「教えの甘露」
A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ
西山葉子 訳

太古のバクティ・ヨガの科学に関する11課

500年の時間を超えて、地球の反対側(訳注:インド)から非常に重要な霊的な教えに関するこの小さな指導書が届きました。どうやって霊的指導者を選ぶか、どうやってヨガを実践するか、そしてどこに住むかということさえ、あなたはすべてをこの非常に価値のある書物の中に見出すことができます。本書は、もともと、中世インドの最も偉大な霊的な天才であるシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによってサンスクリット語で記されました。

この本は、ルーパ・ゴスヴァーミーの現代の継承者である尊師ACバクティヴェダーンタ・スワミ・プラブパーダ睨下によって翻訳され、(訳注:師の解説によって)彩られた(to illuminate、問題に光明を投じる、という意味のほか、写本などを彩色するという意味もある)ものです。「教えの甘露」は、霊的な完成の途上にあって真理を探究するすべての者にとって、悟りへの鍵となります。


中表紙

シュリー・グルとゴーラーンガにすべての栄光あれ。

「教えの甘露」

シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによる「シュリーラ・ウパデジャームリタ」の正統なる(authorized)英語版

もともとのサンスクリット語の文章、アルファベットによる音訳、語彙説明(synonym)、翻訳、および詳細な解説

ISKCON創設者、尊師ACバクティヴェダーンタ・スワミ・プラブパーダ睨下著


前書き

第一段落

クリシュナ意識運動は、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの監督のもとで運営(to conduct)されています。ゴーディーヤ・ヴァイシュナヴァ、すなわちベンガルのヴァイシュナヴァたちのほとんどは、ヴリンダーヴァンの6人のゴスヴァーミーたちがその直接の弟子であるところのシュリー・チャイタンニャ・マハープラブの信者(follower、後に従う者)です。したがって、シュリーラ・ナロッタマ・ダーサ・タークラは次のように歌いました。

(サンスクリット引用)

「私がゴスヴァーミーたちによって与えられた文献を理解したいと熱望するとき、そのときには、私はラーダーとクリシュナの超越的な愛情ある交換(loving affair)を理解するでしょう。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、人間の社会にクリシュナの科学の恩恵をもたらすためにお現れになりました。主クリシュナのすべての活動のうちで最高のものは、主のゴピーたちとの恋人同士としての(conjugal、通常は夫婦間、婚姻上の)愛の娯楽です。

シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、ゴピーの中で最も優れたシュリーマティー・ラーダーラーニーの心情(mood)でお現れになりました。したがって、主シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの使命を理解して主の後に続くためには、人はシュリー・ルーパ、サナータナ、バーッタ・ラグーナーター、シュリー・ジーヴァ、ゴパーラ・バーッタ、およびダーサ・ラグーナーターという6人のゴスヴァーミーの足跡を非常に真剣に辿らなければなりません。

第2段落
シュリー・ルーパ・ゴスヴァーミーは、すべてのゴスヴァーミーたちの指導者でした。そして、私たちの活動の指針とするため、彼は私たちが従うための、このウパデシャームリタ(教えの甘露)を下さいました。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがシクシャーシュタカと呼ばれる8節をお残しになったように、ルーパ・ゴスヴァーミーは私たちが純粋なヴァイシュナヴァになれるようにウパデシャームリタをお与えくださいました。

第3段落

すべての霊的な事柄において、人の最初の義務は自分の心と感覚を統御することです。心と感覚を統御しない限り、人は霊的な人生において発達することはできません。この物質世界のすべての者は、熱情と無明の相に没頭しています。人は、ルーパ・ゴスヴァーミーの教えに従うことによって、徳、すなわちサットヴァ・グナの水準に自分を引き上げなければなりません。そして、そうすれば更なる発達をするためにはどうしたらよいかということは、すべて明らかになります。

第4段落

クリシュナ意識における発達は、従う人の心がけ(attitude)によります。クリシュナ意識運動に従う者は、完璧なゴスヴァーミーになるべきです。ヴリンダーヴァンでは、それぞれの寺院の寺院長は、この肩書きで呼ばれます。クリシュナの完全な献身者になりたい者は、ゴスヴァーミーにならねばなりません。「ゴ」は感覚を意味し、「スヴァーミー」は主人を意味します。ゴスヴァーミーになり、そしてさらに主の純粋な献身者になることによって人生の最高の成功を達成するためには、人はシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって与えられたウパデシャームリタとして知られる教えに従わねばなりません。

ルーパ・ゴスヴァーミーは、他にもバークティラサームリタ・スィンドゥー、ヴィダグダー・マーダーヴァ、そしてラリタ・マーダーヴァなど、多くの本をお与えくださいました。しかし、ウパデシャームリタは、初心者である献身者のための最初の教えです(to constitute)。人はこれらの教えに非常に厳密に従うべきです。そうすれば、人生を成功させることがより容易になります。ハレ・クリシュナ。

A.C.バクティヴェダンタ・スワミ

1975年9月20日
ヴィシュヴァルーパ・マホトサヴァ
クリシュナ・バララーマ・マンディラ
ラマナ・レティ
ヴリンダーヴァン、インド

第1課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
話したい衝動、心の要求、怒りにまかせた行い、そして舌と胃と性器の衝動に耐えることのできる冷静な人は、世界中に弟子を作る資格があります。

(解説)
第1段落

シュリマッド・バーガヴァタム(6.1.9-10)において、パリークスィット・マハーラージャは、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーの前に多くの知性的な問いを提示しました。これらの問いの一つは、「もしも自分の感覚を統御することができないのなら、なぜ人は償いを行うのですか」というものでした。例えば、泥棒は自分の行う盗みのために逮捕されるかもしれないと、完全に知っているかもしれません。そして彼は、実際に泥棒が警察に逮捕されるところを見たことがあるかもしれません。それでも彼は盗み続けます。

経験は、見ることと聞くことによって集められます。より知性に劣る者は、見ることによって経験を集めます。そして、より知性に優る者は、聞くことによって経験を集めます。知性的な人が法律の本やシャーストラ、すなわち聖典から、盗むことは良くないことであって、盗んだ人は逮捕されたときに罰せられると聞くとき、彼は盗みを慎みます。

知性に劣る者は、まず盗みによって逮捕されて罰せられなければ、盗みを止めることを学べないかもしれません。しかし、悪人や愚かな者は、聞くことと見ることの両方の経験を持っていて、しかも罰せられたことさえあるかもしれませんが、それでも盗み続けます。たとえそのような人が償いをして政府によって罰せられても、彼は刑務所を出るとするにまた盗みます。もしも刑務所での罰が償いだと考えられるなら、そのような償いの益は何でしょうか?このようにパリークスィット・マハーラージャは問いました。

(サンスクリット引用)

第2段落

彼は償いを象の水浴びに例えました。象は川で水浴びをしてすっかり綺麗になるかもしれませんが、土手に上がるとすぐに体中に泥をかけます。それでは、水浴びの価値は何でしょうか?同様に、多くの霊的な実践者(practitioner、修練者、修行者)がハレ・クリシュナを唱え、同時に多くの禁じられたことをします。マントラを唱えることで罪が相殺されると考えているのです。

主の聖なる御名を唱えているときに人が犯す10種の罪のうち、この罪はナームノ・バラード・ヤシャ・ヒ・パーパ・ブッディー、すなわちハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることの力に頼って罪深い行いをする、というものに当たります。同様に、一部のキリスト教徒は、自分の罪を懺悔するために教会に行きます。神父に罪を懺悔して、何らかの贖罪を行うことによって、毎週の罪の結果から解放されると考えているのです。土曜日が終わって日曜日が来れば、来週の土曜日にはまた許されることを期待して、再び罪深い行いを始めます。(訳注:宗派によっては礼拝は日曜日ではなく土曜日に行われる)

このようなプラーヤスィッタ、すなわち償いは、当時の最も知性的な王であったパリークスィット・マハーラージャによって非難されています。マハーラージャ・パリークスィットの霊的な指導者にふさわしく同じく知性的であったシュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、王に答えて、償いに関する彼の言明は正しいと確認なさいました。罪深い行いは、徳ある行いによって相殺され得ません。したがって、本当にプイラーヤスィッタ、すなわち償いは、私たちの潜在的なクリシュナ意識を呼び覚ますことです。

第3段落

本当の償いは、本当の知識を得ることに関わっており、このためには標準的な過程があります。規律された衛生の基準に従えば、人は病気になりません。人間は、もともとの知識を取り戻すために、特定の原則にしたがって訓練を受けるようにできています。そのような秩序ある人生は、タパシャとして描写されます。禁欲と性生活の回避(ブラーマチャーリャ)によって、心を統御することによって、感覚を統御することによって、持ち物を慈善において放棄することによって、公然と正直であることによって、清潔であることによって、そしてヨガ・アーサナを実践することによって、人は本当の知識、すなわちクリシュナ意識へと徐々に上げられます。

しかし、もしも人が幸運にも純粋な献身者との関わりを持つことができれば、神秘的なヨガの過程によって心を統御するためのすべての訓練を、彼は簡単に飛び越えられます。それは単に、クリシュナ意識の規律的な原則―――不正な性生活、肉食、陶酔物、および賭け事の回避―――に従うこと、真正なる霊的指導者の指示のもとで至高主への奉仕にたずさわることによってなされます。この簡単な過程は、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって勧められています。

第4段落

まず人は自分の話す力を統御しなければなりません。私たちの一人一人が話す力を持っています。私たちは機会があればすぐに話し始めます。もしもクリシュナ意識について話さないなら、私たちは様々な無意味なことについて話します。野原のカエルはゲロゲロと鳴くことによって話します。そして、同様に、舌を持つ者は誰でも話したがります。たとえその口から出るのが無意味なことばかりであっても。しかし、カエルはゲロゲロと鳴くことによって単に蛇を招き寄せます。「ここに来て私を食べてください。」それでも、それが死を招いているにも関わらず、カエルはゲロゲロと鳴き続けます。

物質的な人々と非人格主義者のマーヤーヴァーディー哲学者たちの語りは、カエルがゲロゲロと鳴くことに例えられます。彼らはいつも無意味なことを話していて、そうして死が彼らを捕まえに来るのを招いています。しかし、話すことを統御するというのは、マーヤーヴァーディー哲学者たちが考えるような、自分に強いる沈黙(モーナの外的な過程)を意味するのではありません。沈黙は、しばらくの間は有効であるように見えるかもしれません。しかし、究極的にはそれは必ず失敗します。

シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーがお伝えになる「統御された発話」(訳注:括弧は訳者)の意味は、肯定的な過程、すなわち発話の過程を至高主シュリー・クリシュナを讃えることにたずさわらせること、を指します(to advocate)。(訳注:直訳するとちょっと難解ですが、余計なお喋りは慎んで、クリシュナへの賛美だけに舌を使いなさい、ということです。)

こうして舌は、主の名前、形、性質、および娯楽を讃えることができます。クリシュナ・カターを述べ伝える者は、いつも死の手を逃れたところに存在します。これが話したい衝動を統御することの意味(significance、意味、重要性)です。

第5段落

心の落ち着きのなさ、あるいは変わりやすさ(マノ・ヴェガ)は、人が自分の心をクリシュナの蓮の御足に固定することができるときに統御され得ます。チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー22.31)には、次のように書かれています。

(サンスクリット引用)

クリシュナはちょうど太陽のようであり、マーヤーはちょうど闇のようなものです。もしも太陽があれば、闇はありえません。同様に、もしも心にクリシュナがいれば、心がマーヤーの影響によって乱される可能性はありません。すべての物質的な想念を無にするというヨガの方法はうまくいきません。心の中に真空を作り出そうとするのは人工的です。真空は持続しません。しかし、もしも人がいつもクリシュナのことを考えて、どうすれば最良にクリシュナに奉仕できるかと考えるならば、人の心は自然に統御されます。

第6段落

同様に、怒りも統御され得ます。私たちは怒りを完全に止めることはできませんが、もしも私たちが単に主や主の献身者を冒涜する者に対して怒るなら、私たちはクリシュナ意識において自分の怒りを統御します。主チャイタンニャは、ニテャーナンダ・プラブーを冒涜して殴ったジャマーイとマーダーイという堕落した兄弟に対してお怒りになりました。シクシャーシュタカにおいて、主チャイタンニャは(サンスクリット引用)「人は草よりも謙虚で木よりも忍耐強くあるべきです」と書かれました。それでは、人はなぜ主がご自分の怒りを表されたのかと聞くかもしれません。

要点は、人は自分自身に対するすべての侮辱を耐える用意ができているべきですが、クリシュナ、あるいは主の純粋な献身者が冒涜されるときは、本物の献身者は怒って、無礼な者に対して火のように行動するということです。クロダー、すなわち怒りは止められません。しかし、それは正しく適用されます。ハヌマーンがランカーに火を放ったのは怒りによるものでしたが、彼は主ラーマチャンドラの最も偉大な献身者として崇拝されています。これは彼が自分の怒りを正しく使用したということを意味します。

アルジュナはもう一つの例です。彼には戦うつもりがありませんでしたが、クリシュナは彼に怒りを起こさせました。「あなたは戦わねばなりません!」怒りを持たずに戦うことは不可能です。しかし、怒りは主への奉仕のために使われるときには統御されます。

第7段落

舌の衝動については、私たちは皆、舌がおいしい食べ物を食べたがるということを経験しています。一般に、私たちは舌にそれが選ぶにまかせて食べさせるのではなく、プラサーダを与えることで舌を統御すべきです。献身者の心がけは、クリシュナが彼にプラサーダを与えてくださるときだけ食べる、というものです。それが舌の衝動を統御する方法です。

人は規則正しい時間にプラサーダを食べるべきであり、単に舌や胃の気まぐれを満足させるためだけにレストランや菓子屋で食べるべきではありません。もしも私たちがプラサーダだけを食べるという原則を固持するなら、胃と舌の衝動は統御され得ます。

第8段落

同様に、性器の衝動、性的な一時の衝動も、不必要に使われないときに統御され得ます。性器はクリシュナ意識の子供を得るために使われるべきです。そうでなければ使われるべきではありません。クリシュナ意識運動は、性器の満足のためでなくクリシュナ意識の子供を得るために、結婚を奨励します。少し大きくなれば、子供たちはテキサスのダラスにある私たちのグルクラ学校に送られ、そこで完全なクリシュナ意識の献身者になるように訓練されます。(訳注:現在は親元で育てながら地元の寺院の日曜学校などに通わせるのが普通です。)

多くのそのようなクリシュナ意識の子供たちが必要とされています。そして、クリシュナ意識の子供を作る能力のある者は性器を使うことが許されます。

第9段落

クリシュナ意識による統御に完全に精通したとき、人は真正なる霊的指導者となる資格ができます。

第10段落

ウパデシャームリタのアヌヴリッティ解説において、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラズヴァティー・タークラは、私たちの物質的な自己認識は3種類の衝動―――話す衝動、心の衝動あるいは欲求、そして体の欲求―――を作り出す、と書いておられます。生命体がこれらの3種類の衝動に負けるとき、彼の人生は縁起の良くないものとなります。これらの欲求や衝動に抵抗することを実践する者は、タパスヴィー、すなわち禁欲を実践する者と呼ばれます。そのようなタパシャによって、人は物質エネルギーの犠牲となることを乗り越えることができます。

第11段落

話す衝動に言及するとき、私たちは非人格主義者のマーヤーヴァーディー哲学者や結果を求める活動(正しくはカルマ・カンダという)にたずさわる人々や、単に制約なしに人生を楽しみたい物質主義的な人々の無駄なお喋りを指します。そのようなお喋りや(訳注:それらの人々による)書物は、話す衝動の実際的な表出です。多くの人が無意味なことを喋り、大量の無駄な本を書いています。そしてこれらすべては話す衝動の結果です。この傾向を相殺するため、私たちは自分の語りをクリシュナに関することに向けねばなりません。これはシュリマッド・バーガヴァタム(1.5.10-11)に説明されています。

(サンスクリット引用)

「ただ一人、宇宙全体の雰囲気を清めることのできる方である主の栄光を描写しない言葉は、聖人たちによってカラスが巡礼にでかける場所と同じように考えられます。すべてに完全なる人々は、超越的な住まいの住人であり、彼らはそこでは何らの喜びも得ないからです。」

(サンスクリット引用)

「一方で、無限の至高主の超越的な名前、名声、形、娯楽などの描写にあふれた文献は、異なる創造物です。それは、この世界の誤って導かれた文明の不信心な生活に革命をもたらすことを目的とした、超越的な言葉に満ちています。そのような超越的な文献は、たとえ不完全に書かれていても、完全に正直な浄化された人々によって聞かれ、歌われ、受け入れられます。」

第12段落

結論は、至高の人格神への献身奉仕について語るときのみ、私たちは無駄で無意味なお喋りを避けることができるということです。私たちはいつも自分の話す力をクリシュナ意識を認識するという目的のためだけに使うべきです。

第13段落

移り変わりやすい心の乱れについては、それらは二つに分けられます。最初のものはアヴィロダー・プリーティ、すなわち無節操な執着と呼ばれ、もう一つはヴィロダーユクタ・クロダー、すなわち欲求不満(フラストレーション、苛立ち)から生じる怒りと呼ばれます。マーヤーヴァーティーの哲学、カルマ・ヴァーディーの結果への信仰、そして物質的な欲望に基づいた計画への信仰に固執することは、アヴロダー・プリーティと呼ばれます。

ジナーニー、カルミー、および物質主義的な計画を立てる者たちは、一般に制約された魂たちの注目を集めます。しかし、物質主義者たちが自分の計画を全うできないとき、そして彼らの計画が行き詰るとき、彼らは怒ります。物質的な欲望の行き詰まりは怒りを生じさせます。

第14段落

同様に、体の欲求は3つに分類されます。舌、胃、および性器の欲求です。人は、体に関して言えば、これらの3つの感覚が物理的に一直線に並んでいることを観察できるかもしれません。そして、身体的な欲求は舌から始まります。舌の活動をプラサーダを食べることだけに制限することによって、もしも人が舌の欲求を制約することができれば、胃と性器は自動的に統御できます。このことに関して、シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは次のようにおっしゃいました。

(サンスクリット引用)

「おお、主よ!この物質的な体は無明のかたまりです。そして、感覚は死につながる網目のような道です。どういうわけか、私たちは物質的な感覚の喜びの海に落ちてしまいました。そして、すべての感覚の中で、舌は最も貪欲で統御不可能です。この世界では、舌を征服することは非常に困難です。しかし、親愛なるクリシュナよ。あなたは私たちに非常に親切です。あなたは、私たちが舌を征服するのを助けるために、このおいしいプラサーダを送ってくださいました。ですから、心ゆくまでこのプラサーダを食べて、主シュリー・シュリー・ラーダとクリシュナを讃え、愛において(in love)主チャイタンニャとプラブー・ニテャーナンダの助けを乞い求めましょう。」

第15段落

6種類のラサ(taste、趣向)があり、もしもそのどれかによって乱されるなら、人は舌の衝動によって統御されるようになります。一部の人々は、肉、魚、カニ卵、その他、精液と血によって作られて死体の形で食されるものに魅了されます。他の者たちは、野菜、つる草、ほうれん草、乳製品などを食べることに惹かれますが、まったく舌の欲求を満足させるためです。そのような感覚の満足のために食べるという行為は、チリやタマリンドなどのスパイスの大量の使用も含めて、クリシュナ意識の人々は避けるべきものです。

パン(訳注:ビンロウの実を同じくビンロウの葉で巻いて作った麻薬の一種。ビンロウはキンマ椰子やベテル椰子とも言う)、ハリタキー(訳注:サンスクリット)、ベテル・ナッツ(訳注:ビンロウの実)、パンを作るのに使われる様々なスパイス、タバコ、LSD、マリファナ、アヘン、酒、コーヒーおよび茶は、不正な欲求を満たすために摂取されます。

もしも私たちがクリシュナに捧げられた食べ物の残りだけを受け入れることを実践するなら、マーヤーの犠牲になることから解放されることができます。主ご自身が定められるように、野菜、穀物、
果物、乳製品および水は、主に捧げるための正しい食べ物です。しかし、もしも人がプラサーダを単においしいから受け入れ、そして食べ過ぎるならば、それによっても人はまた舌の欲求を満足させようとすることの犠牲となります。チャイタンニャ・チャリタームリタ(アンテャ6.227)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「自分の味覚を満足させるために方々走り回り、いつも胃と性器の欲求に執着している者は、クリシュナに至ることができません。」

第16段落

前述のように、舌、胃、性器は、すべて一直線に並んでいます。そしてそれらは同じところに分類されます。主チャイタンニャは(サンスクリット引用)とおっしゃいました。「華美な服装をしてはなりません。また、おいしいものを食べてはなりません。」(CCアンテャ6.236)

第17段落

少なくともこの分析によれば、(訳注:美食の食べすぎによる)胃の病気に苦しむ者は、胃の欲求を統御できないでいるのに違いありません。私たちが必要以上のものを食べたいと望むとき、私たちは自動的に人生に多くの不便さを作り出します。しかし、もしもエカーダシーやジャンマーシュタミーなどの断食の日を守れば、私たちは胃の欲求を制約することができます。

第18段落

性器の欲求に関しては、正しいものと正しくないもの、すなわち正当な性交と不正な性交があります。十分に成熟すると、人はシャーストラの規則と規律に従って結婚して、良い子供を得るために性器を使うことができます。それは正しく、宗教的です。そうでなければ、人は性器の欲求を満たすために様々な人工的な方法を取るかもしれず、何の節制もしないかもしれません。

シャーストラに定義されているように、性交について考え、計画し、話し、あるいは実際に実行することによって、あるいは人工的な手段で性器を満足させることによって不正な性生活にふけるとき、人はマーヤーの爪に捕らえられています。これらの教えは、家庭人だけでなく、テャーギー、すなわち放棄階級にある者にもあてはまります。自著プレマヴィヴァルタの7章において、シュリー・ジャガダーナンダ・パンディタは次のように述べています。

(サンスクリット引用)

「親愛なる兄弟たちよ。あなたがたは放棄階級にあり、普通の俗世の事柄について聞いたり話したりすべきではありません。他の人たちに会うときにも、俗世のことについて話すべきではありません。夢の中でさえ女性について考えてはなりません。あなたがたは、女性と関わることを禁ずる誓いをもって放棄階級となることを受け入れました。

もしもあなたがたがチャイタンニャ・マハープラブと関わりたいなら、あなたはいつもチョタ・ハリダーサのことを、そして彼がいかに主によって拒絶されたかを覚えていなければなりません。豪華な食事をしたり、華美な服装をしたりしてはなりません。そうではなく、いつも謙虚であり、真心をもって(in your heart of hearts)主シュリー・シュリー・ラーダー・クリシュナに奉仕をしなさい。」

第19段落

結論は、これらの6つのもの、すなわち発話、心、怒り、舌、胃、および性器を統御できる者は、スヴァーミーあるいはゴスヴァーミーと呼ばれる、というものです。スヴァーミーは主人を意味し、ゴスヴァーミーは、「ゴ」、すなわち感覚の主人を意味します。放棄階級を受け入れるとき、人は自動的にスヴァーミーという称号を得ます。これは彼が自分の家族、地域あるいは社会の主人であることを意味するのではありません。彼は自分の感覚の主人でなければならないのです。

自分の感覚の主人でない限り、彼はゴスヴァーミーと呼ばれるべきではありません。そうではなく、ゴ・ダーサ、感覚の従者なのです。ヴリンダーヴァンの6人のゴスヴァーミーたちの足跡を辿り、すべてのスヴァーミーとゴスヴァーミーは主への超越的な愛情ある奉仕に完全にいそしむべきです。この反対に、ゴ・ダーサは感覚への奉仕や物質的な世界への奉仕にいそしみます。他には何もしません。

プラーラーダ・マハーラージャは、さらにゴ・ダーサとアダーンダ・ゴを描写しました。それは自分の感覚が統御されていない者を指します。アダーンダ・ゴは、クリシュナの従者になることはできません。シュリマッド・バーガヴァタム(7.5.30)において、プラーラーダ・マハーラージャは次のようにおっしゃいました。

(サンスクリット引用)

「自分の感覚を満足させるためにこの物質世界に存在しつづけることを決めた者にとっては、個人的な努力によっても、他の人々からの教えによっても、あるいは共同した協議によっても、クリシュナ意識になれる可能性はありません。彼らはタガの外れた(unbridled、馬などから馬具を外した)感覚によって、無明の最も暗い部分へ引きずられ、そうやって彼らは狂ったように「既に噛まれたものを噛む」と呼ばれる事柄にいそしみます。

第2課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
献身奉仕は、人が次の6つの行いに捕らわれすぎると駄目になります。
1、必要以上に食べたり、必要以上にお金を貯めこんだりする。
2、得るのが非常に難しい俗世の物のために過度な努力をする。
3、俗世の事柄について必要以上に話す。
4、聖典が定める規則や規律を、霊的な発達のためではなく、単にそれらに従うためだけに実践する。あるいは、聖典の規則や規律を退け、独自に、あるいは気まぐれに行動する。
5、クリシュナ意識の興味のない、俗世的な心を持った人々と関わる。
6、俗世的な達成に関して強欲になる。

(解説)

第1段落

人間の人生は、簡素な暮らしと高い思考のためにあります。すべての制約された生命体は、主の第3のエネルギーの支配下にあるので、この物質世界はすべての者が働かねばなららないようにできています。至高の人格神は、3つの主なエネルギー、あるいは力をお持ちです。最初のものは、アンタランガ・シャクティ、すなわち内的な力と呼ばれます。2番目のものは、タタスター・シャクティ、すなわち中間的な(marginal、境界にある)力と呼ばれます。3番目のものはバヒランガ・シャクティ、すなわち外的な力と呼ばれます。

生命体は中間的なエネルギーを成しており、内的および外的な力の中間に位置しています。至高の人格神の永遠の従者として従属的であるジヴァートマー、すなわち原子サイズの生命体は、内的あるいは外的な力の支配の下に留まらねばなりません。内的な力の支配下にあるとき、彼らは自然な本来の活動、すなわち主への継続的な献身奉仕を顕わにします。これはバガヴァッド・ギーター(9.13)に述べられています。

(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ。惑わされていない者、偉大なる魂は、神聖なる自然の保護のもとにあります。彼らは完全に献身奉仕にいそしんでいます。彼らは私を至高の人格神、源であって無尽蔵であるとして知っているからです。」

第2段落

マハートマーという語は、歪んだ心ではなく広い心を持っている人を指します。いつも自分の感覚を満足させようとしている心の歪んだ人は、時として、国家主義、人道主義、あるいは愛他主義などの「主義」を通して他者のために善をなすために自分の活動を拡大します。彼らは、自分の家族、地域、国内、あるいは国際的な社会の構成員など、他者の感覚の満足のために自分の個人的な感覚の満足を退けるかもしれません。

実際には、これらすべては個人から地域から社会への拡大した感覚の満足です。これはどれも物質的な視点からは大変良いことかもしれませんが、そのような活動には霊的な価値はありません。そのような活動の基盤は、個人的な、あるいは拡大した感覚の満足です。至高主の感覚を満足させるときのみ、人はマハートマー、すなわち心の広い人と呼ばれます。

第3段落

上に引用したバガヴァッド・ギーターの節の中で、ダイヴィム・プラクリティムという言葉は至高の人格神の内的な力、あるいは喜びの力の統御を指します。この喜びの力は、シュリーマティー・ラーダーラーニー、あるいは彼女の拡張体であるラクシュミー、すなわち幸運の女神として顕現します。個々のジーヴァの魂が内的なエネルギーの統御の下にあるとき、彼らの唯一の仕事はクリシュナあるいはヴィシュヌを満足させることです。これがマハートマーの位置づけです。もしもマハートマーでないなら、人はドゥラートマー、すなわち心の歪んだ人物です。そのような精神的に歪んだドゥラートマーは、主の外的な力、マハーマーヤーの統御の下に置かれます。

第4段落

実に、この物質世界の中のすべての生命体はマハーマーヤーの統御の下にあり、マハーマーヤーの仕事は彼ら(訳注:生命体)が三重の悲惨さの影響を受けるようにすることです。それはアディーダイヴィカ・クレシャ(日照り、地震、嵐など、半神たちによって引き起こされる苦しみ)、アディーボーティカ・クレシャ(虫や敵など、他の生命体によって引き起こされる苦しみ)、そしてアデャートミカ・クレシャ(精神的および身体的な欠陥など、自分自身の体と心によって引き起こされる苦しみ)です。(サンスクリット引用)外的なエネルギーの統御によってこれらの3つの悲惨さの影響を受ける制約された魂は、様々な困難に苦しみます。

第5段落

制約された魂に直面する主な問題は、生老病死の繰り返しです。物質的な世界では、人は体と魂の維持のために働かなくてはなりません。しかし、人はどうやってそのような仕事をクリシュナ意識の遂行にとって好ましい方法で行うことができるでしょうか?誰もが体の維持に欠かせない穀物、衣類、お金、その他の所有物を必要としています。しかし人は自分の実際の基本的な必要性を満たす分以上に集めるべきではありません。もしもこの自然な原則が守られれば、体の維持には何の困難もありません。

第6段落

自然の配剤によれば、進化の段階の低いところにいる生命体は、必要以上に食べたり集めたりしません。結果として、動物の王国には一般に経済的な問題や必要なものの不足はありません。もしも公けの場所に米の袋が置かれれば、鳥が来て何粒か食べ、去ります。しかし、人間は袋を丸ごと持ち去ります。彼はお腹一杯食べられるだけ食べ、残りを蔵にしまいこみます。聖典によれば、この必要以上に集めるという行為(アテャーハーラ)は禁じられています。今ではそのために世界中が苦しんでいます。

第7段落

必要以上に集めたり食べたりすることは、プラヤーサ、すなわち不必要な努力の原因ともなります。神の配剤によって、もしもいくらかの土地と乳牛を持っていれば、世界中どこに住んでいる人でもとても平和に暮らすことができます。生計を立てるために、ある場所から別の場所へと移動する必要はありません。穀物をその土地で育て、牛から牛乳を得ることができるからです。それはすべての経済的な問題を解決することができます。

幸いにして、人間は、クリシュナ意識すなわち神の理解、自分と主との関係、そして人生の究極の目的地である神への愛を育むための、より高い知性を与えられています。不幸にして、神意識の興味のないいわゆる文明人は、自分の知性を必要以上に得ることと単に舌を満足させるために食べることのために使います。

神の配剤によって、世界中の人間のための牛乳と穀物の生産のための十分な余地が存在します。しかし、自分のより高い知性を神意識を培うために使うのではなく、いわゆる知性的な人々は多くの不必要にして望まれない物を作り出すために自分の知性を誤用します。こうして工場や屠殺場や売春宿や酒屋が作られます。

もしもあまり多くのものを貯めこまず、食べ過ぎないよう、あるいは生活を快適にするための人工的な物を所有するために不必要に働かないように助言すれば、人々は原始的な暮らし方に戻るように助言されているのだと考えます。一般に、人々は簡素な暮らしと高い思考を受け入れるのを好みません。それは彼らの不幸な立場です。

第8段落

人間の人生は神認識のためにあり、人間はこの目的のためにより高い知性を与えられています。このより高い知性がより高い水準を得るためにあると信じる者は、ヴェーダ文献の教えに従うべきです。より高い権威からそのような教えを受けることによって、人は実際に完全な知識を得ることができるようになり、人生に本当の意味を与えられます。

第9段落

シュリマッド・バーガヴァタム(1.2.9)において、シュリー・スータ・ゴスヴァーミーは正しい人間のダールマを次のように描写なさいます。

(サンスクリット引用)

「すべての意識的な行い(occupational engagement、ダールマ)は、確かに究極の解放のためのものです。それらは決して物質的な利益のために行われるべきではありません。さらに、究極の意識的な奉仕(ダールマ)にたずさわる者は、決して感覚の満足を深める(to cultivate)ために物質的な利益を使うべきではありません。」

第10段落

人間の文明における第一歩は、聖典に示された禁止命令に添ってなされる意識的な行いです。人間のより高い知性は、基本的なダールマを理解するために訓練されるべきです。人間の社会には、ヒンズー教徒、キリスト教徒、ヘブライ教徒、イスラム教徒、仏教徒などと分類される、様々な宗教的な概念があります。宗教がなければ、人間の社会は動物の社会よりも優れたものではないからです。

第11段落

前述のように(サンスクリット引用)、宗教は解放を得るためのものであり、糧を得るためのものではありません。時として人間の社会は物質的な発展を目的としたいわゆる宗教の体系を作り出しますが、しかしそれは本当のダールマの目的からはかけ離れたものです。宗教は神の法を理解することを伴います。これらの法を正しく遂行することは、究極的に人を物質的な呪縛から解放するからです。それが宗教の本当の目的です。

不幸にして、人々は物質的な豊かさのために宗教を受け入れます。アテャーハーラ、すなわちそのような豊かさへの過剰な欲望が原因です。しかし本当の宗教は、人々にクリシュナ意識を培う一方で人生に最低限必要なものだけで満足するように教えます。私たちは経済的な発展を必要としますが、本当の宗教はそれを物質的な存在に最低限必要なものだけを供給するためだけに許可します。(サンスクリット引用)人生の本当の目的は、完全真理について問うことです。もしも私たちの努力(スラサーヤ)が完全真理について問うためのものでなければ、私たちは単に自分の人工的な必要性を満足させるための努力を増加させます。霊的な大志を抱く者は、俗世の努力を避けるべきです。

第12段落

もう一つの妨害物は、プラジャルパ、すなわち不必要なおしゃべりです。2-3人の友人たちと会うと、私たちはちょうどゲロゲロと鳴くガマガエルのように直ちに不必要なお喋りを始めます。もしも喋らなければならないのなら、私たちはクリシュナ意識運動について喋るべきです。クリシュナ意識運動の外の者たちは、山ほどの新聞や雑誌や小説を読むこと、クロスワードパズルを解くこと、そして他の多くの無意味な事に興味があります。

このようにして、人々は単に自分の貴重な時間とエネルギーを無駄にします。西洋の国々では、活動的な暮らしから退いた老人たちが、トランプをしたり、魚釣りをしたり、テレビを見たり、無駄な社会政治上の計画について議論したりします。これらすべて、そして他のつまらない活動は、プラジャルパに分類されます。クリシュナ意識に興味のある知性的な人々は、決してそのような活動にふけるべきではありません。

第13段落

ジャナ・サンガは、クリシュナ意識に興味のない人々と関わることを指します。人は厳格にそのような人々との関わりを避けるべきです。したがって、シュリーラ・ナロッタマ・ダーサ・タークラは、私たちにクリシュナ意識の献身者との関わり(バークタ・サネ・ヴァーサ)の中でのみ生きるように助言なさいました。人はいつも主の献身者との関わりの中で主への奉仕にいそしむべきです。

似たような種類の仕事にたずさわる人々とのかかわりは、その仕事における発展にとって、とても有効(conductive、伝導性のある)です。結果として、物質的な人々は自分の努力を強化するために様々な協会やクラブを作ります。例えば、ビジネスの世界においては、私たちは証券取引所や商工会議所などの機関があるのを見ることができます。

同様に、私たちはクリシュナを忘れていない人たちと関わる機会を人々に与えるために、国際クリシュナ意識協会を設立しました。私たちのISKCON運動によって提供される霊的な関わりは、日々増加しています。世界の様々な場所から来た多くの人々が、自分の潜在的なクリシュナ意識を呼び覚ますためにこの協会に加入しています。

第14段落

シュリーラ・バークティ・スィッダーンタ・サラスヴァティ・タークラは、アヌヴリッティの解説の中で、精神的な推察をする者たちや無味乾燥な哲学者たちが行う知識を得るための過度な努力はアテャーハーラ(必要以上に集める)に分類される、と書いています。シュリマッド・バーガヴァタムによれば、クリシュナ意識が抜け落ちた無味乾燥な哲学に関してたくさんの本を書く哲学的な推察者たちの努力は、完全に無駄です。

経済的な発展に関してたくさんの本を書くカルミーたちの仕事もまたアテャーハーラに分類されます。同様に、クリシュナ意識に対して何の欲求もなく、単に科学的な知識あるいは金銭的な得という形をとった物質的な物をもっともっと所有することに興味のある人たちは、皆アテャーハーラの統御の下に含まれます。

第15段落

カルミーは次の世代のためにもっともっと多くのお金を蓄えるために働きます。それはひとえに彼らが自分の未来の立場を知らないからです。息子たちや孫息子たちのためにもっともっと多くのお金を貯めることだけに興味のある、そのような愚かな人々は、来世において自分の立場がどのようなものになるかということさえ知りません。この点を例証できる多くの出来事があります。

あるとき、一人の偉大なカルミーが自分の息子たちと孫息子たちのために莫大な富を蓄えました。しかし後に、彼は自分のカルマ(業)のせいで、前世において自分の子供たちのために建てた建物の近くにある靴直し職人の家に生まれました。この靴直し職人が彼のかつての家に来たとき、彼のかつての息子たちと孫息子たちが彼を靴で殴ったのでした。

カルミーとジニャーニーがクリシュナ意識に興味を持つようにならない限り、彼らは単に自分の人生を無益な活動をすることで無駄にし続けます。

第16段落

功利主義者が主張するように、聖典に定められた幾らかの規則と規律を当面の利益のために受け入れることは、ニヤマ・アーグラハと呼ばれます。そして、霊的な発展のためにあるシャーストラの規律と規則を守らないことはニヤマ・アグラハと呼ばれます。アーグラハという言葉は「熱心に受け入れる」を意味し、アグラハは「受容し損ねる」を意味します。

ニヤマ(規則と規律)という言葉にこれらの二つの言葉のどちらかを組み合わせて、ニヤマーグラハという言葉ができます。そのため、ニヤマーグラハには特定の言葉の組み合わせに従って理解される二重の意味があります。クリシュナ意識に興味のある者は、経済的な発展のために規律と規則を受け入れることに熱心であるべきではありません。しかし彼らはクリシュナ意識の発展のために非常に忠実に(faithfully、信心深く)聖典に示された規則と規律を受け入れるべきです。彼らは不正な性交と肉食と賭け事と陶酔物の摂取を避けることによって、厳格に規律と規則に従うべきです。

第17段落

人はまた、単にヴァイシュナヴァ(献身者)を冒涜するだけのマーヤーヴァーディーとの関わりも避けるべきです。物質的な幸せに興味のあるブークティ・カーミー、形の無い完全存在(ブラーマン)の存在に同化することによる解放を望むムクティ・カーミー、そして神秘的なヨガの修行の完成を望むスィッディー・カーミーは、アテャーハーリーに分類されます。そのような人々との関わりは、全く望ましくありません。

第18段落

神秘的なヨガの完成によって、ブラーマンの存在に同化することによって、あるいはいつ消えるか分からない(whimsical、気まぐれな)物質的な富を得ることによって心を拡大する欲求は、どれも貪欲さ(ローリャ)に分類されます。そのような物質的な利益や、いわゆる霊的な発達を得ようとするすべての試みは、クリシュナ意識の道における障害物です。

第19段落

資本主義者と共産主義者の間で争われている現代の戦争は、アテャーハーラに関するシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの助言を彼らが避けていることが原因です。現代の資本主義者たちは必要以上の富を蓄え、そして彼らの豊かさをねたむ共産主義者たちは、すべての富と豊かさを国有化したいと望みます。不幸にして、共産主義者たちは富とその配分の問題を解決するにはどうしたらよいかということを知りません。結果として、資本主義者たちの富が共産主義者たちの手に落ちるとき、何の解決も生じません。

これらの二つの哲学と反対に、クリシュナ意識の観念形態(イデオロギー)は、すべての富はクリシュナに属する、と述べます。このように、すべての富がクリシュナの管理の下に来ない限り、人類の経済的な問題に解決はあり得ません。富を共産主義者や資本主義者の手中に置くことによっては、何事も解決され得ません。

もしも道に100ドル札(訳注:一万円札に相当する)が落ちていれば、誰かが拾ってポケットに入れるかもしれません。そのような人は正直ではありません。もう一人の人は、そのお金を見て、他者の所有物を触るべきではないと考えてそのままにしておくかもしれません。この2番目の人は、自分自身の目的のためにそのお金を盗むことはしませんが、彼はその正しい使い方に気づいていません。

100ドル札を見た3番目の人は、それを拾って、落とした人を探して、それをその人のところに届けるかもしれません。この人は、自分のために使うためにお金を盗みもせず、無視して道に落ちたままにするでもありません。拾って落とした人に届けることによって、この人は正直であって賢くもあるのです。

第20段落

単に富を資本主義者から共産主義者に移動させても、現代の政治の問題を解決することはできません。共産主義者がお金を得ると、彼はそれを自分の感覚の満足のために使う、ということが証明されているからです。世界の富は実際はクリシュナに所属しており、そして人間も動物も、すべての生命体は自分の維持のために神の所有物を使う生来の権利を持っています。資本主義者であれ、共産主義者であれ、誰かが自分の維持のために必要な分以上を取るなら、その人は泥棒であり、そのため彼は自然の法によって罰せられます。

第21段落

世界の富は、すべての生命体の福祉のために使われるべきです。それが母なる自然の計画だからです。すべての人は、主の富を利用することによって生きる権利を持っています。人々が主の所有物を科学的に利用する術を学ぶとき、彼らはもはや互いの権利を侵害しないようになります。そして理想的な社会が形作られます。そのような霊的な社会のための基本的な原則は、シュリー・イーショパニシャッドの最初のマントラに述べられています。

(サンスクリット引用)

「宇宙の中の動的であるもの、あるいは動的でないもののすべては、主によって統御され、所有されています。したがって、人はすべてが誰のものであるかを良く知り、自分の割り当て分として取り分けられている、自分に必要なものだけを受け入れるべきであり、その他のものを受け入れるべきではありません。

第22段落

クリシュナ意識の献身者は、互いの人生や権利を侵害する必要無くしてすべての生命体が人生のすべての必要性を満たすことができるように、この物質世界は主の完全な配剤によってデザインされていることを非常によく知っています。この完全な配剤は、すべての者にそれぞれの本当の必要性に応じて富の適正な分け前をあてがいます。そして、このようにして、すべての者が簡素な暮らしと高い思考という原則に添って平和に暮らせます。

不幸にして、神の計画への信仰も、より高い霊的な発展への欲求もない物質主義者たちは、神によって与えられた自分の知性を、単に自分の物質的な所有物を増大させるためだけに誤用します。彼らは、自分たちの物質的な地位を向上させるために、資本主義や共産主義などの多くの体系を考案します。彼らは、神の法や、より高い目的地に興味がありません。感覚の満足のための無限の欲求を満たすことにいつも一生懸命で、彼らは自分の仲間である他の生命体を食い物にする能力が際立っています。

第23段落

人間の社会がシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって列挙されたこれらの欠点(アテャーハーラなど)を放棄するとき、人間と動物、資本主義者と共産主義者などの間のすべての対立は終わります。さらに、経済的あるいは政治的な不調和(maladjustment、調整不十分、不適応)と不安定さのすべての問題も解決されます。この純粋な意識は、クリシュナ意識運動によって科学的に提供される正しい霊的な教育と修練によって呼び覚まされます。

第24段落

このクリシュナ意識運動は、世界に平和な状態をもたらすことのできる霊的な共同体を提供します。すべての知性的な者は、このクリシュナ意識運動を真剣に受け入れることによって(by taking wholehearted shelter of)自分の意識を浄化し、上述の献身奉仕への6つの障害物を捨て去るべきです。

第3課

(サンスクリット原文)

(翻訳)

純粋な献身奉仕の遂行にとって好ましい、6つの原則があります。

1、熱意があること。
2、自信をもって努力すること。
3、忍耐強くあること。
4、規律的な原則に従って行動すること。(クリシュナについて聞くこと、御名を唱えること、クリシュナを思い出していること(サンスクリット引用)など)
5、非献身者との関わりを放棄すること。
6、以前のアーチャーリャたちの足跡を辿ること。

これらの6つの原則は、疑いもなく純粋な献身奉仕の完全な成功を保証します。

(解説)

第1段落

献身奉仕は、感傷的な推察や想像上の恍惚状態ではありません。その本質は実際的な活動です。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、自著バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.1.11)において、献身奉仕を以下のように定義しています。

(サンスクリット引用)

「ウッタマー・バークティ、すなわち至高の人格神クリシュナへの純粋な献身は、主にとって好ましいやり方による献身奉仕を捧げることです。この献身奉仕は、いかなる無関係な動機も含むべきではなく、結果を求めるカルマ、非人格的なジニャーナ、および他のすべての自己中心的な欲望も含むべきではありません。

第2段落

バークティは一種の修養です。修養といえば、私たちは直ちに活動に言及しなければなりません。冷静の修養とは、一部の偽物のヨギーが教えるように、瞑想のためにじっと座っていることではありません。そのような無駄な(idle)瞑想は、献身奉仕について何も知らない者には良いかもしれません。そしてこの理由によって、それは時として、気を散らしがちな物質的な活動を制止するために勧められます。

瞑想とは、少なくとも当面のところすべての無意味な活動を止めることを意味します。しかし、献身奉仕はすべての無意味な俗世の活動を終息させるだけでなく、人を意味のある献身奉仕に携わらせもします。シュリー・プラーラーダ・マハーラージャは、以下のようにお勧めになります。

(サンスクリット引用)

献身奉仕の9つの過程は以下のようなものです。

1、至高の人格神の名前と栄光を聞くこと。
2、主の栄光を唱えること。
3、主を思い出していること。
4、主の御足に奉仕すること。
5、神像を崇拝すること。
6、主の敬意を捧げること。
7、主の従者として活動すること。
8、主と友人になること。
9、自分自身を完全に主に服従させること。

第3段落

シュラヴァナム、すなわち聞くことは、超越的な知識を得るための第一歩です。人は正統でない人々に耳を傾けるべきではありません。そうではなく、バガヴァッド・ギーター(4.34)に勧められているように、適正な人物に近づくべきです。

(サンスクリット引用)

「ただ、霊的指導者に近づくことによって真実を学ぼうとしなさい。彼から従順に問い、彼に奉仕をしなさい。自己を認識した魂は、あなたに知識を捧げることができるからです。彼は真実を見たからです。」


第4段落


それはムンダカ・ウパニシャッドにおいても勧められています。(サンスクリット引用)「超越的な科学を理解するためには、人は真正なる霊的指導者に近づかねばなりません。」このように、超越的な秘密の知識を従順に受け取るというこの方法は、単に精神的な推量に基づいているのではありません。このことに関して、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブはルーパ・ゴスヴァーミーに次のようにおっしゃいました。

(サンスクリット引用)

「ブラーマーの創造した宇宙を横切る途上で、一部の幸運な魂はバークティラターの種、献身奉仕のつる草を受け取るかもしれません。これはすべて、グルとクリシュナの恩恵によるものです。」(CC、マデャー19.151)

この物質世界は、生命体にとっての監禁の場所です。そして生命体は生来アーナンダマヤ、すなわち喜びを追い求めます。彼らは実際は制約されたこの世界の監禁から自由になりたいのですが、解放の過程を知らないので、一つの生命の種から別のそれへと、そして一つの惑星から別のそれへと転生する運命にあるのです。

このようにして、生命体は物質宇宙全体をさまよっています。幸運によって純粋な献身者との接触があって、その人から辛抱強く聞くとき、人は献身奉仕の道を辿り始めます。そのような機会は、誠実(sincere、真摯)な人に与えられます。クリシュナ意識協会は、そのような機会を人類全体に与えています。もしも幸運にも人が献身奉仕に携わるこの機会を利用するなら、解放への道は直ちに開けます。

第5段落

人は、家へ、至高神へと帰るこの機会を非常に熱心に受け入れるべきです。熱心さがなくては、人は成功し得ません。物質世界においてさえ、人は成功するためには自分の特定の活動の分野で非常に熱心でなければなりません。自分の分野での成功を望む学生、ビジネスマン、アーティスト、その他誰であれ、熱心でなければなりません。同様に、人は献身奉仕において非常に熱心でなければなりません。熱心さは活動を意味しますが、しかし、誰のための活動でしょうか?答えは、人はいつもクリシュナのために活動すべきであるというものです。(サンスクリット引用)

第6段落

人生のすべての段階において、バークティ・ヨガにおける完成を得るために人は霊的指導者の指揮の下で献身奉仕を行うべきです。自分の活動を押さえ込んだり(to confine)狭めたりしなければならないというものではありません。クリシュナはあまねく行き渡られます。したがって、クリシュナご自身がバガヴァッド・ギーター(9.4)において述べていらっしゃるように、クリシュナから独立したものは何もありません。

(サンスクリット引用)

「私によって、私の非顕現なる形において、この宇宙全体が満たされています(to be pervaded)。すべての存在は私の中にありますが、私はそれらの中にはありません。」真正なる霊的指導者の指揮の下で、人はすべてをクリシュナへの奉仕にとって好ましいようにしなければなりません。例えば、現在私たちはディクタフォン(速記用口述録音機)を使っています。この機械を発明した物質主義者は、それをビジネスマンや俗世的な主題について書く作家のために作りました。

しかし、私たちはこのディクタフォンをクリシュナ意識の文献を書くために使っています。もちろん、このディクタフォンの製造者は完全にクリシュナのエネルギーの内にあります。電気的な機能を含む機械のすべての部分は、5つの基本的な種類の物質エネルギー(サンスクリット引用)の異なる組み合わせと相互作用からできています。

発明家は、この複雑な機械を作るために自分の脳を使いました。そして彼の脳も(訳注:機械の)材料と同じくクリシュナによって供給されました。クリシュナの言明によれば、(サンスクリット引用)「すべては私のエネルギーに依存しています。」こうして献身者は、クリシュナのエネルギーから独立しているものは何も無いので、すべてはクリシュナへの奉仕のために波長をそろえるべきであるということを理解することができます。

第7段落

クリシュナ意識において知性とともに遂行される努力は、ウツァーハ、すなわち熱意と呼ばれます。献身者は、それによってすべてが主への奉仕のために利用されるところの正しい方法を見つけます。(サンスクリット引用)献身奉仕の遂行は、無駄な瞑想ではなく、霊的な人生の最前面における実際的な行動です。

第8段落

これらの活動は、辛抱強く遂行されねばなりません。人はクリシュナ意識において短気であるべきではありません。実際、このクリシュナ意識運動はたった一人で始められました。そして初めは何の反応もありませんでした。しかし、私たちは忍耐強く自分たちの献身活動を遂行し続けたので、人々は徐々に運動の重要性を理解し始めました。そして今では、彼らは熱心に参加しています。人は献身奉仕を遂行する上で短気であるべきではありません。そうではなく、人は霊的指導者からの指示を受け、グルとクリシュナの恩恵に頼ってそれを忍耐強く遂行すべきです。

クリシュナ意識の活動に成功するには、忍耐と自信(confidence、確信)の両方が必要です。結婚したばかりの女の子は当然(naturally)夫から子供を期待しますが、彼女はそれを結婚直後に得ることを期待することはできません。もちろん、結婚したらすぐに彼女は子供を得ようとすることはできますが、彼女は自分の子供がやがて発育して生まれるという自信をもって、夫に服従しなければなりません。

同様に、献身奉仕の服従とは、人が自信を持たねばならないということを意味します。献身者は(サンスクリット引用)と考えます。「クリシュナは必ず私を守り、献身奉仕の遂行の成功のために助けを与えてくださるでしょう。」これが自信と呼ばれます。 

第9段落

既に説明したように、人はじっとしているべきではなく、規則的な原則の遂行に関して非常に熱心であるべきです。(サンスクリット引用)規律的な原則を軽んじることは、献身奉仕を滅ぼします。このクリシュナ意識運動には、4つの基本的な規律的原則があり、不正な性交、肉食、賭け事、および陶酔物の摂取を禁じています。献身者は、これらの原則に従うにあたって非常に熱心であるべきです。

もしもこれらのうちのどれにおいてでも怠惰になれば、彼の発達は抑制されます。したがって、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは次のようにお勧めになります。(サンスクリット引用)「人はヴァイディー・バークティの規律的な原則に厳密に従うべきです。」

これらの4つの禁止事項(ヤマ)(訳注:してはいけません)に加えて、ジャパ・マーラー数珠で毎日16周マントラを唱えることなど、積極的な規律的原則(訳注:しなさい)もあります。これらの規律的は活動は、熱意をもって忠実になされなければなりません。これは(サンスクリット引用)、すなわち献身奉仕に様々な形で携わること、と呼ばれます。

第10段落

さらに、献身奉仕において成功するためには、人は好ましくない人々との関わりを放棄しなければなりません。これは、カルミー、ジニャーニー、ヨギー、およぎ他の非献身者を含みます。かつて、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの家庭人の献身者の一人が主にヴァイシュナヴァ主義の一般的な原則およびヴァイシュナヴァの一般的な日課としての活動について尋ねました。すると、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは直ちにお答えになりました。(サンスクリット引用)「特徴的には、ヴァイシュナヴァとは俗世の人々すなわち非献身者との関わりを放棄する者です。」

したがって、シュリーラ・ナロッタマ・ダーサ・タークラは次のようにお勧めになります。(サンスクリット引用)人は純粋な献身者との関わりの中で暮らし、以前のアーチャーリャである6人のゴスヴァーミー(つまりシュリー・ルーパ・ゴスヴァーミー、シュリー・サナータナ・ゴスヴァーミー、シュリー・ジーヴァ・ゴスヴァーミー、シュリー・ラグナーター・ダーサ・ゴスヴァーミー、シュリー・ゴパーラ・バーッタ・ゴスヴァーミーおよびシュリー・ラグーナーター・バーッタ・ゴスヴァーミー)によって整えられた規律的な原則を遵守すべきです。

もしも人が献身者との関わりの中で暮らすなら、非献身者と関わる可能性はほとんどありません。国際クリシュナ意識協会は、献身者との関わりの中で暮らして霊的な生活の規律的な原則を実行することに人々を招くためだけに、多くの会館を開いています。

第11段落

献身奉仕とは、超越的な活動を意味します。超越的な水準においては、物質自然の3つの相による汚染はありません。これはヴィシュッダー・サットヴァ、純粋は徳の水準、あるいは熱情と無明の性質による汚染のない徳、と呼ばれます。このクリシュナ意識運動においては、私たちは皆に、朝早く、4時までに起きてマンガラ・アーラティ、すなわち朝の礼拝に参加し、それからシュリマッド・バーガヴァタムを読み、キールタンを行うことなどを要求します。

このように、私たちは献身奉仕における継続的な活動を毎日24時間行います。これはサト・ヴリッティ、すなわち熟練して毎瞬をクリシュナ意識の活動で満たした以前のアーチャーリャたちの足跡を辿ること、と呼ばれます。

第12段落

もしもシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによってこの節の中に与えられた助言、つまり、熱心であること、自信を持つこと、忍耐強くあること、望ましくない人々との関わりを放棄すること、規律的な原則に従うこと、そして献身者との関わりを保つことに厳密に従うなら、人は必ず献身奉仕において発達します。

このことに関して、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、哲学的な推察によって知識を培うこと、結果を求める活動の発展によって俗世的な富を集めること、およびヨガ・スィッデー、すなわち物質的な完成への欲望は、どれも献身奉仕の原則に反する、と述べられます。人はそのような非永遠なる活動に対して完全に冷淡となり、そのかわり自分の決意を献身奉仕の規律的な原則に向けなければなりません。バガヴァッド・ギーター(2.69)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「すべての存在にとって夜であるときは、自己を統御した者にとっては目覚めのときです。そして、すべての存在にとっての目覚めのときは、内省的な聖人にとっての夜です。」

第13段落

主への献身奉仕に携わることは、生命体の中心(life and soul、最も重要なこと、持てるすべて)です。それは人間の人生の望ましい目的地であり、至高の完成です。人はこれについて自信を持つようにならねばなりません。そしてまた、献身奉仕以外のすべての活動、すなわち精神的な推量や結果を求める働き、あるいは神秘的な努力などは、決して何らの永続的な利益ももたらさないことを確信していなければなりません。

献身奉仕の道への完全な信頼(confidence、自信、確信)は、人が自分の望む目的地に到達することを可能にします。しかし、他の道を辿ろうとすることは人を落ち着かなくすることだけに成功します。シュリマッド・バーガヴァタムの7巻には、次のように書かれています。「他のことを目的として厳しい苦行に携わるために献身奉仕を放棄した者は、その高度に発達した苦行にも関わらず心が浄化されていない、ということを、人は冷静に確信していなければなりません。彼らは主への超越的な愛情を込めた奉仕に関して何の情報も持たないからです。」

第14段落

7巻には、さらに次のように述べられています。「精神的な推察をする者たちと結果を求めて行動する者たちは、大いなる苦行と禁欲を行うにも関わらず、それでも堕落します。彼らは主の蓮の御足について何の情報も持たないからです。」しかし、主の献身者は決して堕落しません。バガヴァッド・ギーター(9.31)において、至高の人格神はアルジュナに次のように保証なさいます。(サンスクリット引用)「おお、クンティーの息子よ。私の献身者は決して滅びることがないと大胆に宣言しなさい。」

第15段落

バガヴァッド・ギーター(2.40)においても、クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「この努力においては、損失や減少(訳注:原語はdimunitionだが、一般にはdiminutionが正確)はありません。そして、この道における少々の前進は、人をして最も危険な種類の恐怖から守ります。」

第16段落

献身奉仕はとても純粋で完全なので、一度始めると人は否応なく究極の成功に引きずられます。時として、人は自分の通常の物質主義的な仕事を止め、感傷から至高主の蓮の御足に身をゆだね、こうして献身奉仕の予備的な遂行を始めます。たとえそのような未熟な献身者が堕落しても、彼は失うということがありません。一方で、自分のヴァルニャとアーシュラマに応じた規定された義務を遂行するけれど献身奉仕を習慣づけない者の利益は何でしょうか?

堕落した献身者は、次の生を身分の低い家庭の中に受けるかもしれませんが、それでも彼の献身奉仕は途中で途切れたところから再開します。献身奉仕は、アハイトゥキ・アプラティハターです。それはいかなる俗世的な原因の結果(effect、影響、効果)でもなく(訳注:あるいは「影響も受けず」)、いかなる俗世の原因によって終わらされることもなく、いかなる物質的な中断によって永遠に終わらされることもありません。したがって、献身者は自分の奉仕(engagement、携わっていること、仕事)について自信をもつべきです。そして、カルミー、ジニャーニー、およびヨギーの活動にあまり興味を持つべきではありません。

第17段落

確かに、結果を求めて行動する者、哲学的な推察をする者、および神秘的なヨギーの中には、多くの良い性質があります。しかし、献身者の人格の中には、すべての良い性質が自動的に発達します。無関係な努力は必要とされません。シュリマッド・バーガヴァタム(5.18.12)によって確認されているように、半神たちのすべての良い性質は、純粋な献身奉仕を育んだ者のうちに徐々に顕現します。献身者はいかなる物質的な活動にも興味がないので、彼は物質的に汚染されません。

彼は直ちに超越的な生活の水準に置かれます。しかし、俗世的な活動に携わるものは、いわゆるジニャーニー、ヨギー、カルミー、博愛主義者、国家主義者、あるいは他の何であれ、マハートマーの高い水準に至ることができません。彼はドゥラートマー、すなわち歪んだ心の人物であるに留まります。バガヴァッド・ギーター(9.13)には、次のように書かれています。

(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ。幻惑されていない者、偉大な魂たちは、神聖なる自然の保護の下にあります。彼らは完全に献身奉仕に携わっています。彼らは私を至高の人格神、源であって無尽蔵であるとして知っているからです。」

第18段落

すべての主の献身者は、主の至高の力の保護の下にあるので、彼らは献身奉仕の道からそれてカルミーやジニャーニーやヨギーの道に入るべきではありません。これは(サンスクリット引用)、熱意をもって、そして忍耐と自信をもって規律的な献身奉仕の活動を遂行すること、と呼ばれます。このようにして、人は妨害されずに献身奉仕において発達することができます。 

第4課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
慈善として贈り物を捧げること(訳注:与えるに値する人、すなわちブラーマンや献身者に施しをすること)、慈善として与えられた贈り物を受け取ること、内密に自分の心を打ち明けること、内密に問うこと、プラサーダを受け取ること、およびプラサーダを与えることは、一人の献身者と別の献身者によって共有される愛の6つのしるしです。

(解説)
第1段落

この節において、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは他の献身者たちとの関わりの中で献身奉仕を行うにはどうしたらよいかを説明しています。6つの種類の活動があります。
1、献身者に施しをする。
2、何であれ、献身者がお返しに提供するものを受け取る。
3、献身者に自分の心を開く。
4、彼らから主への内密な奉仕について問う。
5、献身者によって与えられたプラサーダ、すなわち霊的な食べ物を拝受する。
6、献身者にプラサーダを与える。

経験豊かな献身者は説明し、経験の浅い献身者は彼から学びます。これは(サンスクリット引用)です。私たちの献身奉仕の精神を維持するために、献身者が至高の人格神に捧げられた食べ物の残りであるプラサーダを分配するとき、私たちはこのプラサーダを、純粋な献身者を通して受け取る主の恵みとして受け入れなければなりません。また、私たちは純粋な献身者を家に招いて彼らにプラサーダを与え、あらゆる面で彼らを喜ばせる準備ができているべきです。これは(サンスクリット引用)と呼ばれます。

第2段落

普通の社会的な活動においてさえ、二人の愛情ある友人たちの間ではこれらの6つのやりとりは絶対に必要です。例えば、あるビジネスマンが別のビジネスマンとコンタクトを取りたいと望むときは、彼はホテルでのご馳走を用意し、食事をしながら心を開いて自分がしたいと思うことを表現します。彼はそれから自分のビジネス上の友人にどのように行動したらよいかを問い、そして時として贈り物が交換されます。このように、プリーティ、すなわち親密なやりとりにおける愛が存在するときはいつでも、これらの6つの活動が行われます。

以前の節において、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、人は俗世的な関わりを放棄して献身者たちと交友すべきである、と助言しました。(サンスクリット引用)国際クリシュナ意識協会は、献身者の間のこれらの6種類の愛情ある交換を容易にするために設立されました。この協会はたった一人で始められましたが、人々が集まってきて、ギブ・アンド・テイク(平等に与えたり受け取ったりする)という原則にのっとってやりとりをしているので、協会は今では世界中に広がっています。

協会の活動の発展のために人々が非常に寛大に寄付をしてくれていることを、そして厳密にクリシュナ意識という主題のみを扱う本や雑誌の形をとって私たちが与えているどんな慎ましい貢献であれ、人々が熱心に受け入れていることを、私たちは嬉しく思っています。私たちは時としてハレ・クリシュナのお祭りを開き、プラサーダを受け取って祭礼に参加するように生涯会員や友人たちを招きます。私たちの会員のほとんどは社会のより高い階層の人々であるにも関わらず、彼らはそれでもやってきて、私たちが彼らに与えるささやかなプラサーダを、何であれ受け取ります。

時として、会員たちや支持者たちは献身奉仕を行う方法について内密に問い、私たちはこれを説明しようとします。このようにして私たちの協会は快調に世界中に広がっており、すべての国の知識人が徐々に私たちのクリシュナ意識活動の価値を認めつつあります。クリシュナ意識の社会における人生は、会員たちの間でのこれらの6種類の愛情ある交換によって養われます。したがって、人々はISKCONの献身者たちと関わる機会を与えられなければなりません。

単に上述のこれらの6つの方法において交換するだけで、普通の人物が自分の潜在的なクリシュナ意識を完全に呼び覚ますことができます。バガヴァッド・ギーター(2.62)には、(サンスクリット引用)と述べられています。人の欲求と野心は、その人が持つ友人たちに応じて発達します。往々にして、人はその友人によって知られる、と言われます。そしてもしも普通の人が献身者と関わるなら、その人は必ず自分の潜在的なクリシュナ意識を発達させるでしょう。

クリシュナ意識の理解は、すべての生命体の中において生来のものです。そしてそれはすでに生命体が人間の形を取るときにはある程度発達しています。チャイタンニャ・チャリタムリタには次のように述べられています。(マデャー22.107)

(サンスクリット引用)

「クリシュナへの純粋な愛は、生命体の心の中に永遠に根付いています。それは他の源から得られるものではありません。聞くこととマントラを唱えることによって心が浄化されるとき、生命体は自然に目覚めます。」クリシュナ意識はすべての生命体の中に本来備わっているものなので、すべての者がクリシュナについて聞く機会を与えられるべきです。単に聞くこととマントラを唱えることによって(サンスクリット引用)、人の心は直接浄化され、そして人の本来のクリシュナ意識は直ちに呼び覚まされます。

クリシュナ意識は人工的に心に押し付けられるものではありません。それはすでにそこにあります。人が至高の人格神の聖なる御名を唱えるとき、心はすべての俗世的な汚染から清められます。シュリー・シクシャーシュタカの最初の詩節の中で、主シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「シュリー・クリシュナ・サンキールタンにすべての栄光あれ。それは何年もの間溜まり続けた埃のすべてを心から洗い去り、制約された人生の繰り返す生と死の火を消します。このサンキールタン運動は人類全体への最高の恵みです。それは祝福の月の光を広げるからです。それはすべての超越的な知識の生命です。それは超越的な幸福の海を増し、そしてそれは私たちがいつも熱心に求める蜜(nectar、甘露)を完全に味わうことを可能にします。

第3段落

マハー・マントラを唱える者が浄化されるだけでなく、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ・クリシュナ、ハレ・ハレ、ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレという超越的な振動をたまたま聞く人の心もまた浄化されます。単に超越的な振動を聞くことによって、低位の動物、虫、木、その他の種類の生命の中に入れられている魂もまた浄化され、完全にクリシュナ意識になる準備が整えられます。

これは、チャイタンニャ・マハープラブが人間よりも低い生命体がいかにして物質的な呪縛から解放され得るかと問いかけたときに、タークラ・ハリダーサによって説明されました。ハリダーサ・タークラは、聖なる御名を唱えることはとても強力なので、たとえ人がジャングルの最も深いところで唱えても、単に振動を聞くだけで木や動物はクリシュナ意識において発達する、と言いました。

これは、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがジャーリカーンダの森を通り抜けたときに実際に主ご自身によって証明されました。そのとき、虎、蛇、鹿、そして他のすべての動物たちは、自分たちの自然な敵意を放棄し、サンキールタンの中で唱えたり踊ったりし始めました。もちろん、私たちはシュリー・チャイタンニャ・マハープラブの活動を模倣することはできません。しかし私たちは主の足跡を辿るべきです。

私たちは、虎、蛇、猫や犬などの低位の動物たちを魅了して彼らに踊るように誘えるほど強力ではありません。しかし、主の聖なる御名を唱えることによって、私たちは実際に世界中の多くの人々をクリシュナ意識に変えることができます。主の聖なる御名を捧げること、あるいは広めることは、貢献することや慈善を与えること(ダダーティの法則)の至高な例です。

同様に、人はまた、プラティグリーニャーの原則にも従わねばなりません。そして、超越的な贈り物を受け取りたいという思いを持ち、受け取る用意ができていなければなりません。この物質世界の位置づけ(situation、状況)を理解するために、人はクリシュナ意識運動について問い、心を開くべきdす。こうしてグヒャム・アーキャーティ・プリッチャティの原則が満たされます。

第4段落

国際クリシュナ意識協会の会員は、毎週日曜日にすべての支部においてラブ・フィースト(訳注:「愛の祝祭」礼拝と食事の夕べ)を開くとき、一緒に食事をするように協会の会員と支持者を招きます。興味のある人々が大勢やってきてプラサーダを拝受します。そして、可能な場合はいつでも、協会員は互いを自宅に招いて贅沢にプラサーダを供します。このようにして、協会員と一般に人々の両方が利益を得ます。

人々は、いわゆるヨギー、ジニャーニー、カルミーおよび博愛主義者との交際を放棄すべきです。彼らとの関わりは誰にも益をもたらさないからです。もしも本当に人間の人生の目標地点に到達したいなら、人はクリシュナ意識運動の献身者と関わるべきです。クリシュナ意識運動は、神への愛を育む方法を教える唯一の運動だからです。

宗教は人間の社会の特別な機能です。そしてそれは人間の社会と動物の社会との間の違いです。動物の社会には教会やモスク(訳注:イスラム教の寺院)や宗教的な制度はありません。しかし、世界中には、いかに虐げられた人間社会であっても、何らかの宗教制度があります。宗教制度が発達して神への愛に変わるとき、それは成功します。シュリマッド・バーガヴァタムの5巻(1.2.6)には次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「すべての人類のための至高の仕事(ダールマ)は、それによって人々が超越的な主への愛情ある献身奉仕を得られるようにするところのものです。そのような献身奉仕は、自己を完全に満足させるためには、動機がなく、中断しないものでなければなりません。」

第5段落

もしも人間の社会の構成員が実際に心の平和と平安と、そして人々と国々との間の友好的な関わりを望むなら、彼らはそれによって至高の人格神クリシュナへの潜在的な愛を育むことができるところのクリシュナ意識の宗教制度に従うべきです。そうすれば直ちに、人々の心はすぐに平和と平安で満たされます。

第6段落

このことに関して、バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、クリシュナ意識運動を広めることに携わっているすべての献身者たちに、そのような有神論の運動に徹底して反対するマーヤーヴァーディーたちと話さないように警告しています。世界はマーヤーヴァーディーと無神論者に満ちています。そして世界の(訳注:様々な)政党は物質主義を推進するためにマーヤーヴァーダと他の無神論的な哲学を利用します。

時として彼ら(訳注:マーヤーヴァーディーなど)は、クリシュナ意識運動に対抗するために強い政党の後押しをすることさえあります。マーヤーヴァーディーたちと他の無神論者たちは、クリシュナ意識運動に発達してもらいたくありません。それは人々に神意識を教えるからです。それが無神論者たちの主張(policy)です。蛇に牛乳とバナナを与えても益はありません。蛇は決して満足するということがないからです。その反対に、牛乳とバナナを飲み食いすることで、蛇は単にもっと毒を強めます。(サンスクリット引用)

もしも蛇が牛乳を与えられて飲めば、その毒は単に増すのです。同じような理由により、私たちは自分の心を蛇のようなマーヤーヴァーディーやカルミーに明かすべきではありません。そのようにして心を開くことは、何の助けにもなりません。彼らとの関わりを完全に避けて、何らの内密なことについても尋ねないのが最良です。彼らは良い助言を与えることができないからです。私たちは、マーヤーヴァーディーや無神論者を招いたり、彼らからの招きに応じたりするべきではありません。

そのような親密な交じり合いによって、私たちは彼らの無神論的な精神性の影響を受けるかもしれないからです。(サンスクリット引用)私たちがマーヤーヴァーディーや無神論者に何かを与えたり、彼らから何かを受け取ったりすることを避けるべきである、というのは、この節の否定的な禁止命令です。(訳注:してはいけません)シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、(サンスクリット引用)とも警告していらっしゃいます。

「俗世的な人々によって料理されたものを食べることによって、人の心は邪悪になります。」非常に高度に発達した水準にない限り、人はすべての人々からの助力をクリシュナ意識運動を発達させるために使うことができません。したがって、原則として人はマーヤーヴァーディーや無神論者からの慈善を受け入れるべきではありません。実際、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、物質的な感覚の満足にあまりにも執着している(addicted、中毒している)普通の人々との関わりさえ禁じていらっしゃいます。

第7段落

結論として、私たちはいつも献身者と関わりを持ち、規律的な献身の原則を守り、アーチャーリャたちの足跡を辿り、完全に服従して霊的指導者たちの命令を遂行すべきです。このようにして、私たちは自分の献身奉仕と潜在的なクリシュナ意識を発達させることができます。初心者でもなく、マハーバーガヴァタ(大いに発達した献身者)でもなく、献身奉仕の中程度の水準にいる献身者は、至高の人格神を愛し、献身者と友人になり、無明なる人々に親切心を示し、ねたみ深い人々や悪魔的な人々を退けることが期待されています。

この節において、至高の人格神と愛情ある交換をし、献身者と友人になるための過程について、短く言及されています。ダダーティの原則によれば、発達した献身者は自分の収入の少なくとも50%を主と主の献身者への奉仕のために使うこととされています。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、ご自分の人生においてそのような実例を示されました。

引退する決心をしたとき、彼は自分の人生で稼いだものの50%をクリシュナへの奉仕のために、そして25%を自分の親戚のために配り、そして25%を個人的な非常時のために保持しました。すべての献身者がこの例にならうべきです。どれくらいの収集であっても、半分はクリシュナと主の献身者のために費やされるべきです。そしてこれはダダーティの要請を満たします。

第8段落

次の節では、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは私たちに、どのような種類のヴァイシュナヴァを友人として選ぶべきか、そしてどのようにヴァイシュナヴァに奉仕をすべきかを教えてくださいます。

第5課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
人は主クリシュナの聖なる御名を唱える献身者を内心で(mentally、精神面で)尊敬すべきです。そして人は霊的な洗礼(ディークシャー)を受けていて神像の礼拝に携わる献身者にへりくだった敬意を払うべきです。.そして人は、それることのない献身奉仕に発達していて、その心に他者を批判する傾向が全く無い純粋な献身者と関わり、その人に誠実に奉仕をすべきです。

(解説)
第1段落

前の節で述べられた六重の愛情ある交換を知性的に実行するためには、注意深い分別をもって適切な人を選ばなければなりません。したがってシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、私たちは(訳注:それぞれの)ヴァイシュナヴァの特定の位置づけに応じて、適切な方法で彼らに会うべきである、と助言なさいます。この節において、彼は私たちに3つの種類の献身者と関わるにはどうしたらいいかを教えられます。

カニシュター・アディーカーリー、マデャーマ・アディーカーリー、ウッタマ・アディーカーリーの3種類です。カニシュター・アディーカーリーは、霊的指導者からハリ・ナーマの洗礼を受け、クリシュナの聖なる御名を唱えようとしている初心者です。人はそのような人を自分の心の中でカニシュター・ヴァイシュナヴァとして尊敬すべきです。

マデャーマ・アディーカーリーは、霊的指導者から霊的な洗礼を受け、彼によって主への超越的な愛情ある奉仕に完全に携わらせられています。 マデャーマ・アディーカーリーは、献身奉仕において中間地点に位置していると考えられるべきです。

ウッタマ・アディーカーリー、すなわち最も高度な献身者は、献身奉仕において非常に発達した者です。ウッタマ・アディーカーリーは他者を侮辱することに興味がなく、その心は完全に清らかで、混じり気のないクリシュナ意識という覚醒した(realized)状態に到達しています。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによれば、そのようなマハー・バーガヴァタ、すなわち完璧なヴァイシュナヴァとの関わり、および彼への奉仕は、最も望ましいものです。

第2段落

人は、献身奉仕の最も低い水準にあって、寺院で神像を崇拝することだけに興味のあるカニシュター・アディーカーリーに留まるべきではありません。そのような献身者はシュリマッド・バーガヴァタム(11.2.47)の11巻に描写されています。

(サンスクリット引用)

「寺院における神像の崇拝には大変熱心(faithful)だけれど、献身者や一般の人々に対していかに振舞うかを知らない者は、プラークリタ・バークタ、あるいはカニシュター・アディーカーリーと呼ばれます。」

第3段落

したがって、人は自らをカニシュター・アディーカーリーの水準からマデャーマ・アディーカーリーの水準に引き上げなければなりません。マデャーマ・アディーカーリーは、シュリマッド・バーガヴァタム(11,2.46)において次のように描写されています。

(サンスクリット引用)

「マデャーマ・アディーカーリーは、至高の人格神を最も愛すべき対象として崇拝する献身者です。彼は主の献身者と友人になり、無明にある者に情け深く、性質的に妬み深い者を避けます。」

第4段落

これが献身奉仕を正しく培うための方法です。したがって、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、この節において、様々な献身者とどう関わるかを助言なさいました。私たちは実際的な経験から、異なる種類のヴァイシュナヴァが存在するのを見ることができます。プラークリタ・サハジャーは一般に、ハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えますが、しかし彼らは女性とお金と陶酔物に執着しています。そのような人々は、主の聖なる御名を唱えるかもしれませんが、まだ正しく浄化されていません。

そのような人々は、心の中で尊敬すべきではありますが、関わりは避けるべきです。悪気は無いけれど単に悪い関わりによって流されている者は、もしも純粋な献身者から正しい指導を受けたいという熱意があるなら、親切心を示されるべきです。しかし、真正なる霊的指導者によって実際に洗礼を受けており、霊的指導者の命令を遂行することに真剣に携わっている初心者の献身者には、丁重な敬意を捧げるべきです。

第5段落

このクリシュナ意識運動では、階層、信条、あるいは肌の色による差別なく、すべての人に機会が与えられます。すべての人がこの運動に参加したり私たちと一緒に座ってプラサーダを食べたりクリシュナについて聞いたりするように招かれています。私たちは、誰かがクリシュナ意識に興味を持っていて洗礼を受けたいと思っているのを見ると、彼を主の聖なる御名を唱えるために弟子として受け入れます。

初心者である献身者が実際に洗礼を受けて、霊的指導者の命令によって献身奉仕に携わっているなら、彼は直ちに真正なるヴァイシュナヴァとして受け入れられるべきであり、敬意を捧げられるべきです。たくさんのそのようなヴァイシュナヴァのうち、主への奉仕に非常に熱心に携わり、すべての規律的な原則を厳密に守り、ジャパ数珠で決められた回数のマントラを唱え、いつもいかにしてクリシュナ意識運動を広めるかを考えている者が、ほんの一人いるかもしれません。

そのような献身者は、ウッタマ・アディーカーリー、すなわち高度に発達した献身者として受け入れられるべきであり、人は彼との関わりをいつも求めるべきです。

第6段落

献身者がクリシュナに執着するようになる過程がチャイタンニャ・チャリタームリタ(アンテャ4.192)に描写されています。

(サンスクリット引用)

「洗礼のとき、献身者が主への奉仕に完全に身を捧げるとき、クリシュナは彼をご自分と同じくらい良いものとしてお受け入れになります。」

第7段落

ディークシャ、すなわち霊的な洗礼がシュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーによってバークティサンダルバー(868)の中で説明されています。

(サンスクリット引用)

「ディークシャーによって、人は徐々に物質的な楽しみへの興味を失い、徐々に霊的な人生に興味を持つようになります。」

第8段落

特にヨーロッパとアメリカにおいて、私たちはこのことの多くの実際的な例を見ました。豊かでちゃんとした家庭に育った多くの生徒たちが、物質的な楽しみへのすべての興味を失い、霊的な人生に入ることに大変熱心になります。非常に裕福な家庭の出身であるにも関わらず、彼らの多くはあまり快適ではない生活状況を受け入れます。

実際、クリシュナのために、寺院に住んでヴァイシュナヴァとの関わりを持てる限り、彼らはどんな生活状況でも受け入れる準備ができています。それほど物質的な楽しみに無関心になったとき、人は霊的指導者によって洗礼を受ける資格を得ます。霊的な人生の発展のために、シュリマッド・バーガヴァタム(6.1.13)は次のように規定しています。(サンスクリット引用)

ディークシャーを受け入れることについて真剣であるとき、人は禁欲と性生活の回避、および心と体の統御を実行する用意ができていなければなりません。もしもその用意ができていて、霊的な悟り(enlightenment、ディヴァム・ジニャーナム)を受けたいと望むなら、人は洗礼を受ける資格があります。ディヴァム・ジニャーナムは、正しくはタッド・ヴィジニャーナ、すなわち至高存在に関する知識、と呼ばれます。(サンスクリット引用)

完全真理という超越的な主題に興味を持ったとき、人は洗礼を与えられるべきです。そのような人は、ディークシャーを受けるために霊的指導者に近づくべきです。シュリマッド・バーガヴァタム(11.3.21)はまた、次のようにも規定しています。(サンスクリット引用)「実際に完全真理の超越的な科学に興味を持つとき、人は霊的指導者に近づくべきです。」

第9段落

霊的指導者の教えに従うことなく彼を受け入れるということは、すべきではありません。霊的な人生を格好良く見せびらかすために(to make a fashionable show of)霊的指導者を受け入れるべきでもありません。人は、ジジニャース、すなわち真正なる霊的指導者に質問して彼から学ぶことについて非常に熱心でなければなりません。(inquisitive、探求的な、質問好きな)

問いかけるものは、厳密に超越的な科学に関するものでなければなりません。(サンスクリット引用)ウッタマムという言葉は、物質的な知識を超えたものを指します。タマは「この物質世界の闇」を意味し、ウットは「超越的な」を意味します。一般に、人々は俗世的な主題に関して問うことに大変興味があります。しかし、そのような興味を失って、単に超越的な主題に興味があるとき、人は本当に洗礼を受ける資格があります。実際に真正なる霊的指導者によって洗礼を与えられるとき、そして真剣に主への奉仕に携わるとき、人はマデャーマ・アディーカーリーとして受け入れられるべきです。

第10段落

クリシュナの聖なる御名を唱えることはとても崇高なので、もしも10の無礼を注意深く避けてハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えるなら、主の聖なる御名と主ご自身の間には何の違いもないということを理解できるところまで、確実に、徐々に上げられることができます。そのような理解に達した者は、初心者である献身者によって大いに尊敬されるべきです。

主の聖なる御名を無礼を犯さずに唱えることなくしては、クリシュナ意識における発達のための正しい候補者とはなり得ないということを、人は確かに知っておくべきです。シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー22.69)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「その信仰が軟弱で影響されやすい者は初心者と呼ばれます。しかし、徐々に過程を辿ることによって、彼は一流の献身者の水準に上げられます。」誰もが自分の献身生活を初心者の水準から始めます。しかし、もしも定められた回数のハリナーマを唱えることを終えたら、人は段階を追って最も高い水準であるウッタマ・アディーカーリーに上げられます。クリシュナ意識運動は、毎日16周りを唱えるように定めています。

西洋諸国の人々は、数珠で唱えながら長い時間集中することができないからです。したがって、最低限の回数が定められています。しかし、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティ・タークラは、少なくとも64周り(聖名10万回分)唱えないなら人は堕落している、とおっしゃいました。彼の計算によれば、現実的にすべての人が堕落しています。しかし、私たちは非常に真剣に、かつ不誠実さ無しに主に奉仕をしようとしているので、私たちはパティタ・パーヴァナ、すなわち堕落した者を救う方として有名な主シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブの慈悲を期待することができます。

第11段落

シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの偉大な献身者であるシュリーラ・サテャラージャ・カーンが、主にどうやってヴァイシュナヴァを認識できるかと尋ねたとき、主は次のようにお答えになりました。

(サンスクリット引用)

「もしも誰かがただ一度でも「クリシュナ」という言葉を言うのを聞くなら、その人は一般の人々の中で最も優れている者として受け入れられるべきです。」(CCマデャー15.106)主チャイタンニャ・マハープラブは続けられました。

(サンスクリット引用)

「クリシュナの聖なる御名を唱えることに興味のある者、あるいは実際にクリシュナの御名を唱え、それを好む者(who by practice likes to chant)は、少なくとも(人の)心の中でヴァイシュナヴァとして受け入れられるべきであり、そのこと自体(as such)に対して敬意を払われるべきです。」(CCマデャー15.111)

私たちの友人の一人、有名なイギリス人の音楽家(訳注:ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリソンのこと)は、クリシュナの聖なる御名を唱えることに魅力を感じ、自分のレコードの中で何度かクリシュナの聖なる御名に言及しました。家では彼はクリシュナの絵に敬意をささげ、クリシュナ意識の伝道者にも敬意を捧げます。すべての面で彼はクリシュナの名前とクリシュナの活動を高く評価しています。したがって、私たちは彼に心から(without reservation、遠慮なく)敬意を捧げます。

私たちは、この紳士が徐々にクリシュナ意識において進歩しているのを実際に見ているからです。そのような人にはいつも敬意が払われるべきです。結論は、定期的に聖なる御名を唱えることによってクリシュナ意識において進歩しようとしている者は、いつもヴァイシュナヴァによって尊敬されるべきであるというものです。一方で私たちは、偉大なる伝道者であるはずの人々が、主の聖なる御名を唱えることを怠ったために、徐々に物質的な概念にとらわれた人生(material conception of life、人生の物質的な概念)に堕落したのも見ました。

第12段落

サナータナ・ゴスヴァーミーに教えを授けていたとき、主チャイタンニャ・マハープラブは献身奉仕を3つに分類なさいました。

(サンスクリット引用)

「シャーストラに関する確実な知識があまり強固でなく、しかしハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることには確固たる信頼を培い、また、自分の規定された献身奉仕の遂行においては決意の固い(undeterred、思いとどまらされない)者は、マデャーマ・アディーカーリーであると考えられるべきです。そのような人は大変幸運です。」(CCマデャー22.67)

マデャーマ・アディーカーリーは、シュラッダーヴァン、絶対的に(staunchly、非常に決意の固い、原則を固持する)信心深い人です。そして彼は実際に献身奉仕における更なる発展のための候補者です。したがって、チャイタンニャ・チャリタムリタ(マデャー22.64)には次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「人は、そのシュラッダー(信仰)の発達に応じて、献身奉仕の初級、中級、そして最上級の水準の献身者としての資格を得ます。」そしてもう一度、チャイタインニャ・チャリタムリタ(マデャー22.62)にはこう書かれています。

(サンスクリット引用)

「”クリシュナに超越的な奉仕を捧げることによって、人は自動的にすべての従属的な活動を行う。”献身奉仕を遂行するのに好ましい、この確信に満ちて堅固な信仰は、シュラッダーと呼ばれます。」シュラッダー、クリシュナへの信仰は、クリシュナ意識の始まりです。信仰とは、強い信仰を意味します。バガヴァッド・ギーターの言葉は、信仰深い者にとっての権威ある教えです。そして、クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいておっしゃることは何であれ、解釈することなく、そのままに受け入れられるべきです。

これがアルジュナがバガヴァッド・ギーターを受け入れた方法でした。バガヴァッド・ギーターを聞いた後、アルジュナはクリシュナに言いました。(サンスクリット引用)「おお、クリシュナ。私はあなたが私に言ったことのすべてを完全に真理として受け入れます。」(BG10.14)

第13段落

これがバガヴァッド・ギーターを理解するための正しい方法です。そしてこれはシュラッダーと呼ばれます。バガヴァッド・ギーターの一部を自分の気まぐれな解釈によって受け入れて、他の部分は却下する、というのではありません。これはシュラッダーではありません。シュラッダーとは、バガヴァッド・ギーターの教えを丸ごと、特に最後の教え(サンスクリット引用)を受け入れることを意味します。「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。」(BG18.66)この教えに関して完全に忠実になるとき、人の強い信仰は霊的な人生において進歩する基盤になります。

第14段落

ハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることに完全に携わるとき、人は徐々に自分の霊的な自己認識に気づくようになります。人がハレ・クリシュナ・マントラを誠実に唱えない限り、クリシュナはご自身を明かされません。(サンスクリット引用)(バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー1.2.234)私たちは、いかなる人工的な手段によっても至高の人格神を認識することはできません。

私たちは誠実に主への奉仕に携わらねばなりません。そのような奉仕は舌から始まります。(サンスクリット引用)それは、私たちがいつも主の聖なる御名を唱えて、クリシュナ・プラサーダを受け入れるべきであるということを意味します。私たちは他のものを唱えたり受け入れたりするべきではありません。この過程を誠実に辿るとき、至高主は献身者にご自分を明かしてくださいます。

第15段落

自分がクリシュナの永遠の従者であると気づくとき、人はクリシュナへの奉仕以外のすべてのことに対する興味を失います。いつもクリシュナのことを考え、クリシュナの聖なる御名を広めるための方法を工夫している彼は、自分の唯一の仕事はクリシュナ意識運動を世界中に広めることにあると理解しています。そのような人は、ウッタマ・アディーカーリーとして認識されるべきです。

そして、彼との関わりは6つの過程(process)に応じて直ちに受け入れられるべきです。(サンスクリット引用)実際、高度に発達したウッタマ・アディーカーリーのヴァイシュナヴァは、霊的指導者として受け入れられるべきです。何であれ人が持てる物は、すべて霊的指導者に届けるべきである、と申しつけられているからです。

特にブラーマチャーリーは、他の人たちから施しを乞い、それを霊的指導者に捧げることになっています。しかし、人は自己を認識することなく、高度に発達した献身者、すなわちマハー・バーガヴァタの振る舞いを真似るべきではありません。そのような真似をすることによって、人はやがて堕落するようになるからです。

第16段落

この節において、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは献身者たちにカニシュター・アディーカーリー、マデャーマ・アディーカーリー、そしてウッタマ・アディーカーリーの違いを見分けることができる程度に知性的であるように助言していらっしゃいます。また、献身者は自分の立場を知っているべきであり、より高い水準に位置する献身者の真似をしようとすべきではありません。シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは、ウッタマ・アディーカーリーのヴァイシュナヴァは多くの堕落した魂をヴァイシュナヴァ主義に改宗できる能力によって識別できるということについて、いくつかの実際的なヒントを与えられました。

ウッタマ・アディーカーリーの水準に達しない限り、人は霊的指導者になるべきではありません。初心者であるヴァイシュナヴァ、あるいは中級の水準にあるヴァイシュナヴァもまた弟子を取ることができますが、そのような弟子たちは同じ水準になければなりません。また、彼の不十分な指導の下では、彼らは人生の究極の目的地に向かってうまく進歩することはできないということが理解されるべきです。したがって、弟子はウッタマ・アディーカーリーを霊的指導者として受け入れるように、注意深くあるべきです。

第6課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
本来のクリシュナ意識の立場に位置しているので、純粋な献身者は体との一体感を持ちません。(does not identify with the body、体と自己を同一視しない)そのような献身者は、物質的な視点から見られるべきではありません。実際、献身者が身分の低い家庭に生まれた体を持っていたり、肌の色の悪い体を持っていたり、歪んだ体、病んだ体、あるいは虚弱な体を持っていたりしても、人はそれを見過ごすべきです。

普通の視点からすると、そのような不完全さは純粋な献身者の体の中で目立って見えるかもしれません。しかし、そのような一見した欠陥にも関わらず、純粋な献身者の体は汚染され得ません。それはちょうどガンジス川の水のようなものです。雨季には、時としてガンジス川の水は大小の泡や泥に満たされます。霊的な理解において発達している者は、水の状態を考慮することなくガンジス川で沐浴します。

(解説)
第1段落

シュッダー・バークティ、すなわち魂の正しい活動(the activity of the soul proper、これは多少古風な構文であり、現代語ではthe proper activity of the soulが普通)、言い換えると主への超越的な愛情ある奉仕に携わることは、解放された状態で行われます。バガヴァッド・ギーター(14.26)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「完全に献身奉仕に携わる者、いかなる状況にあっても堕落しない者は、直ちに物質自然の相を超越し、そうしてブラーマンの水準に至ります。」

第2段落

アヴャビーチャーリニー・バークティは、純粋な献身の念を指します。献身奉仕に携わる人は、物質的な動機を持っていてはなりません。このクリシュナ意識運動では、人の意識が変化しなければなりません。もしも意識が物質的な楽しみに向けられているなら、それは物質的な意識です。そしてもしもそれがクリシュナに奉仕することに向けられているなら、それはクリシュナ意識です。服従した魂は、物質的な考慮をすることなくクリシュナに奉仕をします。(サンスクリット引用)

(サンスクリット引用)ジニャーナ(精神的な推量)やカルマ(結果を求める仕事)などの体や心の活動を超越した純粋な献身奉仕は、純粋なバークティ・ヨガと呼ばれます。バークティ・ヨガは、魂の正しい活動です。そして、純粋な、汚染されていない献身奉仕に実際に携わるとき、人はすでに解放されています。(サンスクリット引用)クリシュナの献身者は、たとえその身体的な特徴が物質的に制約されているように見えても、それ(物質的な制約)に影響されません。

したがって、人は純粋な献身者を物質的な視点から見るべきではありません。自分自身が実際に献身者でなければ、人は別の献身者を完全に見ることができません。前の節で説明したように、献身者には三つの種類があります。カニシュター・アディーカーリー、マデャーマ・アディーカーリー、そしてウッタマ・アディーカーリーです。カニシュター・アディーカーリーは、献身者と非献身者を見分けることができません。彼は単に寺院で神像を礼拝することに関心があります。しかし、マデャーマ・アディーカーリーは献身者と非献身者を見分けることができ、献身者と主を見分けることもできます。そのため彼は至高の人格神と献身者と非献身者に異なるふうに接します。

第3段落

誰も純粋な献身者の身体的な欠陥を非難すべきではありません。もしもそのような欠陥があれば、それは見過ごすべきものです。考慮されるべきは霊的指導者の主な仕事である献身奉仕、至高主への純粋な奉仕です。バガヴァッド・ギーター(9.30)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

たとえ献身者が時として不愉快な活動に携わっているように見えても、彼はサードゥー、すなわち聖人的な人だと考えられるべきです。彼の本当の自己(認識)は、主への愛情ある奉仕に携わる人だからです。言い換えると、彼は普通の人間であると考えられるべきではありません。

第4段落

純粋な献身者は、ブラーマナやゴスヴァーミーの家庭の出身ではないかもしれませんが、もしも主への奉仕に携わっているなら、彼は軽視されるべきではありません。ゴスヴァーミーという称号は、本当は純粋な献身者だけのものです。したがって、私たちはルーパ・ゴスヴァーミーとサナータナ・ゴスヴァーミーを筆頭とする6人のゴスヴァーミーについて語ります。

ルーパ・ゴスヴァーミーとサナータナ・ゴスヴァーミーは事実上イスラム教徒になっていて、そのため名前もダビラ・カーサとサーカラ・マッリカに変えていました。しかし、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブご自身が彼らをゴスヴァーミーにしました。したがって、ゴスヴァーミーという称号は世襲制ではありません。ゴスヴァーミーという言葉は、自分の感覚を統御する者、感覚の主人である者を指します。献身者は感覚に統御されるのではなく、感覚の統御者です。したがって、ゴスヴァーミーの家庭の出身ではないかもしれませんが、彼はスヴァーミー、あるいはゴスヴァーミーと呼ばれるべきです。

第5段落

この公式によれば、シュリー・ニテャーナンダ・プラブおよびシュリー・アドヴァイタ・プラブの子孫であるゴスヴァーミーたちは確かに献身者ですが、他の家庭の出身者である献身者たちは差別されるべきではありません。実際、以前のアーチャーリャの家庭の出身であっても、普通の家庭の出身であっても、献身者は平等に取り扱われるべきです。人は、「おお、この人はアメリカ人のゴスヴァーミーだ」と考えて差別すべきではありません。

また、「この人はニテャーナンダ・ヴァムシャ・ゴスヴァーミーだ」と考えるべきでもありません。私たちがクリシュナ意識運動のアメリカ人のヴァイシュナヴァにゴスヴァーミーの称号を与えていることに対して、底流的な抵抗があります。時として人々はアメリカ人の献身者たちに彼らのサンニャーサやゴスヴァーミーの称号は真正ではないときっぱりと告げます。しかし、この節におけるシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの言明によれば、アメリカ人のゴスヴァーミーとアーチャーリャの家庭のゴスヴァーミーの間に違いはありません。

第6段落

一方で、ゴスヴァーミーの称号を得たけれど父がブラーマナでなかったり、ニテャーナンダやアドヴァイタ・プラブの家庭のゴスヴァーミーとして生まれたのでない者は、自分はゴスヴァーミーになったのだと思って不自然に(artificially、人工的に、人為的に)思い上がるべきではありません。彼は、物質的に思い上がれば自分は直ちに堕落するのだということをいつも覚えていなければなりません。このクリシュナ意識運動は超越的な科学です。ねたみが入り込む隙間はありません。

この運動は、全くねたみのないパラマハムサのためのものです。(サンスクリット引用)ゴスヴァーミーの家庭の出身であれ、ゴスヴァーミーの称号を与えられたのであれ、人はねたみ深くあるべきではありません。嫉妬深くなれば、直ちに人はパラマハムサの水準から転落します。

第7段落

もしも私たちがヴァイシュナヴァの身体的な欠陥について考えるなら、私たちは自分がヴァイシュナヴァの蓮の御足に無礼をはたらいているのだと理解すべきです。ヴァイシュナヴァの蓮の御足への無礼は大変深刻なものです。実際、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、この無礼をハーティー・マーター、すなわち狂った象の無礼と呼びました。狂った象は災害をもたらします。それが美しく整えられた庭園に入ったときはなおさらです。

したがって、人はヴァイシュナヴァに無礼を働かないように非常に注意深くあるべきです。すべての献身者は自分より優れたヴァイシュナヴァから教えを受ける用意ができているべきです。そして、より優れたヴァイシュナヴァは、すべてにおいてより劣ったヴァイシュナヴァを助ける用意ができていなければなりません。人は自分のクリシュナ意識における霊的な発達の程度に応じて、より優れていたり、より劣っていたりします。純粋なヴァイシュナヴァの活動を物質的な視点から観察することは禁じられています。

特に初心者にとっては、純粋な献身者を物質的な視点から考えることはとても無礼です。(訳注:injurious、有害という意味もある。基本にあるのは、体、物、名誉などを損傷するような、という考え)したがって、人は純粋な献身者を外見から判断することは避けるべきです。

そうではなく、内的な特徴を見て、彼がいかに主への超越的な愛情ある奉仕に携わっているかを理解しようとすべきです。このようにすれば、人は純粋な献身者を物質的な視点から見るのを避けることができます。そして、そうやって人は徐々に自分自身も浄化された献身者になることができます。

第8段落

クリシュナ意識が特定の一部の人々や特定の一部の献身者や特定の地域の土地に限られていると考える人々は、一般に献身者の外的な特徴を見る傾向があります。そのような初心者は、高度に発達した献身者の崇高な奉仕の真価を理解できないので、マハー・バーガヴァタを自分の水準にもってこようとします。私たちは、このクリシュナ意識を世界中に広めるにあたって、大変な困難を経験します。不幸にして、私たちはクリシュナ意識を世界中に広めるという非凡な活動の真価を理解しない初心者のゴッドブラザー(信仰を同じくする人々)に囲まれています。

彼らは単に私たちを自分たちの水準にもってこようとします。そして彼らは私たちをあらゆる面で非難しようとします。私たちは彼らの未熟な活動と乏しい知識を心から残念に思います。実際に主への内密な奉仕にいそしんでいる、権限を与えられた人は、普通の人間として取り扱われるべきではありません。クリシュナによって権限を与えられない限り、人はクリシュナ意識運動を世界中に広めることはできないからです。

第9段落

このように純粋な献身者を非難するとき、人はクリシュナ意識において進歩したいと望む者にとって非常に妨害的で危険な無礼を犯します。人は、ヴァイシュナヴァの蓮の御足に無礼をはたらくとき、何らの霊的な利益も得られません。したがって、権限を与えられたヴァイシュナヴァ、すなわちシュッダー・ヴァイシュナヴァにねたみを持たないように、誰もが非常に注意深くあるべきです。権限を与えられたヴァイシュナヴァを懲戒的な行動の対象であると考えるのも無礼にあたります。彼に助言しようとしたり、彼を正そうとしたりするのは無礼です。

人は初心者であるヴァイシュナヴァと高度に発達したヴァイシュナヴァをその活動によって見分けることができます。高度に発達したヴァイシュナヴァはいつも霊的指導者として位置しており、初心者はいつも彼の弟子とみなされます。霊的指導者は弟子の助言の影響下にあってはなりません。また、霊的指導者は自分の弟子でない者から指図を受ける義務を負うべきでもありません。これが6節におけるシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの助言の要点です。

第7課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
クリシュナの聖なる御名、性質、娯楽および活動は、どれも砂糖菓子のように超越的に甘いものです。アヴィデャー(無明)の黄疸(訳注:jaundice、ひがみ、偏見、という意味もある)に苦しめられている者の舌は何も甘い物を味わうことができませんが、単に毎日これらの甘い名前を注意深く唱えることで、彼の舌に自然な嗜好が目覚めて、彼の病気が徐々に根元から滅ぼされるというのは素晴らしいことです。

(解説)
第1段落

主クリシュナの聖なる御名、主の性質、娯楽などは、どれも完全な真理、美、および喜びの性質を持ちます。もちろん(naturally)、それらは誰もが好きな砂糖菓子のようにとても甘いものです。しかし、無知(nescience)は胆汁の分泌過多(bilious secretion)によって引き起こされる黄疸という病気に比べられます。黄疸にかかると、病人の舌は砂糖菓子をおいしく楽しむことができません。むしろ、黄疸にかかった人は甘いものを大変苦いと感じます。

アヴィデャー(無明)は、同様に、超越的に心地よいクリシュナの名前、性質、形および娯楽を楽しむ能力を歪めます。この病気にも関わらず、もしも非常に用心深く熱心にクリシュナ意識を習慣づけ、聖なる御名を唱え、クリシュナの超越的な娯楽について聞くなら、人の無明は滅ぼされ、彼の舌はクリシュナと主に関わるすべてのもの(paraphernalia、備品、道具一式など)の超越的な性質の甘さを味わうことができるようになります。そのような霊的な健康の回復は、クリシュナ意識を定期的に培うことによってのみ可能です。

第2段落

物質世界の中の人がクリシュナ意識よりも物質的な生き方により強い興味を持つとき、その人は病んだ状態にあると考えられます。通常(normal)の状態とは、主の永遠の従者であり続けることです。(サンスクリット引用)この健康な状態は、生命体がクリシュナのマーヤー・エネルギーの外的な特徴によって魅了されることでクリシュナを忘れるときに失われます。

このマーヤーの世界はドゥラーシュラヤと呼ばれ、それは「偽りの、あるいは悪い庇護」を意味します。ドゥラーシュラヤに信頼を置くとき、人は正当な理由がほとんどなく望みを持つことへの候補者となります(hoping against hope)。物質的な世界では、誰もが幸せになろうとしています。そして、彼らの物質的な試みはあらゆる方法で挫かれているにも関わらず、無知のために彼らは自分の過ちを理解することができません。

人々は、ある過ちを別の過ちを犯すことで修正しようとします。これが物質世界における存在への苦闘のあり方です。もしもこの状態にある者がクリシュナ意識を習慣つけて幸せになるように助言されれば、彼はそのような教えを受け入れません。

第3段落

このクリシュナ意識運動は、単にこの著しい無明を取り除くために世界中に広められています。人々は一般に盲目なる指導者たちによって誤って導かれています。人間社会の指導者たち、すなわち政治家、哲学者および科学者たちは、クリシュナ意識でないため、盲目です。バガヴァッド・ギーターによれば、彼らはその無神論的な生き方によって事実に関するすべての知識を奪われているので、彼らは本当は罪深い悪人であり、人間のうちで最も低いものです。

(サンスクリット引用)

「甚だしく愚かであり、人間のうちで最も低く、幻想によってその知識を盗み去られ、悪魔たちの無神論的な性質をいくぶん帯びている不信心者たちは、私に服従しません。」(BG7.15)

第4段落

そのような人々は決してクリシュナ意識に服従しません。そして、彼らはクリシュナの庇護を求めようという人々の努力に対抗します。そのような無神論者たちが社会の指導者になるとき、全体の雰囲気が無知によって過充電されます。そのような状態では、人々はこのクリシュナ意識運動を受け取ることにあまり熱心でなくなります。黄疸に苦しむ病んだ人が砂糖菓子の味を楽しまないようなものです。

しかし、人は黄疸にとっては砂糖菓子が唯一の特定の薬であることを知らねばなりません。同様に、現在の人類の混迷した状態においては、クリシュナ意識、主の聖なる御名を唱えること――ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ―――が、世界を正しくさせるための唯一の矯正手段です。

クリシュナ意識は、病人にとってはあまり心地よくないかもしれませんが、それでもシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、もしも物質的な病気から解放されたいなら、人はそれ(クリシュナ意識)を大いなる用心と注意をもって習慣づけねばならない、と助言なさいます。人は、ハレ・クリシュナを唱えることによって治療を始めます。

主のこの聖なる御名を唱えることによって、物質的な状態にある人はすべての誤解(misconception、勘違い、何かに関する誤った考え)から解放されるからです。アヴィデャー、すなわち自分の霊的な自己認識に関する誤解は、アハンカーラ、すなわち心の中の偽りの自我のための基盤となります。

第5段落

本当の病は心の中にあります。しかし、もしも心が清められれば、意識が清められれば、人は物質的な病によって傷つけられ得ません。すべての誤解から心と意識(mind and heart)を清めるために、人はハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることを習慣付けるべきです。これは簡単でもあり、有益でもあります。主の聖なる御名を唱えることによって、人は直ちに物質存在の燃え盛る炎から自由にされます。

第6段落

主の聖なる御名を唱えるには、三つの段階があります。無礼な段階、無礼が減りつつある段階、そして純粋な段階です。初心者がハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることを習慣付けるとき、彼は普通、多くの無礼を犯します。10個の基本的な無礼があり、もしも献身者がこれらを避けるなら、彼は無礼な唱名と純粋な唱名の間に位置する次の段階を垣間見ることができます。純粋な段階に至れば、人は直ちに解放されます。これはバーヴァ・マハー・ダーヴァーグニ・ニルヴァーパナムと呼ばれます。物質存在の燃え盛る炎から解放されれば、直ちに人は超越的な人生の味を楽しむことができます。


第7段落

結論は、物質的な病から自由になるためには、人はハレ・クリシュナ・マントラを唱えることを習慣づけなければならないというものです。クリシュナ意識運動は、人々がハレ・クリシュナ・マントラを唱えることを習慣づけられる環境(atmosphere)を作ることを特に目的としています。人は信念(faith)をもって始めなければなりません。そして、この信念がマントラを唱えることによって増せば、人は協会の会員になることができます。

私たちはサンキールタン団を世界中に送っています。そして彼らは、クリシュナに関する知識が全く無い、世界の本当に辺鄙なところにあっても、ハレ・クリシュナ・マハー・マントラは私たちの見解(camp、理想を同じくするグループ、陣営、また、その見解など)に何千人もの人を惹きつけるということを経験しています。

場所によっては、マントラを聞いた後、たった2-3日後に人々が頭を剃ったりハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えたりして献身者の真似をし始めます。これは物真似かもしれませんが、良いものの模倣は望ましいものです。真似をしている者の一部は、霊的指導者によって洗礼を授けられることに徐々に興味を持つようになり、洗礼を受けにやってきます。

第8段落

もしも真摯であるなら人は洗礼を受け、この段階はバージャナ・クリヤーと呼ばれます。人はそれから実際にハレ・クリシュナ・マハー・マントラを定期的に一日に16周唱え、不正な性交、陶酔物の摂取、肉食および賭け事を慎むことによって、主への奉仕に携わります。バージャナ・クリヤーによって、人は物質主義的な人生の汚染からの自由を得ます。彼はもはや、肉と玉ねぎでできたいわゆるおいしい料理を味わうためにレストランやホテルに行くことはせず、タバコを吸ったりお茶やコーヒーを飲むことも好まなくなります。

彼は不正な性交を慎むだけでなく、性生活そのものを完全に避けます。彼は推察することや賭け事をすることに時間を無駄にすることにも興味を持ちません。このようにして、人が望まれないもの(アナルター・ニヴリッティ)から清められていくということが理解できます。アナルターという言葉は、望まれないものを指します。アナルターは、人がクリシュナ意識運動に執着するときに消え失せます。

第9段落

望まれないものから解放されるとき、人は自分のクリシュナ(意識)の活動を確固として遂行するようになります(be fixed in executing)。これはバーヴァ、すなわち潜在的な至高神への愛の予備的な目覚め、と呼ばれます。こうして制約された魂は物質的な存在から自由になって、物質的な栄華、物質的な知識、およびあらゆる種類の物質的な魅惑を含む人生の身体的な概念に興味を失います。そのような時に、人は至高の人格神とは誰であって主のマーヤーとは何であるかを理解することができます。

第十段落

マーヤーはそこにあるかもしれませんが、献身者がバーヴァの段階に至れば、それは彼を邪魔することはできません。これは献身者がマーヤーの本当の立場を見ることができるからです。マーヤーはクリシュナの忘却を意味し、クリシュナの忘却とクリシュナ意識は光と影のように寄り添って立つものです。もしも影の中に留まるなら、人は光によって与えられる利便を楽しむことができません。そして、もしも光の中に留まるなら、人は影の暗さによって邪魔されません。

クリシュナ意識を習慣づけることによって、人は徐々に解放され、光の中に留まります。実際、彼は影に触れることさえありません。チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー22.31)には次のように確認されています。

(サンスクリット引用)

「クリシュナは太陽光に例えられ、マーヤーは闇に例えられます。太陽光があるときは、闇はありえません。クリシュナ意識を習慣づければ直ちに、幻想の闇、外的なエネルギーの影響は即座に消え失せます。」

第8課

(サンスクリット原文)

(翻訳)

すべての助言の要点は、人は自分の時間のすべて、つまり一日24時間を、主の聖なる御名を入念に(nicely)に唱え、主の超越的な形、性質、および永遠の娯楽を思い出して、それによって徐々に自分の舌と心を(それらの活動に)携わらせることに使うべきだ、ということです。このようにして、人はヴラジャ(ゴロカ・ヴリンダーヴァン・ダーマ)に住んで、献身者の指導の下でクリシュナに仕えるべきです。人は、主への献身奉仕に深く執着している、主の愛する献身者たちの足跡を辿るべきです。

(解説)
第1段落

心は人の敵であるかもしれず、友であるかもしれないので、人は自分の友となるように心を訓練しなければなりません。クリシュナ意識運動は、心がいつもクリシュナの仕事に携わっているように訓練することを特に目的としています。心は、今の生だけでなく過去の非常に多くの生の無数の記憶を含んでいます。これらの記憶は、時として互いに触れて、矛盾する状況(picture、心像、心象風景、映像、状況など)を作り出します。

このように、心の機能は制約された魂にとって危険になり得ます。心理学を学ぶ者(students of psychology、この場合は生徒や学生ではなく、学徒)は、心の様々な心理学的な変化に気づいています。バガヴァッド・ギーター(8.6)には、次のように書かれています。

(サンスクリット引用)

「何であれ自分の体を去るときに覚えている状態(state of being)を、人は間違いなく得ます。」

第2段落

死のときには、生命体の心と知性は、次の生のための特定の種類の体の、密度の薄い形を作り出します。もしも心が突然あまり適切でない何かのことを考えれば、人は次の生でそれに応じた生を受けねばなりません。一方で、もしも死のときにクリシュナのことを考えることができれば、人は霊的な世界、ゴロカ・ヴリンダーヴァンに移され得ます。この転生の過程はとてもかすかなものです。したがって、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは献身者たちに、クリシュナ以外の何物をも覚えていることができなくなるように自分の心を訓練するよう、助言なさいます。

同様に、舌はクリシュナのことだけを話してクリシュナ・プラサーダだけを味わうように訓練されなければなりません。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、さらに助言なさいます。(サンスクリット引用)人は、ヴリンダーヴァン、あるいはヴラジャブーミのどこかに住むべきです。ヴラジャブーミ、すなわちヴリンダーヴァンの地は、地域にして84クロシャであるとされています。1クロシャは2平方マイル(訳注:約5.12平方キロメートル)にあたります。人がヴリンダーヴァンを自分の住まいとするときは、彼はその地の高度に発達した献身者の庇護を受けるべきです。

このようにして、人はいつもクリシュナと主の娯楽について考えるべきです。これはシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって自著バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.294)の中でさらに説明されています。

(サンスクリット引用)

「献身者は、いつもヴラジャの超越的な王国に住み、いつも(サンスクリット引用)シュリー・クリシュナと主の愛しい仲間たち(associates)を思い出すことに携わるべきです。そのような仲間たちの足跡を辿ることによって、そして彼らの永遠の指導の下に入ることによって、人は至高の人格神に奉仕する強い欲求を得ることができます。」

第3段落

再び、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはバークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.295)の中で述べられます。

(サンスクリット引用)

「ヴラジャの超越的な王国(ヴラジャ・ダーマ)の中で、人は至高主シュリー・クリシュナの仲間たちのそれに似た気持ちで主に奉仕すべきです。そして人はクリシュナの特定の仲間の直接の指導の下に身を置き、その人の足跡を辿るべきです。この方法は、サーダーナ(呪縛された段階にいる間の霊的な修練)の段階においても、また、人がスィッダー・プルシャ、すなわち霊的に完璧な魂である、サーデャー(神認識)の段階においても当てはまります。

第4段落

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、この節に関して次のように解説なさいました。(訳注:以下、第8課の最後まで引用が続きます)「まだクリシュナ意識への関心を発展させていない者は、クリシュナの御名を唱え、主とその形、性質、娯楽などを覚えていること、という進歩的で(progressive、段階的な?)規制的な原則に従うことによって、すべての物質的な動機を放棄して自分の心を訓練すべきです。

こうやって、そのような事柄への好みを発達させたあと、人はヴリンダーヴァンに住んで高度の発達した献身者の指導と庇護の下で、常にクリシュナの御名と名声と娯楽と性質を思い出しながら時間を過ごそうとすべきです。これが献身奉仕を培うことに関するすべての教えの要点(sum and substance)です。

第5段落

初心者の段階では、人はいつもクリシュナ・カターを聞くことに携わるべきです。これはシュラヴァナ・ダシャー、聞く段階と呼ばれます。常にクリシュナの超越的な聖名を聞くことと、主の超越的な形、性質、および娯楽について聞くことによって、人はヴァラナ・ダサーと呼ばれる受容の段階に至ることができます。この段階に至ると、人はクリシュナ・カターを聞くことに執着するようになります。恍惚の中で唱名をすることができるようになると、人はスマラナーヴァスター、思い出している(remembering)段階に至ります。

回想(recollection)、没頭(absorption)、瞑想(meditation)、いつも思い出していること(constant remembering)、そして恍惚状態(trance)は、進歩的な(progressive、段階を追った?)クリシュナ・スマラナの5つの項目です。(訳注:第4段落にも出てきますが、この場合の「進歩的」というのは、段階を追って進歩・発展・向上するような、という意味であって、進取の気性に富んでいるという意味ではありません。ただ、日本語では何というのが適切か分かりません。)

始めは、クリシュナを思い出していることは時折中断されるかもしれませんが、それはやがて中断されないようになっていきます。中断されずに思い出していると、それは濃縮されて、瞑想と言われる状態になります。瞑想が拡大して永続的になると、それはアヌスムリティと呼ばれます。中断せず、消えることのないアヌスムリティによって、人はサマーディ、すなわち霊的な恍惚状態の段階に至ります。

スマラナ・ダーサ、すなわちサマーディが完全に発達したあと、魂は自分の本来の立場を理解するようになります。そのときに彼は自分のクリシュナとの永遠の関係を完全に、そして明瞭に理解することができます。それはサムパッティ・ダシャー、すなわち人生の完成と呼ばれます。

第6段落

チャイタンニャ・チャリタムリタは初心者に、あらゆる動機のある欲望を放棄して、単に聖典の指示に従って主への規律的な献身奉仕に携わるように助言しています。こうすることで、初心者は徐々にクリシュナの御名、名声、形、性質などへの執着を発達させることができます。そのような執着を発達させたとき、人は規制的な原則に従わずとも自然発生的にクリシュナの蓮の御足に奉仕することができます。

この段階は、ラーガ・バークティ、すなわち自然発生的な愛による献身奉仕と呼ばれます。その段階において、献身者はヴリンダーヴァンにいるクリシュナの永遠の仲間たちの一人の足跡を辿ることができます。これはラーガーヌガ・バークティと呼ばれます。

ラーガーヌガ・バークティ、すなわち自然発生的な献身奉仕は、人がクリシュナの牛やクリシュナの手の中の棒や笛や、クリシュナの首の周りの花のようになりたいと望むとき、シャンタ・ラサにおいて遂行され得ます。ダーシャ・ラサにおいては、人はチトラカ、パトラカ、あるいはラクタカのような従者の足跡を辿ります。友情のこもった(friendly、この場合は「友好的な」という意味ではなく「友人としての」というような意味)サキャー・ラサにおいては、人はバラデヴァ、シリーダーマー、あるいはスダーマーのような友人になることができます。

親のような感情を特徴とするヴァーツァリヤ・ラサにおいては、人はナンダ・マハーラージャやヤショダーのようになることができます。そして夫婦間の愛を特徴とするマードゥーリャ・ラサにおいては、人はシュリーマティー・ラーダーラーニーや、ラリターのような彼女の女友達や、ルーパやラティのような彼女の侍女(マンジャリー)のようになることができます。これが献身奉仕という事柄に関するすべての教えの真髄です。」 

第9課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
マトゥーラーとして知られる聖地は、超越的な世界であるヴァイクンターに優ります。主がそこにお現れになったからです。マトゥーラー・プリーよりも優れているのは、ヴリンダーヴァンの超越的な森です。クリシュナのラーサ・リーラーの娯楽のためです。そして、ヴリンダーヴァンの森よりも優れているのは、ゴヴァルダーナの丘です。それはシュリー・クリシュナの聖なる手によって持ち上げられたからであり、そこは主の様々な愛情ある娯楽の場だったからです。

そして、極めて素晴らしいシュリー・ラーダー・クンダは至高です(super-excellent S.R.K. stands supreme; to standは状態や位置づけを表す)。それはゴクラの主シュリー・クリシュナへの、天上のかぐわしい蜜のような純粋な愛(ambrosial nectarean prema、普通はnectareousと綴る。ambrosialは、天上の神々にふさわしいような、という意味。プレマはサンスクリット)で溢れているからです。それでは、ゴヴァルダーナの丘の麓にあるこの神聖なるラーダー・クンダに奉仕をする気のない知性的な人はどこにいるでしょう?

(解説)

霊的な世界は、至高の人格神の創造全体の中の4分の3を占めます。そして、それは最も崇高な場所です。霊的な世界は、もともと(naturally)物質世界より優れたところです。しかし、マトゥーラーおよび、その隣接する地域は、物質世界に現れているにも関わらず、霊的な世界よりも優れていると考えられています。至高の人格神ご自身がマトゥーラーにお現れになったからです。

ヴリンダーヴァンの奥地(interior)の森は、マトゥーラーよりも優れていると考えられています。主の様々な娯楽で知られるターラヴァン、マドゥーヴァン、そしてバフラーヴァンなどの12の森(ドヴァーダーシャヴァン)が存在するからです。このように、ヴリンダーヴァンの奥地の森はマトゥーラーより優れていると考えられていますが、これらの森よりも優れているのはゴヴァルダーナの丘です。

怒った半神たちの王インドラによって送られた豪雨からご自分の仲間たち、ヴラジャの高貴な娘たちを守るために、クリシュナがご自分の蓮のような美しい手でゴヴァルダーナの丘を持ち上げ、傘のようにかざしていらしたからです。(訳注:怒っていたのはインドラなので、「半神たちの王インドラが怒って送りつけた豪雨」のほうが分かりやすいかもしれません。)

クリシュナがご自分の牛飼いの友人たちと共に牛の世話をするのもゴヴァルダーナの丘です。そしてまた、主はそこでご自分の最も愛するシュリー・ラーダーと密会し、彼女と愛情ある娯楽を楽しまれました。ゴヴァルダーナの麓にあるラーダー・クンダは、これらのすべてにもまして優れています。クリシュナへの愛が溢れ出るのはそこだからです。発達した献身者はラーダー・クンダに住むことを望みます(to prefer、できることなら~したい、と思う)。この場所はクリシュナとラーダーの間の永遠の愛情ある交換の思い出の場所だからです。(ラティ・ヴィラーサ)

第2段落

チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー・リーラー)には、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブが最初にヴラジャブーミの地域を訪れたとき、主は最初はラーダークンダの場所を見つけられなかった、と書かれています。これは、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブはラーダー・クンダの正確な位置を実際に探していらしたということを意味します。ついに主は聖なる場所を発見なさいました。そしてそこには小さな池がありました。

主はその小さな池で沐浴をなさり、ご自分の献身者たちに、本当のラーダー・クンダがそこに位置しているとおっしゃいました。後に、その池はルーパやラグーナーター・ダーサなどの6人のゴスヴァーミーたちに率いられた主チャイタンニャの献身者たちによって掘り広げられました。現在は、そこにはラーダー・クンダとして知られる大きな湖があります。

シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはラーダー・クンダの重要性を大いに強調なさいました。それを見つけたいというシュリー・チャイタンニャの願望のためです。それでは、誰がラーダー・クンダを放棄して他に住もうとするでしょうか?超越的な知性を持つ者は、誰もそんなことはしません。

しかし、ラーダー・クンダの重要性は他のヴァイシュナヴァ・サムプラダーヤによっては理解され得ません。主チャイタンニャ・マハープラブへの奉仕に興味のない者も、ラーダー・クンダの霊的な重要性と神聖な性質を理解することはできません。このため、ラーダー・クンダは主に主チャイタンニャ・マハープラブの信者(followers)であるゴーディヤ・ヴァイシュナヴァによって崇拝されています。 

第10課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
シャーストラには、結果を求めて働く様々な種類の者のうち、人生のより高い価値観に関する知識(knowledge of the higher value of life)において発達している者は至高主ハリの恩寵を受ける(be favored by)と書かれています。多くのそのような人々のうち、高度な知識を持ったもの(ジニャーニー)、自分の知識の力によって事実上解放されている者が、献身奉仕を習慣づけるかもしれません。彼は他の者たちよりも優れています。

しかし、実際にプレマ、すなわちクリシュナへの純粋な愛に至った者は、彼より優れています。ゴピーたちはすべての高度に発達した献身者たちよりも崇高です。彼女らはいつも完全にシュリー・クリシュナ、超越的な牛飼いの少年に依存しているからです。ゴピーたちの中で、シュリーマティー・ラーダーラーニーはクリシュナにとって最も愛しい方です。

彼女のクンダ(湖)は、主クリシュナにとって、このゴピーたちの中で最も愛しい方と同じくらい大切なものです。それでは、誰がラーダー・クンダに住まないというのでしょうか?そして、彼らの永遠の八重の毎日の娯楽、アシュタカーリーヤ・リーラーにいそしむ聖なる恋人たち、シュリー・シュリー・ラーダー・ゴヴィンダに、恍惚的な献身の感情(アプラークリタ・バーヴァ)に過充電された霊的な体で愛情ある奉仕を捧げない者は誰でしょうか?実に、ラーダー・クンダの岸辺で献身奉仕を遂行する者は、宇宙の中で最も幸運な人々です。

(解説)
第1段落

現在では、ほとんどすべての人が何らかの結果を求める活動にいそしんでいます。働くことで物質的な利益を得ることを望む者は、カルミー、すなわち結果を求めて働く者、と呼ばれます。この物質世界の中のすべての生命体は、マーヤーの魔力の下に入っています。これはヴィシュヌ・プラーナ(6.7.61)に描写されています。

(サンスクリット引用)

聖人たちは、至高の人格神のエネルギーを三つに分類しました。霊的エネルギー、境界(marginal)エネルギー、および物質エネルギーです。物質エネルギーは、三流のエネルギー(トリティーヤー・シャクティー)であると考えられています。物質エネルギーの支配権の中にいる生命体は、時として感覚の満足のために犬や豚のように一生懸命に働きます。

しかし、この生において、あるいは敬虔な活動を行った後で、次の生において、一部のカルミーはヴェーダに記された様々な種類の犠牲を行うことに強く魅了されます。こうして、自分たちの敬虔な功績の力のお陰で、彼らは天国的な惑星に昇格されます。実際、ヴェーダの指示に従って厳密に犠牲を行う者は、月や月より上位の惑星に昇格されます。

バガヴァッド・ギーター(9.21)には次のように書かれています。(サンスクリット引用)自分たちのいわゆる敬虔な行いの結果を消費したあと、彼らは再マルテャ・ロカ、すなわち死の場所と呼ばれる地球に戻ります。そのような人々は、自分たちの敬虔な行いによって天国的な惑星に昇格されるかもしれず、そこで何千年もの命を楽しむかもしれませんが、彼らは自分たちの敬虔な行いの結果が消費されたときには、どちらにしてもこの惑星に戻らねばなりません。

第2段落

これが敬虔に振舞う者も非敬虔に振舞う者も含めた、すべてのカルミーの立場です。この惑星では、単に物質的な幸せだけに興味のある多くのビジネスマンや政治家や他の人たちを私たちは見ることができます。彼らは、自分のとる方法が敬虔であるか非敬虔であるかを考慮せず、あらゆる方法でお金を稼ごうとします。そのような人々は、カルミー、すなわち甚だしい物質主義者と呼ばれます。

カルミーの中の一部は、ヴェーダの知識という指針無しに行動するヴィカルミーです。ヴェーダの知識に基づいて行動する者は、主ヴィシュヌの満足のために、そして主から恩恵をこうむるために、犠牲を行います。このようにして、彼らはより高い天体系に昇格されます。そのようなカルミーはヴィカルミーより優れています。彼らはヴェーダの指示に忠実であり、確かにクリシュナにとって愛しいからです。

バガヴァッド・ギーター(4.11)において、クリシュナはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「どのような方法であれ私に服従する者には、私は相応に報いを与えます。」クリシュナはとても親切なので、主はカルミーとジニャーニーの望みを叶えられました。バークタについては、言うまでもありません。時として、カルミーはより高い天体系に昇格されますが、結果を求める活動に執着している限り、彼らは死の後で新しい物質的な体を受け入れなければなりません。

もしも敬虔に振舞うなら、人はより高い天体系において半神たちの間で新しいからだを得ることができます。あるいは、より高い水準の物質的な幸福を楽しむことのできる何か別の立場を得るかもしれません。一方で、非敬虔な行いにたずさわる者は、降格されて動物や木や草(plants)として生を受けます。このため、ヴェーダの指示を軽んじる者(ヴィカルミー)たちは、学識ある聖人的な人々によって高く評価されません(to appreciate)。シュリマッド・バーガヴァタム(5.5.4)には次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「単に感覚の満足のために犬や豚のように働く物質主義者は、本当は狂っています。彼らは単に感覚の満足のためだけに様々な忌まわしい行いをします。物質主義的な行いは、全く知性的な者にふさわしいものではありません。そのような行いの結果として、人は悲惨さに満ちた物質的な体を得るからです。」

人間の人生の目的は、物質的な存在に付随する三重の悲惨な状態から抜け出すことです。不幸にして、結果を求めて働く者たちは、あらゆる方法でお金を稼いで一時的な物質的な快適さを得ることに必死です。したがって、彼らはより低い種類の生命に降格される危険を冒します。物質主義者たちは、愚かにもこの物質世界で幸せになるために多くの計画を立てます。

彼らは、自分がある一定の期間を生きるだけに過ぎず、そのうちの大部分を感覚の満足のためにお金を稼ぐことに使わねばならないのだということを、立ち止まって考えません。究極的には、そのような活動は死に終わります。物質主義者たちは、体を放棄した後で自分たちが低位の動物や草や木の体に入れられるかもしれないということを考えません。

こうして、彼らの行いのすべては人生の目的を無にします。(defeats the purpose of life、「こうした行いによって、人生の目的が果たせない結果となる」)彼らは無明の中に生まれたばかりでなく、高層ビルや大きな車や高い地位などの形で物質的な利益を得ていると考え、無明の水準で行動します。物質主義者たちは、次の生で自分たちが降格され、自分たちのすべての行いは単にパラーバータ、すなわち自らの敗北としかならないということを知りません。これがシュリマッド・バーガヴァタム(5.5.5)の判断です。(サンスクリット引用)

第3段落

したがって、人は魂の科学(アータマ・タットヴァ)を理解することに熱心であるべきです。魂が自己であって、体は自己ではない、ということを理解できるアートマ・タットヴァの水準に至らない限り、人は無明の水準に留まります。何千もの、そして何百万もの、単に自分の感覚を満足させるために時間を無駄にしている人々の中で、一人が知識の水準に至って人生のより高い価値を理解するかもしれません。

そのような人はジニャーニーと呼ばれます。ジニャーニーは、結果を求める行いは自分を物質的な存在に縛りつけ、一つの体から別の体へと転生する原因になる、ということを知っています。シュリマッド・バーガヴァタムにシャリーラ・バンダー(物質的な存在への呪縛)という言葉で示されているように、何らかの感覚的な楽しみの概念を維持している限り、人の心はカルマ、すなわち結果を求める活動に没頭していて、これは彼が一つの体から別の体へと転生することを余儀なくさせる原因となります。

第4段落

したがって、ジニャーニーはカルミーより優れていると考えられます。彼は少なくとも感覚の喜びの盲目的な活動を慎むからです。これが至高の人格神の判断です。しかし、ジニャーニーはカルミーの無明からは解放されているかもしれませんが、献身奉仕の水準に至らない限り、彼はまだ無明(アヴィデャー)の中にあると考えられます。

人は、ジニャーニー、すなわち知識において発達しているとして受け入れられるかもしれませんが、彼の知識は不純であると考えられます。彼は献身奉仕について何の情報も持たず、したがって至高の人格神の蓮の御足を崇拝することを怠るからです。

第5段落

ジニャーニーが献身奉仕を習慣づけるとき、彼は急速に普通のジニャーニーよりも優れた者になります。そのような発達した人は(サンスクリット引用)と描写されます。ジニャーニーがいかにして献身奉仕を習慣づけるかについて、クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.19)でおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「多くの生と死のあと、本当に知識のある者は私がすべての原因の原因であって存在のすべてであると知って、私に服従します。そのような偉大な魂は非常にまれです。」実際、クリシュナの蓮の御足に服従するとき、人は賢明なのです。しかし、そのようなマハートマー、すなわち偉大な魂はほとんどいません。

第6段落

規律的な原則の下で献身奉仕を習慣づけたあと、人はナーラダやサナカやサナータナなどの偉大な献身者の足跡を辿って、至高神への自然発生的な愛という水準に至るかもしれません。そうすれば、至高の人格神は、彼をより優れた者であるとして認識なさいます。至高神への愛を育んだ献身者は、確かに崇高な地位にあります。

第7段落

これらすべての献身者のうち、ゴピーはより優れているとして認識されています。彼女らはクリシュナを満足させることの他は何も知らないからです。ゴピーたちはクリシュナから何の見返りも期待していません。実際、クリシュナは時としてご自身を彼女らから引き離すことによって、彼女らに極度の苦しみをお与えになります。

クリシュナがマトゥーラーに行くためにヴリンダーヴァンを去ったとき、ゴピーたちはこの上なく気落ちして、残りの人生を単にクリシュナからの別離を嘆いて泣き暮らしました。これは、ある意味では彼女らが決して実際にはクリシュナから離れていなかったことを意味します。クリシュナのことを考えることとクリシュナと関わることの間には、何の違いもありません。

むしろ、ヴァプララムバー・セヴァー(サンスクリット)、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがなさったような、別離においてクリシュナのことを考えることは、クリシュナに直接奉仕するよりもはるかに優れているのです。このため、クリシュナへの純粋な献身的な愛を育んだすべての献身者の中で、ゴピーたちは最も崇高です。

そして、これらすべての崇高なゴピーたちの中で、シュリーマティー・ラーダーラーニーは最も高度です。シュリーマティー・ラーダーラーニーの献身奉仕をしのぐことのできる者はいません。実に、クリシュナでさえシュリーマティー・ラーダーラーニーの感じ方を理解することができません。したがって、単に彼女の超越的な気持ちを理解するために、主は彼女の立場に立って、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブとしてお現れになりました。

第8段落

このようにして、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、シュリーマティー・ラーダーラーニーがクリシュナの最も崇高な献身者であって、彼女のクンダ(湖)、シュリー・ラーダー・クンダが最も崇高な場所である、と、徐々に結論づけられます。これはチャイタンニャ・チャリタムリタの中にラグーバーガヴァタームリタ(ウッタラ・カーンダ45)から引用されている節において確証されています。

(サンスクリット引用)

「ちょうどシュリーマティー・ラーダーラーニーが至高主クリシュナ(ヴィシュヌ)にとって愛しいように、彼女の沐浴の場(ラーダー・クンダ)もクリシュナにとって等しく愛しいものです。すべてのゴピーの中で、彼女たけが主の最も愛する方として至高の存在です。(She alone stands supreme、to standは状態を表す)

第9段落

したがって、クリシュナ意識に興味のある者は誰でも、究極的にはラーダー・クンダの庇護を受け、そこで生涯を通して献身奉仕を遂行すべきです。これがウパデシャームリタの10節におけるルーパ・ゴスヴァーミーの結論です。

第11課

(サンスクリット原文)

(翻訳)

多くの好ましい喜びの対象とすべての愛すべきヴラジャブーミの高貴な娘たちの中で、シュリーマティー・ラーダーラーニーは確かにクリシュナの愛の最も大切な対象です。そして、あらゆる意味で、彼女の神聖なるクンダは、主にとって同じく愛しいと偉大な聖人たちによって描写されています。疑いようもなく、偉大な献身者によってさえも、ラーダー・クンダには滅多に到達することができません。したがって、普通の献身者にとっては到達するのはなおのこと困難です。もしもその聖なる水で単に一度沐浴するなら、人のクリシュナへの純粋な愛は完全に目覚めます。

(解説)
第1段落

なぜラーダー・クンダはそれほど崇高なのでしょうか?その湖は、シュリー・クリシュナの最も愛するシュリーマティー・ラーダーラーニーのものだから、それほど崇高なのです。すべてのゴピーたちの中で、彼女が最愛の方です。同様に、彼女の湖、シュリー・ラーダー・クンダもまた、偉大な聖人たちによって、クリシュナにとってラーダー自身と同じほど愛しい湖であると描写されています。

実に、クリシュナのラーダー・クンダへの愛とシュリーマティー・ラーダーラーニーへの愛は、あらゆる面で同じなのです。ラーダー・クンダは、完全に献身奉仕にいそしむ偉大な人格によってさえも、滅多に到達できません。単にヴァイディー・バークティの修練をしているにすぎない普通の献身者にとってはなおさらです。

第2段落

もしもラーダー・クンダで一度沐浴をすれば、ゴピーたちの影響を受けて(in the wake of the gopis)献身者は直ちにクリシュナへの純粋な愛を目覚めさせる(to develop)ことができる、と書かれています。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、たとえラーダー・クンダの岸辺に生涯住むことができなくても、人は少なくともできるだけ何度もその湖で沐浴をすべきだ、と助言なさいます。

これは、献身奉仕をするうえで最も大切な事柄です。シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは、このことに関して、シュリーマティー・ラーダーラーニーの女友達(サキー)と腹心の侍女たち(マンジャリー)の影響を受けて献身奉仕において進歩することに興味のある者にとって、シュリー・ラーダー・クンダは選り抜かれた場所である、と書いていらっしゃいます。

霊的な体(スィッダー・デハ)を得て、超越的な神の王国、ゴロカ・ヴリンダーヴァンへと帰宅することに熱心な生命体は、ラーダー・クンダに住み、シュリー・ラーダーの腹心の侍女たちの庇護を受け、彼女たちの指導の下で常にシュリーマティー・ラーダーラーニーへの奉仕に携わるべきです。これがシュリー・チャイタンニャ・マハープラブの庇護の下で献身奉仕に携わる者にとって最も崇高な方法です。

このことに関して、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、ナーラダやサナカなどの偉大な聖人たちや偉大な献身者たちでさえ、ラーダー・クンダに来て沐浴する機会が得られない、と書いてあります。それでは、普通の献身者については言うまでもありません。もしも、大変な幸運によって人がラーダー・クンダに来て一度でも沐浴する機会があるなら、彼はちょうどゴピーたちがしたように、クリシュナへの超越的な愛を目覚めさせることができます。

また、ラーダー・クンダの岸辺に住んで主への愛情ある奉仕に没頭すべきであるとも勧められています。人はそこで定期的に沐浴し、シュリー・ラーダーと彼女の手助けをするゴピーたちの庇護を受けて、すべての物質的な概念を放棄すべきです。もしも生きている間に常にこのようにするなら、体を放棄したあと、人は生きていた間にラーダー・クンダの岸辺で夢見た(to contemplate、問題や計画などを熟考する、熟視する、意図する)のと同じように、シュリー・ラーダーに奉仕するために至高神のもとへ戻ります。

結論は、ラーダー・クンダの岸辺に住むこととそこで毎日沐浴をすることは、献身奉仕の最高の完成であるということです。それはナーラダのような偉大な聖人や献身者にとってさえ到達するのが難しい立場です。このように、シュリー・ラーダー・クンダの栄光には限りがありません。ラーダー・クンダに奉仕をすることにとって、人はゴピーたちの永遠の指導の下でシュリーマティー・ラーダーラーニーの手助けをする者になる機会を得ることができます。