完璧な問い、完璧な答え
AC バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ
西山葉子 訳

A.C. バクティヴェダンタ尊師プラブパーダ睨下とインドのピース・コープ・ワーカー、ボブ・コーヘンとの対話

初めに

神、霊的な生活―――これらは私にとってスリラ・プラブパーダとお会いするまではとても漠然とした言葉でした。

宗教にはずっと興味がありましたが、クリシュナ意識の献身者たちに会う前は、なぜか霊的な生活について実りのある問いかけをするのに必要な正しい視点を持っていませんでした。

創造者の存在は単に常識に過ぎません―――しかし、神とは誰でしょうか。

私は誰でしょうか。

私はユダヤ人学校で東洋哲学を勉強しましたが、私の問いへの満足な答えを得ることはできませんでした。

私は1968年の終わり頃にニューヨークのグリーンウィッチ村で初めてハレ・クリシュナ・マントラを聞きました。
ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ
クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ
ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ
ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ

私はチャンティング(マントラを唱える声)に魅了され、安らかな気持ちになりました。

マントラは私の心にくっついてしまい、私は程なく献身者たちから雑誌を貰ってこなかったことを後悔しました。

後で説明してもらったのですが、やがて至高神への愛へと成熟する超越的な種が蒔かれていたのです。

数ヵ月後、私はたまたまハレ・クリシュナのマントラが書かれたカードを手に入れました。

そのカードには、「神のこれらの御名を唱えると、あなたの人生は至高のものとなるでしょう」と約束されていました。

私は時折それを唱え、マントラは確かに心の平安を与えてくれると気づきました。

化学の学士号を取って大学を卒業したあと、私は1971年にピース・コープに参加し、科学の教師としてインドに行きました。

インドで私はハレ・クリシュナ運動について調べてみました。

チャンティングに魅了され、哲学に興味をそそられてはいましたが、運動の正統性について好奇心があったのです。

インドに行く前にニューヨークのハレ・クリシュナ寺院を数回訪れていましたが、見たところ禁欲的な献身者の生活を自分でもしようとは思いませんでした。

インドでは1971年10月にカルカッタで催されていたお祭りで初めてクリシュナ意識の献身者たちに会いました。

献身者たちはヨガの目的と霊的な生活について問いかけることの必要性を説明してくれました。

彼らが実行している儀式や儀礼がつまらない感傷的な義務ではなく本物の実際的な生き方であると私は感じ始めました。

しかし初めは私にはクリシュナ意識の哲学を理解するのはとても難しいことでした。自分の顔にある鼻を同じくらい明らかな事柄について、私の西洋的な生い立ちが様々な些細な点で直視を妨げていました。

幸いにして、献身者たちは私にほんのいくつかの基本的な苦行をすることの必要性を説き伏せてくれました。

そしてそのようにして私は霊的な生活へのいくらかの理解を得始めました。

かつての自分が持っていた霊性と超越的な存在の概念がいかに的外れで内容に乏しかったか、今では振り返って思い出すことができます。

私はこのとき、1971年11月にほんの短い時間でしたがスリラ・プラブパーダにお会いしました。

そしてその後まもなくして菜食主義者になることを決心しました。

(私はベジタリアンであることを誇りに思っていました。

しかしスリラ・プラブパーダは鳩でさえも菜食主義者であると気づかせてくださいました。)

1972年2月、私はカルカッタで数人の献身者たちに会いました。

彼らはマヤプール(約150km北にある聖なる島)でのお祭りに招いてくれました。

このお祭りはクリシュナ御自身の化身であると考えられている主チャイタンニャ・マハープラブを称えて催されるものでした。

私はその頃にはネパールへの旅行を計画していましたが、ピース・コープからインドを離れる許可が下りなかったので、マヤプールに行きました。

マヤプールに向かったときは長くても二日くらいしか居ないつもりでしたが、結局一週間も滞在しました。

私はその島でただ一人の西洋人の非献身者でした。

そして私は献身者たちと一緒に彼らの土地で暮らしたので、これはクリシュナ意識について親しく学ぶ稀有な機会でした。

お祭りの三日後には私は招かれてスリラ・プラブパーダにお目にかかりました。

プラブパーダは小さな小屋に住んでいらっしゃいました。

それは半分レンガ積み、半分は藁葺きで、2つか3つの簡素な家具が置かれていました。

スリラ・プラブパーダは私に座るようにと促し、元気かと問い、そして何か質問があるかとお尋ねになりました。

献身者たちは、スリラ・プラブパーダは霊的指導者の師弟継承を受け継ぐ方なので私の質問に答えることがおできになると説明してくれていました。

私は、スリラ・プラブパーダはもしかしたら本当にこの世界で何が起こっているかご存知かもしれない、と思いました。

結局、プラブパーダの献身者たちはそう主張していたし、私は彼らを崇め、尊敬していました。

そのため、私はそのような気持ちで質問を始めました。

私は図らずして定められた方法で、つまり「霊的な生活について素直に問う」というやり方で、グル、すなわち霊的指導者に近づいたのです。

スリラ・プラブパーダは私を気に入ってくださったように見えました。

そしてその後数日間に渡って私の質問に答えてくださいました。

私は主に学術的な視点からの質問をしましたが、プラブパーダは常に個人的な答えを返してくださり、私が実際に自分の生活を霊化することができるようにしてくださいました。

プラブパーダのお答えは論理的で科学的で満足できるものであり、驚くほど明快でした。

スリラ・プラブパーダとの議論は現実的で明晰で、心躍るものでした。

スリラ・プラブパーダは辛抱強くクリシュナ、すなわち神が至高の享楽者であって至高の友、また至高の所有者であることを私に理解させようとしてくださいました。

神を理解するためには神意識について真剣にならなければならないという明らかなことを受け入れるにあたり、私は多くの障害物を投げかけました。

しかしスリラ・プラブパーダは冷厳に、そして親切に私を後押ししてくださいました。

私は自分の考えをうまく表すことができませんでしたが、スリラ・プラブパーダは私のすべての問いを理解して完璧に答えてくださいました。

ボブ・コーヘン
1974年8月14日 

第1章

すべてを魅了する者、クリシュナ
1972年2月27日

ボブ(以下、B)科学者とは何ですか?
スリラ・プラブパーダ(以下、SP)物事をありのままに知っている人です。
B物事をありのままに知っていると科学者は思っています。
SP何と言ったのですか?
B物事をありのままに知っていると科学者は思いたいのです。
SPそうではありません。知っているべきなのです。科学者は物事をありのままに知っているべきであるから私たちは彼らに教えを請います。科学者とは物事をありのままに知っている人を意味します。クリシュナは「すべてを魅了する者」を意味します。
B「すべてを魅了する者」ですか?
SPそうです。もし神がすべてを魅了する者でないなら、どうして神でありうるでしょう。人は魅力的である場合には重要な人物です。そうではありませんか?
Bその通りです。
SPでは、神は魅力的でなければならず、すべての者にとって魅力的でなければなりません。したがって、もしも神に名前があるなら、あるいはもし誰かが神に名前を与えたいなら、「クリシュナ」という名前だけが適切です。
Bしかし、なぜ「クリシュナ」という名前だけなのですか?
SP神はすべてを魅了する方だからです。クリシュナとは、「すべてを魅了する者」を意味します。
Bああ、分かりました。
SPそうです。神には名前はありません。しかし私たちは神をその性質を表す名前で呼ぶのです。もしある人がとても美しいなら、私はその人を「美人」と呼びます。もしある人がとても賢いなら、私たちはその人を「賢者」と呼びます。つまり名前は性質に伴って与えられるのです。神はすべてを魅了するので、クリシュナという名は神だけに与えられます。クリシュナは「すべてを魅了する者」を意味し、それはすべてを含みます。
Bしかし、「すべての力を持つ者(all-powerful)という名前はどうですか?
SPそうですね。。。もし力がないなら、どうしてすべてを魅了する者であり得るでしょうか。
シャーマスンダラ(スリラ・プラブパーダの秘書をしているアメリカ人の献身者。以下、Ss)すべてを含んでいるのです。
SPすべてです。神は非常に美しくなければならず、非常に賢くなければならず、非常に力強くなければならず、非常に名声高くなければならず。。。
Bクリシュナは悪人にも魅力的ですか?
SPそうですとも。彼は最大の悪党でした。
Bそれはどういうことでしょうか。
SP(笑いながら)彼はいつもゴピたちをからかっていたのです。
Ssからかっていた?
SPそうです。時折、ラーダーラーニーが外出すると、クリシュナは彼女を押し倒しました。ラーダーラーニーは「そういう悪さをしないでください、クリシュナ」と言いますが、二人は地面に倒れこみ、クリシュナはその隙に彼女に口付けします。(プラブパーダ、笑う)つまり、ラーダーラーニーはとても嬉しいのですが、表面的には彼は大変な悪党です。クリシュナの中に悪党という側面がなければ、どうしてそれがこの世界に存在し得るでしょう。私たちの神の定義は、彼がすべての源であるというものです。悪党という側面がクリシュナの中にないなら、どうして顕現し得るでしょう―――彼がすべての源だからです。しかし、彼の「悪党らしさ」はとても素敵なので、皆が彼の悪党らしさを崇めます。
Bそんなに素敵ではない悪党の場合はどうですか?
SP悪党であるというのは素敵なことではありません。しかしクリシュナは絶対です。彼は神なのです。したがって、彼の悪党らしさも良いものなのです。クリシュナは完全に良い存在です。神は善なのです。
Bそうですね。
SPしたがって、神が悪党になるときも、それも善なのです。それがクリシュナです。悪党であることは良くありませんが、クリシュナがそれをすると、彼は完全なる善なので、その悪党らしさもまた善なのです。人はこれを理解しなければなりません。
Bクリシュナを魅力的だと思わない人はいますか?
SPいいえ。すべての人が魅了されます。魅了されない人がいるでしょうか。そんな例を挙げてください。「この人物やこの生命体は、クリシュナに魅了されません」、そんな人を探してみてください。
B良くないと思うことをしたいと望み、でも力や名誉やお金を得たいと望む人は。。。
SPそういう人は?
B。。。そういう人は神を魅力的でないと思うかもしれません。神はその人に罪悪感を与えるので、魅力を感じないかもしれません。
SPいいえ、神を魅力的でないと感じることはありません。その人は力を得ることに魅力を感じています。人は力や財力を得たいと望みます。そうではありませんか?しかし、クリシュナより豊かな人はいません。したがって、クリシュナはその人にとって魅力的なのです。
Bもし豊かになりたい人がクリシュナに祈れば、その人は豊かになれますか?
SPもちろんです。
Bそういう方法で豊かになれるのですか?
SPその通りです。クリシュナはすべての力を持つ者なので、もしあなたが豊かになりたいと祈ればクリシュナはあなたを豊かにしてくれます。
Bもしある人が邪悪な生活をしていて、でも豊かになりたいと祈れば、その人はそれでも豊かになれますか?
SPそうです。クリシュナに祈ることは邪悪ではありません。
Bああ、そうですね。
SP(クスクスと笑いながら)どういうわけか、その人はクリシュナに祈っているのですから、その人を邪悪とは呼べません。
Bはい。
SP  クリシュナはバガヴァッド・ギーターで「(サンスクリット引用)」とおっしゃっています。読みましたか?
Bはい。サンスクリットは分かりませんが、英語のは分かります。
SPふむ。
B「たとえ最も邪悪な者であっても、私に祈れば。。。」
SPそれで?
B「。。。その人は引き上げられるでしょう」
SPそうです。クリシュナに祈った時点で、その人はもはや邪悪ではありません。したがって、神はすべてを魅了する者なのです。ヴェーダでは、完全真理、すなわち至高の人格神はすべての喜びの源であると言われています。(サンスクリット引用)すべての人は誰かを追い求めています。そこに幾らかにメロウを見るからです。
B何を見るのですか?
SP幾らかのメロウです。例えば、ある人が酒を飲んでいるとしましょう。なぜ飲んでいるのでしょうか。飲むことで幾らかのメロウを感じているからです。人はお金を追い求めます。お金を所有することでメロウを得るからです。
Bメロウとはどういう意味ですか?
SP(Ssに)メロウはどう定義されていますか?
Ss味わい、喜び、です。
B分かりました。
SP喜ばしい味わいということです。ですからヴェーダでは(サンスクリット引用)と言います。メロウの厳密な訳語はラサです。(Ssの妻マーラティーが盆に載せた食べ物を持って入室する)それは何ですか?
マーラティー揚げナスです。
SPおお、すべてを魅了する物、すべてを魅了する物です!(笑い)
Ssどうしてクリシュナは最も偉大な科学者なのですか?
SPクリシュナはすべてをご存知だからです。科学者とは、ある事柄について完璧に知っている人です。そういう人が科学者です。クリシュナはすべてをご存知です。
B私は今、科学の教師をしています。
SPそう、教えているのですね。しかし、完璧な知識を持たないなら、どうして教えられるでしょう。それが私たちの質問です。
B完璧な知識がなくても教えることはできます―――
SPそれは騙しているのです。教えているのではありません。騙しているのです。科学者たちが言うようなものです。「塊があって、、、それから創造が起こりました。多分、、、おそらく。。。」これは何ですか?ただの騙くらかしです!教えているのではありません。騙しているのです。
B今朝おっしゃっていたことを復唱させてください。興味深いお話でした。私は奇跡についてお尋ねしました。すると、愚か者だけが奇跡を信じるとおっしゃいましたね。なぜなら―――たとえば子供がいて、大人がこのテーブルを持ち上げたとします。それは奇跡です。あるいは、化学者がいて、酸と塩基を混ぜ合わせて煙なり爆発なり何なりを発生させたとします。知性のない者には、これは奇跡です。しかし、すべてのことには仕組みがあり、したがって奇跡を目にしたときにはそれは単にその人が仕組みを知らないだけなのです。ですから、愚か者だけが奇跡を信じ―――もし私が間違ったことを言っていたら直してください。
SPはい、はい。
Bイエスがお現れになったころ、人々は今より幾らか無知だったので、助けとして奇跡が必要だったとおっしゃいました。私はこれが正しくあなたがおっしゃったことかどうか自信がなかったのです。
SPそうです、そうです。奇跡は知性のない者のためにあります。
B私はこのことについてインドにたくさんいるという奇跡を起こす人々との関連でお伺いしました。
SPクリシュナは最も偉大な奇跡を起こす方です。
Bはい。
SPそれはクンティによって述べられています。。。
B完璧な知識なくして、私は何かを教えることはできないのですか?例えば私は。。。
SP知っていることだけは教えられます。
Bええ、でも私は知っている以上のことを教えると主張すべきではありませんね。
SPそうです。それは騙すことです。
Ss言い換えると、彼は部分的な知識で真実を教えることはできないということですね。
SPそうです。それはどんな人間にも不可能なことです。人間の感覚は不完全です。それではどうして完璧な知識を教えることができるでしょう。例えば、あなたには太陽が円盤に見えるとしましょう。あなたには太陽に近づく手立てはありません。もしあなたが望遠鏡やら何やらで太陽を見ることができるというなら、それもあなたが作ったものであり、あなたは不完全です。それではどうしてあなたの機械が完璧であり得るでしょう。したがって、太陽に関するあなたの知識は不完全です。完璧な知識がないなら、太陽については教えないことです。それは騙すことです。
Bしかし、太陽は93,000,000マイル離れたところにあると言われている、ということを教えるような場合はどうですか?
SP「―――と言われている」という時点で、それは科学的ではありません。
Bしかし、それではほとんどすべての科学が科学的ではないことになると思います。
SPそれが要点なのです!
Bご存知のように、すべての科学はあれやこれやの仮定に基づいています。
SPそうです。彼らは不完全に教えているのです。月についてあれだけ宣伝しているようなものです。あなたは彼らに知識が完璧だと思いますか?
Bいいえ。
SPそれでは?
B社会において、教師の正しい義務は何なのですか?科学の教師としましょう。教室で何を教えれば良いのですか?
SP教室で?単にクリシュナのことを教えるべきです。
B(他のことは)教えるべきではないのですか?
SPクリシュナについて教えることは、すべてを含みます。科学の教師の目標は、クリシュナを知ることであるべきです。
B科学の教師は、クリシュナを主題としつつ、酸とアルカリを混ぜるとか、そういう類の科学を教えることができますか?
SPどうやってできるでしょう?
Bもしも―――科学を学んでいると、自然の一般的な傾向に気が付きますが、これらの一般的な自然の傾向は統御する力を指し示します。。。
SP先日そのことを説明していました。私はある化学者に化学的な公式によると水素と酸素が組み合わさると水になるのかと尋ねました。そうではありませんか?
Bその通りです。
SP大西洋と太平洋には莫大な量の水があります。どれだけの量の化学物質が必要ですか?
B量ですか?
SPそうです。何トンですか?
Bたくさん、です!
SPでは、誰がそれを供給したのですか?
B神が供給なさいました。
SP誰かが供給したに違いありませんね。
Bそうです。
SPですから、それが科学なのです。このように教えることができます。
B酸とアルカリを混ぜると中性になるというようなことは教えるべきですか?
SP同じことです。たくさんの泡が立ちます。では、誰がそれを行っているのですか?誰が酸とアルカリを供給しているのですか?(長い沈黙あり)
Bでは、これも水と同じ源から発していますね。
SPそうです。水素と酸素がなければ水を作ることはできません。ここに広大な―――この大西洋と太平洋だけではありません。無数の惑星があり、無数の大西洋と太平洋があるのです。では誰がこの水素と酸素の水を作り、どうやってそれが供給されたのですか?それが私たちの問いです。誰かが供給したのに違いなく、そうでなければどうやって存在し得たでしょう。
Bしかし、どうやって水素と酸素から水を作るかということも教えるべきですか?これらを燃焼して合わせる方法は―――それも教えるべきですか?これは、水素と酸素を合わせて燃焼させると。。。
SPそれは二次的です。それほど難しくはありません。マーラティーがこのプーリ(パンの一種)を作ったようなものです。小麦粉があり、ギー(溶かして透明な脂肪分だけを集めたバター)があり、彼女はプーリを作りました。しかし、ギーと小麦粉がなくてはどうしてプーリを作れるでしょう。バガヴァッド・ギーターには、「水、土、空気、火―――これらは私のエネルギーである」と書かれています。あなたの体は何ですか?この外的な体―――それはあなたのエネルギーです。そのことを知っていますか?あなたの体はあなたのエネルギーから作られています。例えば、私は食べています。。。
Bはい。
SPこうして私はいくらかのエネルギーを作り出しており、したがって私の体は維持されます。
Bああ、分かりました。
SPしたがって、あなたの体はあなたのエネルギーからできています。
Bしかし、食べ物を食べると、その食べ物には太陽のエネルギーも入っています。
SP私は例を示しているのです。私は食べ物を消化することによって幾らかのエネルギーを作り出しており、それが私の体を維持しています。もしエネルギーの供給が正しくないなら、あなたの体は弱くなったり不健康になったりします。あなたの体はあなた自身のエネルギーからできているのです。同様に、この巨大な天空の体、宇宙は、クリシュナのエネルギーからできています。どうやってそれを否定することができるでしょう。あなたの体があなたのエネルギーからできているように、同じく天空の体も誰かのエネルギーからできているに違いありません。それがクリシュナです。(長い沈黙あり)
Bそのことを理解するために考えてみなければなりません。
SP何が理解しにくいのですか?それは事実です。(プラブパーダ、笑う)あなたの髪は毎日伸びています。なぜでしょうか。それはあなたがいくらかのエネルギーを持っているからです。
B食べ物から得るエネルギーですね。
SP何らかの方法であなたはそのエネルギーを得たのです!そしてそのエネルギーを通してあなたの髪は伸びています。もしあなたの体があなたのエネルギーから作られているなら、同様に巨大な顕現全体は神のエネルギーで作られています。これは事実です。それはあなたのエネルギーではありません。
Bああ、はい、そうですね。
献身者ちょうど―――この宇宙にある惑星は太陽のエネルギー―――太陽のエネルギーの産物であるようなものですか?
SPそうです。しかし、誰がその太陽を作りましたか?それはクリシュナのエネルギーです。それは熱だからであり、クリシュナは「(サンスクリット引用)」とおっしゃいました。「熱、それは私のエネルギーである」太陽はクリシュナの熱するエネルギーを代表するものです。それはあなたのエネルギーではありません。あなたは「私が太陽を作りました」とは言えません。しかし、誰かがそれを作ったに違いありません。そしてクリシュナはご自分が作ったとおっしゃります。私たちはクリシュナを信じます。だから私たちはクリシュナ人なのです。
Bクリシュナ人?
SPそうです。私たちの知識は完璧です。もし私が熱はクリシュナのエネルギーだと言えば、あなたはそれを否定することはできません。それはあなたのエネルギーではないからです。あなたの体にはいくらかの量の熱があります。同様に、熱は誰かのエネルギーです。そして、その誰かとは誰でしょうか。それはクリシュナです。クリシュナは、「そう、それは私のエネルギーである」とおっしゃいます。だから私の知識は完璧です。最も偉大な科学者から知識を得ているので、私は最も偉大な科学者です。私は個人的には愚か者かもしれません。しかし私は最も偉大な科学者から知識を得るので、私も最も偉大な科学者なのです。私には難しいことはありません。
B何とおっしゃいましたか?
SP最も偉大な科学者から知識を得ているので、私は最も偉大な科学者になるのに何の苦労もありません。(長い沈黙あり)「この土、水、火、空気、エーテル、心、知性と自我―――これらは私の8つの離れたエネルギーである」
B「離れた」エネルギーですか?
SPそうです。この牛乳のようなものです。この牛乳は何ですか?牛の離れたエネルギーです。(シャーマスンダラとボブ、認識にショックを受けて笑う)そうではありませんか?これは牛の離れたエネルギーの顕現です。
Ss副産物のようなものですか?
SPそうです。
Bでは、このエネルギーがクリシュナから離れていることの特別な意味は何ですか?
SP「離れている」ということは、これが牛の体から作られているけれど牛ではない、ということです。それが離れているということです。
Bでは、この地球などすべてはクリシュナから作られたけれどクリシュナではないということですか?
SPクリシュナではありません。あるいは、クリシュナであり、同時にクリシュナでないと言うことができます。それが私たちの哲学です。一つであり、異なるのです。これらのものがクリシュナとは異なるとは言えません。クリシュナ無くしては存在し得ないからです。同時に、「では私は水を礼拝します。なぜクリシュナでなければならないでしょう」とは言えません。汎神論者は、すべては神なので私たちがすることは何であれ神の礼拝であると言います。これはマーヤーヴァーダ哲学です。すべては神からできているのですべては神である、というものです。しかし私たちの哲学は、すべては神であるけれど神でもない、というものです。
Bでは、地上にあって神であるものは何ですか?地上には神であるものはありますか?
SPあります。すべては神のエネルギーからできているからです。しかしそれは何でもいいから礼拝して神を礼拝していることになるわけではありません。
Bでは、地上にあってマーヤー(幻想)でないものは何ですか?それは―――。
SPマーヤーは「エネルギー」を意味します。
Bエネルギーを意味するのですか?
SPそうです。マーヤー―――そして、もう一つの意味は「幻想」です。愚かな人々はエネルギーをエネルギーの源泉として受け入れます。それがマーヤーです。太陽の光のようなものです。太陽の光が部屋に差し込みます。太陽の光は太陽のエネルギーです。しかし、太陽の光が部屋に入ってきたからといって、太陽が入ってきたとは言えません。太陽が入ってくれば、あなたの部屋とあなた自身と―――すべては消滅するでしょう。一瞬です。太陽が入ってきたと理解する余裕はありません。そうではありませんか?
Bその通りです。
SPしかし、太陽の光は太陽ではないとは言えません。太陽がなければ、どこに太陽光があるでしょう。だから太陽光は太陽ではないとは言えません。しかし同時にそれは太陽ではありません。それが私たちの哲学です。(サンスクリット引用)、理解不可能なのです。物質的な感覚では、何かが同時に肯定であり否定であるということは理解できません。そういうことは考えられないのです。それは理解不可能なエネルギーです。そしてすべてはクリシュナのエネルギーなので、クリシュナはご自身をどんなエネルギーからでも顕現させることができます。したがって、私たちが土や水や、そんなふうな何かから作った形でクリシュナを礼拝するとき、それはクリシュナなのです。それはクリシュナでないとは言えません。私たちがこの金属でできたクリシュナ(お寺にある神像)を礼拝するとき、それはクリシュナです。それは事実です。なぜなら金属はクリシュナのエネルギーだからです。したがってそれはクリシュナと異ならず、クリシュナはとても強大なので、ご自身を自分のエネルギーの中に完全に表すことができます。この神像礼拝は未開の異教ではありません。これは実際に神の礼拝です。仕組みが分かっていれば、ということですが。
B仕組みが分かっていれば神像がクリシュナになるのですか?
SPクリシュナになるのではありません。クリシュナなのです。
B神像はクリシュナであるが、仕組みが分かっている限りにおいてそうだということですか?
SPそうです。ちょうどこの電気ワイヤーのようなものです。これは電気です。仕組みを知っている者は、これから電気を得ることができます。
Ssそうでなければただの針金ですね。
SPただの針金です。
Bでは、もしも私がクリシュナの像を作れば、それは(仕組みを知らない限り)クリシュナではないのですね。。。
SPそれはクリシュナです。しかし、それがクリシュナであると理解する仕組みを知らねばなりません。それはクリシュナです。
Bただの土と泥ではないのですね。
SP違います。土はクリシュナ無くして独立した存在は持ちません。クリシュナは「私のエネルギー」とおっしゃいます。エネルギーをエネルギーの源泉から切り離すことはできません。それは不可能です。熱を火から切り離すことはできません。しかし火は熱とは異なり、熱は火とは異なります。熱を得ているとき、それは火を触っているということを意味するわけではありません。熱を放っているにも関わらず、火は独自の存在を保っています。同様に、クリシュナはその異なるエネルギーですべてを創造しているにも関わらず、クリシュナであり続けます。マーヤーヴァーディーの哲学者たちは、もしクリシュナがすべてであるならクリシュナの離れた存在性は失われる、と考えます。それは物質的な考え方です。例えば、この牛乳を少しずつ飲んで飲み干してしまうと、もう牛乳はありません。それは私のお腹に入ってしまったのです。クリシュナはそういうものではありません。クリシュナは万能です。私たちは彼のエネルギーを常に使っています。それでもクリシュナはそこに存在します。無数の子供たちを作っている人のようなものです。それでもその人は存在します。単純な例です。何百人もの子供を作ったからといって、その人がいなくなるわけではありません。同様に、神、すなわちクリシュナは、無数の子供がいるにも関わらず存在しています。
(サンスクリット引用)
「主は完全なる全体なので、たとえ主から無数の完全な固体が発しても完全なバランスを維持します」これがクリシュナ意識です。クリシュナは決していなくなりません。クリシュナはとても強大です。だから主はすべてを魅了するのです。これはクリシュナの一側面の表れです。同様に、主は無限のエネルギーをお持ちです。このクリシュナのエネルギーの研究は一側面、あるいは一部に過ぎません。したがって、このようにしてクリシュナの研究を続ければ、それがクリシュナ意識です。それは偽物ではありません―――「多分」、「おそらく違う」、などではないのです。完全に、全くそうなのです。
Ssそして、研究そのものは決して終わりませんね。
SP終わりません。どうして終われるでしょう。クリシュナは無限のエネルギーをお持ちなのです。

第2章
「ヴェーダ文化」 1972年2月28日

ボブ(以下、B)私は献身者たちにセックスについてどう思うか尋ねました。彼らがどう感じているかは分かりますが、しかし私は自分が同じようにしているところを想像できません。私はこの夏の終わりに結婚するのです。
スリラ・プラブパーダ(以下、SP)それで?
B私はこの夏の終わりに、8月か9月にアメリカに帰ったときに結婚します。そして、献身者たちは家庭人は子供を作るためだけにセックスをするというのですが、私は自分がそんなふうにしているところを全く想像できません。そして―――物質世界に生きていて、人はどんな性生活を送れるのでしょう。
SPヴェーダの基本理念は、人は完全に性生活を避けるべきであるというものです。ヴェーダの理念の全体は物質的な呪縛から自由になることです。物質的な快楽に対する異なる執着が存在しますが、その中でも性生活は最大の快楽です。バーガヴァタムにはこの物質世界について以下のように書かれています。(サンスクリット引用)男は女に執着し、女は男に執着します。人間の社会だけではなく、動物の社会でも同じことです。その執着が物質的な生活の基本理念です。だから女は男との関わりを探し求め、男は女との関わりを探し求めます。すべての小説やドラマや映画や、普通に目にする広告なども、単に男と女の間の執着を描写しています。仕立て屋のショウウィンドウにさえも男と女の姿があります。(サンスクリット引用)この執着はすでに存在するのです。
B男と女の間の執着ですか?
SP男と女です。だからもしあなたがこの物質的な世界から自由になりたいなら、その執着を無になるまで減らさなければなりません。そうでないと、単に執着が増えるばかりです。あなたはまた生まれ変わらなければなりません。それは人間かもしれず、半神、動物、蛇、鳥、野獣、、、そういう可能性もあるのです。生まれ変わらねばならないのです。執着を増やすというこの基本理念は、一般的な傾向ではありますが、私たちとは関係のないものです。家、土地、子供。。。しかし、もし人がこれを減らし、止めることができるなら、それが一流です。したがって、私たちのヴェーダの仕組みとは、まず最初に男の子をブラーマチャーリー、全く性生活のない学生として訓練することです。ヴェーダの理念は執着を減らすことであり、増やすことではありません。だからシステム全体がヴァルナースラマ・ダーマと呼ばれます。インドのシステムはヴァルナとアースラマ、すなわち4つの社会階層と4つの霊的な階層から成ります。ブラーマチャリャ(性生活をしない学生生活)、グリハッサ(結婚生活)、ヴァーナプラッサ(引退生活)そしてサンニャーサ(放棄生活)、これらが霊的な階層です。そして社会的な階層はブラーマナ(知識階級)、クシャトリヤ(管理階級)、ヴァイシャ(商業と農業階級)、シュードラ(一般労働者階級)です。この仕組みの下では、規律となる理念は大変素晴らしく、たとえ物質的な生活を楽しもうという傾向の強い人であっても上手に導かれて、最終的には解放されて言えに、至高神のもとに帰ることができるようになっています。これが仕組みなのです。性生活は必要とされませんが、私たちはそれに執着しているので、いくらかの規律的な理念のもとでそれは維持されているのです。(どこか離れたところでチャンティング{集団で歌いながらマントラを唱えること}が始まり、エキゾチックなムリダンガ・ドラムの音が笑い声と高らかな角笛の音に混じって響いてくる)
SPシュリマッド・バーガヴァタムには次のように述べられています。(サンスクリット引用)この性生活は物質的な生活の基本理念です。男や女への執着です。そして彼らが結びつくとき、つまり男と女が結びつくとき、その執着は増大し、その増大した執着によって人はグリハ(家)、クシェトラ(土地)、スタ(子供)、アープタ(友情や社会)とヴィッタを蓄積しようという気持ちが湧きます。ヴィッタはお金を意味します。このようにして(サンスクリット引用)、人は絡まっていくのです。(サンスクリット引用)、これは幻想です。そしてこの幻想によって人は(サンスクリット引用)、「私はこの体であり、この体に関わるすべては私のものである」と考えます。
B何とおっしゃいましたか?
SPこの執着が増大します。物質的な生活には、「私はこの体である、そして私はこの体を特定の場所で得たので、それは私の国である」という考えが伴います。そしてそれは続いていきます。「私はアメリカ人だ、私はインド人だ、私はドイツ人だ、私はあれだ、私はこれだ―――この体だ。これは私の国だ。私は私の国と社会のためにすべてを犠牲にしよう」このようにして幻想は増大します。そしてこの幻想のもとで、人は死ぬと次の体を得ます。それはより優れた体であるかもしれず、劣った体であるかもしれません。その人のカルマによるのです。もしその人がより優れた体を得れば、それもまた呪縛です。たとえ天国のような惑星に行ってもです。しかし、もしも犬や猫になれば、その人の人生は失われます。あるいは木かもしれません。そういう可能性は大いにあるのです。この科学は世の中に知られていません。魂がどのようにしてある体から別の体で移り渡っていくか、そして魂がどのようにして異なる種類の体に閉じ込められるか、というようなことです。この科学は知られていません。したがって、アルジュナが「もし私が敵方にいる兄弟や祖父を殺せば。。。」と語っていたとき、彼は単に生命の身体的な概念に基づいて考えていたのです。しかし彼の問題が解決し得なかったとき、彼はクリシュナに屈服し、彼を霊的な指導者として受け入れました。そしてクリシュナが彼の霊的指導者になったとき、主はまずアルジュナを叱りました。(サンスクリット引用)「あなたは学識ある者のような口を利いているが、愚か者の代表だ。生命の身体的な概念について話しているからだ」この性生活は生命の身体的な概念を増大させます。したがって、仕組み全体はそれを無にまで減少させるためにあるのです。
B人生の段階に添って減らしていくのですか。
SPそうです。減らすのです。男の子は25年間まで性生活を規制して学生として訓練されます。これがブラーマチャーリーです。そして彼らの一部はナイシュシカ・ブラーマチャーリー(生涯性生活を避ける者)であり続けます。彼らは教育を受けており、霊的な知識に完全に精通するようになるので、結婚したいと思わないのです。これもまた規制されています。結婚しないで性生活をすることはできません。だから人間社会には結婚があり、動物の社会にはありません。しかし人々は徐々に人間の社会から動物の社会へと下降しつつあります。彼らは結婚を忘れつつあるのです。それもサーストラで予言されています。(サンスクリット引用)
カリユガ(現在の争いの時代)では徐々に結婚の儀礼は行われなくなるでしょう。若い男女は単に一緒に住むことに同意し、彼らの関係は性的な力に基づいて存在します。もしも男か女が性生活において欠陥があれば、彼らは別れます。この哲学についてフロイドなどの多くの西洋の哲学者がたくさんの本を書いています。しかしヴェーダ文化によれば、私たちは子供を作るためだけに性生活に関心を持ちます。それだけです。性生活の心理学を研究するためではありません。それに関してはすでに自然な心理学があるのです。たとえ一冊の哲学書も読まなくても、人は性的なのです。誰も学校や大学で教わったりしません。皆がすでにどうやってするか知っているのです。(プラブパーダ、笑う)それが自然な傾向です。しかし、それを止めるために教育がなされるべきです。それが本当の教育です。(長い沈黙あり。自転車のホーンの音、子供が遊ぶ声、群集がお互いを呼ぶ声が聞こえる)
B現在、アメリカではそれは革新的な概念ですね。
SPそうですね。アメリカでは改革を必要とすることがたくさんあり、このクリシュナ意識運動はそれをもたらします。私はあなたの国に行き、若い男女が友人同士のように住んでいるのを見ました。だから私は私の生徒たちにこう言いました。「あなたたちは友人として一緒に住んではいけません。あなたたちは結婚しなければなりません。」
B多くの人々が、結婚でさえ神聖でないと考えています。だから彼らは結婚したいという意欲を持ちません。人々は結婚し、もし物事がうまくいかないといかにも簡単に離婚するからです―――
SPそれもまたその通りです。
B―――だから結婚することは無意味だと考える人たちもいます。
SPそうではありません。彼らの考える結婚は合法的な買春だというものです。彼らはそのように考えますが、結婚とはそういうものではありません。あのキリスト教徒の新聞でさえ―――何といいましたか、「ものみの。。。」
Ss「ものみの塔」ですか?
SP「ものみの塔」です。その新聞では、ある神父が二人の男性の間の結婚を許したことを非難していました。同性愛です。このようなことがいろいろ起こっているのです。彼らは純粋に買春のために結婚するのです。それだけです。だから人々はこう考えます。「こんなに莫大な出費をしてまで専用の売春婦を囲う意味があるだろうか。ないほうがいい。」
Ss牛と市場の例もお話しになりましたね。
SPそうです。市場に牛乳があるなら、牛を飼う意味があるでしょうか。(皆、笑う)この西洋の国々は大変忌まわしい状態にあります。私は見ました。ここインドにもそれは徐々に忍び寄っています。だから私たちは霊的な生活の重要な理念について人々に教育を施すためにこのクリシュナ意識運動を始めました。これは特定の宗教運動ではありません。すべての人々の利益のための文化的な運動なのです。

第3章
「人生の本当の目的地」1972年2月28日(続き)

スリラ・プラブパーダ(以下、SP)この運動は特に人間が人生の本当の目的地にたどり着けるようにするためにあります。
ボブ(以下、B)何の本当の目的地ですか?
SP人生の本当の目的地です。
B人生の本当の目的地は神を知ることですか?
SPそうです。家へ帰ること、至高神のもとへ帰ることです。それが人生の本当の目的地です。海から来る水は雲を形作り、雲は雨として降り、本当の目的地は川を下って再び海に戻ることです。私たちは神から来て、今は物質的な人生によって辱めを受けています。したがって私たちの目的はこの屈辱的な状況から抜け出して家に帰ること、至高神のもとに帰ることであるべきです。これが人生の本当の目的地です。(サンスクリット引用)「私のもとに至った後は、献愛深いヨギである偉大なる魂は決してこの惨めさに満ちた一時的な世界に戻ることはない。なぜなら彼らは最も高い完成を得たからである。」これがバガヴァッド・ギーターの教えです。「もしも私のもとに至れば、誰であれ(サンスクリット引用)」その人は再び戻ってくることはありません。どこに?この場所にです。(サンスクリット引用)この場所は惨めさの住む場所です。誰もが知っていますが、彼らはいわゆる指導者たちに騙されているのです。物資的な人生は惨めな人生です。クリシュナは、神は、この場所は(サンスクリット引用)、惨めさの場所だとおっしゃいます。そしてまた、(サンスクリット引用)、一時的でもあります。妥協することはできません。「分かりました。惨めなままで構いません。私はここにアメリカ人なりインド人なりで存在しつづけましょう」いいえ、それはできないのです。人はアメリカ人であり続けることはできません。アメリカに生まれたことで、あなたは自分はとても幸せだと思うかもしれません。しかしかなたはアメリカに長く留まることはできません。あなたはやがてその場所から追い出されねばならないのです。そしてあなたの次の人生は、それはあなたには分からないのです。したがって、それは(サンスクリット引用)、惨めで一時的なのです。それが私たちの哲学です。
Bしかし、神に関するいくらかの知識を持っていれば、人生はそう惨めではないのではありませんか?
SPいいえ!幾らかの知識では役に立たないのです。あなたは完璧な知識を持たなければなりません。(サンスクリット引用)
タットヴァターとは、「完璧に」を意味します。完璧な知識はバガヴァッド・ギーターの中で教えられています。だから私たちは人間の社会のすべての人にバガヴァッド・ギーターをありのままに学んで人生を完璧にする機会を与えているのです。それがクリシュナ意識運動です。あなたの科学は魂の移り渡りについて何と言っていますか?
B私は。。。科学は。。。それを否定することも肯定することもできないのだと思います。科学には分からないのです。

SPだから私は科学は不完全であると言います。
Bしかし、科学で説明できることもあるかもしれません。科学ではエネルギーは決して滅びず変化するのだといいます。
SPそれはよろしいです。しかし、エネルギーが未来においてどう働いているか―――それは科学には分かりません。エネルギーはどのように転換されますか?異なる力を加えられることで、エネルギーはどのように異なる動きをしていますか?例えば、電気です。異なる取り扱い方によって、それは暖房器具を動かし、冷蔵庫も動かしています。これらは全く正反対ですが、電気は同じです。同様に、このエネルギー、生きたエネルギーは、どのように指揮されていますか?どの方向に向かっていますか?来世においてどのように結実しますか?彼らにはそれは分かりません。しかしバガヴァッド・ギーターではそれは次のように明白に述べられています。(サンスクリット引用)
あなたはシャツなどの衣類で覆われています。このシャツが使い物にならなくなったら、取り替えます。同様に、この体はちょうどシャツやコートのようなものなのです。使い物にならなくなったら取り替えねばなりません。
B変わらなければならない「私たち」とは何ですか?変わらないものは何ですか?
SPそれは魂です。
B一つの人生から次の人生へですか?
SPそれが魂―――私です。どの「あなた」が喋っているのですか?あなたです!どの「私」が喋っているのですか?自己認識(アイデンティティー)、アートマー、すなわち魂です。
B私の魂はあなたの魂とは違うのですか?
SP違います。あなたは独自の魂であり、私も独自の魂です。
Bあなたはカルマの影響から退かれました。もし私もそうすれば、私たちの魂は同じになりますか?それとも異なりますか?
SPどの魂も、すべてにおいて同じ性質を持っています。あなたは現在、人生に対してある特定の概念を持っています。あなたと同郷のこれらの人々は(クリシュナ意識の献身者たちを指して)それぞれ別の特定の概念を持っていました。しかし、訓練によって彼らは異なる概念を持つに至りました。至高の訓練とは、クリシュナ意識になるための訓練です。それが完成です。
Bもし二人の人がクリシュナ意識であれば、彼らの魂は同じですか?
SP魂はいつも同じです。
Bそれぞれの人においてですか?どの人においても同じなのですか?
SPそうです。
B(二人の献身者を指して)もしこれらの二人がクリシュナ意識であれば、彼らの魂は同じですか?
SP魂は同じですが、常に独自です。たとえクリシュナ意識でなくてもです。例えば、あなたは人間で私も人間です。たとえ私がクリスチャンでなくても、たとえあなたがヒンズー教徒でなくても、それでも私たちは人間です。同様に、魂はクリシュナ意識であるかもしれず、ないかもしれません―――それは関係ないのです。しかし魂は魂です。
Bもっと詳しくお話ししてくださいませんか?
SP魂は―――純粋な霊として、すべての魂は平等です。動物においてもです。だから、(サンスクリット引用)と言われています。本当に知識のある者は外側の覆いを見ない、それが人間であっても動物であっても、という意味です。
Bこのことについてもう一つお尋ねしてもよろしいですか?
SPどうぞ。
B私は魂を何となく神の一部のようなものだと考えていました。時々、私は自分が神を感じていると思います。私はここにいて、あなたは神もここにおいでになるとおっしゃるかもしれません。ですから、もし魂が私の内側にあるなら、それなら私は神を自分の内部に感じ得るべきですか?神全体ではなく、つまり、ただ。。。
SP神の一部ですか?
Bでも、私は神を自分の中に感じないのです。でも神は離れて―――私から離れてここにおいでかもしれません。しかし、私は神を自分の内部に感じ得るべきですか?私の魂は神の一部なのですから。
SPそうです。神は内にもいらっしゃいます。神はどこにでもいらっしゃるのです。神は内にも外にもいらっしゃいます。これを知らねばなりません。
Bどうやったら神を内に感じることができますか?
SP初めは感じられないかもしれませんが、聖典(サーストラ)から、つまりヴェーダの情報から知らねばなりません。例えば、バガヴァッド・ギーターには(サンスクリット引用)、神はすべての者の心臓においでになる、また、(サンスクリット引用)、神はすべての原子の中にもいらっしゃるとも書かれています。つまり、これが最初の情報です。それからヨガのプロセスによってこれを認識しなければなりません。
Bヨガのプロセスですか?
SPそうです。
B ハレ・クリシュナを唱えるのはそのようなヨガのプロセスですか?
SPそうです。それもヨガのプロセスです。
B見つけるために―――この情報を感じるために―――内なる魂を感じるために―――私はどんなヨガのプロセスを取らねばなりませんか?
SPヨガのプロセスはたくさんありますが、今の時代にはこのプロセスはとても良いものです。
Bマントラを唱えることですか?
SPそうです。
Bこれを通して外なる神だけでなく内なる神も感じることができるのですか?
SPあなたは神のすべてを理解することができます―――神がどのように内にいらっしゃるか、神がどのように外にいらっしゃるか、神がどのような働きをしていらっしゃるか。すべてが明かされます。このような奉仕の態度によって、神はご自身を明かして下さいます。自分の努力で神を理解することはできません。神がご自身を明かしてくださることで初めて理解できるのです。例えば、夜になって太陽が見えないときは、松明や他のどんな明かりを使っても見つけることはできません。しかし朝になると松明などの明かりはなくても自動的に太陽を見ることができます。同様に、あなたは神が明かされるような状況を作り出さねばなりません―――自分をそのような状況に置かねばならないのです。何らかの方法によって神に「お会いしますので来てください」と頼めるようなものではありません。違います。神はあなたの命令を聞くための方ではありません。
B人は神がご自身を明かしてくださるように神を喜ばせねばならない、ということですか?
SPそうです。
Ss私たちが神を喜ばせているということを、どうやって知ることができますか?
SP神を見るときです。そうすれば理解できます。ちょうど食べ物を食べるときのようなものです。力を感じているかどうか、空腹が満たされたかどうか、誰かに聞いてみる必要はありません。食べれば自分がエネルギーを感じていることを理解できるのです。誰に尋ねる必要もありません。同様に、もしあなたが実際に神に奉仕すれば理解できるでしょう。「神が私に指図をしてくださっている、神はそこにいらっしゃる、私は神を見ている」
献身者あるいは、神の代理人を。
SPそうです。
献身者そっちの方が簡単です。
SP神の代理人を通さねばなりません。(サンスクリット引用)「霊的指導者の恩情によって、人はクリシュナの恩情という恩恵にあずかることができる」神の代理人を喜ばせれば、神は自動的にお喜びになり、そうやってあなたは直接神を見ることができます。
インド人の紳士神の代理人を喜ばせるにはどうしたらいいのですか?
SPその人の命令を実行しなければなりません。それだけです。神の代理人がグルです。グルはあなたに、あれをしてくれ、これをしてくれ、と頼みます―――もしあなたがそれをするなら、それが喜ばせることになります。(サンスクリット引用)「霊的指導者の恵みなくしては、人は何らの前進もできない」もしあなたがグルの不興を買えば、あなたはどこにも行けません。だから私たちはグルを崇拝するのです。(サンスクリット引用)「霊的指導者は主の最も親しい従者であるため、至高主と同じくらいの名誉を与えられねばなりません。これはすべての明かされた聖典によって確認されており、すべての権威者がこれに従っています。したがって、私は主クリシュナの真正なる代理人であるそのような霊的指導者たちの蓮の御足に尊敬を込めて服従の念を捧げます」グルは主として受け入れられるべきです。それが全てのサーストラの命令です。
Bグルは神の代理人として受け入れられるべきなのですか?
SPそうです。グルは神の代理人です。グルはクリシュナの外的な顕現です。
Bしかし、地上においでになるクリシュナの化身とは違うのですか?
SP違います。
Bグルの外的な顕現は、例えばクリシュナやチャイタンニャが地上においでになるときの外的な顕現とはどのように違うのですか?
SPグルはクリシュナの代理人です。ですから、グルである者の特徴があります。一般的な特徴はヴェーダに描写されています。(サンスクリット引用)グルは師弟継承に連なる者でなければなりません。そして自身の霊的指導者からヴェーダについて完全に聞いていなければなりません。一般的にグルの特徴は完璧な献身者であるということ、それだけです。そしてグルはクリシュナのメッセージを伝道することで主に仕えます。
B主チャイタンニャ―――あの方はあなたとは違うタイプのグルだったのですか?
SPそんなことはありません。グルには異なるタイプなどありません。どのグルも同じタイプです。
Bしかし主チャイタンニャは―――主は同時に化身でもあられましたか?
SPそうです。クリシュナ御自身です。しかし主はグルの代理でいらっしゃいます。
Bそう、、、そうですか。
SPそうです。
Bでは、それでは、、、
SPクリシュナは神であられたので、次のように要求なさいました。(サンスクリット引用)「すべての種類の宗教を捨て、ただ私に服従しなさい」しかし人々は主を誤解しました。だからクリシュナは再びグルとしておいでになり、人々にどうやってクリシュナに服従するかを教えてくださいました。
Ss神はバガヴァッド・ギーターにおいて「私は霊的指導者である」とおっしゃいませんでしたか?
SPそうです。アルジュナによって霊的指導者として受け入れられたので、主は最初の霊的指導者です。何の難しいことがあるでしょうか。アルジュナは主に言いました。「私はあなたの弟子であり、あなたに服従した魂です。どうぞ私を教え導いてください」主が霊的指導者でないなら、どうしてアルジュナが弟子になるでしょう。主は最初のグルです。(サンスクリット引用)「最初の創られた者ブラーマーの心に最初のヴェーダの知識を授けたのは、ただ主のみです」したがって主は最初のグルです。
Bクリシュナですね。
SPそうです。クリシュナが最初のグルです。そして主の弟子であるブラーマーがグルであり、その弟子ナーラダがグルであり、そしてその弟子ヴャーサがグルであり―――このようにして―――(グルの師弟継承が)存在するのです。(サンスクリット引用)超越的な知識は師弟継承によって受け継がれます。
Bではグルは知識をクリシュナから直接ではなく師弟継承によって受け取るのですか?あなたはクリシュナから直接いくらかの知識を受け取りますか?
SPはい。クリシュナの直接的な指示はここにあります。バガヴァッド・ギーターです。
Bそれは分かりますが、しかし、、、
SPしかし、あなたはそれを師弟継承を通して学ばなければなりません。そうでないと誤解するでしょう。
Bしかし今はクリシュナから直接情報を受け取らないのですか?それは書物から師弟継承を通して来るのですか?
SP違いはありません。例えば、私がこれは鉛筆だと言うとしましょう。もし私が彼に「そこに鉛筆があります」と言い、彼が他の人に「これは鉛筆です」と言えば、彼の教えと私の教えることに何の違いがあるでしょう。
Bクリシュナの恵みによって今これを知ることができるのですか?
SPあなたもクリシュナの恵みを受けることができます。ただし、それがありのままに伝えられていれば。私たちがバガヴァッド・ギーターを教えているようなものです。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは次のようにおっしゃいます。(サンスクリット引用)「単に他のいろいろな形の宗教をすべて捨て、ただ私に服従しなさい」今、私たちはあなたが全てを捨ててクリシュナに服従すべきだと言います。だからクリシュナの教えと私たちの教えには何の違いもありません。全然脇に逸れていないのです。ですからもしもあなたがそのような完璧な方法で知識を受け取れば、それはクリシュナから直接に教えを受け取るのと同じくらい良いものなのです。しかし私たちは何の料金も取りません。
B私が恭しく信仰をもって祈れば、クリシュナは聞いてくださいますか?
SPはい。
B私たちから神へ、ですか?
SPそうです。主はあなたの内においでなので、いつもあなたを聞いておられます―――祈ろうが、祈るまいが。あなたが何か下らないことをしていても、主は聞いていらっしゃいます。そしてあなたが祈れば、それはとても良いこと―――喜んで受け取られます。
Bクリシュナの耳には、祈りは下らないことよりも大きく聞こえますか?
SPいいえ。主は完全に完璧です。すべてを聞くことがおできになります。たとえあなたが話さなくても、単に「私はこうしよう」と思っただけでも、主はあなたを聞いていらっしゃいます。(サンスクリット引用)クリシュナはすべての者の心臓に座しておいでです。
Bしかし人は祈るべきである―――そうなのですか?
SP祈ること―――それが仕事です。
B誰の仕事ですか?
SPすべての生命体のです。それが唯一の仕事です。(サンスクリット引用)それがヴェーダに述べられていることです。
Bそれはどういうことですか?
SP神はすべての者にすべての物を供給なさいます。主はすべての者に食べ物をお与えになります。だから神は父です。ではなぜ「父よ、私にこれを下さい」と祈るべきでないことがあるでしょうか。キリスト教徒の聖書に「父よ、私たちに毎日の糧を下さい」と書いてある通りです。それは良いことです。彼らは至高の父を受け入れています。しかし、大人になった子供たちは父に物をねだるものではありません。むしろ父のお役に立てるように心構えをしておくべきなのです。それが献愛です。
B私の疑問をあなたは見事に解決してくださいました。(皆、愛情を込めて笑う)
SPそれはどうもありがとうございます。
Bそれで、今もう一つお尋ねしてもよろしいですか?
SPええ、もちろんです!

第4章 自然の3つの相
1972年2月28日(続き)

B人生には3つのグナ―――熱情、無明と徳―――があると読んだことがあります。このことについて少し説明していただけないかと思うのです。特に無明の相と徳の相の意味について。
SP徳では物事を理解することができます―――知識です。神が存在すること、この世は主によって作られたこと、たくさんのこと、本当のこと―――太陽はこうで、月はこうで―――ということが分かります。完璧な知識です。もし人がいくらかの知識を持っていれば、たとえ完璧でなくてもそれは徳です。そして熱情では人は体を自分だと思い、感覚を満足させようとします。それが熱情です。そして無明は動物の暮らしです。無明にあっては、神とは何であるか、どうすれば幸せになれるか、なぜ私たちがこの世界にいるのか、ということが分かりません。例えば、動物を屠殺場に連れて行こうとすると、それは行きます。これは無明です。しかし人間は抵抗します。5分後に殺されることになっている山羊に一握りの草をやると、それは食べているので幸せです。子供のようなものです。たとえあなたがその子を殺そうと思っていても、無邪気なので幸せで笑っています。それは無明です。
Bこれらの3つの相にいることがその人のカルマを決める、これは本当ですか?
SPそうです。自然の相との関わり様によって、人の活動は汚染されます。(サンスクリット引用)グナ、すなわち自然の相との関わり様によって、人は高い生や低い生を受けます。
Bでは、騙すことなどは―――どの相ですか?
SP騙すことは熱情と無明の混在です。ある人が別の人を騙すとしましょう。それは彼が何かを得たいと思っていることを意味します。彼は熱情に動かされています。しかし、もし彼が人を殺せば、彼はそのことで苦しまねばならないことを知らないので、それは熱情と無明の混在です。
Bでは、誰かが他の人を助ける場合はどうですか?
SPそれは徳です。
Bなぜそれが徳なのですか?それはどのような知性なのですか?つまり―――それは何の知識の表れなのですか?徳は知識を持っていることだとおっしゃいましたね。
SPはい。
B知性ですね。
SPそうです。
Bでは、誰かを助けることは?
SPそれはその誰かは無明であり、あなたはその人を啓蒙しようとしていることを意味します。
Bでは、知性を与えることは、、、
SPそうです。それは徳です。
Bでは単に手助けをすることは?
SPそれもまた徳です。
Bもしも物乞いの人が何も持っていなくて、誰かが施しをすれば、、、
SPそれもまた徳であるかもしれません。しかしあなたの国のバウアリー通りでは、誰かがいくらかの施しをすると、物乞いの人は直ちに酒を買って飲み、地面に寝そべっています。(皆、笑う)それは慈善ではありますが、徳ではありません。無明です。
B慈善が無明なのですか?
SP慈善には3つの種類があります―――徳、熱情、無明です。徳は慈善が与えられるべき場所に与えることです。このクリシュナ意識運動などです。誰かがこの運動に施しをすれば、それは徳です。この運動は神意識、クリシュナ意識を広めているからです。それは徳です。そしてもし人が何かの見返りを求めて施しをすれば、それは熱情です。そして人が正しくない場所と時に、尊重の念なく、そしてバウアリー通りの人のような施しに値しない人に施しをすれば、それは無明です。しかし、クリシュナはおっしゃいます。(サンスクリット引用)
「あなたのすること、食べるもの、捧げるもの、与えるもの、そして行う苦行のすべては、私への捧げ物としてなされるべきである」もしクリシュナがお受け取りくだされば、それは施しの完成です。あるいはクリシュナの代理人である誰か―――もしその人が受け取れば、それは完成です。
Bでは、お腹を空かせた人に食べ物を与えるのはどのような慈善ですか?
SPそれは状況によります。例えば、医者がある人に固形物を食べるのを禁じたとします。そしてその患者が「固形物をください」というのに答えてあなたが固形物を与えれば、それはその人のためになりません。それは無明です。
B献身者たちはもはやカルマを積み重ねないのですか?ここにいる献身者たちは―――彼らはカルマを感じますか?彼らはこれらの相の中で働くのですか?彼らは徳の相の中にいるのですか?
SP彼らは徳を越えたところにいます!―――献身者たちはこの物質世界にはいません。彼らは霊的な世界にいるのです。それはバガヴァッド・ギーターに述べられています。(サンスクリット引用)「いかなる状況にあっても堕落せず完全な献愛奉仕にいそしむ者は、ただちに物質自然の相を超越してブラーマンの水準に至る」献身者たちは徳にも熱情にも無明にもいません。彼らはこれらすべての性質を超越しています。
Bとても信仰の篤い献身者はこの段階に達するのですか?
SPそうです。献身者、、、彼らのようにあなたも献身者になることができます。難しくはありません。単に主への超越的な献愛奉仕にいそしめばよいのです。それだけです。
B私はもっと神に関する知識を増やしたいし、神の存在をもっと感じたいと思います。その理由は、それなくしては人生にはほとんど意味がないと感じるからです。
SPそうです!もしあなたがこの人間の形の人生を失えば、それは大きな損失です。これは物質的な存在の呪縛から逃れるために生命体に与えられた大きな機会なのです。
B私はこれらの質問をすることができたことを感謝しています。
SPそうです。あなたはもっともっと学ぶことができます。
Bしかし私はまだ、、、家に繋がりがあります。結婚は、、、私は婚約しているのです、、、
SPいいえ、構いません。結婚している人はたくさんいます。(シャーマスンダラを指して)彼は結婚しています。結婚は障壁ではありません。私はあなたに霊的な人生には4つの段階があるとお話ししました。ブラーマチャーリー、グリハスタ、ヴァーナプラスタ、そしてサンニャーサです。ブラーマチャーリーの生活の後は結婚することができます。そして結婚の後はヴァーナプラスタの生活です。これは人が家族から少し距離を置くということを意味します―――夫と妻は別々に住むのです。このときには性生活はありません。そして完全に家庭生活を離れて俗世を放棄するとき、その人はサンニャーサとなります。
Bその人は、その時は妻を完全に忘れるのですか?
SPそうです。忘れようと思えば、忘れることはあまり難しくありません。見えなくなると心からも消えます。(皆、笑う)ちょうど私に妻がいて子供がいて孫がいるようなものです。すべてがありますが、見えなくなると心から消える、それだけです。したがって、(サンスクリット引用)、すべてはヴェーダのシステムによって具合良く整えられています。

第5章 純粋になる
1972年2月29日

B質問することをお許しくださいましてありがとうございます。
SPそれが私の使命です。人々は神の科学を理解すべきです。至高主に協力しなければ、私たちは人生で道に迷ってしまいます。私は何度も機械から外れたネジは何の価値もないという例を使いました。しかし、同じネジが再び機械に取り付けられれば、それは価値を持ちます。同様に、私たちは主の欠かすべからざる一部です。神なくして私たちに何の価値があるでしょう。何もありません!私たちは再び神に付属した位置に戻るべきです。そうすれば私たちには価値があります。
B今日の午後、訪問してきた人に会いました。彼が来た理由は―――滑稽だと思われるかもしれませんが―――彼はマーヤープールにヒッピーたちがいると聞いたのです。
SP何ですか?
B彼はマーヤープールにヒッピーたちがいると聞いたのです。私は彼と話していて、それから何人かの献身者たちも彼と話していました。彼が言ったことのいくつかに対して、私は答えを見つけることができませんでした。彼はあしたまたやってきて何人かの献身者たちに会うと言いました。しかし、彼が言ったことを聞いてください。ややこしいのです。彼は若いとき―――
SPその人はインド人ですか?
Bそうです。インド人です。近くに住んでいて、かなり上手に英語を話します。彼は若いとき毎日厳格にカーリー(人気のある女神)を崇拝していました。そしたら洪水が起こりました。洪水が来ると人々は苦しみ、今では彼は宗教を持たず、人々の間で愛を育もうとすることに幸せを見出すと言います。そして私は彼の人生に神と宗教を加えることについて、言うべきことを見つけることができませんでした。彼は死んだら「もしかしたら神の一部になるかもしれないし、そうじゃないかもしれない」、でも今はそのことについて思い煩うことはできない、と言います。彼はこういう宗教的な経験を試みてみたけれど効果がなかったと言います。このことをお尋ねする一つの理由は、アメリカに帰ると私の出会うたくさんの人々がこんなふうだからです。彼らは、宗教は、彼のカーリーの崇拝や彼らが経験した他の種類の宗教は、効果が無いと見なすのです。そして私は彼らにそれは試みる価値があると説き伏せるために何と言えばいいのか分からないのです。
SP今は試みてはなりません。あなたは自分自身が納得するように努力しなさい。
Bはい、私は彼に献身者たちに会うように頼みました。でも彼が帰りかけていたときにもう一度会って、私は「戻って来てください」と言い、でも、、、ああ、そうか。
SPまずあなた自身が納得せねばなりません。それから他の人たちを納得なせようとしなさい。チャイタンニャ・マハープラブの教えは、人は自分自身の人生が成功しているときに他者の人生を向上させることができるというものです。(サンスクリット引用)まずあなたの人生を完璧なものにしなさい。それから他の人に教えようとしなさい。
B献身者たちは、いつもクリシュナを意識していなければ幸せになれないと言いました。しかし私は時々幸せだと感じます。
SP時々であって、いつもではないのですね。
Bそうです。
SPしかしもしあなたがクリシュナ意識になれば、いつも幸せに感じるでしょう。
B彼らはクリシュナ意識無しでは幸せに感じることはできないとほのめかすのです。
SPそれは事実です。例えば、もしあなたが陸の動物であって水中に投げ入れられれば、どんな状態でも水中では幸せではありえません。もういちど陸上に引き上げられると幸せになります。同様に、私たちはクリシュナの欠かすべからざる一部です。私たちはクリシュナの一部でなければ幸せであることはできません。同じ例を挙げましょう。機械の一部は機械がなければ何の価値もありません。しかしそれが再び機械に取り付けられれば価値が出ます。私たちはクリシュナの一部です。私たちはクリシュナに加わらなければなりません。そしてあなたは意識によって直ちにクリシュナに加わることができます。単に「私はクリシュナのもの、クリシュナは私のもの」と考えればよいのです。それだけです。
B何とおっしゃったのですか?クリシュナは、、、
SPクリシュナは私のもの。
B私のもの?
SPそうです。私のもの。私のクリシュナ。
Bああ。
SPクリシュナは私のもの。クリシュナは私のもの。
Bはい。
SPそしてクリシュナは私のものです。それが私たちの本当の立場です。
B私たちはクリシュナの一部なのですね。
SPそうです。すべてのものはクリシュナの欠かすべからざる一部です。すべてのものはクリシュナのエネルギーによって形成されていて、すべてのものはクリシュナのエネルギーであるからです。
インド人の紳士スリラ・プラブパーダ、一つ質問があります。献愛の念のない奉仕とはどのように位置付けられますか?
SPふむ。それは奉仕ではありません。取引です。(皆、笑う)例えば、ここマーヤープールでは私たちは契約労働者を雇いました。それは奉仕ではありません―――取引です。そうではありませんか?時々、「お客様は私たちのご主人様です」と広告しているのを見かけます。そうでしょう?しかし、そういう甘い言葉とは裏腹に、これは取引なのです。支払いをしない限り、誰もお客としての資格がないからです。しかし、奉仕とはそういうものではありません。チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナに次のように祈られます。(サンスクリット引用)「あなたは何であれお好きなようになさってください。それでもあなたは私の崇拝する主です」それが奉仕です。「私はあなたから何の見返りも求めません」それが奉仕です。見返りを期待するとき、それは取引です。
Bどうしたら神をもっと身近に感じられるか、助言を頂きたく思います。私はもうすぐここを去ります。そして私は―――
SPあなたは清められなければなりません。
B私は時々お寺に来て、それから帰りますが、それでどれくらい(教えを)自分のものにしているのか分からないのです。
SP長い時間はかかりません。6ヶ月の内にあなたは自分の進歩に気づくでしょう。しかし、規律的な原則に従わねばなりません。そうすれば大丈夫です。ちょうどこの若者たちや娘たちがしているように。
Bはい、分かります。
SP彼らには映画やホテルに行こうという傾向はありません。ないのです。彼らは全てのアナルサ、すべての不要なものを止めたのです。
B私は感じるのです―――帰ったら、みんなが―――
SP人間の人生のすべては清めのためにあります。
Bはい。
SP(サンスクリット引用)サットヴァは存在を意味します。存在を清めなければ体を替えなければなりません。この体から別の体へです。それは今の体より高い場合もあり、低い場合もあります。例えば、もし病気を治さなければ、それはあなたをいろいろに苦しめるでしょう。同様に、もしあなたが自分の存在を清めないなら、一つの体から別の体へと移り渡らねばなりません。とてもかすかな自然の法則が存在します。さて、あなたがとても居心地の良い体やアメリカ人の体を得られるという保証はありません。したがって、人間にとって自分の存在を純化することは必要不可欠なのです。自分の存在を純化しなければ、幸せを追い求めてもいつも幸せではいられないでしょう。
Bニューヨークの仕事に戻るとき、私は清らかでいたいと思いますが、ここにいるあなたの献身者たちのように清らかでいられるかどうか分かりません。私は―――私は自分がそうしているところを想像できません。
SPあなたは彼らがしているようにすることができます。彼らも初めは清らかではありませんでした。今では清らかです。同様に、あなたは清らかになることができます。例えば、子供の頃あなたには教育がありませんでした。しかし今は教育を受けています。
Bでは、私は何をすればよいのでしょう。帰ったら私は必ず―――
SPいつ帰るのですか?
B仕事をしにチャイバサに帰り、それから、、、
SPチャイバサには何があるのですか?
Bそこで教えているのです。私はそこに住んでいます。
SPでは教えないほうがよろしい―――あなたは教えるべきことを知らないからです。
B(笑う)私は行きます―――この教えることというのは、あまり好きではないのです。それから5月にアメリカに帰りますが、ここにいる間はこれがインドに滞在するための契約なのです。
SPもしも真剣であれば、どこにいても純粋でありつづけることができます。アメリカだろうがインドだろうが、関係ありません。しかし、いかにして自分自身を清らかに保つかを知らねばなりません。それだけです。
Bこれらの原則に従うという意味ですか?
SPそうです。例えば私はアメリカに行きましたが、アメリカでもインドでも私は同じ人物です。
B私は―――最初にあなたにお会いしてから(1971年11月にカルカッタへの短期間の訪問をしたとき)ちょっと従おうとしてみました。
SPふむ。しかし、従うとは、もし真剣であるなら厳格に従わねばなりません。
Bたぶん―――、いいです、たぶん―――私が今言っているのは―――あの―――今までで一番馬鹿げたことを言いました。しかし、私の気持ちを聞いてください。
SPいえいえ、馬鹿げてはいません。馬鹿げているとは言いません。しかし、完全でないのです。
B分かりました。(笑う)不完全ですね。でも、聞いてください。私は今あなたの献身者たちを崇めて尊敬していますが、私は自分が彼らの仲間であるとか、彼らの仲間になりたいという強い望みがあるとも感じないのです。私はただ、望みを感じています―――私は正しいことをしたい、神に近づきたい、そしてもし―――そしてもし次にもっと良い人生が得られれば―――それで満足なのです。
SP大変結構です。
Bこれは物質的な執着なのでしょうが、しかし、、、
SP彼らのするようにしなさい。そうすればあなたの望みは満たされるでしょう。私たちは彼らを純粋で幸せになるにはどうしたらいいかと訓練しています。それが私たちの使命です。私たちは皆に幸せになって欲しいのです。(サンスクリット引用)人々はどうしたら幸せになれるか知りません。彼らは幸せになるための正道を通りません。彼らは自分たちの独自の道を作り出すのです。困難はそこにあります。したがって、リシャバーデヴァは息子たちにこのような助言をしました。「愛しい息子たちよ、超越的な認識のために苦行を行いなさい」誰もが苦行を行っています。私の知っているある若者は―――彼は商業管理を学ぶために外国へ行かねばなりませんでした。今では彼は社会的に安定した身分にあります。このように、誰もが将来の生活のために何らかの苦行を行わねばなりません。そうであれば、永遠の幸せのためにその苦行をしませんか?あなたは存在と体を清めねばなりません。物質の体を受け入れる回数と同じ数だけ取り替えねばなりません。しかし、霊的な体を得ると同時にもはや取り替える必要はなくなります。あなたはすでに霊的な体を持っています。今は物質的な汚染によって物質的な体を育んでいます。しかし、もしも私たちが霊的な生活と関われば、霊的な体が育まれるでしょう。何度か挙げた例ですが、もしもあなたが鉄の棒を火に入れれば、それは火のようになります。そうではありませんか?
B鉄の棒を火に入れるのですか?
SPそうです。そうすればそれは火のようになります。
Bはい。
SP鉄であるにも関わらず。
Bはい。
SP同様に、もしあなたがいつも霊的なものと関わっていれば、あなたの体は物質であるにも関わらず霊的な行いをするでしょう。同じ例を挙げます。鉄の棒が赤く熱されているとき、触ると火傷します。それは火の性質を持つようになるのです。同様に、もしあなたがいつもクリシュナ意識でいれば、そうすればあなたは霊化されるでしょう。あなたの行いは霊的になります。物資的な要求は無くなります。
Bどうすればそうなれますか?
SPこのプロセスです。彼らは実行しています。あなたはこれらの6人の若者たちを見ましたね。今日洗礼を受けた6人です。これはとても単純です。4つの規制的な決まりを守り、この数珠でマントラを唱えるのです。とても簡単です。
Bあの、でも、その―――ビハールに戻ってそこでいつもの自分の暮らしをしていると、私は―――もしこれらの規則的な原則を守ると―――いくつかは今でも守っていますが、全部は―――
SP「いくつか」というのは?
B「いくつか」?
SP規律的な原則は4つしかありません。「いくつか」というのは、3つですか、2つですか?
B2つか3つです。
SPではなぜもう一つのも守らないのですか?
Bいえ、違います。1つか2つです。今は1つか2つ守っています。
SP(笑う)なぜ他の3つを守らないのですか?何の難しいことがあるでしょう。どれを守っているのですか?
Bどれを守っているか、ですか?あの―――私はほとんど菜食主義者です。でも卵は食べます。
SPではそれも不完全ですね。
Bはい、それさえ不完全です。この前お会いしてから(11月)菜食主義者になりました。でも―――
SP菜食主義者であることは何の資格にもなりません。
Bほとんどならないですね。
SPハトは菜食主義者です。サルも菜食主義者です―――もっとも下らない生き物です。。。
Bはあ。。。
SPサルは菜食主義者です。森に住む裸の放棄階級者、、、最も悪賢い、、、
B私は、、、少しは進歩だと思っていたのです。最初は少し難しくて、それから簡単になって、それからもとに戻って―――
SPいいえ、あなたは全ての規律的な原則を守ることができます。ただし、クリシュナ意識のプロセスに馴染むようになれば、という条件付きですが―――そうでなければ不可能です。
Bはい、そうなのです。私は―――ビハールに戻ると、あの―――友人たちが、あの、、、私たちは夜、蚊を叩くくらいしかすることがなく、彼らが「マリファナでも吸わないか」と誘うのです。それで私は「そうしよう、他にすることもないし」と言って、座ってその夜を楽しく過ごすのです。私たちはこういうことをいつもやっていて、度を越すようになって毎日やっていて、体に良くないと気づいたので止めたのですが、今でも時折、、、
SPあなたは私たちと一緒に住まねばなりません。そうすればあなたの友人たちは「マリファナでもどうだい」と誘うことはありません。(ボブ、笑う)献身者たちと関わりを持ち続けなさい。私たちは人々に私たちと関わる機会を与えるためにセンターを開いています。なぜ私たちが(マーヤープールに)こんなにたくさんの土地を買ったと思いますか?真剣に求める人々が来て私たちと一緒に住めるようにするためです。関わりはとても影響力の強いものです。もしあなたが飲んだくれと関われば、あなたも飲んだくれになるでしょう。もしあなたがサードゥーと関われば、あなたもサードゥーになるでしょう。
Ss(SPの秘書)彼はボンベイに来てあなたと一緒に滞在すればよろしいでしょう。
SPそうです。あなたはボンベイで私たちと一緒に滞在すればいいのです。しかし、彼はマリファナを持った友人たちを望んでいます。それが難しいところです。
B他のことについてお尋ねしたいのです。それから後でこの事柄に戻るかもしれません。私は自分が自分のことばかり考えていると思います。そのため神のことをあまり考えられないのです。私は自分のことをあまりにも多くの場所で考えています。どうすれば自分のことを忘れてもっと他の、もっと重要なことに集中できますか?
SP彼ら(献身者たち)がしたようにするのです。
B(笑う)あなたは私の辿るべき道は―――純粋になるための私の道は献身者になることだとおっしゃっているように思えます。
SP躊躇しますか?
Bあの、私は、、、
SP献身者になることはとても難しいですか?
B私には―――難しいです。私は―――それほどの熱望を感じないのです。献身者たちは最初、物質的な生活を放棄したと言いました。これらの4つの規制的な原則は、彼らが説明してくれたのですが、物質的な生活を放棄することを意味していて、それは分かります。そして彼らはその代わりに、、、
SP物質的な生活というのはどういう意味ですか?(ボブ、沈黙)私はこのベッドに座っています。これは物質的ですか、霊的ですか?
B物質的です。
SPでは、私たちはどのように物質的な生活を放棄したのでしょう。
B私はこれを「物質的な利益への欲望」と解釈したのだと思います。。。
SP物質的とはどういうことですか?
B物質的な利益に向けて働き、必ずしもすべての物質を放棄しないこと。
SP物質的な生活とは―――感覚を満足させたいと望むとき、それは物質的な生活です。そして神に奉仕したいと望むとき、それは霊的な生活です。それが物質的な生活と霊的な生活の違いです。今は私たちは私たちの感覚に奉仕しようとしています。しかし感覚に奉仕する代わりに神に奉仕するとき、それは霊的な生活です。私たちの活動と他の人たちの活動の違いは何でしょうか。私たちはすべてを使っています―――テーブル、椅子、ベッド、テープレコーダー、タイプライター―――、では、違いは何でしょうか。違いは、私たちがすべてをクリシュナのために使っていることにあるのです。
B献身者たちは、自分たちが放棄した感覚的な喜びの代わりに霊的な種類の喜びを得たと言いますが―――しかし、私はこれを感じていないのです。
SP霊的な喜びは、あなたがクリシュナを喜ばせたいと望むときに訪れます。それが霊的な喜びです。例えば、母親は我が子に食べ物を与えるときのほうが幸せです。彼女は自分では食べていませんが、我が子がよく食べているのを見るとき、とても嬉しくなるのです。
Bふーむ、、、霊的な喜びとは、それでは、神を喜ばせることなのですね。
SP霊的な喜びとはクリシュナの喜びを意味します。
Bクリシュナを喜ばせること。
SPそうです。物質的な喜びは感覚の喜びを意味します。それだけです。これが違いです。あなたが単にクリシュナを喜ばせようとするとき、それが霊的な喜びです。
B私はこれをこんなふうに見ていました。私が考えていた神を喜ばせることというのは―――
SP神を喜ばせるための独自の方法を作り出してはいけません。作り上げてはいけません。例えば、私があなたを喜ばせたいとしましょう。そうしたら私はあなたに「何をして差し上げましょうか」と尋ねます。自分で何かしてあげることを勝手に考えるのではないのです。それは喜ばせることではありません。例えば、私がコップ一杯の水を欲しがっているとしましょう。もしあなたが「尊師は私が牛乳を、熱い牛乳を差し上げれば、もっとお喜びになるだろう」という考えを思いつけば、それは私を喜ばせません。もしあなたが私を喜ばせたいなら、あなたは「何をしたら喜んで頂けますか」と尋ねるべきなのです。そしてもしあなたが私の頼んだことをすれば、それは私を喜ばせます。
Bそして、クリシュナを喜ばせることとは、そうすると、クリシュナの献身者であることなのですね。
SP献身者とは、常にクリシュナを喜ばせている者のことです。彼には他に何もなすべきことはありません。それが献身者です。
Bハレ・クリシュナを唱えることについて、もう少しお話し頂けませんか?私はもう長いこと唱えていますが、定期的にではありません―――時折ちょこちょこと唱えるだけです。私はごく最近数珠を手に入れました。そして時々は唱えていて気分が良いのですが、別のときは全然そうではありません。私は正しく唱えていないのかもしれません。分かりません。
SPそうです。すべてのことには方法があります。あなたはその方法に従わねばなりません。
B献身者たちはマントラを唱えるときの恍惚感について話してくれます。
SPそうです。清められれば清められるほど、恍惚感も高まります。このマントラを唱えるプロセスは清めのプロセスなのです。

第6章完璧な献身者1972年2月29日夜

Ssスリラ・プラブパーダ、今日の午後、私たちは苦行について語っていましたね。
SPふむ?
Ssもしも私たちが自発的に苦行を行わないなら、その場合は何らかの苦行を強いられるのですね。
SPそうです。霊的指導者の指南の下で、人はそうすべきです。。。あなたには苦行をしたいという気持ちは全くなくても、もしも霊的指導者を受け入れるなら、あなたは彼の命令を実行しなければなりません。それが苦行です。
Ssたとえ苦行をしたくなくても、しなければならないのですね。
SPそうです。しなければなりません。あなたは霊的指導者に服従したので、彼の命令は絶対です。だからたとえ好まざるとも、しなければなりません。私を喜ばせるために。
Ssああ。
SPしかしあなたはそれを好まない。。。(プラブパーダ、笑う)誰も絶食したいとは思いません。しかし霊的指導者が「今日は断食です」と言います。一体何ができるでしょう。(シャーマスンダラ、笑う)弟子とは、霊的指導者によって統制されることに自分の意思で同意した者です。それは苦行です。
Ss例えば、私たちの両親や物質世界の多くの人々のように、物質的な人生に完全に魂を奪われた人々―――彼らは苦行や肉体的な痛みを受けたがりませんが、それでも彼らもそうしなけばならないのですね。彼らは自然によって苦行に苦しむことを強いられます。
SPそれは強いられた苦行です。それはよくありません。自らの意思による苦行は助けになります。
Ssもしも自発的な苦行をしないなら、苦行をするように強いられなければなりませんね。
SPそれが人間と動物の違いです。動物は苦行を受け入れることができません。しかし人間は受け入れることができます。菓子屋においしい食べ物があり、人間はそれを食べたくてもお金がないと気づけば自分を規制することができます。しかし、牛が来ればすぐさま口を突っ込むでしょう。棒で叩いても、牛は我慢します。牛はそういうふうにするのです。したがって、動物は苦行をすることができません。私たちの苦行はとてもよいものです。私たちはハレ・クリシュナを唱え、踊り、クリシュナが大変素晴らしい食べ物を送ってくださるので、それを食べます。それだけです。なぜあなたの国の人たちはこのような苦行に同意しようとしないのでしょうか。マントラを唱えること、踊ること、そしておいしいものを食べることに?
B何とおっしゃいましたか?
SP私たちは苦行をしているので、クリシュナは良いものを送ってくださいます。だから私たちは敗者ではないのです。あなたがクリシュナ化されるとき、そのときあなたは現在よりももっと多くの快適さを得ます。それは事実なのです。私は過去20年間一人で住んでいますが、困難はありません。サンニャーサを受ける前はデリーに住んでいましたが、困難はありませんでした。
Ssもし霊的な統制を受け入れないなら自然が多くの不幸を強いるのですね。
SPその通りです。それはバガヴァッド・ギーターに述べられています。(サンスクリット引用)「物質自然の3つの相からなる、私のこの聖なるエネルギーは、乗り越えることは困難です。しかし私に服従した者は簡単にそれを越えることができます。」マーヤーはたくさんの困難を強いていますが、クリシュナに服従すればもはやそれらが強いられることはありません。
Ss私たちはとても愚かなので、いつも「いつか幸せになるだろう」と考えていました。
SPそうです。それがマーヤー、幻想です。ロバのようなものです。ロバの背に座り、一掴みの草を差し出します。ロバは「ちょっと前に進もう。そうしたら草が食べられる」と考えています。(ボブ、笑う)しかし、それはいつも30センチ先にあるのです。それがロバ主義です。(皆、笑う)皆が「もうちょっと先へ進もう、そうしたら手に入れられる、私はとても幸せになるだろう」と考えています。
B本当に、、、本当にありがたく、、、
SPふむ?
B明日はここを去らなくてはならないのです。そして―――
SP去ること(リーブ)を語らず、生きること(リブ)を語りなさい。
B今はまだできません。でも明日は自分の町に帰ることを考えていたのですが、しかし、、、
SP帰ってはなりません。
B明日もここに―――ここにいるべきですか?
SPここにいなさい。
Bあなたがそうおっしゃるなら、そうします。
SPそう。あなたはとても良い若者です。(長い沈黙あり。前よりずっと静寂が深い)それはとても単純です。生命体がクリシュナを忘れるとき、彼らはこの物質世界にいるのです。クリシュナは、神の名前、形、住みか、娯楽―――すべてを意味します。
B最後のは何ですか?
SPああ?娯楽です。
B娯楽ですか。
SP王のことを語るときは、それは王の政府、宮殿、妃、王子たち、秘書たち、軍事力―――すべてを意味します。そうではありませんか?
Bはい。
SP同様に、クリシュナは至高の人格神なので、クリシュナのことを考えれば、それはクリシュナのすべてのエネルギーを意味します。それは「ラーダー・クリシュナ」というときに完成します。ラーダーはクリシュナのすべてのエネルギーを表しています。そしてクリシュナは至高神です。だから私たちがクリシュナのことを語るときは生命体も含まれます。生命体はエネルギー、クリシュナの異なるエネルギー―――優性のエネルギーだからです。このエネルギーがエネルギー源に仕えていない状態、これが物質的な存在です。世界全体がクリシュナに仕えていません。彼らは異なる方法でクリシュナに仕えています。彼らは間接的に仕えているのです。ちょうど従順でない市民が政府に間接的に仕えるようなものです。囚人は国家の法律に従わなかったかどで刑務所に送られます。刑務所では彼らは国家の法律に従うように強制されます。同様に、ここにいるすべての生命体は無明あるいは選択によって神を持ちません。彼らは神の至上権を受け入れるのを好みません。悪魔的なのです。だから私たちは彼らを本来の状態に連れ戻そうとしています。それがクリシュナ意識運動です。
Bちょうど献身者たちと話していたことについてお尋ねしたいと思います。医学です。私は今日、何人かの献身者たちと一緒に川へ歩いて行きました。私は風邪を引いているので、「水には入らないほうがいい」と言いました。何人かは「この川はガンジスなので入ったほうがいい」と言い、別の人たちは私は風邪を引いているので入るべきではないと言い、そして私たちは語り合ったのですが、私には分からないのです。私たちは過去の悪い行いのために病気になるのですか?
SPそうです。それは事実です。
Bでも場合によっては、、、
SP私たちの苦しみは、すべからく私たちの過去の不善なる行いの結果です。
Bしかし、ある人がカルマの影響から離れれば、、、
SPそうすれば?
B、、、その人はそれでも病気になりますか?
SPなりません。たとえ病気になっても、それはとても一時的です。たとえば、この扇風機は動いています。もしコードを抜いても、しばらくは動きます。その動きは電流によるものではありません。それは動力です―――この動力は物理学的には何と言いましたか?
Ss惰性です。
SP惰性ですね。しかし、それが止まってしまうと、もはや動きはありません。同様に、たとえクリシュナに服従した献身者が物質的な結果に苦しんでいても、それは一時的です。したがって、献身者は物質的な惨めさを惨めさと受け取りません。それをクリシュナの、神の恵みであると受け取るのです。
B完成された魂、献身者、純粋な献身者とは、、、
SP完成された魂とは、一日24時間クリシュナ意識で過ごす者のことです。それが完成です。それは超越的な立場です。完成とは人の本来の意識でいることです。それが完成です。それはバガヴァッド・ギーターに述べられています。(サンスクリット引用)「それぞれの性質に合った仕事をすることで、すべての人が完成に至ることができます。」完全な完成です。サムスィッディ。スィッディは完成です。それはブラーマン意識であり、霊的な認識です。そしてサムスィッディは献愛を意味し、それはブラーマン認識の後に来ます。
B最後のおっしゃったことを、もう一度言っていただけませんか?
SPサムスィッディ。
Bはい。
SPサムは完全なという意味です。
Bはい。
SPそしてスィッディは完成を意味します。バガヴァッド・ギーターでは、家へ帰る者、至高神のもとに帰る者は完成を得たのである、と述べられています。完成は、人が自分はこの体ではなく霊魂であると気づくときに訪れます。したがって、もしも誰かが既に献身奉仕をしているなら、ブラーマン認識はすでにそこにあると理解されます。したがってそれはサムスィッディと呼ばれます。
B謹んでお尋ね申し上げるのですが、あなたは病気になったり具合が悪かったりすることはおありですか?
SPふむ?
Bあなたは個人的に病気や体調の悪さを感じますか?
SPはい。
Bそれはあなたの過去のカルマの結果ですか?
SPそうです。
Bでは、この物質世界にいる者は決して完全にカルマを逃れることはないのですか?
SPいえ、逃れます。献身者にはもはやカルマはありません。カルマの結果もありません。
Bしかしあなたは最高の献身者でいらっしゃるに違いありません。
SPふむ。。。いいえ、私は自分が最高の献身者であるとは思いません。私は最低です。
Bとんでもない!
SPあなたこそ最高の献身者です。
B(笑う)とんでもない、とんでもない!しかし、どうも、あなたがおっしゃると―――あなたがおっしゃることは、、、いつも正しいように見えます。
SPはい。
Bではあなたは最高の献身者でいらっしゃるに違いありません。
SPどういうことかと言うと、たとえ最高の献身者でも、伝道をするときは献身者の二流のレベルに来るのです。
B一流の献身者は何をしているのですか?
SP最高の献身者は伝道しません。
B何をするのですか?
SP伝道の必要はないと見るのです。最高の献身者にとっては、誰もが献身者です。(ボブ、大笑いする)そうです、最高の献身者の目には、もはや献身者でない人はないのです―――皆が献身者なのです。そのような人はウッタマ・アディカーリーと呼ばれます。しかし、伝道をしている私はどうして自分が最高の献身者であると言えるでしょう。ラーダーラーニーのようなものです。彼女は誰のことも非献身者であるとは見なしません。だから私たちはラーダーラーニーに近づこうとするのです。
Bそれは誰ですか?
SPラーダーラーニー、クリシュナの恋人です。
Bああ。
SPもし誰かがラーダーラーニーに近づけば、彼女はクリシュナに「ここに最高の献身者がいます。この人は私より優れています。」とクリシュナに勧め、クリシュナはこの人を退けることができません。それが最高の献身者です。しかし、それを真似ようとしてはなりません。「私は最高の献身者になった」(サンスクリット引用)二流の献身者は神をねたんでいる者がいるという見方をしていますが、これは最高の献身者の見方ではありません。最高の献身者は「神をねたむ者などいない。誰もが私より優れている」と見なします。「チャイタンニャ・チャリタームリタ」の著者であるクリシュナダーサ・カヴィラージャのようなものです。彼は「私は糞の中のウジよりも低い」と言います。
B誰がそう言うのですか?
SPクリシュナダーサ・カヴィラージャ、「チャイタンニャ・チャリタームリタ」の著者です。(サンスクリット引用)彼はわざとそう言ったのではありません。本当にそう感じているのです。「私は最低だ。皆が最高で、私は最低だ。誰もがクリシュナに仕えているのに、私は仕えていない」チャイタンニャ・マハープラブは、「おお、私にはクリシュナへの献愛の情がこれっぽっちもない。私はわざと泣いて見せている。もし私がクリシュナの献身者であったなら、とっくの昔に死んでいたはずだ。でも私は生きている。それは私がクリシュナを愛していない証拠だ」それが最高の献身者の見方です。彼はクリシュナへの愛にあまりにも没頭しているので、「すべてが起こっているのに、私は最低だ。だから私には神が見えない」と言います。それが最高の献身者です。
B献身者はすべての人の解放のために働かねばならないのですね。
SPそうです。献身者は真正なる霊的指導者の指示のもとで働かねばなりません。最高の献身者を真似るのではありません。
B何とおっしゃいましたか?
SP人は最高の献身者をまねるべきではありません。
Bまねる、、、ああ、そうですね。
Ss以前、弟子たちの罪深い行いが原因で具合が悪くなったり痛みを感じたりすることが時々あるとおっしゃいました。病気はそれが原因であることもあるのですか?それによって引き起こされるのですか?
SPクリシュナは次のようにおっしゃいました。(サンスクリット引用)「私はすべての罪深い行いの結果からあなたを救う。恐れるな」クリシュナはとても力強いので、人々のすべての罪をただちに被ることができ、ただちにそれらを正すことができます。しかし生命体がクリシュナの代わりにその役を果たすときは、その生命体も自身の弟子たちの罪深い行いの責任を取ります。したがって、グルになるのは簡単な課題ではないのです。分かりますか?グルはすべての毒を飲み、それを吸収しなければならないのです。だから時々グルは―――グルはクリシュナではないので―――ときどき問題が生じます。したがってチャイタンニャ・マハープラブは「多くのスィシャ、弟子を取ってはいけない」と禁じられました。しかし伝道のために私たちは多くの弟子を受け入れなければなりません―――伝道を広めるために―――たとえ苦しんでも。それは事実です。霊的指導者は、その弟子のすべての罪深い行いの責任を取らねばなりません。したがって、すべての罪を消化吸収することができない限り、多くの弟子を取るのは危険をはらんだ仕事なのです。(サンスクリット引用)「私は主のすべてのヴァイシュナヴァ献身者に尊敬の念を込めて服従します。彼らはちょうど皆の望みを叶えることのできる望みの木のようなものです。彼らは堕落して制約された魂への同情に満ちています。」霊的指導者はすべての堕落した魂の責任を取ります。この考えかたは聖書にも見られます。イエス・キリストは人々のすべての罪深い行いの結果を引き受けて自分の生命を犠牲にしました。それが霊的指導者の責任です。クリシュナはクリシュナであるので、彼はアパーパ・ヴィッダ、罪深い行いの結果によって痛めつけられることはありません。しかし生命体はとても小さいので、時としてそれらの影響にさらされます。大きな火と小さな火の違いです。もしも小さな火に何かおおきな物をくべると、火そのものが消えてしまうかもしれません。しかし大きな火には何をくべても構いません。大きな火はすべてを焼き尽くすことができるのです。
Bキリストの苦しみはそのような性格のものだったのですか?
SPふむ?
Bキリストの苦しみは―――
SPそれは既に説明しました。彼はすべての人の罪深い行いの結果を引き受けたのです。だから苦しみました。
B分かりました。
SPキリストは―――それは聖書に書いてありますが―――人々のすべての罪深い行いの結果を引き受けて自分の生命を犠牲にしたと言いました。しかし、これらのキリスト教徒たちは、自分たちが好きなだけ愚かな行いをする一方でキリストに苦しませるというのを決まりにしてしまいました。(ボブ、短く笑う)なんという愚か者たちでしょう!彼らは自分たちが好きなだけ愚かな行いを続けられるように、キリストにすべての罪を被せることを取り決めたのです。それが彼らの宗教です。キリストはとても偉大な方だったので、彼らのすべての罪を引き受けて苦しみました。しかし、そのことが彼らに自らのこうしたあらゆる罪を止めようと思わせることはありません。彼らはそれに気づいていないのです。彼らはこれをとても軽く受け止めました。「主イエス・キリストに苦しんでもらって、私たちは好きなだけ愚かな行いを続けよう」そうではありませんか?
Bその通りです。
SP彼らは恥を知るべきです。「主イエス・キリストは私たちのために苦しまれた。しかし私たちは罪深い行いを続けている」キリストはすべての人におっしゃいました。「あなたがたは殺してはならない」しかし彼らは殺すことを続けています。「主イエス・キリストは許してくださり、すべての罪深い行いの結果を被ってくださる」と考えているのです。これが続いています。私たちはとても注意深くあるべきです。「私の罪深い行いのために私の霊的指導者が苦しまれる。だから私はほんのわずかでも罪を犯さないようにしよう」それが弟子の義務です。洗礼の後は、すべての罪深い行いの結果は終了します。それから彼が再び罪を犯せば、霊的指導者が苦しまねばなりません。弟子は同情的にこれを考慮すべきです。「私の罪深い行いのために私の霊的指導者が苦しまれる」もし霊的指導者が何かの病気に侵されるなら、それは他者の罪深い行いのためです。「多くの弟子をとってはいけない。」しかし私たちは伝道しているので、それをするのです。気にするな―――苦しもうではないか―――それでも私たちは彼らを受け入れます。したがってあなたの問いは―――私が苦しむとき、それは私の過去の過ちによるのか、そうでないのか?幾人かの愚かな弟子を受け入れたこと―――それは私の過ちです。それが私の過ちなのです。
Bこういうことはときどき起こりますか?
SPはい。私たちは多数の人々を受け入れているので、必然的に起こります。注意深くあることは弟子の義務です。「私の霊的指導者が私を救ってくださった。私は彼を再び苦しみに陥れるべきではない」霊的指導者が苦しんでいるときは、クリシュナが救ってくださいます。クリシュナは「おお、彼は堕落した人々を救うためにこんなに多くの責任を引き受けた」とお考えになります。クリシュナはそこにいらっしゃるのです。(サンスクリット引用)「おお、クンティの息子よ、私の献身者は決して滅びることがないと、高らかに宣言しなさい」霊的指導者はクリシュナの代わりに危険を負っているからです。
Bあなたの苦しみは(非献身者の)痛みとは同じ種類のではないと。。。
SP違います。カルマによるものではないのです。痛みはときどきはありますが、それによって弟子たちが「私たちの罪深い行いによって私たちの霊的指導者が苦しんでいる」と分かるように存在するのです。
Bあなたは今はとてもお元気でいらっしゃるようにお見受けします。
SP私はいつも元気です、、、たとえ苦しみがあってもクリシュナが守って下さると知っているという意味において。しかし、この苦しみは私自身の罪深い行いによるものではありません。
Bしかし、例えば私が―――住んでいる町で水に病原菌が入っていることがあるから沸騰した水を飲んでいるとします。では、もし私が病気にならないくらい清らかであれば、なぜ沸騰した水を飲んだほうがいいのでしょうか。どんな水を飲んだって平気なはずです。そして、もし私が正しい行いをしていないなら、どっちにしても病気になるでしょう。
SP物質的な世界にいる限り、物質的な法則を無視することはできません。例えば、ジャングルに行って、そこにトラがいるとしましょう。トラが人を襲うことは分かっていますが、それならなぜあなたは自発的に行って襲われるべきでしょうか。献身者は物理的な体を持っている限り物理的な危険を冒すべきではないのです。それ(献身者であること)は物理的な法則への挑戦ではありません。「私は献身者になった。何にでも挑戦しよう」それは愚かさです。(サンスクリット引用)献身者は生活に必要なものを執着することなく受け入れるべきであると助言されています。彼は沸騰した水を飲みますが、もし沸騰した水がなかったら普通の水を飲みます。私たちはクリシュナのプラサーダ(お供えのお下がり)を食べますが、巡行中は、時々はホテルで食事をすることもあります。献身者だからと言って「私はホテルの食べ物は食べない。飢えていよう」と考えるべきでしょうか。もし飢えれば、私は弱くなって伝道することができません。
B献身者は自分の独自性をいくらか失うということは―――
SPいいえ。彼はクリシュナを喜ばせるための完全な独自性を持っています。クリシュナは「私に服従しなさい」と言います。だから献身者は自分の意思で服従します。彼が自分の独自性を失ったわけではないのです。彼は自分の独自性を保ちます。アルジュナのようなものです―――彼は初めは戦うことを拒否していました。自分の独自性のためです。しかし彼はクリシュナを霊的指導者として受け入れたときにスィシャ(弟子)になりました。それからはクリシュナが命令したことにはすべて「はい」と言いました。それは彼が自分の独自性を失ったという意味ではありません。彼は自分の意思で受け入れたのです。「何であれ、クリシュナの言うことを私はしよう」私のすべての弟子のようなものです―――彼らはそれぞれの独自性を失ってはいませんが、独自性を引き渡しました。それを要求されるのです。たとえば、ある人が性器を使わないとしましょう。それは彼が性的不能になったことを意味するのではありません。そうしたいなら千回でも性行為をすることができます。しかし彼は自分の意思でそれを避けました。(サンスクリット引用)彼はより高い嗜好を持っているのです。時々私たちは断食します。しかしそれは私たちが病気だというわけではありません。私たちは自分の意思で断食するのです。私が空腹でないとか、食べることができないとかいうことを意味するのではありません。しかし私たちは自分の意思で断食します。
B服従する献身者はそれぞれの独自の嗜好を維持しますか?
SP完全に維持します。
B異なる物事への嗜好をですか?
SPふむ?
B彼は独自の好みや嫌悪を維持しますか?
SPそうです。彼はすべてを維持します。しかし彼はクリシュナのほうを好むのです。たとえば私がここにあるこれを好きだとして、クリシュナが「いいえ、それを使ってはいけません」と言ったとしましょう。そうしたら私はそれを使わないのです。クリシュナのためにそうするのです。(サンスクリット引用)クリシュナははっきりと「私はこれらのものが好きだ」とおっしゃいます。私たちはクリシュナにお好きなものを差し出さねばなりません。そして私たちはプラサーダを頂くのです。クリシュナはラーダーラーニーがお好きです。したがってすべてのゴピーたちはクリシュナのほうにラーダーラーニーを押し出そうとします。「クリシュナはこのゴピーがお好きです。いいでしょう、彼女を押し出しましょう」それがクリシュナ意識です。クリシュナの感覚を満足させることであって、私の感覚の満足ではありません。それがバクティなのです。それはプレマ、クリシュナへの愛と呼ばれます。「ああ、クリシュナはこれがお好きだ。私はクリシュナにこれを差し上げなければならない。」
Bここにいくらかのプラサーダ(クリシュナに捧げられた食べ物)があります。それが捧げられて、それから私たちが頂いて食べて、そして別のプラサーダが出されます。好きなものもあるのですが、中には私の口には全く合わないものもあります。
SPそういうことはすべきではありません。完成とは、クリシュナに捧げられたものは何であれ受け入れるということです。それが完成です。あなたは「これは好きだ、これは好きではない」と言うべきではありません。そのような好き嫌いをする限り、あなたはプラサーダのありがたさを理解していないということになります。
献身者好き嫌いのことを話している人がいたらどうですか?たとえば誰かがプラサーダを準備しているとして―――
SP嫌いも無し、好きも無し。クリシュナがお好きなものは何であれ、それは良いのです。
献身者はい、そうですが、例えば誰かが何か、プラサーダなどを作っているとして、でもあまりうまく作らなくてそれが―――
SPいいえ、もし献愛の念を持って誠実に作れば、クリシュナはそれがお好きなのです。ヴィドゥのようなものです。ヴィドゥはクリシュナにバナナを食べさせていましたが、彼はあまりにも考えに没頭していたので、バナナの中身を捨ててクリシュナに皮を差し上げていました。そしてクリシュナはそれを食べていたのです。(皆、笑う)クリシュナは彼が献愛と共に捧げていたことを知っていました。そしてクリシュナは献愛がある限り何でも食べることができるのです。それが物質的においしいかそうでないかは関係ないのです。同様に、献身者もクリシュナのプラサーダを頂きます。物質的においしかろうが、そうでなかろうが。私たちはすべてを受け入れるべきなのです。
献身者しかし、もし献愛の念がなければ、インドでのように、、、
SPおお、またインド、インドと言う。インドの話をしてはいけません。哲学の話をしなさい。献愛の念がなければクリシュナは何もお受け取りになりません。インドだろうとあなたの国だろうと。主クリシュナはとてもおいしいからと言って何か値段の高い物をありがたく受け取るわけではありません。クリシュナはヴァイクンサにおいしい食べ物をたくさんお持ちです。クリシュナはあなたの食べ物を欲しがっていらっしゃいません。主はあなたの献愛を、バクティをお受け取りになるのです。本当のものは献愛です。食べ物ではありません。クリシュナはこの物質世界のいかなる食べ物もお受け取りになりません。主は献愛だけをお受け取りになるのです。(サンスクリット引用)「もし人が私に愛情と奉仕の念を持って葉か花か実か水を捧げれば、私はそれを受け取る」「それは私に愛情と奉仕の念を持って捧げられたから」―――それが必要とされるのです。だから私たちは献身者でない者には料理をすることを許しません。クリシュナは非献身者の手からは何物も受け取られません。なぜ主がそれをお受け取りになるべきでしょうか。主は空腹ではあられません。いかなる食べ物も必要としてはいらっしゃいません。主はただ献愛だけをお受け取りになるのです。それだけです。それが主な要点です。つまり、人は献身者にならなければならないのです。腕の良い料理人ではありません。しかし、もし献身者になれば腕の良い料理人にもなります。自動的にそうなるのです。したがって、人はただ献身者にならなくてはならないだけです。そうすると他のすべての良い資質が自動的に伴います。そしてもし人が献身者でないなら、いかなる良い資質も何の価値もありません。その人は精神的な水準にいるので、何の良い資質も持ちません。(会話に長い沈黙あり)
SP今何時ですか。
Ss6時です。
SP質問と答えが必要です。それらはすべての者に有益です。
B私はまだプラサーダについて質問があります。
SPスータ・ゴスヴァーミーは次のようにおっしゃいました。(サンスクリット引用)「おお、賢人たちよ、あなた方は私に正しく質問をなさいました。あなた方の問いかけは主クリシュナに関するものであるので、価値があり、世界の幸せに関係があります。このような種類の問いだけが自己を完全に満足させることができます」クリシュナ・サムプラスナー、それはとても良いのです。議論し、聞くとき、それはロカ・マンガラム、すべての人にとって縁起が良いのです。質問も答えもです。
B私はまだプラサーダについてよく分かりません。しかしもしよろしかったら、考えてみてまた明日お尋ねしたいと思います。
SPプラサーダは常にプラサーダです。しかし私たちは十分に引き上げられていないので、嫌いだと思うプラサーダもあります。
Bお話ししたいことが何なのかはっきりしました―――中には香辛料が強すぎるものがあるのです。お腹が痛くなります。
SPふーむ。。。それもまたありがたさを理解していないことですが、しかし料理人が注意すべきです。クリシュナには一流の料理をお出ししなければなりません。そのため、もし料理人がレベルの低いものを捧げれば、その人は自分の義務を果たしていないことになります。しかしクリシュナはもしそれが献身者によって捧げられれば、何であっても受け入れることがおできになり、献身者はどんなプラサーダでも受け入れることができます。たとえ香辛料が利いていようと。ヒラニャカスィプは自分の息子に毒を与え、(その子はそれをクリシュナに捧げ、)そして息子はそれを蜜の味の飲み物として飲みました。たとえ他の人々の舌には香辛料が利きすぎでも、献身者にとってはとてもおいしいのです。香辛料がどうしたというのでしょう。彼は本物の毒を与えられたのです。そしてプータナー・ラークシャシー―――彼女もまたクリシュナに毒を与えました。しかしクリシュナはとても慈悲深いので、「彼女は私の母親として私を受け入れた」と考え、そのため毒を飲んで彼女を解放しました。クリシュナは悪いふうには考えません。善人は悪いふうには考えません―――彼は良いふうにだけ考えます。私の兄弟子たちの一人のようなものです―――彼は私のグル・マハーラージャ(霊的指導者)と取引をしようとしましたが、私のグル・マハラーラージャは悪いようにはお受け取りになりませんでした。良いように考えたのです。「この弟子は私に何かの奉仕をしにきた」と考えられました。
B誰と取引をしようとしたのですか?
SP私のグル・マハーラージャについて話しているのです。
Bああ、分かりました。もしよろしかったら、プラサーダについてもう一つ質問があるのですが。例えば、何かの問題があって特定の食べ物を食べられない献身者がいるとします―――肝臓に問題があってギーを食べない献身者のようなものです。これらの献身者たちは、そうすると、すべてのプラサーダを食べるべきですか?
SPいえ、いえ。完璧でない献身者は好き嫌いを言うかもしれません。しかし完璧な献身者はそうしません。なぜあなたが完璧な献身者の真似をすべきでしょう。好き嫌いがある限り、あなたは完璧な献身者ではありません。ではなぜあなたがわざと完璧な献身者の真似をして何でもかんでも食べるべきでしょうか。
Bああ。
SP要点は、完璧な献身者は好き嫌いをしないということです。何であれ、クリシュナに捧げられた物は蜜です。それだけです。クリシュナは献身者からは何でもお受け取りになります。「何であれ、私の献身者が私に捧げてくれたものは」主は受け取られるのです。献身者も同じことです。要点が分かりませんか?完璧な献身者は全く好き嫌いを言いません。しかしもし私が完璧な献身者でなくて好き嫌いがあるなら、なぜ私が完璧な献身者を真似ようとすべきでしょう。私は完璧な献身者ではないので、私にはすべてを消化することはできないかもしれません。献身者は愚か者であってはなりません。次のように述べられています。(サンスクリット引用)献身者は自分の立場を知っており、彼は他者をもそれ相応に扱う知性を持っているのです。 

第7章クリシュナの知識をもって行動する 
1972年2月29日(続き)

インド人の紳士どのような行いによって人は良いカルマを得られますか?
SP良いカルマとは、ヴェーダに定められている事柄です。特に、人はヤジニャを行うべきであると定められています。ヤジニャとは至高の人格神、主ヴィシュヌの満足のための行いを意味します。つまり、良いカルマとはヴェーダ文献において定められたようにヤジニャを行うことを意味します。そしてこのヤジニャの目的は至高主を満足させることです。法律を守る良き市民とは、その行いが政府を満足させる者のことです。良きカルマとは至高主である主ヴィシュヌを満足させることです。不幸にして現代の文明は至高の人格神の何たるかを知らず、ましてや主を満足させることなど考えも及びません。人々は知らないのです。彼らは単に物質的な行いにかまけています。だから彼らのすべては悪いカルマのみを行っており、その結果苦しんでいます。盲目の者たちが他の盲目の者たちを導いているのです。両者が悪いカルマに苦しんでいます。これは簡単に理解できます。犯罪行為をすれば、苦しむでしょう。もしあなたが国家のために、人々のために、何か慈善を行えば、あなたは認識され、ときには称号を与えられます。これが良いカルマと悪いカルマです。良いカルマでは人は幾らかの物質的な幸せを享受します。悪いカルマでは人は物質的な苦しみを味わいます。良いカルマによって人は良い家庭に生を受けます。富を、財力を手に入れます。学識ある学者にもなり、美しくもなります。(いくらかの時間が経つ)
B神についてあまり気づいていない―――そういう人の場合は、、、
SPそういう人は動物です。動物は何が良いことが知りません。神が何か知らない者、あるいは神が何か理解しようとしない者―――その人は動物です。動物には四本の脚があり、その動物には二本の脚があります。そしてダーウィンの理論では彼らは猿です。神を知らない者、神を理解しようとしない者、そういう人は動物でしかありません。
Bしかし、無邪気な人々はどうですか?
SP動物は大変無邪気です。もしあなたが動物の喉を掻き切れば、それは抵抗しません。無邪気であることはそれほど良い資質ではないのです。動物は皆無邪気です。だから人間は彼らの喉を掻き切る機会を得ることができます。無邪気になることはあまり良い資質ではないのです。私たちの主張は、人は非常に明晰でなければならないということです。そうすればクリシュナを理解することができます。無邪気で無明のボンクラになることは、あまり良い資質ではないのです。単純さは構いませんが、知性に欠けているべきではありません。
B知性とは何かもう一度お話しくださいませんか?
SP知性とは、、、自分が何であるか、この世界とは何であるか、神とは何であるか、それらの関係性は何であるか―――それらのことを知っているものは知性的です。動物は自分が誰か知りません。自分は体だと思っています。同様に、自分が何者であるかを知らない者は知性に欠けています。
B自分のしていることに気づいていないのではなく良いことをする―――しようとしていて、良心的である人の場合はどうですか?主人に対して大変正直だけれど、たとえ正直でなくても見つかることはないと知っている従者のような。もしその人がどっちにしても正直であるとしたら、、、そういう人は?そういうのはある種の良いカルマですか?
SPそうです。正直になることも良いカルマです。どうやって良い人になるかはバガヴァッド・ギーターに詳しく描写されています。(サンスクリット引用)つまり、もしあなたがダイヴィー・サムパッド(超越的な性質)を得たなら、そうすればヴィモクシャーヤ―――あなたは解放されるでしょう。そしてニバンダーヤースリー―――もしあなたが悪魔的な資質を得れば、あなたはもっともっと呪縛されるでしょう。不幸にして現代の文明は解放や呪縛の何たるかを知りません。彼らは本当に無知なのです。知らないのです。もし私があなたに解放とは何を意味するかと尋ねれば、答えられますか?(答え無し)そしてもし私が呪縛とは何かと聞けば、答えられますか?(またもや答え無し)これらの言葉はヴェーダ文献にあります―――解放と呪縛―――しかし、現在では人々は解放とは何か、呪縛とは何かということさえ知りません。彼らはとても無知で愚かで、それなのに自分たちの知識の進歩を誇りに思っているのです。あなたは解放とは何か答えられますか?あなたは教授、教師です。しかし、私があなたに問えば、あなたは解放とは何か説明することができますか?
B十分にはできません。もし説明できるなら、そしたら私はとても素早く解放されているでしょうから。
SPしかしもしあなたが解放とは何かを知らないなら、素早い解放もゆっくりした解放もありませんね?(皆、笑う)解放される可能性はあります。速くも遅くも。あなたはまず解放とは何かを知らねばなりません。もしあなたが列車がどこに向かっているかを知らないなら、それが速く動いているかゆっくり動いているかと尋ねることや理解することに何の意味があるでしょう。あなたは自分の行き先を知りません。解放とは何ですか?
Bうーん、、、
SP私が尋ねています。毎日あなたが私に尋ねます。今は私があなたに尋ねています。
B(笑う)ああ―――分かりました、、、ちょっと考えさせてください。
SP解放はシュリマッド・バーガヴァタムに描写されています。解放を指す正しいサンスクリットの言葉はムクティです。それはシュリマッド・バーガヴァタムに定義されています。(サンスクリット引用)人はすべての下らない行いを止めるべきであり、本来の立場に戻らなければなりません。しかしこれもまた重ねて恥ずかしいことです。誰も自分の本来の立場を知らず、正しい行いをする方法を知らないからでうs。人々は一般的に違うふうに(正しくなく)行動しているため、彼らは何が正しいか知らないので―――現代の人々は自分たちの人生について非常に無知なのです―――それはとても歪んだ状態(awkward position)です。彼らは知らないのです。
B誰が正直であるのか教えてください。(正直な人とはどういう人か)
SP正直さとは何かを知らなければ、どうやって正直でいられるでしょう。しかしもし人が正直とは何かを知っていれば、そうすれば正直であることができます。正直さとは何ですか?まずそれを説明してください。
Bああ―――うーん、、、正直さとは、正しいと心から感じることをすることです。
SP泥棒は「子供たちに食べさせるために盗まねばならない。これは正しいことだ」と感じています。これは彼が正直であることを意味しますか?皆が考えています―――肉屋は考えます:「これが私の生業だ。私は毎日動物の喉を掻き切らねばならない」ちょうどあの―――あの狩人は何といいましたか?ナーラダムニが会ったあの人は?
Ssムリガーリです。
SPそう、ムリガーリ。ナーラダは彼に尋ねました。「なぜそうやって殺すのですか?」すると彼は答えました。「これが私の仕事だからです。父が教えてくれました。」彼は正直にそうしていたのです。正直さの感覚は文化によって違います。泥棒の文化は違います。彼は盗むことは正直だと考えます。
Bでは、正直さとは何ですか?
SPそう、それが私の質問です。(皆、笑う)本当の正直さとは、他者の所有物を侵害しないことです。それが正直さです。例えば、これは私のテーブルです。もしあなたが帰るときにこれを持ち去りたいと思えば、それは正直さですか?つまり、正直さの単純な定義は、他者の権利を侵害しないということです。それが正直さです。
Bでは、正直な人は徳の相にあるのですか?そう考えてよろしいですか?
SPもちろんです。もちろんです。徳の相は知識を意味するからです。もしあなたが「このテーブルは私のではない。尊師のものだ」と知っていれば、あなたはこれを持ち去ろうとはしないでしょう。したがって、人は知らねばなりません―――そうすれば正直になれます。
B徳の相は神の知識だとおっしゃいましたが、人はほとんど神のことを知らないで正直であるかもしれません。
SPふむ?
B正直で―――正直であることなく―――それが神の望みであるから正直であるのだと考えることなく―――彼らはただ正直であるべきだと感じるのです。
SPふむ。神は皆が正直であって欲しいと望まれます。なぜそうでないことがあるでしょうか。
Bつまり、、、つまり、神の御意思に従っていると知らずにそれに従っているかもしれないということは?そういう人は、、、
SPいいえ、知識なくして従うこと―――それは不合理です。人は神の命令を知らねばなりません。そしてもし人がそれに従えば、それは正直さです。
Bしかし、神を知らないで正直であるという場合はありませんか?(But somebody would not be honest without knowing God?)
SPありません(Yes)。神は至高の所有者であり、至高の享楽者であり、至高の友であるからです。それがバガヴァッド・ギーターに述べられていることです。もし人がこれらの3つのことを知っていれば、そうすればその人の知識は完全です。ただこの3つのことだけです。神はすべての所有者であり、神はすべての者の友であり、神はすべてのものを楽しむ方である、ということです。例えば、体では胃が楽しむ者であることは誰もが知っています。手や脚や目や耳ではありません。これらは単に胃を助けるためにあります。目は―――ハゲタカは胃に入れる食べ物がどこにあるかを見るために7マイルも高くへ飛びます。そうではありませんか?
Bその通りです。
SPそして羽はそこに飛び、顎は食べ物を捕まえます。同様に、この体では胃が楽しむ者であるように、物質的おより霊的な天空顕現のすべての中心的な存在はクリシュナ、神です。彼が楽しむ者なのです。私たちはこのことを単に自分たちの体のことを考えてみるだけで理解することができます。この体も創造物です。体は宇宙全体に見られるのと同じ機械的な性質を持っています。同じ機械的な仕組みはどこにでも見られます。動物でも同じです。人間の体であろうと、天空の顕現であろうと―――ほとんど同じ仕組みなのです。この体では―――私のも、あなたのも―――胃が享楽者であることはごく簡単に理解することができます。中心的な享楽者が存在するのです。そして胃は友でもあります。考えてみてください、あなたが食べ物を消化できなければ、体の他のすべての部分が弱くなるからです。だから胃は友です。胃は消化してエネルギーを体中全部に送り届けているのです。そうではありませんか?
Bその通りです。
SP同様に、創造全体の中心的な胃は神、すなわちクリシュナです。彼が享楽者であり、友であり、至高の所有者としてすべての者を維持しています。ちょうど王が所有者なので国全体の国民を維持できるようなものです。所有者でなくして、どうしてすべての人の友になれるでしょう。これらのことを理解しなければなりません。クリシュナは享楽者であり、クリシュナは所有者であり、クリシュナは友です。もしあなたがこれらの三つのことを知っているなら、あなたの知識は完全です。それ以上のことを知る必要はありません。(サンスクリット引用)もしあなたがクリシュナを単にこれらの三つの公式によって理解するなら、あなたの知識は完全です。あなたにはそれ以上の知識は必要ありません。しかし人々は同意しません。「なぜクリシュナが所有者であるべきでしょう。ヒトラーが所有者であるべきです、ニクソンが、、、」そういうことが起こっているのです。だからあなた方は苦労しています。しかしこれらの三つのことだけを理解するなら、あなたの知識は完全です。しかしあなたは受け入れません―――あなたはこれらの三つのことを理解するのにたくさんの妨害物を差し出します。そしてそれが私たちの苦労の原因なのです。しかし、バガヴァッド・ギーターにはそのことは明白に述べられています。(サンスクリット引用)「私をすべての犠牲と苦行の至高の目的として、すべての惑星と半神たちの至高主として、そしてすべての生命体に恩恵を施して幸せを望む者として知っている賢人たちは、物質的な惨めさの苦しみから逃れて平安を得ることができる」しかし私たちはこの方法を取りません。私たちは非常に多くの偽りの所有者、偽りの友、偽りの享楽者を差し出し、彼らは互いに争います。これが世界の状況なのです。もしも教育がなされて人々がこの知識を受け入れれば、ただちに平和が訪れます。(サンスクリット引用)これが知識であり、もし人がこの原則に従うなら、それは正直な人です。その人は「これは私のものです」と主張しません。彼はすべてを知っています。「ああ、これはクリシュナのものだ。だから何でもクリシュナへの奉仕のために使われるべきだ」それが正直さです。もしこの鉛筆が私のものであれば、エチケットは―――私の生徒たちはときどき「この鉛筆を使ってもよろしいですか」と尋ねます。すると私は「どうぞ」と答えます。同様に、もし私がすべてはクリシュナのものだと知っていれば、私はクリシュナの許可を得ずしては何も使いません。それが正直さです。そしてそれが知識です。知らない者は無明です。愚かなのです。そして愚かな者は犯罪行為をします。すべての犯罪者は愚かな者です。無明であるから法律を破るのです。無知は幸せではありません。(訳注、英語には「無知は幸せ」という諺があり、それを否定した表現です。「知らぬが仏」にあたります)しかし、無知が幸せであるところでは知恵ある者であることは愚かです。それが難しいところです。世界中が無明を楽しんでいます。そしてクリシュナ意識について語るとき人々はあまり喜びません。もし私が「クリシュナが所有者です。あなたは所有者ではありません」と言うと、あなたはあまり満足しないでしょう。(人々、笑う)御覧なさい―――無知は幸せなのです。ですから本当のことを言うのは私の愚かさです。したがって、無知が幸せであるところでは知恵ある者であることは愚かです。私は人々の気分を害する危険を冒しており、人々は私たちが愚か者であると思います。もし私が金持ちの人に「あなたは所有者ではありません。クリシュナが所有者です。だからあなたが持っているお金はすべてクリシュナのために使いなさい」と言うと、その人は怒るでしょう。(サンスクリット引用)「もしあなたが悪党に説教をすると、その人は腹を立てるでしょう」だから私たちは物乞いとして行くのです。「旦那様、あなたは大変素晴らしい方です。私はサンニャーシー(放棄階級)の物乞いです。私は寺を建てたいのです。いくらかのお金を恵んでくださいませんか?」そうすると彼は「おや、物乞いがやって来た。いくらかのお金を恵んでやろう」と考えます。(人々、笑う)しかし、もし私が「旦那様、あなたは好きなようにできるお金を山ほど持っておいでです。それはクリシュナのお金です。私に渡しなさい。私はクリシュナの従者です」と言えば、おお、彼は一体どんな、、、(皆、笑う)彼はあまり満足しないでしょう。一方で、もし私が物乞いとして行けば、彼は何かくれるでしょう。そしてもし私が彼に本当のことを言えば、彼はビタ一文くれないでしょう。(人々、笑う)私たちは彼に私たちは物乞いだと思いこませます。私たちは物乞いではありません。私たちはクリシュナの従者です。私たちは誰からも何も求めません。クリシュナがすべてを与えてくださると知っているからです。
Bおお、、、
SPこれが知識です。例えば、子供はときどき大切なものを取ってしまいます。だから私たちは子供にお世辞を言わねばなりません。「おお、あなたはとても良い子です。このノドアメをあげるから、その紙を私にくださいな。それはつまらない物、ただの紙切れです。」すると子供は「はい、どうぞ。おいしそうだ」と言うでしょう。2パイサ(訳注、1パイサは百分の一ルピー、極めて小額)のノドアメ―――とてもおいしくて甘い。こういうことをしなければならないのです。なぜでしょうか?なぜなら、人はクリシュナのお金を取ることで地獄へ行くからです。なんらかの方法でその人からお金を取り、クリシュナ意識の運動に参加させるのです。
Bそして、そうすればその人は地獄へ行かずにすむのですか?
SPそうです。あなたはその人を地獄へ行くことから救います。クリシュナのために使われた一文は数えられるからです。「おお、この人は私に一文をくれた。」これはアジニャータ・スクリティ(知らずに行った霊的な行い)と呼ばれます。彼らは考えが非常に浅いのです。したがって、霊的に秀でた人々は彼らを啓蒙するために動きます。彼らに機会を与えるためです。彼らにクリシュナに仕える機会を与えるのです。それが霊的に秀でた人の義務です。
Bそれが何だとおっしゃいましたか?
SPそれが義務なのです。しかし、もし霊的に秀でた者が誰かからお金を取ってそれを自分の感覚の満足のために使えば、そうすればその人は地獄に行きます。そうなればお終いなのです。彼は詐欺師、本当に犯罪者です。人は誰からでも一文でもお金を取って自分の感覚の満足のために使ってはなりません。
B私はクリシュナ意識でない知人たちのことを考えています。
SPクリシュナとは神を意味します。
B彼はほんの少しだけ神を意識しています。しかし、それでもこの人たちはとても正直で、他の人のものは全く取りません。そして彼らは他の人たちに対して正直であろうと努めます。こういう人たちは、、、
SPその人は他の人たちからは取らなくても神からは取ります。
Bでは、この人たちは半分くらい良いのですか?
SPふむ?
Bこの人たちは、それでは半分くらい良いのですか?
SPよくありません。もし人がこの原則を―――神が所有者であるという原則を学ばないなら、、、他の人の物?「他の人の物」とはどういう意味なのですか?
Bつまり、私が思い浮かべている人々というのは―――その人たちは貧しくてお金と食べ物が必要ですが、しかし―――
SP誰もがお金を必要としてます。皆が必要なのです。誰が貧しくないでしょう。ここにはたくさんの紳士が座っています。誰がお金と食べ物を必要としないでしょう。あなたもまた、お金と食べ物が必要です。では、どうやって貧しい人と豊かな人を区別できるでしょう。皆が必要なのです。もしそれがあなたの定義であれば、、、もし誰かがお金と食べ物を必要とすることが貧しいということであれば、では、すべての人がお金と食べ物を必要とするのです。だから皆が貧しいのです。
Bはい、でも、あの―――私はただ、相対的に貧しい人たちのことを考えていたのです。
SP相対的、相対的、そうかもしれません。あなたが私よりお腹を空かせている。それはあなたが空腹でないとか、私が空腹でないとかいうことを意味するのではありません。私は今は空腹を感じていません。それは私が空腹を感じないとか、空腹でないということを意味するのではありません。今のところはあなたは空腹でないかもしれません。しかし明日にはあなたは空腹になるでしょう。
B私が感じるのは―――なぜかこの人たちは―――その、、、その人たちの周りの人たちは皆盗みを働いているかもしれませんが、でも彼らはそれでも毅然として、盗みません。この人たちには何かしら良いことが起きてしかるべきです。
SPしかし、自分は泥棒ではないと思っている者もまた泥棒です。その人はすべてがクリシュナのものであると知らないからです。したがって、彼が受け取っているものは何であれ盗んでいるのです。
Bその人はあまり泥棒ではないとは言えますか?
SPあなたは私がこの包み紙の所有者であると知らないかもしれません。しかし、もしあなたがそれを持ち去れば、あなたは盗んでいるのではありませんか?
Bしかし、もしかしたら、もし私がそれはあなたの物であると知って取ったら、誰のか知らないで取るときよりも、私はより悪い泥棒であるかもしれません。私はただ、それは誰のものでもないと考えて取るのです。
SPそれもまた盗むことです。誰かのものであるに違いないからです。そしてあなたはその誰かの許可なく取ります。あなたは誰が所有者であるかはっきり知らないかもしれません。しかし、あなたは「誰かのものであるに違いない」と知っています。それが知識です。ときどき私たちは道に多くの貴重なものが放置されているのを見かけます―――道路を補修するための政府の資材や何かの電気器具などです。ある人は「おや、幸いにしてここにこんな物が落ちている。貰っておこう」と思うかもしれません。これは盗むことではありませんか?
Bそれは盗むことです。
SPその通りです。彼はこれがみな政府の資材であると知りません。彼はこれを持ち去ります。それは盗むことです。そして彼は見つかると逮捕され、罰せられます。同様に、何であれあなたが自分のものにする物―――例えば、あなたが川からコップ一杯の水をくんで飲むとしましょう。川はあなたの所有物ですか?
Bいいえ。
SPでは、それは盗むことなのです。あなたは川を作りませんでした。あなたは誰が所有者か知りません。だからそれはあなたの所有物ではありません。たとえコップ一杯の水をそれが誰の物か知らずに飲んでも、あなたは泥棒なのです。あなたは「私は正直だ」と思うかもしれません。しかし本当はあなたは泥棒なのです。あなたはクリシュナを思いださなくてはなりません。「おお、クリシュナよ。これはあなたがお創りになったものです。どうか私が飲むことをお許しください」これが正直さです。したがって、献身者は常にクリシュナのことを考えます。すべての行いにおいてです。「おお、これはクリシュナのものです」これが正直さです。クリシュナ意識なくしては、すべての人が悪党、泥棒、ろくでなし、盗人です。これらの資質を持つのです。したがって私たちの結論は、クリシュナを理解しない者は誰であれどんな良い資質も持たないというものです。正直でもなく、知識もありません。したがって、その人は三流の人物なのです。それは正しいですか?どう考えますか、ギリラージャ?
ギリラージャ(弟子、以下、G)その通りです。
SPこれは教条主義ではありません。事実なのです。(しばらくの時間が経過)さて、あなたは何が知識で何が正直さか、理解しましたか?
B私は―――ある意味では。ある意味では。
SPそれで、他の意味はありますか?(ボブ、笑う)他に何か意味はありますか?あるなら言ってみなさい!(ボブ、再び笑う。プラブパーダも笑う)他にありますか、ギリラージャ?
Gありません。
SP代案はありますか?私たちは誰かによってくつがえされるようなことは何も言いません。そのような経験を私たちは持っているのです。(訳注、誰にも言い負かされることがないという経験)むしろ、私たちは誰をも言い負かします。「何か質問はありますか?」今までクリシュナが私たちを守ってくださっています。大きな大きな国々の大きな大きな会合で、話をした後に私は「何か質問はありますか」と尋ねます。
B今は私は質問はありません。
SPロンドンでは、私たちは―――何日間の講義でしたか、あの何とかいうところで―――コンウェイ・ホール?
献身者12日間、コンウェイ・ホールです。
SPコンウェイ・ホールでしたね。
献身者12日間でした。
SPそう。会合の終わるたびに、私は「何か質問はありますか」と尋ねていたのです。
Bたくさんの質問がありましたか?
SPそれはもう。たくさんの愚かな質問がありました。(皆、笑う)
Bもう一つ質問させてください。愚かであるとはどういうことですか?
SP何の知識も持たない者は愚かであると考えられます。
インド人の紳士プラブパーダ、一つ個人的な質問があります。お尋ねしてもよろしいですか?
SPどうぞ。
紳士しばらく前、カルカッタで「動物への残酷な扱いを防ぐための一週間」という企画がありました。
SPふむ。(プラブパーダ、短く笑う)これはもう一つの愚かさです。彼らは残酷さを防ぐことを宣伝していますが、何千もの屠殺場を維持しています。分かりますか?それはもう一つの愚かさです。
紳士それで、私は一つお尋ねしたかったのです―――
SP尋ねる―――あなたが尋ねる前に私は答えを与えましょう。(皆、笑う)それはもう一つの愚かさです。彼らは日常的に動物を残酷に扱い、そして(動物愛護の)会など作っている、、、
Bもしかしたらこれは―――
SP例えば、盗賊の一味が看板を上げるとしましょう。「善人会社」ときどきそんな看板を見るのです。
Ss私たちのサンフランシスコ寺院の家主はグッドマン(善人)という名前でしたね。
SP動物がきちんと栄養を与えられていなければ、それは残酷だ、というのが哲学です。したがって、飢えさせるより殺すのがよろしい。それが彼らの理論です。そうではありませんか?
Bはい。
SP彼らは「おお、それほどの痛みを与えるよりは殺してあげるほうがいい」と言います。その理論は共産主義者の国々に入ってきつつあります。老いた男―――祖父が―――苦しんでいる。だから殺したほうが良い。そして―――アフリカには祖父たちを殺して祭りを行う一群の人々がいます。そうではありませんか?いるのです。
Ss彼らは祖父たちを食べるのですか?
SPそうです。(シャーマスンダラ、笑う)どうぞ?
献身者私には叔父と叔母がいました。彼らは軍隊に入っていました。それで彼らが外国に行くことになったとき、飼い犬を一緒に連れて行くことができませんでした。それで彼らは「かわいそうな犬。私たちと一緒にいられなくて嘆き悲しむでしょう」と言い、眠らせました―――殺したのです。
SPガンジーも生涯で一度子牛か牛を殺しました。それはとても苦しんでいたのです。だからガンジーは「苦しませる代わりに殺しなさい」と命令しました。
G昨日、霊的指導者はその弟子の罪深い行いのために苦しまねばならないとおっしゃいましたね。罪深い行いというのはどういう意味ですか?
SP罪深い行いというのは、「私は規律的な原則に従います」と約束して、もしもそれに従わないなら、それは罪深いことです。それは約束なのです。大変簡単なことです。あなたは約束を破って悪いことをします。したがってあなたは罪深い。そうではありませんか?
Gそうです。(時間が少し空く)しかし、私たちがしろと言われていることがありますが、、、
SPふむ?
G他にしろと言われていることがあって、しようとしてはいるのですが、まだちゃんとできません。
SPどういうことですか?しようとするけれどできない?どういうことですか?
G意識を集中してマントラを唱えることなどです。時々はそうしようとするのですが、でも―――
SPああ、それは過ちではありません。例えば、あなたが何かをしようとしているとします。経験が浅いので、時々は失敗します。それは過ちではありません。あなたは努力しているのです。バーガヴァタムに書いてあります―――ふむ―――もし献身者が最善を尽くしているにも関わらず能力が足りなくて時に失敗するなら、クリシュナは許してくださいます。そしてバガヴァッド・ギーターにも同じく書いてあります。(サンスクリット引用)時として、わざとではなく過去の悪い習慣によって―――習慣は第二の本能です―――人は何か下らないことをします。しかしそれはその人の過ちではありません。しかしその人はそれを悔い改めねばなりません。「私はこういうことをしてしまいました」そして、可能な限りそれを避けようとすべきです。しかし習慣は第二の本能です。時として、あなたがいかに最善を尽くしていようと、マーヤーはとても強いので、落とし穴を作って待っています。それは許されます。クリシュナが許してくださいます。しかし、わざとしている者は許されません。私が献身者だからといって、もしも「私はマントラを唱えているのだから、どんな馬鹿げたことをしたって許される」と考えるなら、それは最もはなはだしい冒涜です。

第8章クリシュナ意識の進歩(書簡の交換)

スプリングフィールド、ニュー・ジャージー
1972年6月12日

親愛なるプラブパーダ、
謹んで御前に尊敬の念を捧げます。

私はニューヨーク寺院の献身者たちとの関わりを持ち続けています。大変素晴らしい高度な献身者たちとの関わりによって、私はクリシュナ意識にいくらかでも進歩できればよいと願っています。私の婚約者は寺院を訪れ始め、少しマントラを唱えています。彼女は私がインドから手紙を書くまでクリシュナ意識について何も知りませんでした。アトレヤ・リシは私たちが理想的な家庭人の生活を見ることができるように親切に自宅に招いてくださいました。

私はピースコープでの仕事を終えるために四月の終わりにボンベイに行きました。幸いにして軽い病気にかかったので、ボンベイに2週間滞在しなければなりませんでした。私はその時間を高度で親切な献身者たちと共にジュフで過ごしました。残念なことに、あなたはもう既に5日前に去っていらっしゃいました。

私はほんの少ししか理解していませんが、クリシュナ意識の過程に確固たる信頼があり、もっともっと身に付けたいと思います。

私はロサンゼルス寺院に関するアトレヤ・リシの描写を心待ちにしています。そしてニューヨークで直接あなたとお会いできればと思っています。

本当にとてもつまらない若者に賜ったご厚情に感謝いたします。

敬具
ボブ・コーヘン


ACバクティヴェダンタ・スワミ
ISKCON ロサンゼルス
1972年6月16日

ボブ・コーヘン様
スプリングフィールド、ニュー・ジャージー

親愛なるボブ様、

あなたにお届けする神の恵みをお受け取りください。1972年6月12日付けの手紙に感謝します。そこに表されていた高尚な感情に気づき、非常に嬉しく思いました。あなたが私たちと関わりを持っていることを大変喜ばしく思います。私はあなたが大変良い若者であること、大変知性的で立ち居振る舞いが穏やかであることを知っていますので、クリシュナが大変すばやくあなたの上に恵みを賜るであろうこと、そしてあなたがクリシュナ意識で完全に幸せになる自分を感じるであろうということに全くの自信を持っています。人は自分の意思で物質自然すなわちマーヤーへの執着を放棄することによってクリシュナ意識の進歩を遂げます。そのような放棄をタパシャと言います。しかし、私たちは納得のいくだけの理由がないとあまりすすんで苦行をしようとはしません。したがって、貴君のような良き科学的および哲学的な精神の持ち主はまず超越的な知識の何たるかを理解しなければなりません。もしあなたが知識を得れば、タパシャは自動的に付いてくるでしょう。そしてそれからあなたは霊的な生活において進歩をみます。つまり、知識を得ることは人生の完成を求めるあらゆる人々にとって最初の事柄なのです。したがって、私はあなたに可能な限り毎日私たちの本を読むこと、そこに表されている哲学(subject matter)をニューヨーク寺院の献身者たちと頻繁に議論することによって、複数の異なる視点から理解しようとすることを助言します。この方法によってあなたは徐々に納得し、誠実な姿勢と献身奉仕によって進歩するでしょう。

おっしゃるように、私とクリシュナ意識の過程に幾らかの深い信頼を持つことは本当の知恵を得るための第一にして唯一の条件です。深い信頼があれば、理解はついてくるでしょう。そしてあなたの理解が深まれば、幻想エネルギーの魔力への嫌悪も深まるでしょう。そしてあなたが自分の意思で物質的な世界での呪縛を放棄するとき、進歩は保証されます。

私たちはたった今、マヤプールであなたと一緒に交わした会話のテープをタイプしているところだと思います。そしてそれを本として出版するつもりです。それは「完璧な問い、完璧な答え」と呼ばれるでしょう。配本の準備ができたらすぐに送ります。それまでの間に、ロンドンでのラサ・ヤートラ祭へ向かう途中にニューヨークに2,3日滞在する予定です。いつニューヨークに着くかはまだはっきり分かりませんが、7月の上旬になるでしょう。到着日について。バリ・マーダナと定期的に連絡を取ってください。ニューヨークでもう一度お会いできれば私はとても嬉しく思うでしょう。もし何か質問があれば、もう一度語り合いましょう。

あなたの健康と幸福感を祈りつつ。

いつもあなたの幸せを願う者
ACバクティヴェダンタ・スワミ

第9章 未来のための決断
ニューヨーク 1972年7月4日

Bあなたからの大変温かいお手紙を受け取りました。
SPおお。
B一週間ほど前です。
SPあなたはとても知性的な若者です。あなたはこの哲学を理解しようとすることができます。それはとても大切です。感覚を満足させるために人々は非常に多くのエネルギーを無駄にしています。彼らは来世で何が起こるか気づいていません。来世は存在し、しかし愚かな人々は無知です。今世は来世への準備なのです。彼らはそれを知りません。現代の教育とその大学は、この単純な知識について完全に闇の中にあります。私たちは毎瞬体を替えています―――それは医学的な事実です。この体を去った後、私たちは別の体を受け入れなければなりません。私たちはどのようにしてその体を受け入れるのでしょうか。どのような体でしょうか。これも知ることができます。例えば、もし誰かが教育を受ければ、その人が試験に合格したときは技術者や医療者になるということを人は理解することができます。同様に、今世では来世で何かになるために準備をすることができます。
バーバラ(ボブの妻。以下、Bb)私たちは自分たちが来世で何になりたいか決めることができますか?
SPはい、決められます。私たちは来世でクリシュナのところに行くと決めました。これが私たちの決断です―――家へ、至高神のもとへ帰ること。例えば、あなたが教育を得たいとしましょう。技術者になろう、医療者になろう、という決断の後、それを目標としてあなたは準備をし、教育を受けます。同様に来世で何をするか決めることができます。しかし、あなたが決めないなら物質自然が決めます。
Bb私が前世でクリシュナ意識だった可能性はありますか?
SPそれは関係ありません。しかしそうなることができます。私たちのクリシュナ意識運動を活用してください。
献身者彼女は、前世でクリシュナの献身者であって再び戻ってきた可能性はあるのかと聞いています。
SP人が完全にクリシュナの献身者であれば帰ってきません。しかし少し欠陥があれば戻ってくる可能性があります。しかし、欠陥があっても良い家庭に戻ってきます。(サンスクリット引用)「成功しなかったヨギーは、宗教的な、あるいは貴族的な家庭に生を受けます」人間の知性は未来のために決断をすることができます。それが人間の知性です。動物は決断することができません。私たちには判断力があります。もしこうすれば私の益になるだろう、もしああすれば私の益にならないだろう。これが人間の生活にはあります。だからこれを正しく使わねばなりません。人生の目標地点は何なのか知り、それに向けて決断すべきです。それが人間の文明です。
Bbあなたはクリシュナをご覧になったことがありますか?
SPはい。
Bbご覧になったのですか?
SP毎日、毎瞬です。
Bbしかし、物質的な体においてではありませんね?
SPクリシュナには物質的な体はありません。
Bbあのー、ここのお寺にはクリシュナの絵がありますが、、、
SPそれは物質的な体ではありません。あなたには物質的な目があるから物質的に見ているのです。物質的な目を持っているので、霊的な形を見ることができません。だからクリシュナはあなたが見ることができるように親切に物質の体で現れてくださるのです。しかし、クリシュナが親切にご自身をあなたの目に見えるようにしてくださったからと言って、それはクリシュナが物質の体を持っていることにはなりません。例えば、合衆国の大統領が親切にあなたの家に来てくださったとしましょう。それは彼の地位とあなたの地位が同じであることにはなりません。それは彼の親切なのです。彼は愛情からあなたの家に来てくださるかもしれませんが、しかしそれは彼があなたと同じ水準にあることを意味するのではありません。同様に、私たちは今の目ではクリシュナを見ることができないので、クリシュナは私たちの前に絵画や、あるいは石や木でできた姿として現れてくださるのです。そして、すべてのものはクリシュナなので、クリシュナはこれらの絵画や木と異なるものではありません。
Bb死んだら私たちの霊はどうなりますか?
SP別の体を得ます。
Bbすぐにですか?
SPそうです。アパートを替わるときのようなものです。まず新しいアパートの用意をしてから古いところを出てそこに行きます。
Bbでは、私たちはどういう体を出るか分かりますか?
SP分かります。ただし資格があればですが。そうでない場合は自然が決めてくれます。知っている者―――彼らは何があるか知っています。しかし、知らない者には自然が取り決めてくれます。もし知らないなら、それはあなたが自分の人生の準備をしていないことを意味し、したがって偶然的に、死に際してあなたの精神性が別の体を作り、自然がそれを提供します。
Bbそして、マントラを唱えることは―――あれは何の役割を果たすのですか?
SPそれはこの若者たちに聞いてください。(献身者たちを指して)彼らが説明してくれます。
Bもしクリシュナがすべてを統御するなら、クリシュナはどうやって非献身者を統御するのですか?
SPマーヤーによってです。政府がすべてを支配するようなものです。王国は王の政府機関によって統御されています。
Bそしてクリシュナは献身者をどう統御するのですか?
SPあなたが愛する者を統御するようにです。例えば、あなたに愛する子供がいれば、あなたはその子を本人の益のために統御します。もし彼が火を触ろうとすれば、あなたはただちに「いけません、いけません、愛しい子よ。触ってはいけません。」だからクリシュナ意識の者、献身者たちは、決して誤った方向に導かれることはありません。いつもクリシュナが導いてくださるからです。他方で、クリシュナ意識でない者はマーヤーの管轄にあり、あなたも見たようにマーヤーが必要なことをします。
Bいつ生まれるか、いつ死ぬかということはあらかじめ決まっていますか?
SP何ですか?
B私や他の人たちがいつ死ぬかということは、生まれる前に決まっていますか?私は生まれたときにある決まった寿命を持っているのですか?
SPそうです。
献身者そしてそれを変えることはできないのですか?
SPできません。しかしクリシュナなら変えられます。
献身者もし人が自殺するなら、それもあらかじめ決まっているのですか?
SPそれは決まっていません。人には少しの独立性があるから自殺することができるのです。自殺するのは自然ではありません。不自然です。私たちには独立性があるので、自然から不自然に行くことができます。囚人は自然に牢獄から出て行くことはできませんが、何とかかんとかして彼は壁を飛び越えて出て行きます。そうすると彼は、より重い懲役を科される犯罪者になります。自然に則れば、囚人は牢獄から出ることができません。しかし、もしも何とかして脱け出してしまうと、それは彼が再び犯罪者になることを意味するのです。彼は再び逮捕され、懲役の時間は長くなり、あるいはもっと罰せられるのです。つまり、自然に則れば私たちは運命を侵害することはできません。もしもそれをすれば私たちは苦しみます。しかし、私たちの運命はクリシュナ意識になるとクリシュナによって変えられます。私たちはしませんが、クリシュナがなさいます。クリシュナはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「私があなたを守る」私を守るために、その変化が起こるのです。
非献身者と献身者という二つの段階が存在します。非献身者は物質自然の統御のもとにあり、献身者はクリシュナの直接的な統御のもとにあります。偉い人、大きな会社の重役のオフィスには、多くの従業員がいます。彼らは様々の部署の管理者によって支配されています。しかし、家の外ではこうして間接的に支配する人であっても、その同じ人物が家に帰ると自分の子供たちを直接的に支配します。しかし、彼は常に統御する人です。同様に、神は常に統御者です。人は献身者になると神によって統御されます。非献身者であれば、神の代理人であるマーヤーに統御されます。しかし、人は統御されねばなりません。例えば、アメリカのすべての市民は政府によって統御されています。問題がなければ民事部署が統御します。問題があれば刑事部署が統御します。しかし、「私は統御されていない」と言うことはできません。それは不可能です。すべての人が支配されています。もし誰かが「私は支配されていない」と言うなら、その人は正気ではありません。狂っています。すべての人が統御されています。神に直接統御されているか、代理人であるマーヤーに統御されているかです。マーヤーに統御されると、あなたは人生を無駄にします。前世から今世、来世へと体を変えながら物質的な存在の中に居続けます。しかし、もしあなたが神によって統御されることを選ぶなら、その場合はこの体の後であなたは家へ、至高神のもとへ帰ります。そうすればあなたの人生は成功なのです。あなたは統御されずして存在することはできません。それは不可能です。それが知性です。そしてそれはバガヴァッド・ギーターに述べられています。(サンスクリット引用)「さ迷ったり思い巡らしたりした幾つもの生の後、人は私に服従します」(サンスクリット引用)「クリシュナ、あなたはすべてです。だから私は来ました。私を受け入れてください。私は今やあなたに完全に服従します。そしてあなたが私を支配します。私は支配されます。あまりにも長い間、私はこれらの悪党たちに支配されてきました。益はありません。私は私の感覚に統御されてきました。感覚の統御のもとで、私はいわゆる家族や社会や地域や国や―――犬にさえも仕えてきました。しかし何も私に満足を与えてくれませんでした。だから今、私には知恵がつきました。私は自分をあなたの統御のもとに置きます。犬に統御される代わりに神に統御されるようにしてください。」これがクリシュナ意識です。人がどのように犬に統御されているか、見たことはありませんか?道で犬が立ち止まり、糞をします。そして犬の主人は立って待ちます。そうではありませんか?犬は糞や尿をし、主人は「自分は主人だ」と考えているのです。しかし彼は統御されています。それがマーヤーです。彼は犬の従者になりましたが、「私は主人だ」と考えています。クリシュナ意識でなければ人は理解することができないのです。私たちはこの馬鹿者が犬に支配されていることを理解できますが、彼は自分が主人だと考えているのです。私たちには理解できます。どう考えますか?彼は犬に統御されるようになったのではありませんか?
Bその通りです。
SPしかし彼は「私は犬の主人だ」と考えています。家庭人は彼の妻や子や従者やすべての人に統御されていますが、「私が主人だ」と考えています。ニクソン大統領は自分が国の主人だと考えていますが、彼は統御されています。彼は自分の従者である国民によって直ちに解雇されうるのです!そして彼は「私はあなた方に素晴らしい奉仕をします」とか「私は第一流の召使になります」と主張して地位を得ます。だから人々は投票します。「いいでしょう。あなたが大統領になりなさい」そして彼は広告しています。「私を再選してください。私を再選してください」それは彼が従者であることを意味します。しかし彼は「私は主人だ」と考えています。それがマーヤーの位置付けなのです。マーヤーに支配されている者は自分が主人だと考えます。しかし彼は従者です。そして、献身者は決して「自分は主人だ」とは考えず、「自分は従者だ」と考えます。それがマーヤーと現実の違いです。彼は少なくとも「私は決して主人ではない、私はいつも従者だ」と知っています。従者が「私は主人だ」と考えるとき、それは幻想と呼ばれます。しかし従者が「私は従者だ」と考えるとき、それは幻想ではありません。それはムクティ、解放です。彼は誤った考えに統御されていないからです。この事柄について考えてみてください。献身者は決して誤った考えに支配されません。彼は自分の位置付けを知っています。(サンスクリット引用)ムクティ、解放とは、人の本来の立場に位置することを意味します。私は従者です。ですから、もし私が自分は従者であると知れば、それは私の解放です。そしてもし私が自分は主人だと思えば、それは呪縛です。これが制約された人生と解放された人生の違いです。
これらのクリシュナ意識の献身者たちは、いつも自分たちはクリシュナの従者であると考えています。だから彼らは皆解放されています。彼は解放のために努力をするのではありません。彼らは本来の位置にいるので、すでに解放されているのです。彼らは人工的に「私は主人だ」と考えているのではありません。それ以外の人々は皆「私は主人だ」と考えています。それは幻想です。あなたは人生のどの時点でも主人ではありえません。従者であり続けねばならないのです。それがあなたの立場です。人が人工的に自分は主人であると考えるとき、それはその人の制約された人生です。そして人が自分の意思で至高の主人に服従するとき、それはその人の解放です。献身者は解放だけのための努力はしません。クリシュナかクリシュナの代理人に服従すれば、彼らは直ちに解放されるのです。
Bプラブパーダ、宗教に関わる人々は、あの「イエス様狂い」のような人たちなどは、イエス様が彼らを導いてくださっていると主張します。これは本当ですか?
SPそうです。しかし彼らは導きに従いません。キリスト教徒たちと同じです。イエスは彼らを「殺してはいけない」と導きます。しかし彼らは殺しています。イエスの導きはどこですか?ただ「私はイエス・キリストに導かれている」と言うこと―――それで十分ですか?「しかし私は彼の言うことはどうでもよい」それが導きですか?イエス・キリストに導かれている人はいません。彼らの主張は誤りです。本当にイエス・キリストに導かれている人を探すのは大変難しいのです。イエス・キリストの導きはそこにありますが、誰も彼のことを気にかけないのです。彼らはイエス・キリストを自分たちの罪を被ってくれる請負人として理解しました。それが彼らの哲学です。彼らは様々な罪を犯し、気の毒なイエス・キリストが責任を負います。それが彼らの宗教です。だから彼らは言います。「私たちは非常に素晴らしい宗教を持っています。私たちのすべての罪深い行いのためにイエス・キリストが死んでくださいます」これが良い宗教でしょうか?彼らはイエス・キリストへの同情を全く持ちません。彼は私たちの罪のために死にました。なぜ私たちが再び罪を犯して良いでしょう。私たちの罪のためにあれほど偉大な人生が犠牲になりました。だから私たちはイエス・キリストによって導かれるべきなのです。しかしあなたがそうしないなら―――「ああ、いくらでも罪を犯し続けよう。イエス・キリストが私の罪のすべてを無効にする契約をしてくださる。私はただ教会に言って告解し、帰って来て再びいくらでも下らないことをしよう」―――これが大変良い知識を表していると思いますか?
Bいいえ。
SP本当は、イエス・キリストに導かれている者は確かに解放されます。しかし、本当にイエス・キリストに導かれている者を探すのは非常に難しいのです。
B「イエス様狂い」の人たちはどうですか?イエス運動に加わった若い人たちです。彼らは非常に頻繁に聖書を読み、そして―――
SPしかし暴力は聖書の命令に反します。もし彼らが聖書に従っているのなら、どうして殺すことができるでしょう?
B彼らの一人に聞いてみたことがあります。すると彼はイエスも聖書で肉を食べていたと主張しました。
SPそれは構いません。彼は何を食べても良いのです。彼は力強いのです。しかし彼は「あなたは殺してはならない、あなたは殺すことを止めなくてはならない」と命令しました。彼は力強いのです。彼は全世界を食べることもできます。しかしあなたはイエス・キリストと比べてはなりません。あなたはイエス・キリストの真似をしてはなりません。あなたは彼の命令に従わねばなりません。そうすればあなたはキリストに導かれています。それが本当の従順さです。それはバーガヴァタに説明されています。イースヴァラである者、すなわち権限を与えられた者は、何でもすることができます。しかし私たちは真似をすることはできません。私たちは彼の命令に従わねばなりません。「彼が言うことを私はしよう」あなたは真似をしてはなりません。あなたはイエス・キリストは肉を食べたと言います。それを認めるとして、あなたはどういう状況で彼が肉を食べたか知りません。彼は自分は肉を食べていて、それなのに他の人たちには殺すなと助言をする。あなたはイエス・キリストが矛盾したことを言っていたと思いますか?
Bいいえ。
SP彼がそんなことをしていたはずはありません。それが彼を本当に信頼するということです―――彼がそんなことはしないということを。ではなぜ彼は肉を食べたのでしょうか。彼は知っていますが、しかし彼は私に殺さないでくれと言いました。私は従わねばなりません。それが本当の秩序です。あなたはイエス・キリストではありません。あなたは彼の真似をしてはなりません。彼は自分の命を神のために犠牲にしました。あなたにそれができますか?では、なぜあなたがイエス・キリストの真似をすべきでしょうか。あなたは肉を食べることによってイエス・キリストの真似をしています。なぜイエス・キリストの真似をして神意識を広めるためにあなたの生命を犠牲にしないのですか?どう考えますか?たしかに、伝道するときは自分の考えていることを言うことができます。彼らはいわゆるキリスト教徒です―――しかし彼らは神のために何をしていますか?太陽のことを考えてみてください。太陽は尿を吸収しています。あなたは尿を飲めますか?もしあなたが太陽を真似したいなら―――「おお、太陽が尿を吸収している。私も尿を飲もう」―――できますか?イエス・キリストは力強いのです。彼は何でもすることができます。しかし私たちは真似することはできません。私たちは単に彼の命令に従わねばならないだけです。それが本当のキリスト教です。私たちは力強い人の真似をすることはできません。それは誤りです。私たちのヴェーダ文献には毒の海の記述があります。人々はどうしてよいか分かりませんでした。すると主シヴァは「いいでしょう、私が飲みます」とおっしゃいました。そして彼は毒の海を丸ごと飲んで自分の喉に留められました。あなたは毒を飲むことができますか?海とは言いません―――たったのコップ一杯では?では、どうして私たちに主シヴァを真似ることができるでしょう。主シヴァは決して私たちに毒を飲めとは助言なさいませんでした。つまり、あなたは真似るのではなく助言に従わねばならないのです。あのLSDや大麻を使う人々は、主シヴァはガニャを吸っておいでだったと言います。しかし主シヴァは毒の海を丸ごと飲みました。あなたにそれができますか?主シヴァの教えを、それを受け入れるべきです。彼は最善の礼拝はヴィシュヌの礼拝であるとおっしゃいます。(サンスクリット引用)パーヴァティーがどんな方法による礼拝が一番良いかと尋ねたとき、彼は「一番の礼拝は主ヴィシュヌ(クリシュナ)の礼拝です」と仰せられました。多くの半神たちが存在しますが、彼はヴィシュヌの礼拝を最善のものとしてお薦めになりました。そして、ヴィシュヌの礼拝よりさらに良いのはヴァイシュナヴァの礼拝です。タディーヤーナーム―――主の従者、あるいは主に関わる人たちです。例えば、私たちはこのトゥラシーという植物を礼拝しています。私たちはすべての植物を礼拝しているのではありませんが、このトゥラシーはクリシュナすなわちヴィシュヌと大変密接な関係にあるので、だから私たちはそれ(彼女)を礼拝しているのです。同様に、もし何かg悪利主なと親密な関係にあれば、それを礼拝することはヴィシュヌの礼拝より優れています。
Bそれはなぜですか?
SPクリシュナがお喜びになるからです。あなたが犬を飼っていて、誰か友人が来てあなたの犬をなでたと仮定しましょう。(スリラ・プラブパーダ、大きくなでる仕草をする)あなたは嬉しくなります。あなたは嬉しくなるのです。「おお、この人は私の友達だ」彼らがどう考えるか分かりますか?こういうことです―――誰か友人が来て、「まあ、なんて良い犬を飼っておいででしょう」と言うのです。(笑い)(インド人の来客があり、入室する)
SPどうぞプラサーダをお召し上がりください。(スリラ・プラブパーダは来客との会話を続ける。時々は英語、時々はヒンディー語で。時はニューヨーク滞在の最終日であり、ロンドン行きの飛行機はわずか2-3時間後に出発の予定。ボブはスリラ・プラブパーダをケネディ空港に送るために車で来ている。献身者達は荷物を車に運んだりスリラ・プラブパーダの最新の翻訳の原稿を整理したり、その他の最終的な準備をしたりして走り回っている)
Ssすべて準備が整いました、スリラ・プラブパーダ。車が待っております。
SPそうですか?もう出発できますか?よろしい。ハレ・クリシュナ! 

終わりに

1976年7月19日、スリラ・プラブパーダ睨下は私の妻と私を弟子として迎え入れ下さり、私たちはバクティ・デヴィー・ダースィー(訳注、妻)、およびブラーマティールサ・ダーサ(訳注、本人)という名を賜りました。その日を振り返ると、私は睨下とハレ・クリシュナ運動の兄弟弟子たちと出会えた自分がいかに幸運であったかが分かります。

洗礼にあたって数珠を手渡されたとき、私は規律的な原則に従うことと毎日マントラを唱えることを約束しました。その4年前、スリラ・プラブパーダは私にこれらの原則に従うよう助言してくださいました。そして、6ヶ月のうちに私も他の献身者たちのようになるだろうとおっしゃいました。世俗的な映画やレストランなどのすべての不必要なもの(アナルサ)は私にとって魅力的でなくなる、ということです。「人間の人生のすべては浄化のためにあります」とプラブパーダはおっしゃいました。浄化とは何を意味するかよく分かっていなかったにも関わらず、私は浄化されることに興味がありました。私は高いレベルの意識を見つけたくてピースコープに加わってインドに行きました。私は感覚を満足させることが唯一無二であると信じることはできませんでした。にも関わらず、私自身は感覚に縛られていました。後になって、私はヨガとは感覚の独裁から自由になることを意味するのだと理解することができました。

アメリカに帰って、私は地質学を学ぶために大学院に入り、結婚し、少々家庭的な責任に絡まって動きが取れなくなってしまいました。しかし私は非常に頻繁にスリラ・プラブパーダと交わした会話のことを考えました。彼の主な教えの一つは、単に献身者たちと関わりを持つことでした。そしてこれは私は喜んで実行しました。献身者たちは違うのです。至高主への愛情あふれる奉仕が人生の目的地であると理解することによって、彼らは感覚の満足と偽りの自我のつまらない事柄に巻き込まれることを避けます。お寺を訪れるのは何よりも清清しいものでした。徐々に妻と私は多くの献身者たちと友人になり、何かの形で運動に奉仕したいと思うようになりました。私は大学でバクティ・ヨガ・クラブの発起人になり、私達のアパートを旅行中の献身者たちのグループの中継点として提供しました。

スリラ・プラブパーダの教えを守っているうちに、私達の食事さえ浄化されました。インドで私はスリラ・プラブパーダに、自分はクリシュナは神であると理解できないので献身者たちのように食べ物を捧げることができない、と申し上げました。するとプラブパーダは、単に食べる前に神に感謝するように、とおっしゃいました。私達はこれは実行し、ついに献愛の念が成熟し、実際に食べ物を至高主に捧げ始めました。至高主のために料理をするのは、なんと素晴らしい気持ちのするものでしょう!これは本当に私たちを舌の支配から自由にしてくれました。

そしてとうとう私達は寺院生活に完全に関わる準備ができました。クリシュナの恵みによって、私はテキサスにある寺院の近くに仕事を得て、すべての寺院行事に参加し始めました。このようにして、すべてのアナルサが消えました。ちょうどスリラ・プラブパーダが予言なさったように。それは肩から重荷が降りたようなものでした。私達はもはや感覚の僕(しもべ)ではなく、神とその献身者たちの僕となったのです。スリラ・プラブパーダの教えの価値は明らかになりました。人間は、ロバのように働き犬のように楽しむために生きているのではありません。浄化とは、より高い水準の意識に到達することを意味します。

私は洗礼を受けましたが、今でも兄弟弟子たちの霊的な認識を尊敬しており、上達したいと願っています。実に、洗礼は始まりであるのです。

ブラーマティールサ・ダーサ・アディカーリー(ボブ・コーヘン)

ヒューストン、テキサス
1976年10月16日 

尊師A.C.バクティヴェダーンタ・プラブパーダ睨下

尊師A.C.バクティヴェダーンタ・プラブパーダ睨下は、インドはカルカッタにおいて1896年にこの世に降誕なさいました。彼はご自身の霊的指導者であられるスリラ・バクティスィッダーンタ・サラスヴァティ・ゴスヴァーミーに1922年にカルカッタで初めてお会いになりました。卓越した献愛的な学者であって64のガウディーヤ・マサ(ヴェーダ研究所)の設立者であられたバクティスィッダーンタ・サラスヴァティは、この教育のある若者を好ましくお思いになり、彼の人生をヴェーダの知識を教えるために捧げるよう説得なさいました。スリラ・プラブパーダは彼の生徒になり、11年後の1933年にアラハバッドにおいて正式に洗礼を受けた弟子となられました。

1922年に初めて出会われたとき、スリラ・バクティスィッダーンタ・サラスヴァティ・サークラはスリラ・プラブパーダにヴェーダの知識を英語で広めるように依頼なさいました。その後の歳月において、スリラ・プラブパーダはバガヴァッド・ギーターの解説を書き、ガウディーヤ・マサの業務を補助し、1944年には独力で英語の隔週誌を始め、編集し、原稿をタイプし、ガリ刷りを校正しました。冊子を無料で配布する作業も行い、出版の継続のために苦労を重ねました。一旦発刊されると雑誌は廃刊することなく、現在では西洋の弟子によって継続されています。

スリラ・プラブパーダの哲学的な学習と献愛の念を認識し、ガウディーヤ・ヴァイシュナヴァ協会は1947年に「バクティヴェーダンタ」の称号を戴与しました。1950年、44歳のとき、スリラ・プラブパーダは結婚生活から引退し、4年後に研究と著述により多くに時間を捧げるためにヴァーナプラスタ(引退)階級となられました。スリラ・プラブパーダは聖都ヴリンダーヴァナに旅し、そこで歴史的な中世のラーダー・ダーモダラ寺院において大変簡素は状況で暮らし、数年間にわたって深い研究と著述に従事なさいました。彼は1959年に放棄階級となられました。ラーダー・ダーモダラにおいて、彼は生涯の最高傑作に取り掛かられました。1万8千節からなるシュリーマッド・バーガヴァタム(バーガヴァタ・プラーナ)の複数巻からなる翻訳と解説です。彼はまた「他の惑星への簡単な旅行」もお書きになりました。(訳注、「クリシュナ意識の単語帳」サイトにおいて全文の日本語訳を紹介しています。)

バーガヴァタムを3巻出版した後、スリラ・プラブパーダは彼の霊的指導者の使命を果たすために1965年に合衆国においでになりました。その時以来、睨下はインドの哲学的および宗教的な古典のために40巻以上の権威ある翻訳と解説と要約研究を執筆なさいました。

1965年に貨物船で初めてニューヨークにいらしたとき、スリラ・プラブパーダは事実上一文無しでいらっしゃいました。1966年7月に国際クリシュナ意識協会を設立なさったのは、その後一年近くの大変なご苦労の後でした。彼の注意深い指導のもとで、協会は10年のうちに百近いアーシュラマと学校と寺院と研究所と農園共同体から成る世界的な連合へと成長しました。

1968年にスリラ・プラブパーダはウェスト・バージニアの丘陵地帯に実験的なヴェーダ共同体であるニュー・ヴリンダーヴァナを建設なさいました。今では千エーカー以上の繁栄する農園共同体となったニュー・ヴリンダーヴァナの成功に力を得て、彼の生徒たちは以来合衆国および海外にいくつかの類似の共同体を建設しました。

1972年には睨下はテキサス州のダラスにグルクラ学校を設立して、西洋にヴェーダ式の小学校と中学校の教育を導入しました。学校は1972年に3人の子供達で始動し、1975年の初めには在籍者数は150人に増加しました。

スリラ・プラブパーダはまた、インドのウェスト・ベンガル州のシュリーダーマ・マーヤープールに大きな国際センターを建てるよう激励しました。ここはまた、計画されているヴェーダ研究のための研究所の予定地でもあります。類似のプロジェクトとして、インドはヴリンダーヴァナの華麗なクリシュナ・バララーマ寺院と国際ゲストハウスがあります。これらは西洋人が滞在してヴェーダ文化を直接経験するための施設です。

スリラ・プラブパーダの最も偉大な貢献はしかし、著作物です。その権威と深さと明解さによって学究界で深い尊敬を得ているこれらの本は、多数の大学のコースで必読の教科書として使用されています。著作は11の言語に翻訳されています。睨下の作品のみを出版するために1972年に設立されたバクティヴェダンタ・ブック・トラスト(出版社)は、こうしてインドの宗教と哲学の分野における世界最大の出版社になりました。同社の最新のプロジェクトはスリラ・プラブパーダの最も新しい作品の出版です。スリラ・プラブパーダがわずか18ヶ月で完成させた、ベンガル語の宗教的な古典である「シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ」の17巻の翻訳と解説です。

過去10年間、高齢にも関わらずスリラ・プラブパーダは講義ツアーで世界を12回も回り、6大陸に訪問なさいました。そのような多忙なスケジュールでありながら、スリラ・プラブパーダは精力的な執筆を続けておられます。彼の著述は、ヴェーダ哲学、宗教、文献、および文化に関する文字通りのライブラリー(図書館、書庫、文庫)を構成しています。