において地球は何らかのガス状の物質の中に漂う埃の粒から形成されていたと言います。それから時間が経って、このコロイド状の懸濁物質が凝固して地球を形作りました。

SP:そうかもしれません。しかし、ガスはどこから来たのですか?

DS:彼らは、それはただ存在したのだと言います!

SP:クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.4)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「土、水、火、空気、エーテル、心、知性、および偽りの自己―――これらの8つの要素が一体となって、私の離れたエネルギーを形成しています。」ここでクリシュナはヴァーユ(ガス)はご自分から生じたと説明なさいます。そしてヴァーユよりかすかなのはカーム(エーテル)、エーテルよりもかすかなのは心、心よりもかすかなのは知性、知性よりもかすかなのは偽りの自我、そして偽りの自我よりもかすかなのは魂です。しかし、科学者たちはこれを知りません。彼らは密度の濃いものだけを理解します。彼らはガスに言及しますが、ガスはどこから来るのですか?

DS:それは彼らには答えられません。

SP:しかし、私たちには答えられます。シュリマッド・バーガヴァタムから、私たちはガスはカーム、すなわちエーテルから生じ、エーテルは心から生じ、心は知性から生じ、知性は偽りの自我から生じ、偽りの自我は魂から生じます。

DS:科学者たちは、ダーウィンの生物理学的な種類の進化が起こり得る前には、彼らが言うところの前生物学的な化学、すなわち化学的な進化がなければならなかった、と議論します。

SP:そうです。そして「化学的な進化」という言葉は化学物質に源があることを意味し、そしてその源は霊、すなわち生命です。レモンはクエン酸を作り出し、そして私たちの体は尿や血や体の分泌液の中に多くの化学物質を作り出します。これは生命が化学物質を作り出すのであって化学物質が生命を作り出すのではないという証拠です。

DS:科学者たちは、いったん生命の種が細胞の中に存在すると、生命体は自動的に発達し、機能する、と言います。

SP:はい。しかし、誰が種を与えるのですか?バガヴァッド・ギーター(7.10)において、クリシュナはこの問いに答えられます。(サンスクリット引用)「おお、プリサーの息子よ。私がすべての存在のもともとの種であると知りなさい。」そしてその後(14.4)ではこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子よ。すべての種の生命はこの自然の中に生まれさせられ、そして私が種を与える父であると理解されるべきです。」

2.「太古の創造者に栄誉を捧げる」

DWR:しかし、慎んでお伺いしますが、シュリーラ・プラブパーダ、たとえば科学者たちが実際に生きた細胞を人工的に作り出すことに成功したと仮定しましょう。あなたはどうおっしゃいますか?

SP:彼らの功績は何だというのでしょう?彼らは単に既に自然の中に存在するものを模倣しているだけです。人々は模倣されたものを非常に好みます。もしも誰かがナイトクラブで犬の真似をすれば、人々は彼を見に行ってお金を払います。しかし、本物の犬が吠えているのを見るとき、彼らはそれに何の注意も払いません。

DS:シュリーラ・プラブパーダ、化学的な進化という考えは、1920年にロシアの生物学者から出されました。彼は、生化学的な進化の前に地球の大気は還元の状態にあったということを論証しました。言い換えると、それはほとんど全て水素で、酸素はほとんどありませんでした。そして、やがて時間が経って、太陽光線がこれらの水素分子を異なる化学物質に変えました。

SP:それは副次的な研究です。まず、水素はどこから来たのですか?科学者たちは単に過程の中間を研究します。彼らは源を研究しません。私たちは始まりを知らねばなりません。あそこに飛行機があります。(水平線の上に現れる飛行機を指す)あなたは、あの飛行機の源は海であると言いますか?愚かな人は、突然海に光が現れて、そうやって飛行機は作られたのだと言うかもしれません。しかし、それは科学的な説明ですか?科学者たちの説明は似ています。彼らは、「これが存在した。そして突然、偶然に、あれが起こった」と言います。これは科学ではありません。科学とは、もともとの原因を説明することを意味します。

おそらく、科学者たちは自然の模造品を作ることができるでしょう。しかし、なぜ私たちは彼らに栄誉を与えるべきでしょうか?私たちは、もともとの創造者、神に栄誉を捧げるべきです。それが私たちの哲学です。

DS:科学者が何かの自然の法則を見つけるとき、彼は普通、それに自分の名前をつけます。

SP:そう、その通りです。法則はすでに自然の中にありますが、悪者たちはそれに対して栄誉を取りたがるのです。

3.「老人学:苦しみを長引かせる」

DS:彼らは実際は自然の法則に逆らっていますが、往々にして彼らは苦闘に喜びを感じます。

SP:その喜びは子供じみています。たとえば、子供が大変な苦労をして砂浜に砂のお城を建てたと仮定しましょう。彼はそれに喜びを感じるかもしれませんが、それは子供じみた喜びです。それは大人の喜びではありません。物質主義的な人々は、偽りの幸せのための水準を作り上げました。彼らは快適な文明のための豪華な配剤を作り上げましたが、それはすべて偽りです。彼らはその中で楽しむことのできる状況を作ることができないからです。いつであれ、誰であれ、死によって蹴り出され得ます。そして彼の楽しみのすべては終わります。

DS:それが、神は私たちにすべてを与えては下さらなかった、と人々が言う理由です―――私たちはここに永遠に住むことができないからです。

SP:しかし、神は彼らに平和に生きるために必要なものすべてと、主を理解するのに必要なものすべてをお与えになりました。それでは、なぜ彼らは神について問わないのですか?その代わり、彼らは自分たちが神を忘れる助けとなることをします。

DS:今では、科学者たちは科学の中に老人学と呼ばれる独立した分野を組織しました。それにおいて、彼らはいかにして寿命を延ばすかを研究します。

SP:彼らの本当の目的は、苦しみを止めることであるべきです。たとえば、老人がひどい痛みを感じ、多くの病気に苦しんでおり、そして突然医者たちが彼の寿命を延ばすと仮定しましょう。その利益は何でしょうか?

DS:それが彼らが心臓移植ですることです。

SP:それは無意味です!彼らに死を止めさせなさい。それこそが達成です。彼らにすべての病気を止めさせなさい。ああ、それこそが達成です。彼らはこれらのことをすることができません!したがって私は、彼らの研究のすべては単に生存のための苦闘であると言います。バガヴァッド・ギーター(15.7)において、クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「この制約された世界にいる生命体は、私の永遠の微細な小片です。制約された人生が原因で、彼らは心を含む6つの感覚で大変な苦労をしています。」

生徒:今では石油が不足しています。

SP:そうです。私たちは石油に依存した文明を築きました。これは自然の法則に反しているため、したがって今では石油の不足があります。自然の法則によって、冬が今、近づいています。科学者たちはそれを止めて季節を夏にすることはできません。彼らは誤って自分たちが自然を統御していると考えます。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは、生命体は自らを活動の行為者であると考えるが、その活動は実際は自然によってなされるのである、と私たちにお教えになります。太陽が今、昇っています。彼らは空を暗くすることができますか?そして、暗いとき、彼らは太陽に「起きなさい!」と命令することができますか?

彼らは、もしも彼らが本当に自然を征服したいなら、彼らは誕生と死、老齢と病気を征服しようとすべきであるということに気づいていません。バガヴァッド・ギーター(7.14)において、クリシュナは次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「物質自然の三つの相から成る私のこの聖なるエネルギーは、克服するのが困難です。しかし、私に服従した者は簡単にそれを越えることができます。」

DS:それでは、自然の法則を克服するのは大変難しいのですか?

SP:物質主義者にとっては、それは不可能です。しかし、もしも人がクリシュナに服従するなら、それは容易になります。

4.「種の本当の起源」

DS:なぜこれほど多くの種類の生命体が存在するのかを説明するために、科学者たちは、進化の間のある時点において、普通は次の世代のために完全に自己を再生産する細胞の遺伝子が時として複写に間違いを犯すのだ――-時として間違いをする印刷所のように―--、と言います。ある状況においては、これらの間違い、あるいは変異は生存し、遺伝子における違いのために異なる種の生命体が形成されました。

SP:しかし、その「間違い」は記憶にないほどの太古から続いています。すべての種類の生命体はいつも存在していたということは事実だからです。(訳注:原文を直訳すると「---ということをあなたは見出すことになるからです」)したがって、「間違い」は永遠です。しかし、「間違い」が永続的であるとき、それは間違いではありません。それは知性です!

DS:しかし科学者たちは、もしも変異がなければ宇宙全体にたった一つの種類の生命体しかなかっただろう、と言います。

SP:いいえ。すべての生命体は異なる心を持っており、したがって、異なる精神性を収容するために非常に多くの異なる種の生命が存在するのです。たとえば、私たちがここで歩いていますが、ほとんどの人は来て私たちに加わることをしません。なぜこの違いが存在するのですか?

DS:たぶんそれは間違いです。

SP:それは間違いではありません。それは彼らの欲望であり、死のときにすべての人は正確に彼の欲望に添った体を得ます。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(8.6)において次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「何であれ、人が自分の体を去るときに覚えている心のあり方を、彼は間違いなく得ます。」あなたが死のときに考えていることが正確にあなたの次の体を決定します。自然があなたに体を与えます。その決定はあなたの手中にはありません。自然の手中にあるのです。そして彼女は(訳注:自然は)神の指示の下で働いています。

DS:しかし、科学は生命の異なる種が確かに間違いによって生じるという証拠を持っているように見えます。

SP:それは彼ら自身の間違いなのです!自然の法には間違いはありません。鉄道の列車には、一等車、二等車、三等車、という区分があります。もしもあなたが三等車の切符を買って、間違って一等車に行ったら、あなたはそこに留まることを許されません。区分があるということは間違いではありません。それは配剤なのです。しかし、あなたが間違った部分に行ったのは、あなたの間違いです。神はとても完全でいらっしゃるので、主は犯されることになるすべての間違いをご存知です。したがって、あなたが犯す間違いにしたがって、あなたは特定の体に入ります。「さあ、ここに来なさい。体の用意ができています。」840万種の生命が存在し、そして自然は数学的な精確さで働いて異なる体をあてがいます。政府が町を作るとき、そこには町が完成する前でさえ、既に刑務所が作られます。政府は、刑務所に行かねばならない犯罪者がたくさんいるであろうことを知っているからです。これは政府の間違いではありません。それは犯罪者の間違いです。彼らが犯罪者になるので、彼らはそこに行かねばなりません。それは彼ら自身の間違いです。

自然には間違いはありません。クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子よ。この物質自然は私の指示のもとで働き、すべての動くものと動かないものを作り出しています。」(BG9.10)自然は、神、クリシュナの監督の下で働きます。それでは、どうして彼女が間違いをし得るでしょうか?しかし、私たち自身は間違いを犯し、私たちは幻惑されており、私たちの感覚は不完全であり、そして私たちは騙します。それが神と人の違いです。神は不完全な感覚をお持ちではありません。主の感覚は完全です。

5.「満足した動物たち」

DWR:私たちの感覚は欠陥があるので、もちろん私たちの感覚の技術的な拡大にも必ず欠陥があるのに違いありませんね。

DS:私たちがそれを使って物を探知するところの顕微鏡にもまた欠陥があります。

SP:物質的な存在とは、欠陥のある存在を意味するものであるのです。もしもあなたが欠陥のある知識と不完全な感覚で何かを構築すれば、あなたが構築するものも何であれ必ず欠陥があるに違いありません。

DS:たとえ科学者たちが完璧な顕微鏡を作り出しても、彼らはそれを欠陥のある目で覗かなければなりません。

SP:そうです。その通りです。したがって私たちは、何であれ科学者たちが言うかもしれないことは欠陥がある、と結論します。

DS:しかし、彼らはとても満足しているように見えます。

SP:ロバもまた満足しています。ロバは洗濯屋の荷物を担ぐのに満足しています。誰もが満足しています。糞の中のウジでさえです。それが自然の法です。

DWR:貧困者でさえ自分の小銭に満足していると言われます。

SP:そうです。インドのある地域では、人は時として飢えて死にそうな犬を見かけるかもしれません。しかし、その犬がメスの犬を得れば直ちに、性交をして満足します。それは満足さですか?犬は飢えています。しかし、それでもその犬は性交をして満足しているのです。

朝の散策――-15

1973年12月7日、ロサンゼルス近くの太平洋岸で録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、Dr.W.H.ウルフ・ロットケイ、および他の生徒たち。

1.「神を見るための目を得る」

生徒:過去150年の間、西洋の神学者の主な問題の一つは、条理と信仰の間の関係でした。彼らは条理を通して信仰を理解しようと模索していますが、彼らは条理を構築する能力(reasoning ability)と信仰の間の関係を見つけることができないでいます。彼らの一部は神に信仰は持っていますが、彼らの条理の方は、彼らに神はいないと言います。たとえば、私たちが主にプラサーダを捧げるとき、主がそれを受け入れると考えるのは単に信仰でしかない、なぜなら私たちは主を見ることができないからだ、と彼らは言います。

SP:彼らは主を見ることができませんが、私には主を見ることができます。私は神を見て、したがって私は主にプラサーダを捧げます。彼らは主を見ることができないので、私が彼らの目を開けてあげられるように、彼らは私のところへ来なくてはなりません。彼らは盲目です―――白内障に苦しんでいます―――ですから私は手術をし、そして彼らは見えるようになります。それが私たちのプログラムです。

生徒:科学者たちは、彼らの客観性という共通基盤は、彼らが自分たちの感覚で知覚できるものである、と言います。

SP:たしかに、彼らは自分たちの感覚で物事を知覚することができます。しかし大変不完全にです。彼らは自分たちの感覚で砂を知覚しますが、彼らは誰が砂を作ったか見ることができますか?ここに砂があり、ここに海があります。それらは直接的な知覚によって見られ得ます。しかし、どうやって人が砂と海の源なるものを直接的に知覚できるでしょうか?

生徒:科学者たちは、もしも砂と海が神によって作られたのなら、ちょうど私たちが砂と海そのものを見ることができるように、私たちは主を見ることができるはずだ、と言います。

SP:たしかに、彼らは神を見ることができます。しかし、彼らは主を見るための目を得なければなりません。彼らは盲目なのです。したがって、彼らはまず私のところに治療を受けに来なければなりません。シャーストラには、神を理解することができるように、人は治療を受けるためにグルのところへ行かねばならない、と書いてあります。どうやって彼は盲目の目で神を見ることができるでしょうか?

生徒:しかし、神を見ることは超俗的です。科学者たちは俗世的な視覚だけを考慮します。

SP:すべては超俗的です。たとえばあなたは、透き通った空には何もない―――それは空白だ、と考えるかもしれません。しかし、あなたの目には欠陥があります。空には、あなたの目が有限であるためにあなたには見ることのできない無数の惑星があります。したがって、それはあなたの知覚する力の範囲にないので、あなたは私の「はい、あそこには無数の星があります」という言葉を受け入れなくてはなりません。あなたが星を見ることができないから宇宙空間は空白なのですか?いいえ。単にあなたの感覚の不備だけがあなたにそう考えさせるのです。

生徒:科学者たちは、いくらかのことについて自分たちの無知を認めるでしょう。しかし、彼らは自分たちの見ることのできないものを受け入れることができません。

SP:もしも彼らが無知であれば、彼らは真実を知っている誰かから知識を受け入れねばなりません。

生徒:しかし彼らは「もしも私たちが言われたことが間違っていたらどうするのですか」と言います。

SP:それなら、それは彼らの不運です。彼らの不完全な感覚は神を知覚することができないので、彼らは権威者からそれを聞かねばなりません。それが過程です。もしも彼らが権威者に近づかないなら―――もしも彼らが騙す人に近づくなら―――それは彼らの不運です。しかし、過程とは、あなたの感覚が活動できないときはいつでも、あなたは事実を学ぶために権威者に近づかねばならない、ということです。

2.「無神論者の苛立ち」


DS:難しいのは、無神論者の集団の中において、人が神の存在を証明することができない、ということです。

SP:無神論者たちは悪者です。他の人たち―――話の通じる人たちに教えましょう。すべてのものは誰かによって作られました。砂は誰かによって作られ、水は誰かによって作られ、空は誰かによって作られました。クリシュナ意識とは、その誰かとは誰であるのかを学ぶことを意味します。

DS:科学者たちは、「その誰かを私が見ることができるように提示してください」と言うでしょう。

SP:そして私は彼らに答えます。「私はその誰かをあなたの前に提示しています。しかしあなたもまた訓練を受けねばなりません。」あなたは、その誰かを見るためにあなたの目に視覚を与えねばなりません。もしもあなたの目が盲目であって、しかし医者にかかりたくなかったら、どうして目が治って見えるようになるでしょう?あなたは治療を受けねばなりません。それが勧告です。

生徒:その段階には信仰が必要です。

SP:はい。しかし、盲目的な信仰ではありません―――実際的な信仰です。もしも何であれあなたが学びたいと思うなら、あなたは専門家のところへ行かねばなりません。それは盲目的な信仰ではありません。それは実際的な信仰です。あなたは何事も自分だけでは学ぶことができません。

生徒:もしも誰かが実際に真摯であるなら、彼はいつも真正なるグルに出会いますか?

SP:はい。(サンスクリット引用)クリシュナはあなたの中にいらっしゃいます。そして、主があなたが真剣であるとご覧になると、主は直ちにあなたに正しい人を送ってくださいます。

生徒:そしてもしも人が完全に真剣でなかったならば、人は騙す人を教師として得るのですか?

SP:そうです。もしもあなたが騙されたいなら、クリシュナはあなたに騙す人をお送りになります。クリシュナは超絶的な知性をお持ちなのです。もしもあなたが騙す人であれば、主はあなたを完全に騙します。しかしもしもあなたが本当に真摯であれば、主はあなたに正しい指示を下さいます。バガヴァッド・ギーター(15.15)において、クリシュナはこうおっしゃいます。(サンスクリット引用)「私はすべての者の心臓に座しています。そして私から記憶と知性と忘却が生じます。」クリシュナは記憶と忘却の両方に言及なさいます。もしもあなたが騙す人であれば、クリシュナはあなたに永遠に主を忘れるための知性をお与えになります。

生徒:しかし、無神論者が権力を握っています。彼らが支配権を持っています。

SP:マーヤーが一蹴りすると、彼らの支配権のすべては一瞬で終わります。それがマーヤーの性質です。無神論者は統御されているのですが、マーヤー、すなわち幻想のために、彼らは自分たちが自由だと考えるのです。

(サンスクリット引用)

「幻惑されている者は、悪魔的および無神論的な見方に魅了されます。その惑わすような状態において、彼らの解放への望み、彼らの結果を求める活動、および彼らの知識の文化はすべて敗北します。」(BG9.12)

彼らは幻惑されているので、彼らの望みのすべては苛立ちに終わります。それはここでバガヴァッド・ギーターの中に述べられており、それは実際に起こっています。この月計画のような彼らの大きな計画の非常に多くは苛立ちを伴いますが、彼らはそれでも自分たちが自然を支配できると主張するのです。

DS:彼らは理性的になりたくないのです。(訳注:原文はThey do not want to come to their senses. 冷静で理性的な状態に立ち戻りたくない、という意味。)

SP:だから彼らは悪者なのです。

3.「科学者たちは勇敢に地獄に行く」

SP:分別のある人は良い教えを受け入れますが、悪者は決して良い教えを受け入れません。カリダーサという名前の偉大な詩人の話があります。彼もまた、大変な悪者でした。あるとき、カリダーサは木の枝に座り、同時にそれを切っていました。紳士が彼に尋ねました。「なぜあなたはこの木の枝を切っているのですか?あなたは落ちます。」

カリダーサは答えました。「いいえ、いいえ。私は落ちません。」そして彼は枝を切り続け、そして落ちました。結論は、良い助言を受け入れなかったので、彼は悪者であるというものです。彼らのいわゆる科学的な発展によって、科学者たちは地獄に向かっています。しかし、彼らは教えられたときに聞きません。したがって彼らは悪者なのです。悪者は繰り返し計画を立て、それが行き詰るのを見て、そして再び別の計画を立てます。この計画もまた行き詰まり、そのため彼らはさらにまだ別の計画を立てます。それでも、私たちは彼らに、彼らの物質主義的な計画のすべては不成功で無用になる、と説明しようとするとき、彼らは聞くことを拒否します。それは悪者らしさです。悪者は繰り返し既に噛まれたものを噛みます。(訳注:ことわざ)家で、道で、ナイトクラブで、劇場で―――どこにいようと、様々に異なる性交が彼の唯一の喜びです。

生徒:シュリーラ・プラブパーダ、人はそれが勇気であると言うかもしれません。

SP:はい。そう言うことはできますが、その勇気は彼らの悪者らしさです。彼らは勇敢に地獄に向かっています。それだけです。あるとき、ある男が別の男を追っていました。そして、追いかけていた男が聞きました。なぜあなたは逃げているのですか?あなたは私を恐れているのですか?」

もう一人の男が答えました。「私はあなたを恐れてはいません。なぜ私は走らないでいるべきでしょうか?なぜ私は止まるべきですか?」

同じように、根っからの物質主義者たちは勇敢に地獄に向かっています。「私はなぜ私の罪深い行いを止めるべきでしょうか?」と彼は言います。「私は勇敢にどのような反応(結果)にも直面します。」

DS:彼らは狂っています。

SP:そう、狂っています。ヴェーダには、いったん人が狂うと、あるいは幽霊に取り付かれると、彼は様々な無意味なことを言う、と書かれています。同様に、物質エネルギーの影響の下にある人は、誰でも狂っています。したがって、彼は無意味なことだけを話します。それだけです。科学者たちは科学の専門家ではありませんが、彼らは他の人たちに虚勢を張ることと言葉を巧みに操ることにかけては専門家なのです。

4.「神秘的なテレビ」

DS:彼らは今では、前は持っていなかったものを持っています。電話、テレビ、飛行機、ミサイル、そして他の多くの新しい発明などです。

SP:しかし、彼らが知らないより良い電話があります。バガヴァッド・ギーターにおいて、サンジャヤはこれを、彼の主人であるドーリタラーシュトラと一緒に座って遠く離れたクルクシェトラの戦争で起こっていた出来事をすべて描写していたときに示しました。サンジャヤの視野は、実際に電話よりも偉大なのです。それは神秘的なテレビでした。彼は戦場から遠く離れた部屋に座っていて、それでもそこで起こっているすべてのことを見ていたからです。バガヴァッド・ギーターにおいて、ドーリタラーシュトラはサンジャヤに尋ねました。「私の息子たちと甥たちはどうしていますか?彼らは何をしていますか?」するとサンジャヤは、どうやってドゥルヨダーナがドロナーチャーリャのところに行ったか、ドロナーチャーリャが何と言ったか、ドゥルヨダーナがどんなふうに答えたか、などを描写しました。これらの活動は、普通の目で見るには離れすぎていたにも関わらず、サンジャヤは彼の神秘的な力を通してそれらを見て描写することができました。それは本当の科学です。

DS:一部の科学者たちは、プラスチックや薬などを作ることで私たちが自然を改良したのだと言います。

SP:ヴェーダの時代には、人々は銀や金の皿で食べていましたが、今、科学者たちはプラスチックの皿で物事を改良しました。(笑)

DS:プラスチックは大きな問題になりました。彼らはそれを捨てることができないからです。それを捨てる方法はありません。それはただ積み重なり続けるのです。

5.「ここに証拠がある」

DWR:物質主義者たちは、もしもこのように言えばもっと誠実でしょう:「私たちは、私たちの夢から引き出されたくありません。私たちは、私たちのすべての機械を使って自分たちの感覚を楽しもうとし続けたいのです。」しかし、彼らは自分たちの楽しもうとする試みがいつも失敗することを認めません。

SP:それは彼らの愚かさです。やがて彼らは認めなければなりません。

DWR:しかし、彼らは「やってみよう、もう一度やってみよう」と言います。(訳注:原文はTry, try again.)

SP:どうやって彼らはやってみることができるでしょう?たとえば、あなたが白内障に苦しんでいるために見ることができないと仮定しましょう。もしもあなたが見ようとすれば―――あなたはやってみる、やってみる、やってみる、やってみる、やってみる。それは白内障を治しますか?いいえ。そんなふうにしては、あなたは決して治りません。あなたはあなたの視力を回復させるために医者に行かねばなりません。あなあは何度もやってみることで見ることはできません。

DWR:それがまさに彼らが受け入れたくないことなのです―――物質主義的な科学によって真実を知ろうという彼らのすべての努力が失敗に終わったことが。

SP:彼らは愚かなのです。彼らは良い助言を受け入れません。もしもあなたが悪者に何かの良い助言をすると、彼らはちょうど蛇のように怒ります。たとえば、あなたが蛇を家に連れてきて、「私の愛しい蛇よ、どうぞ私と一緒に住んでください。毎日私はあなたにおいしい食べ物を―――牛乳とバナナをあげます」と言うと仮定しましょう。蛇はとても喜びますが、結果は蛇の毒が増して、ある日あなたは「ああ!」と言うのです。(噛まれた人の真似をする)

DWR:しかし、科学者たちは決して望みを捨てないでしょう。

SP:彼らの計画は毎瞬行き詰っていますが、それでも彼らは希望を持っています。

生徒:シュリーラ・プラブパーダ、ある司書が私に、バガヴァッド・ギーターが五千年前にものである、と証明してもらいたがりました。彼は五千年前に書かれた書物(原本)を見たがりました。

SP:たとえば、私が暗い部屋に行って、中にいる人に「太陽が昇りました。出てきなさい」と言うと仮定しましょう。暗闇の中の人は「光があるという証拠はどこですか?まずそれを私に証明しなさい。そうすれば私は出てきます」と言うかもしれません。私は彼に頼み込むでしょう。「どうか、どうか、ただ出てきて見てください。」しかし、もしも彼が出てきて見ないならば、彼は証拠を待って無明に留まるのです。ですから、もしもあなたが単にバガヴァッド・ギーターを読めば、あなたはすべてを見るでしょう。来て見なさい。ここに証拠があります。 

朝の散策―――16

1973年12月10日、ロサンゼルス近くの太平洋岸にて録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、フリダヤーナンダ・ダーサ・ゴスワミ、および他の生徒たち。

1.「至高」の意味

SP:この物質世界における至高性の意味は何ですか?なぜあなたはニクソン大統領をあなたの国家の中の最高の人物として受け入れるのですか?

DS:彼には幾らかの力があるからです。

SP:はい。そして、なぜ彼は至高なのですか?政府の一番の従者として、彼は一番高い給料を受け取り、すべての一番良い設備を持ち、そして彼の命令は最終的だからです。

DS:彼は他の人を納得させる力を持っています。

SP:いいえ。あなたは彼に同意しないかもしれません。しかし彼は至高なので、あなたは彼の命令を受け入れなければなりません。それが彼の立場です。それは、あなたが受け入れるか受け入れないかに左右されません。それが至高性の意味ではありませんか?ヴェーダ文献には、至高性の特徴を持つ者は幸運であると書かれています。至高的に幸運な人は神です。(サンスクリット引用)「主は何百何千ものラクシュミー、すなわち幸運の女神にかしづかれています。」(BG5.29)ここ、この惑星においては、私たちは幸運の女神からほんの少しの恵みを乞うています。しかし、クリシュナはいつも何千もの幸運の女神たちに崇拝されているのです。

DS:それほど幸運な誰かのことを知覚するのは、私たちの考える能力を超えています。


SP:そうです。したがって、クリシュナはアチンテャ、計り知れないのです。私たちは、主がいかに偉大か、あるいは幸運か、見積もることができません!亜アチンテャとは、「私たちが見積もることができないもの」を意味します。私たちは、神の栄光の一部―――この物質的な自然だけを見ることができます。それは単に神の力の部分的な展示に過ぎないのです。至高の人格には多くの力があります。彼は劣性なエネルギーと優性なエネルギーを持っています。バガヴァッド・ギーター(7.4)において、クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「土、水、火、空気、エーテル、心、知性、および偽りの自我―――これらの八つが合わさって私の離れた物質的なエネルギーを構成しています。」バガヴァッド・ギーターの次の節において、クリシュナはご自分の優性なるエネルギー(パラー・プラクリティ)を描写なさいます。それは霊的な世界として顕現しています。ですから、もしも劣性なる物質エネルギーの中に非常に多くの素晴らしいものがあるなら、霊的な世界の中にはもっとどんなに素晴らしいものがあるか、想像して御覧なさい。これが優性ということの意味です。

2.「ヨガの力の神秘」

フリダヤーナンダ:そして、私たちが地上で見るすべての生命の多様性は、霊的な世界の中にも含まれているのですか?

SP:はい。そしてさらに、もしもこの劣性なるエネルギーの中にそれほど多くのすばらしい生命の多様性があるなら、霊的な世界における優性なる生命の多様性がいかにすばらしいか、考えてごらんなさい。この物質的な宇宙においてさえ、一部の惑星の住人は他の惑星の住人よりはるかに優れているのです。例えば、地球の人々は素晴らしい力を手に入れるために神秘的なヨガを実行しますが、スィッダーロカと呼ばれる惑星の人々はこれらの偉大なるヨガの力を自然に持っています。地球では、鳥は飛べて、しかし私たちは非常にお金のかかる機械を使わなくては飛べないのは自然です。しかし、スィッダーロカのような惑星では、住人は機械を使わなくても一つの惑星から別の惑星に飛ぶことさえできるのです。彼らは単に意思することで他の惑星に行くことができます。地球においてさえ、一部のヨギーは早朝に四つの場所―――ジャガンナーサ・プリー、ラーメシュヴァラ、ハードウォー、およびドヴァーラカー(脚注22)で、同時に沐浴することができます。あるヨギーの友人は、よくカルカッタの私の父を訪ねていました。そのヨギーは、自分が単に座って自分のグルに触れると、カルカッタからドヴァーラカーへ2分で行ける、と父に言いました。それがヨガの力です。それでは、今日の飛行機は何ですか?ドゥルヴァーサー・ムニは、宇宙全体と、そしてヴァイクンター(脚注23)までも一年の間に旅しました。現代の計算によれば、この宇宙におけるある惑星は、4万光年(脚注24)以上も離れています。これは、もしもあなたが光の速度で進めば、これらの惑星に着くのに4万年かかるということを意味します。たとえ彼らに手段があったにしても、どうして宇宙飛行士たちが4万年生きられるでしょうか?それでは、なぜ彼らはそれほど誇らしいのですか?

DS:科学者たちは、自分たちが光の速度で進むことのできる機械を作り出すことができるという理論を持っています。

SP:それは彼らが悪者であることの証しです。彼らはそう言いますが、彼らは決してそうすることができないでしょう。

3.「ヴェーダの宇宙論」

SP:多くの目に見えない惑星や星が存在します。例えば、ラーフという惑星が太陽と月の前を通るとき、日食や月食が起きます。しかし、科学者たちは日食や月食を異なるふうに描写します。実際には、ラーフ惑星が日食や月食を起こします。現代の科学者たちの日食や月食に関する理論には、多くの疑問の残る点があります。ヴェーダの情報によれば、彼らの説明は不正確です。

DS:しかし、科学者たちは自分たちの理論を証明できると言います。

SP:彼らは科学がすべてを証明すると言います。しかし、それは無意味です。科学者は、自分が何であるかということを除いてすべてを証明しました。それは彼は知りません。そして、なぜ彼は死ぬのですか?それも彼は知りません。それが彼の知識の限界です。

DS:彼らは宇宙の模型を作ることができます。彼らは惑星や月の模型を作ることができます。

SP:もしも彼らが物を作ることができるのなら、なぜ彼らは電力を節約するために模造品の太陽を作らないのですか?これらの悪者たちは何でも言いますが、何もできません。それが彼らの立場なのです。もしも彼らが宇宙の模型を作ることができるなら、彼らに太陽の大きな模型を作らせなさい。そうすれば、暗い夜に私たちは電力にこれほど多くのお金を使わなくてもすむでしょう。しかsh、彼らにはそうすることができません。それなのに彼らは納税者からお金を取るだけのために大きな大きな口を利くのです。彼らは月の成分と太陽の成分を知っていると言います。それなら、なぜ彼らはそれらを作ることができないのですか?なぜ彼らはアイスランドやグリーンランドの人々があんなにひどい寒さから救われるように人工的な太陽を作ることができないのですか?

4.「「神は決してゼロではない」

SP:主チャイタンニャ・マハープラブは、かつてチンターマニと呼ばれる宝石の例を挙げられました。それは、自身はそのままでありながら、他の多くの宝石を作り出します。

(サンスクリット引用)(シュリー・イショパニシャッド、祈り)

この節の意味は、すべては至高の人格神から生じるにも関わらず、主は決して減少しない、ということです。ここ地球では石油が枯渇しつつあり、これは大変な問題になりつつあります。しかし太陽はまだ輝いており、これからもまだ数え切れないほどの年月の間輝き続けるでしょう。そしてクリシュナは無数の太陽を作ることができます。事実、主は既にそうなさったのです。しかし、主はまだ完全に力を持っておられます。主は何も失ってはおられません。それが神です。そしてそれが神の至高のエネルギー、アチンテャ・シャクティなのです。

私たちには幾らかの所持金があり、次の日には口座はゼロになります。悪者たちは、究極の真実はゼロ、シューニャヴァーダだといいます。彼らは、神は決してゼロではない―――神はいつもプラスであるということを知りません。ですから、私たちは神についてはっきりとした考えを持たねばなりません。神学者は、これらの考えをヴェーダの描写から取るべきであり、愚か者や悪者によって誤って導かれるべきではありません。神と主の完全なエネルギーはヴェーダ文献に説明されています。私たちのエネルギーは失われますが、神のそれはそうなりません。それが神と私たちの違いです。私は、速く歩いたり、若い人ができる非常の多くの他のことをすることができません。私は自分の若々しいエネルギーを失ったからです。しかし、神はいつも若々しくいらっしゃいます。(サンスクリット引用)「至高の人格神クリシュナは、完全であり、決して誤りがなく、そして始まりがありません。無限の形に拡大する主は、もともとの人格、最年長であり、いつも初々しい若者のように見えます。」(ブラーマ・サムヒター5.33)クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「至高の主はすべての者の心臓に位置しています。」主はすべての原子の中にもいらっしゃいます。しかしそれでも主は一人です。それが神です。そして主はアドヴァイタ、二重性のない存在です。主があなたの心臓の中に住んでいて、私の心臓の中には別の人格が住んでいるというのではありません。違います。彼らは一つなのです。神は主のあまねく行き渡る特徴によってどこにでも存在し、主は、また局地的でもあり、それでありながら主は一人なのです。

5.「クリシュナの愛の完全なる性質」

DS:シュリーラ・プラブパーダ、一部の西洋の神学的な文献においては、彼らは神は愛であると言います。

SP:神はすべてです。なぜ彼らは主はこれであるとかあれであるとか言うのですか?どんなものでも神です。主は完全であるからです。主の愛と主の憎悪は同じです。物質的な世界においては、私たちは愛と憎悪の区別をつけます。しかし、神の憎悪と神の愛は同じものです。したがって主はアチンテャ、すなわち計り知れないと呼ばれます。神のゴピーたち(脚注25)への愛と神のカムサ(脚注26)への憎悪は、同じ結果をもたらしました。カムサとゴピーたちは、どちらも霊的な世界へ行きました。また、プータナー(脚注27)はクリシュナに毒を盛りに来て、母ヤショダーはいつもいたずらな子供であるクリシュナが傷つけられないように心配していました。つまり、母ヤショダーとプータナーは反対だったのですが、どちらも同じ結果を獲得しました。クリシュナはこう考えました。「私はプータナーの乳房を吸った。だから彼女は今では私の母である。彼女もヤショダーと同じ目的地に到達せねばならない。」これがクリシュナの憎悪とクリシュナの愛の完全なる性質です。

(サンスクリット引用)

「完全真理を知る学識のある超越主義者たちは、この二重性のない実体(substance)をブラーマン、パラマートマー、あるいはバーガヴァーンと呼びます。」(SB1.2.11)神はご自分の非人格的であまねく行き渡る特徴(ブラーマンとして知られる)と、ご自分の局地的なパラマートマーという特徴をお持ちです。同時に主はバーガヴァーンであり、それは主の元来の人格的で超越的な形です。三者は異なりますが、同じなのです。これが神の性質、アチンテャ・ベーダーベーダ・タットヴァ―――同時に一つにして異なるのです。バーガヴァーンの人格的な概念に到達した者は、自動的にブラーマンとパラマートマにも到達したのです。それらはすべてクリシュナであり、しかしそれらの間には違いがあります。それらは同時に一つであって異なるのです。

6.「学識のある人から知識を受け入れる」

DS:シュリーラ・プラブパーダ、多くの人は神を受け入れるのに困難を感じます。

SP:彼らは病んでいるのです。しかし彼らは治療を受けたくありません。もしも彼らが治療を受けることに同意しないならば、それは彼らの落ち度です。クリシュナ意識―――神意識でない者は狂人です。幻想エネルギー―――劣性なる物質エネルギー―――の力の下で、彼は無意味なことだけを話します。ちょうど幽霊に取り付かれた人のようなものです。あなたは学識のある人に近づかねばなりません。あなたはそのような人、グルを見つけ、彼に服従しなければなりません。そして彼に質問し、彼から得るすべての答えをあなたは受け入れなくてはなりません。それが神を理解するための過程です。あなたはまずグルを見つけなければなりません。それからあなたは奉仕と彼に服従することによって彼を満足させねばなりません。グルはすべてを説明なさいます。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(4.34)において説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「ただ、霊的指導者に近づくことによって真実を学ぼうとしなさい。彼から従順に問い、彼に奉仕をしなさい。自己を認識した魂はあなたに知識を授けることができます。彼は真実を見たからです。」 

脚注

1.(1日目-1節)(以下、数字のみ)

ヴェーダの知識は、もともと一つのヴェーダとして伝わっていました。およそ五千年前、賢者ヴャーサデヴァがそれを四つのヴェーダに分けました。(リグ、ヤジュル、サーマおよびアサルヴァ)より知性の低い人々でも理解できるようにするためです。ヴャーサデヴァは権限を与えられた神の化身(empowered incarnation of God)でした。彼はまた、ヴェーダを四つのプラーナとマハーバーラタに拡大うる仕事を引き受け(訳注:原語はto undertake、義務として課された仕事を受諾する、という意味合いがある)、そして彼はすべてのヴェーダ文献をヴェダーンタ・スートラに要約しました。しかし彼はそれでもこの驚くべき文学的な達成に満足しませんでした。そのため、彼の霊的指導者ナーラダ。ムニの指導のもとで、彼はシュリマッド・バーガヴァタムを書きました。それは「ヴェーダの知識の熟れた果実」です。

2.(1-1)

バガヴァッド・ギーターは、世界中で広くヴェーダの知識の真髄として有名です。それは、クルクシェトラの戦場において、至高の人格神である主クリシュナによって主の親密な献身者であるアルジュナに与えられた聖なる教えを含んでいます。これらの教えの中で主クリシュナは、現在の偽善と口論の暗い時代における自己認識への完璧な道の科学的な解説を与えていらっしゃいます。

もともとはサンスクリット(梵語)で書かれているバガヴァッド・ギーターは、世界のほとんどすべての言語で出版されています。(英語だけでも600以上の翻訳があります。)しかし、尊師A.C.バクティヴェダンタ・スワミ・プラブパーダ睨下による「バガヴァッド・ギーター・アズ・イット・イズ(邦題「BG、ありのままの詩」)」は、主クリシュナご自身から発する霊的指導者の真正なる師弟継承の中の主の純粋な献身者による、最初の英語の翻訳と解説です。したがって、「バガヴァッド・ギーター・アズ・イット・イズ」は主クリシュナのメッセージを歪みや個人的な解釈を全く交えずに提示しています。このように、それは、読者の潜在的なクリシュナ意識を実際に目覚めさせた、バガヴァッド・ギーターの最初の版です。

3.(1-2)
バンヤンは、インドの聖なるイチジクの木です。(学名フィカス・ベンガレンシス)その枝は地上に若枝を下ろし、そしてこれらが根付いて親枝を支えます。自身をこうして拡大し、一本の木がしばしば非常に大きく広がります。

4.(2-4)
18のプラーナの一つであるシュリマッド・バーガヴァタムは、一般に「欠点のないプラーナ」として知られます。それは五千年前にシュリーラ・ヴャーサデヴァによって書かれました。彼はそれを特に現在の偽善と口論の暗い時代の人々のために書きました。それは(同じ著者による)ヴェダーンタ・スートラのもともとの解説であり、すべてのヴェーダ文献の精華です。ここでシュリーラ・プラブパーダはバーガヴァタムの2巻(2.3.19)から節を引用しています。バーガヴァタムのシュリーラ・プラブパーダによる英語の翻訳の中で、この句は次のように表されています。

(サンスクリット引用)

(翻訳)犬や豚やラクダやロバのような人々は、邪悪さからの救済者である主シュリー・クリシュナの超越的な娯楽を決して聞かない人々を称えます。

(解説)一般大衆は、霊的な価値基準における、より高い人生の水準のために組織的に訓練されていない限り、動物より優れたものではありません。そして、この節において、彼らは特に犬、豚、ラクダ、ロバの水準に置かれています。現代の大学教育は事実上、より偉大な主人への奉仕を受け入れるための犬のような精神性を得るように人を訓練します。いわゆる教育を終えたあと、いわゆる教育のある人々は何らかの奉仕のために申込書を持って犬のように戸口から戸口へと動きます。そしてほとんどの場合、彼らは空きがないと言って追い返されます。犬は取るに足らない動物であって、少々のパンの見返りに主人に忠実に仕えるように、人は十分な報酬無しに主人に忠実に仕えます。

食物に関して何の分別もなく、あらゆるゴミを食べる者は、豚に例えられます。豚は糞を食べることに非常に執着しています。つまり、糞は特定の種類の動物にとっては一種の食物なのです。そして、石でさえ特定の動物や鳥にとっては可食物です。しかし、人間は何でもかんでも食べるようにはできていません。彼は、穀物、野菜、果物、牛乳、砂糖などを食べるようにできているのです。動物食(animal food)人間のためのものではありません。硬い食物を噛むために、人間は果物や野菜を切る特別の種類の歯を持っています。人間は、どうしても動物食を食べたい人のために譲歩として2本の犬歯を与えられています。ある人の食物は他の人にとっては毒だということは、誰もが知っています。人間は、主シュリー・クリシュナに捧げられた食物の残りを受け入れることが期待されています。そして主は、葉、花、果物その他(BG9.26)に分類される食物を受け入れられます。ヴェーダの聖典に定められているように、動物食は主には捧げられません。したがって、人間は特定の種類の食物を食べるようになっているのです。彼はいわゆるビタミン値を得るために動物を真似るべきではありません。したがって、食べることに関して何の分別もない人は豚と比べられます。

ラクダは、トゲを食べることに喜びを感じる動物です。家庭生活や、いわゆる楽しみの俗世を楽しみたい人は、ラクダと比べられます。物質的な生活はトゲに満ちています。そして、人は単に不利な取引から最善を得るために(訳注:物質世界にはまりこんでしまったという不利な状態において最善を求めるために、という意味。原語は「to make the best use of a bad bargain」)、ヴェーダの規則の規定された方法に従って生きるべきです。物質世界における人生は、自分自身の血を吸うことで維持されます。物質的な楽しみの中心的な魅力は性生活です。性生活を楽しむことは自分の血を吸うことであり、これに関してはこれ以上あまり説明することはありません。ラクダもまた、トゲのある小枝を噛みながら自分自身の血を吸います。ラクダの食べるトゲはラクダの舌を切り、ラクダの口の中に血が流れ始めます。新鮮な血と混じったトゲは愚かなラクダにおいしさを作り出し、そのため彼はトゲを食べるということを偽りの快楽をもって楽しむのです。同様に、偉大なビジネスの大実業家、様々な方法といかがわしい手段でお金を稼ぐために懸命に働く産業主義者たちは、彼ら自身の血と混じった彼らの活動のトゲのある結果を食べます。したがって、バーガヴァタムはこれらの病んだ人々をラクダと同列に並べました。

ロバは、動物たちの間でさえ最も偉大な愚か者として称えられている動物です。ロバは、自分自身には何の益もなく、懸命に働いて最大限の重荷を担ぎます。ロバは一般に、社会的地位のあまり高くない洗濯屋に使われています。そしてロバの特別の特徴は、異性に蹴られることに非常によく慣れているということです。ロバが性交を乞い求めるとき、彼はメスによって蹴られます。それでも彼はそのような性的な喜びを求めてメスを追うのです。したがって、恐妻家の男はロバに比べられます。一般大衆は、特にカリの時代においては、一生懸命に働きます。この時代においては、人間は実際には重い荷物を担いだりテーラー(訳注:サンスクリット。これは何か分かりません)や人力車を運転するというロバの仕事にいそしんでいます。いわゆる人間文明の発展は、人間をロバの仕事にいそしませるようにしました。大きな工場や作業場の労働者もそのような大変な労働にいそしみ、日中懸命に働いたあとは、気の毒な労働者は性的な楽しみのためだけでなく非常に多くの家庭内の仕事のために女性に蹴られます。

シュリマッド・バーガヴァタムが霊的な啓蒙の全くない俗人を犬、豚、ラクダ、およびロバに分類しているのは、全く誇張ではありません。そのような無明なる大衆の指導者は、そのような犬や豚の仲間にあがめられて非常に誇らしく思っているかもしれませんが、それはあまり嬉しがるに値することではありません。バーガヴァタムは、人はそのような人間の姿をした犬や豚の偉大な指導者であるかもしれないけれど、もしも彼がクリシュナの科学において啓蒙されることに何の魅力も感じないなら、そのような指導者もまた動物であってそれ以上ではない、と公然と宣言します。彼は権力のある力強い動物、あるいは大きな動物と見なされる(designated)かもしれませんが、彼はシュリマッド・バーガヴァタムの見方においては、彼の無神論的な気質のせいで、決して人間としては分類されません。あるいは、言い換えると、犬や豚のような人たちの神を忘れた(godless)指導者たちは、動物的な特質の割合がより多い、もっと大きな動物たちなのです。

5.(3-3)
時として、非常にお腹を空かせた人が、既に誰かが甘い汁を吸って捨てたサトウキビを拾い、幾らかの甘い味を得ようとして既に噛まれた繊維質を噛みます。これが「既に噛まれたものを噛む」というものです。

6.(4-1)
シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラ(1838-1914)は、霊的指導者の継承における最も優れたアーチャーリャ、すなわちクリシュナ意識の教師の一人です。彼の息子、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・ゴスヴァーミー・マハーラージャ・プラブパーダは、尊師A.C.バクティヴェダンタ・スワミ・プラブパーダ睨下の霊的指導者でした。シュリーラ・バクティヴィノダ・タークラは、クリシュナ意識の科学について多くの著作を著しました。1896年に、彼はカナダのマックギル大学に彼の小さな本の一冊―――「シュリー・チャイタンニャ・マハープラブ:主の人生と教え」―――の一部を送ることによって、西洋世界にクリシュナ意識の教えを導入しました。彼のベンガル語の歌の多くは、バクティヴェダンタ・ブック・トラストによって出版された「ヴァイシュナヴァ・アーチャーリャの歌(Songs of the Vaishnava Acaryas)」に収録されています。

7.(7-1)
昇順的な調査の過程においては、人は個人的な観察とそれに続く推察によって真実を見出そうとします。他方、降順的な過程では、彼は権威ある源からの教えを受け入れます。これらの二つの方法による問いかけは、それぞれ帰納法、および演繹法として知られています。

8.(7-1)
「私のグル・マハーラージャ」とは、シュリーラ・プラブパーダの霊的指導者、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・ゴスヴァーミー・マハーラージャを指します。

9.(7-1)
ジャガッド・グルは「世界のグル」を意味します。

10.(7-2)
ヴァイシュナヴァとは、主ヴィシュヌの献身者です。クリシュナはヴィシュヌの本来の形です。したがって、クリシュナの献身者のすべてはヴァイシュナヴァです。

11.(7-3)
ラグーナーサ・ダーサ・ゴスヴァーミーは、シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブの近代の高位な献身者でした。彼は、主チャイタンニャのクリシュナ意識を世界中に広めるという使命を継続することをゆだねられた六人のゴスヴァーミーたちの一人でした。非常に裕福な家庭に生まれましたが、ラグーナーサ・ダーサ・ゴスヴァーミーは主チャイタンニャと出会った後は大変な禁欲の人生を送りました。

12.(7-3)
バガヴァッド・ギーター(18.54)。主クリシュナはおっしゃいます。「このように超越的に位置する者は、直ちに至高のブラーマンを認識し、完全に喜びに溢れます。彼は決して嘆かず、何かを得たいと欲することもありません。彼はすべての生命体に対して中庸です。そのような状態において、彼は私への純粋な献身奉仕に至ります。」

13.(8-1)
カルマは「活動」を意味し、カルマの法則とは、より高い権威者が私たちに私たちの敬虔な、あるいは非敬虔な活動に応じて、それぞれ好ましい、あるいは好ましくない反応(結果)を授ける過程を指します。聖書には、「汝が種を蒔くように、汝は刈り取るであろう」と書かれています。このように、私たちの現在の状況―――私たちが豊かである、賢い、美しい、あるいは私たちがアメリカ人、インド人、あるいは日本人の体を持っている―――などは、完全に私たちが自分たちの過去の単数あるいは複数の生において行った活動に基づいているのです。

究極的には、良くも悪しくも、すべてのカルマは好ましくありません。それは私たちを物質世界に呪縛するからです。しかし、クリシュナ意識での献身奉仕はアカルミックです。言い換えると、それはいかなる反応も生じさせません。そのため、アルジュナがクルクシェトラの戦場で対戦相手を殺したとき、彼は何の結果にも苦しみませんでした。彼は単に主クリシュナの意思を遂行していたからです。

14.(8-4)
DNA分子は、有機的な細胞における必要不可欠な建設と複製の単位です。多くの科学者はそれらを生命の源と見なしますが、ヴェーダの科学によれば、私たちは(DNAなどの)体の化学的な構成要素を、霊魂である生命特徴(life symptoms)の根源的な源から区別しなければなりません。

15.(8-4)
半神とは、人間よりも発達した存在です。彼らは私たちに似ていますが、はるかに優れた知性、美、すばらしい神秘的な力を持ち、時として多くの腕と頭を持っています。物質的な宇宙には三千三百万の管理的な半神が存在し、それぞれが宇宙の管理の特定の一面(熱、光、水、空気など)の責任を負っています。

16.(8-5)
バガヴァッド・ギーター(6.41-42)「敬虔な生命体の住む惑星で何年も何年も楽しんだあと、成功しなかったヨギーは高潔な人々の家庭、裕福な貴族の家庭、あるいは間違いなく非常に賢明である超越主義者の家庭に生まれます。まことに、そのような誕生はこの世界では稀です。」

17.(9-3)
バガヴァッド・ギーター(18.61)「おお、アルジュナよ。至高主はすべての人の心臓に位置していらっしゃいます。そして、物質エネルギーで作られた機械の上に座っているかのようなすべての生命体のさまよいを指揮していらっしゃいます。(is directing the wanderings of all living entities, who are seated as on a machine made of the material energy)

18.(11-3)
ラーダーラーニーは主クリシュナの至高の献身者であり、彼女は主の永遠の妃です。彼女はまた、クリシュナの喜びの内的にして霊的なエネルギーの具現体とも考えられています。

19.(12-1)
ブラーマーストラは、時としてヴェーダの時代の軍術において用いられた精妙な核兵器です。それはマントラを唱えることによって発射され、たとえ遠距離から発射されても大小の目標を他のものを傷つけることなく滅ぼすことができました。さらなる情報については、シュリマッド・バーガヴァタム1巻8章を参照のこと。

20.(12-2)
ヴァールミーキは、偉大なヴェーダの賢人であり学者でした。彼はヴェーダ文献の中でもっとも重要な歴史のひとつであるラーマーヤナを書きました。

21.(13-4)
主チャイタンニャ・マハープラブは、ヴァイシュナヴァ文献において神のもっとも慈悲深い化身として描写されています。主は人の身分や肌の色や宗教を考慮することなく至高神の愛を無料で配布したからです。主は1486年にベンガルにお現れになり、その美しい金色の肌色のために「黄金のアヴァターラ」としても知られています。主チャイタンニャ・マハープラブは、マハーマントラ---ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ---と唱えることを強調なさいました。

24.(16-2)
4万光年は23京5000兆マイル以上に相当します。(訳注:原語はクワドリリオン、quadrillion. 英国の英語では千の8乗、米国の英語では千の5乗。日本語の単位では千兆に相当します。この場合は米国式の計算による数字です。)

25.(16-5)

ゴピーはヴリンダーヴァンの牛飼いの娘たちであり、彼女らのクリシュナ意識への没頭とクリシュナへの愛には勝るものがありません。しかし、人は決して完全に超越的であるクリシュナとゴピーたちの恋愛関係を俗世の性的な関係と比べるべきではありません。性的な禁欲と極度の苦行の生活を送りながら、主チャイタンニャと6人のゴスヴァーミーたちは常にクリシュナの心情に没頭していました。ゴピーたちの中の長はシュリーマティー・ラーダーラーニーです。

26.(16-5)
カムサは彼の時代の最も強大な悪魔でした。そしてクリシュナの最も執拗な敵でもありました。「クリシュナ、至高の人格神」(SB10巻の要約研究)の中で、シュリーラ・プラブパーダはいかにカムサが何度もクリシュナを殺そうとしたかを語られます。最後にクリシュナはマスラーのレスリング場においてカムサをご自分の素手で殺されました。

27.(16-5)
プータナーは、クリシュナを殺すためにカムサによってヴリンダーヴァンに送られた恐ろしい魔女でした。彼女は自分の乳房に猛毒を塗りつけ、それを赤ん坊のクリシュナに差し出して吸わせました。彼女の目的をよく知っていたクリシュナは、彼女の生命の気を吸い出し、彼女を殺しました。

「挑戦」

ナレーション

アブラハムT.コヴォール博士は、神と魂の存在を否定する(to disprove、非存在を証明する)ことを主な目的とする合理主義者協会のスリランカ支部の支部長です。1977年8月14日、コロンボ(スリランカ)のサンデー・タイムズ紙は、コヴォール博士による「死後に生命はあるか?」という記事を掲載しました。この記事の中でコヴォール博士は、生命は単に複雑な化学的な反応であり、実際には魂なるものは存在しないため、魂は死を生き延びることはできない、と主張しました。この記事は、コヴォール博士とISKCONスリランカ支部のメンバーとの間で、サンデータイムズ紙上および書簡での白熱した議論につながりました。サンデータイムズ紙の記事と書簡の一部をここに紹介します。

記事1.

サンデータイムズ 1977年8月21日

「それはコヴォールの観察能力を超えている」
シュリーラ・ハムサドゥータ・スヴァーミーおよびマハーカーンタ・ダーサ

コヴォール博士と彼の同類の人々は、彼らの知識の水準に誇らしく立っています。しかし、詭弁法の専門家でない一般市民の利益のために、論理と道理と科学の発展の守護者の振りをするコヴォール博士のような人々は彼らが自分たちの限られた感覚の範囲を超えたところに位置する事柄に干渉するとき、沈みつつある船で航海しているのだ、ということが指摘されるべきです。これは特に死後の人生という問いに当てはまります。

コヴォール博士の記事の最初の行は、「私は自分の生命が私の体の特定の場所に位置するという見方はしません」というものです。この言明、並びに後のもの---「私は私の死を生き延びる魂や霊を自分が持っているとは信じません」---は、彼がそれの上に立つことを選んだところの貧弱な立場をさらけ出します。記事全体を通して、コヴォール博士は自分の観察能力を完全に超えた主題に関して自分の見方や信念や意見を述べています。そして彼はこれらの想像的な推察を決して誤りのない科学的な真実として偽って通そうとします。

コヴォール博士のご発言はごもっともですが、私は、その力に基づいて彼が死後の生命についてこれほど多くの言明を述べたところの直接的な感覚の知覚作用の過程は、完全に制約されていて不完全であることを指摘したく思います。

たとえば、目を考えてください。それらは、ある特定の状況の下においてのみ機能します。もしも光がなければ、私は自分の顔の前の自分の手さえ見ることができません。私たちは、目に一番近いもの、まぶたを見ることができません。また、私たちは最も遠いもの、宇宙の果てを見ることもできません。実に、目は不完全なのです。同様に、触覚、味覚、嗅覚も限られており、心もまた不完全です。したがって、不完全な感覚知覚作用に基づいた結論もまた、必然的に不完全なのです。

不完全な感覚知覚作用に基づいた研究、実験、および推察は、彼らの範囲の内にない事柄に当てはめられた場合は無意味です。そのようなこと方に感覚知覚作用をあてはめようとするのは、子供が世界中の男性に尋ねることで自分の父親を知ろうとするようなものです---どう控えめに言っても、不合理な思いつきです。自分の父親が誰であるかを理解するためには、人は自分の母親の権威を受け入れなければなりません---他に方法はありません。誰も受胎のときに自分の父親を見ることはできないので、人は自分の母親の言葉を受け入れなくてはならないのです。あらゆる正気の人はこれを受け入れなくてはなりません。

魂および再生について、コヴォール博士は「私はそれを信じるためのいかなる正当な理由も証拠も持っていません」と書いています。この言明は、単に直接的な感覚知覚作用の過程が有限であり、したがってそれがその範疇を超えた事柄に当てはめられたときは何の結果ももたらさない、ということを示すにとどまります。愚かにも「私は自分の死を生き延びる魂や霊を自分が持っているとは信じません」と宣言するよりも、コヴォール博士はもしも彼が単に問題となっている主題を取り扱う上での自分の能力の欠如あるいは無資格を認めれば、もっとずっと安全で、かつ彼のプロフェッショナルな倫理にも誠実であるのです。魂は存在し、魂の再生が存在し、そして至高の魂---神が存在します。しかし、魂は断定的に物質とは異なるので、魂の存在および性質を理解するために当てはめられたときには物質科学の技術は必然的に失敗する、ということを私たちは指摘すべきです。

しかし、これは今日非常にもてはやされているでたらめな推察と意見作りにこの主題が開放されることを意味するのではありません。私たちが物質的な現象を扱うために物質的な科学を持っているように、私たちはまた霊的な科学的過程を持っています。それはそれを実行する人々に、密度の濃い物質と密度の薄い物質の壁を突き抜けて直接的に魂の真実とその再生、およびその、神、至高の魂との関係を経験することを可能にします。

本当の科学者は、決して未熟にも「私は私の死を生き延びる魂や霊を自分が持っているとは信じません」と宣言することはありません。むしろ、彼は熱意を持って霊的な科学の尊敬されて認識された人々によって受け入れられた水準的な技術を進んで選び取ります。そのような科学者と、真理を真摯に捜し求める者は、そうしてのちに科学の利益のために自己をその過程に提供し、自分自身を実験の対象にします。権威ある霊的科学の教授の指導のもとですべての修練と技術を完全に実行した後においてのみ、彼はようやく問題の主題について判断上の所見を述べようとします。理論、観察、および実験は科学の本当の方法であり、そしてそれらは霊的な科学にも同じくあてはまります。

人生は、一部の科学者たちが私たちに信じさせるように化学物質の組み合わせから生じるのではありません。むしろ、物質を生じさせるのは生命なのです。生きた男と生きた女が性交によって組み合わさることが、生きた子供を生じさせる原因です。死んだ男と死んだ女は、生きた子供を生じさせる力を持ちません。生きた木は果実を生じさせる力を持っています。しかし、枯れた木にはそのような力はありません。生と死の間の違いは魂であり、それはバガヴァッド・ギーターにおいて優性エネルギー(パラープラクリティ)と描写されています。それは私たちの経験の範囲内にあるすべての現象を顕現させる優性なエネルギーです。

もしも生命が単に一部の科学者が提言するように化学的な組み合わせの展示であるなら、なぜ科学は生命を与える化学物質を死んだ体に注射して人を永遠に生きさせることができないのですか?もしも私たちが科学者たちに物質的な体の化学的な材料を与えれば、なぜ彼は化学物質を組み合わせてそれらに生命を与えられないのですか?

これらの問いに直面したとき、物質主義的な科学者たちは「私たちは試みています。私たちは将来においてそうします」と言います。しかし、これは科学ではありません。これははったりです。

これらの科学者たちは、誇りを持って「魂は存在しません。すべては偶然によって生じました」と宣言します。しかし、彼らの主張を裏付けするために何らかの実体のあることをするように頼まれると、彼らは私たちに後付け小切手を渡すことしかできません。「私たちは試みています。私たちは未来においてそうします。」典型的な物質主義的科学者であるコヴォール博士は、彼が「人間がその遺伝学における発達した知識を自らの主の質の向上のために使う日は遠くありません」と言うとき、この同じはったりに依存しています。

ここに、私からコヴォール博士への挑戦があります。彼に適切な化学物質を死体に注射してそれを生き返らせましょう。あるいは、適切な化学物質を彼自身に注射して彼自身の死を止めさせ、彼の古びて擦り切れた体をその若々しい栄光と美しさに戻させましょう。

もしも彼がこの課題は難しすぎると思うなら、蚊や南京虫などの簡単な生命体を作るのでも構いません。もっといいのは、(彼の記事の中で描写されていたように)彼が首を切り落としたカマキリの化学物質を組み合わせ、彼にそれを生き返らせましょう。あるいは、コヴォール博士の科学は生命の破壊への一方通行なのでしょうか?

科学はいまだに生命を完全体として作り出す一足飛びな過程の準備はできていないのかもしれません。もしもそうであれば、コヴォール博士に単にプラスチックの卵を作ってそれに黄色と白の化学物質を注射し、彼の人工的な卵を孵化して、そうやって一羽の鶏を作り、それが卵を産み続けてもっともっと多くの鶏を作り出すようにさせましょう。

この課題でさえコヴォール博士には少々難しすぎるかもしれません。それなら、彼は化学的な組み合わせによって一滴の牛乳や一粒の米を作り出せるかもしれません。そうすれば私たちは彼をまともに受け取り始めることができます。

もちろん、もっとも強力ないわゆる科学者にとっても、これが不可能な課題であることは誰もが知っています。コヴォール博士は、彼の次の論文において、疑いもなく彼のはったりを覆い隠すために冗長な言葉の連発を読者に提供するでしょう。その要点とは、「私たちはそれを未来においてします。私たちは試みています」というものです。どの言語においても、これは単にはったりなのです。

ハムサドゥータ・スヴァーミー
マハーカーンタ・ダーサ
クリシュナ意識国際協会 

記事2

サンデータイムズ
1977年8月28日

「それはコヴォールの観察能力を超えたものではない」
アブラハム・コヴォール博士


「それはコヴォールの観察能力を超えている」と題する8月21日のサンデータイムズの記事において、「ハレ・クリシュナ」カルトのマハーカーンタ・ダーサおよびハムサドゥータ・スヴァーミー両氏は、生化学、分子生物学、神経生物学、優生学、遺伝子工学、子宮外受精、単為生殖などの生物科学の現代の部門に関する彼らの驚くべき無知を暴露しました。

彼らの書いたことから、彼らが生命を心および非存在なる霊あるいは魂と同一視していることは明らかです。彼らは、すべての生物が生命を持っている一方で、神経系統を持っている動物だけが心を持っていること、および動物における精神的な能力は彼らの神経系統の発達に比例して差があることを知らないように見えます。何千年もの間の無数の狂信家たちの信仰に反して、生命体の中の魂の存在の生物学的な証拠は全くありません。ダーサおよびスヴァーミー両氏は、「霊的な科学の教授たち」によれば、魂が存在し、魂の再生があり、至高の魂―――神があると言います。

私は、これらのいわゆる教授たちが何の客観的な証拠に基づいてこの素晴らしい言明を述べるのか知りたいと思います。二人の著者によれば、生命は物質に先行します。彼らは「一部の科学者たちが私たちに信じさせるように、生命は化学物質の組み合わせから生じたというのではありません。むしろ、物質を生じさせるのは生命なのです」と言います。

地球という惑星の上の生命の主な源は太陽です。太陽エネルギーは、光合成として知られる反応連鎖によって太陽光線が化学エネルギーに変換されるとき、緑色の植物の中に固定されます。植物以外の生命体は、彼らのエネルギーを緑色の植物、あるいは緑色の植物を食べる何者かを食べることによって得ます。これらの食物物質は、生命体に活力となるエネルギーを供給するための燃料として働きます。食物の中のエネルギーは、呼吸の間のゆっくりとした酸化によって活動的なエネルギーとして解放されます。

ダーサとスヴァーミーは、科学者たちは彼らの不完全な感覚能力によっては物事の真実を「霊的な科学者」たちがするようには理解する能力がない、と言います。これらの偽物の科学者たちの感覚能力は、本物の科学者たちのそれよりももっと効能が良いのですか?あるいは、いわゆる霊的な科学者たちは感覚知覚以外の何かの特別な形の知覚能力を持っているのですか?

知識と啓蒙(enlightenment)は、自己催眠の形に過ぎない瞑想を通しては得られません。

ダーサとスヴァーミーは、科学者たちがプラスチックの卵から鶏を生じさせることができるかと聞きます。

私は、科学者たちがフェルミウム、プルトニウム、アインスタイニウムなど、それらを作るのに必要な技術を知らなかったので神には作れなかった10以上の元素を作り出したことを、彼らが知っているかどうか知りません。これらの二人の人々は、スリランカ人の科学者シリル・ポンナムペルマ博士と、ノーベル賞受賞者であるインド人の科学者バル・ゴビンド・コーラナ博士の、地球の初期的な大気に行き渡っていた状態を再現して不活性な物質から生きた原形質の構築要素であるアミノ酸を合成することにおける成功を、知らないのでしょうか?彼らは、人間の卵子と精子細胞が試験管の中で受精させられることができ、胎児が人工子宮や借りた女性の子宮の中で発達させられることを知っていますか?

この惑星の上で進化した動物たちの中で、人間はそのすべての活動において進歩した唯一の動物です。それを彼は(訳注:人間は)彼の知識と科学を通して達成しました。すべての生命体が今日なお彼らの先祖が何百万年も昔にしたように暮らし続けている一方で、人間だけは科学と技術を使うことで洞窟に暮らす人々の水準から現在の宇宙に出て行く人々の水準まで発達しました。何らかの神や、何らかの聖典から得られた知識の助けによってではないのです!

医科学と社会福祉における発達は、もっともっと多くの不適格者が生き延びて、もっともっと多くの非適格者を将来の市民として再生産する助けをしています。短期的な目標は達成された一方で、長期的な目標は危険にさらされています。未来の政府は、「生命は至高の魂から生じる」ということに基づいて不適格者が不適格な子供を再生産することを許さないでしょう。

創造的な考えに携わることは、人間の独特の能力です。それは彼をして自然の法則に対する戦いに勝利させました。高度に発達した全能と深く渦巻いた大脳皮質は、彼が創造的に考えるのを助けました。一般的な原則として、科学者たちは客観的な思考者です。彼らは自分たちの考えを実験的な知識に基づかせるからです。一方で、神秘主義者や夢想家、ダーサやスヴァーミーなどのいわゆる霊的な科学者は、彼らの考えを彼らの主観的な知覚に基づいて構築します。化学、物理学、数学、地学、歴史、地質学、人類学、古生物学、工学、医科学、天文学などの本は、客観的な思考の産物です。一方で、「アラビアン・ナイト」、「ガリバー旅行記」、御伽噺、「マハーバーラタ」、「ラーマーヤナ」、聖書、コーラン、「天路歴程」(訳注:ジョン・バンヤンによる寓意物語)、「ジャータカ物語」、占星術、手相術、数秘術、神学、鬼神学などは、主観的な思考者の産物です。前者は事実、後者は架空です。

近年の人類のすばらしい業績の一部は、原子エネルギーの解放、宇宙飛行、月への着陸、臓器移植、人工衛星コミュニケーションなどです。これらすべては科学を通して達成されました。精神的に狂った知識人たちは、彼らの幻覚を詳述する能力があり、しばしば様々な形の宗教的なカルトの創設者や布教者になります。

アブラハム・T.コヴォール博士

記事3
サンデータイムズ
1977年9月4日

「挑戦はまだ続いている」
シュリーラ・ハムサドゥータ・スヴァーミー

まず、コヴォール博士は私が先の記事において予言したのと全く同じことをした―――つまり、主たる問題を避けるために読者を巧みに操った言葉の洪水で水浸しにした、ということが記しておかれるべきです。その主な問題とは、これです。もしも生命が偶然の生化学的な組み合わせによって生じるのであれば、科学者であるコヴォールは適切な化学物質を与えられれば化学物質に生命を吹き込むことができるのでしょうか?

この点に答える代わりに、彼は賢くも(訳注:原語はcleverly、この場合は「ずる賢い」という意味合いを持つ)こう書きました。「科学者たちはフェルミニウム、プルトニウム、アインスタイニウムなど10以上の元素を作り出しました。」

しかし、元素は生命からはかけ離れたものです。コヴォール博士は、シリル・ポンナムペルマ博士と、ノーベル賞受賞者であるバル・ゴビンド・コーラナ博士が生命原形質の構築ブロックを合成したと言います。もしもこれが事実なら、なぜコヴォール博士はこれらの構築ブロックを使って生命を作ることで挑戦に応えていないのですか?私の挑戦はまだ続いています。

試験管の中で赤ん坊を人工保育することについては、これは「生きた男と女の」(訳注:強調)精子と卵子を使ったときにのみ、なされ得ます。言い換えると、試験管の中の赤ん坊を作り出すのに必要とされる生命の種は、いわゆる科学者たちによっては作り出され得ません。もしも彼らが試験管の中で赤ん坊を作るなら、彼らの栄誉は何なのですか?神は既に自然の試験管、子宮の中で毎日何百万もの赤ん坊を作っています。一方で、科学者たちは堕胎によって子宮の中の赤ん坊を何千と殺し、それを「科学的な発展」と呼んでいます。

コヴォール博士の、「科学者たちは客観的な思考者です。彼らは自分たちの考えを実験的な知識に基づかせるからです」という言明は、魂は限られた感覚の範疇を超えたところにあるという私たちの論点を強調するだけに留まります。したがって、完全に異なるアプローチの方法が採用されなくてはなりません。実験的という言葉の定義は、「観察と実験に基づいているもの」というものです。観察と実験は限界のある感覚を使ってなされ、そしてそのため、そのようにして得られた結論は当然限界があり、不完全です。このように、魂と神の存在は、事実まことにコヴォール博士の観察能力を超えているのです。なぜ彼はこれほど頑固であるべきでしょうか?これは、誰でも理解できる常識的な論点です。

コヴォール博士は、「創造的な考えに携わることは、人間の独特の能力です。それは彼をして自然の法則に対する戦いに勝利させました」と言います。これは愚か者たけが言う不合理な主張です。自然は、すべての人が老齢と病気、そして最終的に死を経験することを強制します。世界の最も強大な征服者でさえ、自然によって、すべてを滅ぼす死という形で生命の舞台から無力にも引きずり下ろされます。コヴォール博士は、歴史上初の死なない生命体になるのでしょうか?それはまだ分かりません。
最後に、コヴォール博士は「近年の人類のすばらしい業績の一部は、原子エネルギーの解放、宇宙飛行、月への着陸」などであると言います。原子エネルギーを発見した後で、科学者たちが最初にしたことは、原子爆弾を作ってそれを直ちに日本に落とし、そうして何千何万もの罪のない被害者たちを一瞬で滅ぼしたことであることを誰もが知っています。まことに素晴らしいではありませんか。

気の遠くなりそうな何十億ドルというお金と何年もの研究と大変な労働を費やして、科学者たちは恐らくは月へ行きました。もちろん、彼らが「持ち帰った」ものは、いくらかのピンボケした写真と、少々の岩と、月は荒涼としているという新事実だけです。そして今、彼らは火星へ行くためにもっとお金が欲しいと言います。これの何がそんなに素晴らしいのですか?それは完全な狂気です。私たち自身の惑星の上で、何百万という人々が食べ物や住みかや基本的な教育を得られずにいます。もしも月から岩を持ってくることに何億ドルも使う代わりに納税者が汗水流して稼いだお金を地上で彼らの暮らし(lot)を改良するために使うのであれば、科学者たちはもっと栄誉があるでしょう。中国から来たものであれ、月、あるいは火星から来たものであれ、岩は岩です。あるいは、科学者は岩に何かの化学物質を加えてパンとチーズに変えられるのですか?

さて、主な論点に言及すると、コヴォール博士は、どのような客観的な証拠に基づいて私たちが「生命と物質はどちらも生命から生じる、魂が存在する、魂の再生が存在する、そして至高の魂、神が存在する」(訳注:分かりやすくするために括弧を付加)という素晴らしい言明をするのか、と聞きます。「火には火をもって戦え」と言われます。したがって、私は単にコヴォール博士に、3人の研究者による権威があって合理的で全く科学的な発見を参照していただきたいと思います。彼らは皆、博士号があり、バクティヴェダンタ協会の会員です。彼らが提示した証拠(*)を検討したあと、本当に合理主義者である者は、生命は決して物質からは発生せず、生命のみから生じるのであるという彼らの結論に同意するでしょう。(should)

ハムサドゥータ・スヴァーミー
ISKCONスリランカ

*バクティヴェダンタ協会学術論文
#1「物質とは何であり、生命とは何であるか」
#2「生命が物質からは生じ得ないということの情報理論による論証」
#3「意識と自然の法則」

ナレーション

サンデータイムズがこのやり取りを掲載した後、ハレ・クリシュナ運動は公けにコヴォール博士に彼の「生命は偶然の生化学的な組み合わせから生じたのである」という言明を証明するように挑戦しました。ISKCONは、もしもコヴォール博士が何らかの形の生命―――ネズミ、猫、蚊、あるいは他の何であれ明らかに視覚し得る生物―――を不活性な化学物質から作り出せる場合は50万ルピー(6万ドル)を提供する、と公けに発表しました。サンデータイムズ紙は、次の記事を掲載しました。

「何十年もの間、人々に神の存在を証明するように挑戦してきたスリランカ合理主義者の高僧、アブラハム・T.コヴォール博士は、今、それを受ける側に立っています。

ISKCON(国際クリシュナ意識協会)は今、コヴォール博士に生物が物質から生じたという彼の主張を証明するように挑戦しました。

“ハレ・クリシュナ運動のメンバーである私たちは彼に、化学物質を混ぜることで蚊の一匹でもかまわないので、何らかの形の生命を作り出すように公けに挑戦しています。もしも彼が自分の理論を実証できないなら、彼は永遠に黙るべきです”とISKCONのメンバーは言います。

彼らは、9月20日午後6時半にラマクリシュナ・ミッション会館でコヴォール博士を待っています。一般市民の入場料は無料です。」

この問題がこのように紙上で交わされていた間、ハムサドゥータ・スヴァーミーとコヴォール博士は、手紙の交換を通じて独自に刀を交えていました。

手紙 1

ハムサドゥータ・スヴァーミー
ISKCONスリランカ
1977年9月6日

アブラハム・T.コヴォール博士
スリランカ合理主義者協会


親愛なるコヴォール博士、

私は更に熟考し、神の存在、魂、そして魂の再生について、あなたにもう少し意見を述べることに決めました。これはきっとあなたにとって興味深いものであると確信しています。

科学者の心の中の最大の病気は、科学的な実験によって証明されない限り、彼らが物事を事実であると信じないということです。科学者が何かを言明して、その言明を科学的な実験で支えるとき、誰もが完全に納得させられ、何の質問も投げかけられません。私たちがこれらの科学者に霊魂について語るとき、彼の普通の返答は「どうやって人は魂の存在を探知できますか?」というものです。彼らは機械と働くことに慣れきっているので、彼らは魂が科学的な実験によって探知できるかどうかと考えるのです。しかし、科学者たちは、彼ら自身の科学的な領域においてさえ、実験によっては証明し得ない多くの事実があることに同意しなければなりません。事実は、魂は存在しますが、その存在を理解するためには、私たちは知識を正しい人から―――シュリー・クリシュナ(神)あるいは師弟継承による主の代理人、すなわち霊的指導者から受け入れなくてはならないというものです。

科学界のすべての人は、数学者が「i」と呼ばれる架空の数字を使って働くことを知っています。それはマイナス1の平方根です。(√ー1=i)この数字は自然数(1,2,3など)の中には数えられません。しかし、数学の重要な部門―――たとえば解析機能の理論―――が、この架空の単位に基づいています。この数学の部門の助け無くしては、様々な複雑な理論や問題は解かれ得ません。このように、この数字の存在は否定され得ません。しかし、それを証明する実験はありません。同様に、統計数学の分野の科学者たちもまた、彼らの理論と議論を説明するために、様々な概念上のモデル―――たとえばアンサンブル―――を使います。これらは皆、実験的な科学の領域を超えています。もしも科学者たちがこれらの架空および概念的なモデルを受け入れる意思があるのなら、至高の科学者である主クリシュナによって与えられた完璧な知識を受け入れることに何の困難があるのでしょうか?

実験的な科学の限界を超えたもう一つの科学理論は、ハイゼンベルクの不確実性の原則です。この原則の主張は、いかなる物体であっても、その位置と運動量を同時に測定することは不可能であるというものです。数学的な言語で言えば、位置と運動量(重量と速度の積)の計測された値における不確実性の積は、プランクの定数よりも小さいことはありえない、と述べられています。この原則を証明できる既存の実験技術はありません。しかし、世界中の科学者が、実験的な証明は彼らの能力を超えていると知りつつ、この言明を事実として受け止めています。同様に、熱力学の第三の法則を証明する科学的な実験もありません。プランクによって公式化されたこの法則は、絶対零度における完全な結晶のエントロピーはゼロであると言明します。事実は、完全エントロピーを直接的に計測する方法はありません。したがって、この法則の証明は実験的な科学の領域を超えています。

また、いわゆる科学的な理論は常に変化しているということも特記されねばなりません。たとえば、19世紀はじめ(1808年)、ジョン・ダルトンは彼の原子理論を開発する中で、原子はこれ以上分割され得ないと述べました。しかし、19世紀の終りから20世紀の初めの頃、ダルトンの原子理論はもはや正確とは考えられないことが分かりました。原子は、さらに電子、陽子、および中性子という基本的な粒子に分けられることが観察されたのです。一部の原子は、アルファおよびベータ粒子を放射することができ、そうやって新しい原子を作り出すなどということも発見されました。事実、いわゆる核爆弾はこれらの発見の結果です。同様に、18世紀と19世紀にニュートンの力学は科学者たちの心に甚大な影響を持っていました。それは密度の濃い物質的な物体に適用できたからです。しかし、20世紀のはじめ、基礎的な粒子が発見されると、ニュートンの力学はこれらの粒子の動きを描写することができない、ということが分かりました。こうして、それらが見せる現象を説明するために、量子力学が発達しました。これらの理論は推察に満ちており、それもまた変化しています。過去と現在の科学的な理論が変化しているように、私たちは未来の科学的な理論もまた変化するということを理解することができます。

これらすべては、単に、非常に高い名誉を与えられた科学者たちの脳が不完全であり、結果としてこれらの脳によって提示された理論は常に不完全であり続ける、ということを表すだけです。本当は、完全な知識は変えられ得ません。しかし、完璧な知識を得るためには、人は完璧な源に近づかねばなりません。その源がヴェーダ文献です。もちろん、すべてを科学的な機器といわゆる論理、条理、演繹法、仮説と理論で試すことに慣れている、あなたのそれのような科学的な頭脳にとっては、これは信じられない言明に見えるかもしれません。しかし、それはどちらにしても事実なのです。これは、自己を認識した魂の指導のもとで、ヴェーダにおいて推奨されている方法に従うことによって自ら実験してみるほどに科学的な人は、誰でも理解することができます。

その方法は実際に大変現実的です。霊的指導者が霊的な訓練の過程を規定し、生徒が与えられた指導に従ってそれを実行します。もしも生徒が予見された結果を経験すれば、彼は「霊的指導者は正しかった」と結論します。もしも霊的指導者が本当に真正なる人であれば、結果は肯定的です。この過程は、正直な科学者が彼の実験的な方法と共に彼の結果を報告するのに非常によく似ています。結果を立証したいと望む者は、自ら同じ実験をすることができます。幾人かの科学者によって同じ結果が得られるとき、それは科学的な事実として受け入れられます。

結論として、誰かが生命は霊ではなく物質から生じると信じるとき、道徳性への彼の関心が相当に減少するということを指摘したいと思います。もしもすべての生命が単に偶然の化学的な反応の複雑な組み合わせであれば、そしてもしも至高の意識、創造者および統御者が無ければ、どこに道徳的な自制の必要性があるでしょうか?これは新しい哲学ではありません。古代ギリシャにおいて、エピキュラスは、すべては単に原子と無の組み合わせに過ぎず、それ以上ではない、と主張しました。今日では、「エピキュア(快楽主義者)」という言葉は、その主な活動がおいしい食べ物と飲み物を楽しむことである人を描写しています。結論は、偶然の生化学的な組み合わせが生命の源であるという哲学は、無節制な感覚の満足につながる哲学であり、決して科学的ではないというものです。私たちは、この哲学がいかに風紀を乱し不道徳であるかということの一つの鮮やかな例が、現在の世界中に広がった堕胎の実行にあるということを見ることができます。胎児は実際には生命体ではなく、単に生命のない化学物質の塊である、と教えられているので、人々は子宮の中のまだ生まれぬ子供たちを情け容赦もなく殺すことを納得させられています。

これらの論点についてあなたの考えを伺うことに私は大変興味があり、そしてもしもあなたがそれらについて何らかの疑いを持っていれば、さらに議論をする用意があります。

この手紙があなたのお気に召すことを願っています。

敬具(訳注:原語はRespectfully yours、敬意を込めて)

ハムサドゥータ・スヴァーミー 

手紙 2

アブラハム T. コヴォール博士
スリランカ合理主義者協会
1977年9月10日

ハムサドゥーサ・スヴァーミー殿
ISKCONスリランカ


拝啓(訳注:原語はDear Sir)

(あなたの)お手紙から、現存する科学的な証拠に自分の哲学の基礎を置く私と、ヴェーダと呼ばれる怪しげな聖典に自分の信仰の基礎を置くあなたが、互いを説得しようとするのは無駄であることは明らかです。

もしもあなたが、私が公共の目の前で実証することによって「生命が適切な状況のもとで化学的な進化によって不活性な物質から生じた」という私の見方を立証すべきだと主張するなら、私もまた、あなたが公共の目の前で実証することによって「私たちがその存在を目にするものは、すべて主の創造であり、創造は毎瞬行われている」というあなたの言明を立証してくれるように頼む同じ権利があります。あなたがあなたの「主」にこれを実証してもらわない限り、あなたは私に一方的なショーをするように期待するには及びません。

私の考える限り、宇宙は単に時間と空間における物質とエネルギーです。創造者という問題は入り込みません。物質、エネルギー、空間および時間には、いずれも始まりも終りもないからです。絶滅したものも現存しているものも、様々な形の地球上の生物は、適切な状況のもとで化学的な進化の結果として地球上に形成されたタンパク質の高分子の、何百万年もの生物学的な進化の産物です。

あなたは私に誰があなたの「主」を作ったのか、そして宇宙が作られる前は彼はどこにいたのか、説明することができますか?

敬具(訳注:原語はYours in Search of Truth、真実の探求において)

アブラハム・T.コヴォール博士 

手紙 3

ハムサドゥータ・スヴァーミー
ISKCONスリランカ
1977年9月15日

アブラハム・T.コヴォール博士
スリランカ合理主義者協会


親愛なるコヴォール博士、

私はあなたの1977年9月10日付けの手紙を受け取りました。そして内容を注意深く検討しました。

私たちのそれぞれの観点を互いに説得するのが無駄であれば、あなたの科学、合理性、そして真実の探求の意味は何なのですか?あなたの手紙の最後―――「真実の探求において(敬具)」―――は、あなたがまだ真実を見つけていないことをほのめかしています。それがあなたの欠陥です。あなたはまだ真実を見つけていないのに、真実を知っている振りをして、そのように話します。

ヴェダーンタ・スートラの最初の句節は、(サンスクリット引用)「人間の形の人生においては、人は完全真理、すなわち神について問うべきである」というものです。あなたは神が何であるかを知りません。それなのにあなたは「創造者という問題は入り込みません。物質、エネルギー、空間および時間には、いずれも始まりも終りもないからです。絶滅したものも現存しているものも、様 々な形の地球上の生物は、適切な状況のもとで化学的な進化の結果として地球上に形成されたタンパク質の高分子の、何百万年もの生物学的な進化の産物です 」と書きました。平易な英語で言うと、あなたは、生命は偶然の生化学的な組み合わせの結果である、ということを意味しているのです。それでは、もしもこれが事実であれば―――そしてもしもこの言明によってあなたが自分の合理主義者、科学者、真理の探求者としての名声を確立したいのであれば、ではなぜあなたは私がこんなに何度もそうしてくれと挑んだように、いくつかの化学物質を組み合わせてそれらに生命を吹き込むことを、繰り返し怠るのですか?

あなたは自分の哲学が「既存の科学的な証拠に基づく」と言います。それでは、生命が物質から生じるという科学的な証拠はどこにあるのですか?科学物質を混ぜて証明してください!あなたは「私の考える限り、宇宙は単に時間と空間における物質とエネルギーです 」と言います。この物質とエネルギーと時間と空間はどこから来たのですか?何らの理由や証拠も挙げず、あなたは「創造者という問題は入り込みません。物質、エネルギー、空間および時間には、いずれも始まりも終りもないからです 」と言明します。しかし、そうは言っても、あなたは「誰があなたの「主」を作ったのか、そして宇宙が作られる前は彼はどこにいたのか 」と私に尋ねます。あなたの発言は一貫性がありません。まずあなたは物質、エネルギー、空間および時間には、いずれも始まりも終りもないと言い、それからあなたは宇宙の創造の前に主はどこにいたのかと聞きます。これは明らかな矛盾です。これは、あなたの真実の探求の道はまだまだ先が長いことを表しています。

研究は、人がヴェーダから知識を受け入れるときに結論に達します。まことに、ヴェダーンタは「知識の終り(訳注:最終地点、という意味。原語はend」を意味するのです。

あなたのすばらしい発言を支える証拠を提出する代わりに、あなたは生命を作るように神に逆に挑戦することで本当の問題を曇らせようとします。この手の戦法は、裁判官の前に出されて収入の方法を見せるように言われたときに、政府にまずその収入の源を見せるように挑む一文無しの物乞いのそれのようです。そのような挑戦は、ほとんど考慮されません。

ローマ、ギリシャ、イギリス、アメリカ、あるいは国際的な法律によると、挙証責任は実際に非難をする原告にあり、被告にはありません。あなたはヴェーダを怪しげであるとして、神を架空であるとして、そして神とヴェーダに従う者を精神的に狂っていて愚かで騙されやすい、独断的な狂信者であるとして非難します。しかし、挙証責任はあなたの上にあります。理由や証拠を挙げないで、あなたは「創造者という問題は入り込みません 、、、すべては偶然の生化学的な組み合わせによるものです」と言います。私はこれを盲目的に受け入れなくてはならないのですか?義務はあなたの上にあります。化学物質を混ぜて生命を作り出してください。それが科学です。しかし、取るに足らない蚊でさえ、化学物質から作り出せる科学者はいません。したがって、現状では私たちではなくあなたこそ、精神的に狂って、愚かで、騙されやすく、独断的で、完全に狂信的であるように見えます。

科学者たちは、迷信深い原住民の文章であるとしてヴェーダを信用しないのを好みます。しかし、文法、文章構成、詩文、韻律において非常に完全で、文法だけを習得するのに学者に12年必要な言語で書いたのは、どのような種類の原住民だったのですか?何千年も前に、一秒の千分の一から宇宙時間の完全な長さまで時間の区分を公式化したのは、どのような種類の原住民だったのですか?何千年も前に現代の科学者が最近になって見つけただけのすべての惑星を描写することができたのは、どのような種類の原住民ですか?今日、ヴェーダのいわゆる原住民が何千年も前にしたように、子宮の中で起こっている受胎の過程を完全に描写できる科学者はどこにいますか?どうやってこれらの非文明的な原住民たちがヴェーダの中で840万の異なる生命の種のすべてを分類して列挙することができたのでしょうか?非文明的な原住民の怪しげな文章であるはずのヴェーダの中に、なぜ音楽、医薬学、芸術、政治、建築学、軍事学(訳注:原語はwarfare)、そして心理学が含まれているのでしょうか?非文明的な原住民が、なぜ読み書きの技術を知っていて、それどころか原子や原子エネルギーを描写したりできるのでしょうか?なぜ彼らが惑星の軌道や大きさ、その日食、そして宇宙の大きさを描写できるのでしょうか?そして、なぜ彼らが魂と超魂、神を描写できるのですか?

もしもクリシュナがヒンズー教の土着の神であれば、なぜオッペンハイマーのような科学者が、主がお話しになったバガヴァッド・ギーターを研究することで主に注意を払ったのですか?もしもこれらが非文明的な原住民の迷信と狂った考えに満ちた本であるなら、なぜアインシュタイン、ショーペンハウエル、カント、ヘーゲル、エマーソン、ソロー、シュバイツアー、そしてあなたよりももっと重要で優れた多数の科学者たちがヴェーダ文献を―――特にバガヴァッド・ギーターを―――読むのですか?あなたの権威は何ですか?あなたは神より偉大なのですか?あなたは、これらの大いに学識があって名誉ある人々が皆、非文明的な原住民の文章を読むことに彼らの貴重な時間を費やす他にすることがなかった愚か者や悪者だと考えるのですか?あるいは、ヴェーダはもともと創造の初めに神によって与えられた知識の書であり、不幸にしてあなたが何も知らないところの師弟継承というヴェーダの伝統の中で手渡され続けることで保存されてきたのでしょうか?

科学者として、幾らかの時間をとって誠実にヴェーダを、限られた不完全な推察と実験の結果であるあらかじめ考えられた見解によってではなく、その真価によって検証することは、あなたのためになるでしょう。

人が神の存在について肯定的に話す場合も否定的に話す場合も、中心点は神です。あなたは、「存在しないものに証拠を出すのは科学のあり方ではないことをあなたが理解してくれればいいと思います」と言います。しかし、いわゆる科学者たちが神の非存在を証明するのに大変忙しくしているのを私たちは見ます。論理によれば、人は存在しないものは何も知覚できません。そしてもしも非存在の独立体が知覚できないものであれば、肯定的にせよ否定的にせよ、どこにそもそもそれを議論する余地があるのでしょうか?

科学者たちによれば存在を持たない、神という主題から、彼らが離れられないように見えるというのは、多くのいわゆる科学者たちの奇妙な狂気です。彼らの科学的な研究のすべての目的は、生命と創造の代替的な原因と理由を見つけようとすることで、神と聖典の権威に自分たちが反抗したことを正当化しようとすることであると私たちは見ます。これらの科学者たちは、生命は不活性な化学物質から生じたと信じたがりますが、誰もそのような出来事を観察したものはありません。したがって、そのような信仰に基づいた科学は悪者や愚か者の科学でしかないのです。

私からあなたへの、あるいは生命は化学物質から生じると主張するあらゆる科学者への挑戦は、まだ続いています。化学物質を混ぜて生命を作り出してください。なぜあなたはそれができないのですか?あなたは「それはこのようなものです、それはあのようなものです」と言います。それでは、なぜあなたは生命を作れないのですか?太陽光があり、土があり、水、空気、火、そして他のすべての材料があり、そして生命は神によって作られ続けています。もしもあなたが神より偉大なら、なぜあなたは何かを作り出せないのですか?もしもあなたが生命を作り出せないなら、あなたのお喋りが何の役に立つでしょうか?あなたは老齢や病気や死を止めることもできません。あなたのお喋りは、単に空虚で無意味です。あなたには何もできないのに、それなのにあなたは生命は化学物質から来るのだと言って喋っています。あなたは喋る科学者であり、私は実際的な科学者です。何からの化学物質を摂取して、あなた自身を老齢と病気と死から救ってください。私はあなたに卵を作るように頼みました―――それはどこですか?鶏はあなたより優れた科学者です。それは卵を産んで、一ヶ月のうちにもう一羽の鶏を作り出すからです。したがって、あなたは重要さにおいて鶏に劣ります。鶏は生命を作り出していますが、あなたは空虚な音しか作り出せません。

敬具(訳注:原語はIn the service of Krishna)

ハムサドゥータ・スヴァーミー

ナレーション

公けの会合で彼が生命を作り出せることを実証するように挑戦されて、コヴォール博士は、「神が個人的に現れて同じことを実証するのでなければ、彼が生命を作り出せると実証する義務を感じない」と言って出席を拒みました。タイムズ紙はこれを「途方に暮れたコヴォール、掛け金を見送る」という見出しで報じました。その後、シュリーラ・ハムサドゥータ・スヴァーミーはコヴォール博士に次のような最終的な手紙を送りました。

 

手紙4

ハムサドゥータ・スヴァーミー
ISKCONスリランカ
1977年9月15日

アブラハム・T.コヴォール博士
スリランカ合理主義者協会 


拝啓

あなたは自分を神の上に位置付けたいと望みましたが、神の献身者たちは新聞が正しく書いたようにあなたを打ち負かしました。私は、読者たちもまた、生命が化学物質から生じるという理論について啓蒙されたものと確信しています。

あなたは、ISKCONによって公的に挑戦された世界中で最初のいわゆる科学者であり、またあなたは完全に公けの目に晒された最初の人物でもあることを知ることに、あなたは興味をお持ちになるかもしれません。あなたの件は、歴史における画期的な出来事です。ほとんどの宗教的な共同体において、霊的な生活ははるか昔に死に絶えたので、現実的に現代においては有神論的な視点を正しく提示することができる者は誰もいませんでした。しかし、国際クリシュナ意識協会は、ユガ・ダールマ、この時代のための真に科学的な宗教の方法を提示しています。それ(ISKCON)は、ヴェーダの方法を完全に教え、したがっています。もちろん、すべての宗教的な運動は真正であると主張します。しかし、私たちは真正なるものを不正直なものから区別しなければなりません。あなたの欠陥は、あなたが繰り返しペテン師に出会って不満を募らせたので、早まってすべての宗教は偽りであると結論したことです。あなたは神と宗教に偽りであるという烙印を押したがりますが、偽物は真正なる対応物との関係においてのみ理解され得ます。それをあなたは知り損ねています。あなたは何が本物なのか知らないのです。

私は、すべての科学者が偽りであるとは言いません。しかし私は、あなた、あるいは生命が不活性な物質から生じると主張する者は誰でも、確かに愚か者、あるいは偽物であると言います。事実、あなたは両方です―――あなたは頑固に生命が化学物質から生じるという愚かな主張にしがみついているからです。あなたの理論と、化学物質から金を作り出そうとした(そして失敗した)錬金術師のそれとの違いは何ですか?現代の科学者は、錬金術師たちを嘲ります―――それなのに、彼は化学物質から生命を作り出すと主張します。これは愚言の極みではありませんか?もしもあなたが化学物質から生命を作り出すことで証拠を提供するなら、私はまだ化学物質から生命が生じると説得される用意があります。

今、あなたの人生はほとんど終わりかけています。そして、死のとき、死の使いがあなたの魂を取りにくるとき、おそらくあなたはこのすべてを思い出し、すべてを理解するでしょう。しかし、そのときには遅すぎます。あなたは無力にも、もう一つの生老病死という形の物質的な苦闘の人生を繰り返すために引きずり下ろされるからです。しかし、もしも人が単にハレ・クリシュナを唱えるならば、彼はこの大変な苦闘から救われます。私はあなたがそれをすることを願っています。

ハムサドゥータ・スヴァーミー

 


著者について

11年前の(訳注:1978年より11年前)彼のクリシュナ意識のキャリアの始まりから、シュリーラ・ハムサドゥータ・スヴァーミーは情熱的な宣教精神を見せました。ニューヨーク市でISKCONに参加した後、彼はモントリオール、ボストン、バンクーバーおよびバークレーで会館を設立する助けをしました。1969年にシュリーラ・プラブパーダは彼にドイツへ行くように頼み、5年の間、彼は国中を旅し、クリシュナ意識の科学を教え、会館を開き、シュリーラ・プラブパーダの「バガヴァッド・ギーター・アズ・イット・イズ」、「シュリマッド・バーガヴァタム」、「主チャイタンニャの教え」その他の本の翻訳と出版を監督しました。1976年にはシュリーラ・プラブパーダは彼に放棄階級(サンニャーサ)の位を与え、今日では彼はGBC(運営団体委員会)のメンバーの一人として、BBTの役員として、そしてヴァイシュナヴァ・アーチャーリャとして、スリランカ(セイロン)とアメリカ合衆国北西部におけるISKCONの活動を管理し、南インド中にクリシュナ意識を広めています。

 


編集者のメモ

アブラハム・T.コヴォール博士は、1978年9月18日にスリランカで亡くなりました。彼は癌と戦っていましたが、死の原因は心不全であると断定されました。