前書き 

「死後の生命はあるでしょうか」 
魂が死後に辿る素晴らしい旅路について、インドで最も名高いヴェーダの権威が驚くべき証拠を紹介します。魂がどのように体から体へ移るのか、そして、至高の地へ至ることでこの生と死の循環を止めるにはどうすればいいのか、尊師プラブパーダが教えてくださいます。 

第一章 「私たちはこの体ではありません」 

dehī nityam avadhyo ’yaṁ
dehe sarvasya bhārata
tasmāt sarvāṇi bhūtāni
na tvaṁ śocitum arhasi

「おお、バーラタの子孫よ、体の中に住む者は永遠であり、滅びることがない。 
したがって、何者のためにも嘆き悲しむ必要はない。」(バガヴァッド・ギーター2.30) 

自己認識のための最初の一歩は、自分が体とは異なる存在であることを自覚することです。 
「私はこの体ではなく、霊魂である」というのは、死を超越してその彼方にある霊的な世界に入ることを望む者が必ず認識しなければならない事柄です。 
これは、単に「私はこの体ではない」と口にすればいいというものではなく、実際に自覚しなければなりません。 
一見簡単そうですが、これは案外難しいものなのです。 
私たちはこの体ではなく純粋な意識であるのですが、どうしたわけか体という衣服の中に閉じ込められてしまいました。 
本当に死を超越した幸せと独立を望むのであれば、私たちは自己を確立して純粋な意識という本来の立場を固守する必要があります。 

体という概念の中で生きている私たちが考える幸せというのは、狂乱状態の人が考える幸せのようなものです。 
哲学者によっては、体を自分だと認識するこのような狂乱状態はあらゆる活動を避けることによって治癒できる、と主張する者もあります。 
物質的な活動は私たちにとって苦労の源であるため、そうした活動を実際に停止すべきだというのです。 
彼らの言う至高の完全な状態とは、仏教徒の言う涅槃(ニルヴァーナ)のようなものです。そこではいかなる活動もなされません。 
仏陀は、物質要素の組み合わせによって体は発生し、何らかの原因でこれらの物質要素が分離したり分解したりすれば苦しみの原因は取り除かれる、と主張しました。 
たとえば、私たちが大きな家を所有しており、そのため多額の税金を課されて苦しんでいるとしましょう。一つの簡単な解決方法は家を壊してしまうことです。  
しかしバガヴァッド・ギーターは、この物質の体は何よりも大切なものというわけではない、と記しています。 
物質要素が組み合わさってできているこの体の奥には霊があり、その霊の特性は意識です。 

意識を否定することはできません。 
意識のない体は死体です。 
体から意識がなくなると、ただちに口は話さなくなり、目は見なくなり、耳は聞くことをしなくなります。 
このことは子供でさえ理解できます。 
体を動かすためには絶対に意識が必要であるというのは事実なのです。 
この意識というのは何でしょうか。 
熱と煙が火の特性であるように、意識は魂の特性です。 
魂、すなわち自己そのもののエネルギーは意識という形に作られます。 
実に、意識は魂の実在を証明するものであるのです。 
これはバガヴァッド・ギーターの哲学であるに留まらず、すべてのヴェーダ文献の結論です。 

シャンカラーチャーリャを奉じる非人格主義者たちも、主シュリー・クリシュナに始まる師弟継承に連なるヴァイシュナヴァたちも、魂が存在しているという事実を認めています。しかし、仏教哲学者たちは認めません。 
仏教徒は、物質が組み合わさる過程の中のある特定の段階で意識が生成される、と強く主張しています。 
しかし、この議論には反証することができます。 
私たちの手元には物質の構成要素がいくらでも存在していますが、それから意識を作ることができないという事実があるからです。 
死んだ人の体に物質的な要素が完全に揃っていても、その人の意識を呼び戻すことはできません。 
体は機械とは違うのです。 
機械の一部が壊れれば取り替えて修理することができ、それでまた動くようになります。 
しかし体が壊れて意識が去ってしまうと、私たちには壊れた部分を取り替えて意識を回復させることはできないのです。 
魂と体は異なるものであり、魂が内在する限りにおいて体は動くことができます。 
魂なくして体を動かすことは全く不可能なのです。 

私たちは自らの肉体的な感覚で魂を認識することができないので、その存在を否定します。 
実際には、私たちが見ることのできないものはたくさんあるのです。 
私たちには空気もラジオ波も音も見えません。私たちの鈍い感覚では微細なバクテリアも知覚できません。しかし、だからと言ってこれらのものが存在しないわけではないのです。 
顕微鏡その他の機器の助けによって、かつては不完全な感覚がその存在を否定していた様々なものを、今では私たちは認識することができます。 
原子のように小さい魂が今までのところ感覚器官や機器によって認識されていないからといって、それは存在しないのであると結論づけるべきではありません。 
しかし魂はその特性と効果を通して認識することができます。 

シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中で、私たちの悲惨さはすべて体を自分自身であると誤って認識することに原因があると指摘しています。 

mātrā-sparśās tu kaunteya
śītoṣṇa-sukha-duḥkha-dāḥ
āgamāpāyino ’nityās
tāṁs titikṣasva bhārata

「おお、クンティーの息子よ、熱と冷たさ、幸せと不幸せが現れては消える非永遠なる様子は、冬や夏の季節が訪れては去るようなものだ。
それらは感覚認知が原因で生じる。おお、バーラタの末裔なる者よ、人はこれらに惑わされずに耐えることを学ばねばならない。」 (バガヴァッド・ギーター2.14)

人は夏には水に触れると喜びを感じるでしょう。しかし、冬にはその同じ水を冷た過ぎると言って避けるでしょう。 
どちらの場合も水に変わりはないのですが、体との関係によってそれを喜ばしいと感じたり辛いと感じたりするのです。 

苦しみや幸せなどの感情のすべては体が原因です。 
ある状況の下で体と心は幸せや苦しみを感じます。 
実際には私たちは幸せを追い求めています。魂は本質的に幸せな存在だからです。 
魂は至高存在の欠かすべからざる小片であり、 
至高存在はsac-cid-ānanda-vigrahaḥ [Bs. 5.1]知識と幸福と永遠性そのものです。 
実に、いかなる宗派にも属さないクリシュナという名前自体、「最高の喜び」を意味しています。 
クリシュは「最高の」、ナは「喜び」を意味します。クリシュナは喜びそのものであり、主の欠かすべからざる小片である私たちも喜びを追い求めます。 
大海の水の一滴は海全体と全く同じ成分を有しています。 
そして私たちは、至高全体の大変小さな一部ではありますが、至高者と全く同じエネルギー成分を有しているのです。 

原子レベルの大きさしかない魂は、そんなに小さくても体全体に素晴らしい動きをさせることができます。 
世界を見渡すと、たくさんの都市や高速道路や橋や、素晴らしい建物や記念碑や偉大な文明があります。誰がこれらのものを作ったのでしょう。 
すべて、体の中の小さな霊的な輝きの為せる業なのです。 
小さな霊的な輝きにこれほど素晴らしいことができるのなら、至高の霊的全体にはどれほどのことができるのか、私たちには想像の端緒を掴むことさえできません。 
小さな霊的な輝きが自然に求めるものは、全体の持つ性質である知識と幸福と永遠性です。 
しかし、こうした欲求は物質の体が原因で満たされず、挫折感と不満が募っています。 
魂の欲求を満たすための方法はバガヴァッド・ギーターに記されています。 

今は私たちは不完全な機器を使って永遠性と幸福と知識を得ようとしています。 
実際には、これらの目標への進歩は物質の体によって阻止されています。 
したがって、私たちは体を越えたところにある自分の存在を認識できるようにならなくてはなりません。 
私たちはこの体ではない、という理論上の知識はその役には立ちません。 
私たちは常に、体の従者ではなく主人として、自己を体から切り離しておかねばならないのです。 
車を上手に運転する方法を知っていれば大いに役立ちます。しかし、その方法を知らないと危険な目にあいます。 

体は感覚からできており、感覚は常に貪欲に対象を求めています。 
目は美しい人を見て「あそこに美しい娘がいる、美しい若者がいる、見に行こう」と私たちを促します。 
耳は「美しい音楽が聞こえる。聞きに行こう」と誘います。 
舌は「おいしい料理を出すレストランがある、食べに行こう」と言います。 
このようにして感覚は私たちをあっちこっちへ引きずりまわします。そして、私たちはそのために途方に暮れているのです。 

indriyāṇāṁ hi caratāṁ
yan mano ’nuvidhīyate
tad asya harati prajñāṁ
vāyur nāvam ivāmbhasi

「水の上の舟が強い風に流されるように、これらの感覚の一つにでも心が集中すれば、人の知性は引きずられます。」 (バガヴァッド・ギーター2.67)

私たちは緊急に感覚を制御することを学ぶ必要があるのです。 
ゴースヴァーミーという名前は、感覚を制御する方法を身につけた人に与えられます。 
ゴーは「感覚」を、スヴァーミーは「制御する者」を表します。 
したがって、感覚を制御することができる人はゴースヴァーミーであると見なされます。 
クリシュナは、錯覚に基づいて、物質の体を自分であると認識する者は自分を霊魂として正しく自覚できないと述べています。 
身体的な喜びは明滅する明かりのようであり、理性を酔わせ、つかの間に現れては消えるという性質のため、私たちは本当にその喜びを楽しむことはできません。 
本当の喜びは魂のものであり、体のものではありません。 
私たちは体の喜びによって道を見失うことのないように人生を形作らねばなりません。 
もし何かの理由で道をそれてしまったら、体を越えたところにある本当の自己認識を確立させることができません。

bhogaiśvarya-prasaktānāṁ
tayāpahṛta-cetasām
vyavasāyātmikā buddhiḥ
samādhau na vidhīyate

traiguṇya-viṣayā vedā
nistraiguṇyo bhavārjuna
nirdvandvo nitya-sattva-stho
niryoga-kṣema ātmavān

「感覚の喜びと物質的な富に執着しすぎている者、およびそれらのものに惑わされる者の心には、至高主への献身奉仕への断固たる決心は生じない。 
ヴェーダは物質自然の3つの相という事項について述べている。 
「おお、アルジュナよ、これらの相の上に上りなさい。 
これらすべてを超越しなさい。 
すべての二元性と、利益と安全のためのすべての不安から自由になり、自己の本来の姿を確立しなさい。」 (バガヴァッド・ギーター2.44-45)

ヴェーダという言葉は「知識の書」を意味します。 
様々に異なる国や民族や環境などに伴って、多くの知識の書があります。 
インドでは知識の書はヴェーダと称されます。 
西洋では旧約聖書、新約聖書と呼ばれます。 
イスラム教徒はコーランを聖なる書として受け入れます。 
これらの知識の書の目的は何でしょうか。 
これらは私たちが純粋な魂としての立場を理解するのを助けるために存在しているのです。 
目的は特定の規則や規律で身体的な活用を制約することにあり、 
これらの規則や規律は道徳律として知られています。 
例えば聖書には私たちの生活を規律することを目的とした十戒があります。 
最高の完成に至るためには体を制御せねばならず、 
規律原理なくして人生を完成させることはできません。 
規律原理は国によって、あるいは聖典によって異なるでしょうが、それは構わないのです。 
聖典はそれぞれの時代と状況と人々の精神性に合わせて書かれているからです。 
しかし、規律正しい制御という原理は同じです。 
同様に、政府は市民が従うべき特定の規律を作ります。 
政府や文明では、何らかの規律無くして発展することは不可能なのです。 
先の節でシュリー・クリシュナはアルジュナに「ヴェーダの規律原理は物質自然の3つの相、すなわち徳、激情、無明を制御するためにある」と語っていらっしゃいます。 
しかし、クリシュナはアルジュナに物質自然の二元性を越えて霊魂としての純粋な本来の立場を確立するように助言しています。 

すでに指摘したように、熱と冷たさ、喜びと苦しみなどの二元性は、感覚器官がその対象物と接することによって生じます。 
言い換えると、これらは体を自分であると認識することで生成するのです。 
クリシュナは、快楽と権力に身を捧げた者は、犠牲と行動の規制によって天上の快楽を約束するヴェーダの言葉に流される、と述べています。 
快楽は霊魂の性質であるので、それは私たちの生来の権利です。 
しかし霊魂は物質的に楽しもうとしており、それが間違いなのです。 

人々は皆、楽しみを求めて物質的な事柄に目を向け、できる限りの知識をかき集めています。 
ある者は化学者となり、別の者は物理学者となり、政治家となり、芸術家となり、そのほかのあれこれとなっています。 
誰もが何でも少しずつ知っているか、そうでなければ何かを全部知っていて、こういうことが普通は知識だと思われています。 
しかし、体を去ると同時にこれらの知識はすべて奪い去られます。 
前世において、ある人は素晴らしい知識を蓄えていたかもしれません。 
しかし、今世においては学校に行って読み書きを習うところから始めて一からやり直さなければならないのです。 
過去世で得た知識はすべて忘れられます。 
本当は私たちは永遠の知識を求めているのです。 
しかしそれはこの物質の体では得られません。 
私たちは皆この体を通して楽しみを求めていますが、身体的な楽しみは私たちの本当の楽しみではありません。 
それは人工的なものなのです。 
この人工的な楽しみを続けたいなら、永遠の楽しみを味わえる立場に至ることはできない、ということを、私たちは理解しなければなりません。 

体(を持っている状態)は病気であると考えねばなりません。 
病人は感覚を正しく使うことができません。(自分自身を正しく楽しむ事ができません) 
例えば、黄疸患者は砂糖菓子を苦いと感じますが、健康な人は甘さを感じることができます。 
どちらの場合も砂糖菓子は同じものですが、私たちの在り様によって異なる味に感じられます。 
同様に、体を持って生きているという病的な状態が治らない限り、霊的な生活の甘さが味わえません。
実に、霊的な生活が苦く感じられるのです。 
同時に、物質的な生活の楽しみを増すことで、私たちはさらに病状を悪化されています。 
腸チフス患者は固体食を食べることができません。 
誰かが「食べたいだろうから」と与えて、その患者がそれを食べると、病状が悪化して命を危険にさらすのです。 
もしも私たちが本当に物質的な存在の悲惨さからの解放を望むのであれば、身体的な欲求と快楽を最小限に抑えなければなりません。 

実際のところ、物質的な快楽は本当は全く快楽ではないのです。 
本当の快楽は消えることがありません。 
マハーバーラタには、霊的な水準に上昇しようと努力しているヨーギー(ヨーギノー)は本当の楽しみ(ラマンテー)を得ており、彼らの楽しみはアナンテー(終わりがない)である、という記述があります。(ラマンテー ヨーギノー ナンテー) 
これは、彼らの快楽は至高の享楽者(ラーマ)であるシュリー・クリシュナと関連しているからです。 
バガヴァーン・シュリー・クリシュナは本物の享楽者であり、バガヴァッド・ギーターにも以下のように確認されています。 

bhoktāraṁ yajña-tapasāṁ
sarva-loka-maheśvaram
suhṛdaṁ sarva-bhūtānāṁ
jñātvā māṁ śāntim ṛcchati

「すべての犠牲と禁欲の究極の享楽者であり、すべての天体と半神たちの至高の主であり、すべての生命体に恩恵を施し幸せを祈る者、そのようなものとして私を知る聖者は、物質的な悲惨さの牙を逃れて平安を得る。」 (バガヴァッド・ギーター5.29)

「ボーガ」は「快楽」を意味し、私たちの快楽は楽しまれる者(楽しませる者)としての立場を理解することで得られます。 
本当に楽しむ者は至高主であり、私たちは主によって楽しまれるのです。 

物質世界では、この関係は夫と妻の間に見られます。 
夫は楽しむ者(プルシャ)であり、妻は楽しまれる者(プラクリティ)です。 
「プリ」という言葉は女性を意味します。 
プルシャ、すなわち霊は主体であり、プラクリティ、すなわち自然は受身体です。 
しかし、快楽は夫と妻の両方に及びます。本当の快楽が存在するときは、夫のほうが余計に楽しんでいて妻には楽しみが少ない、というようなことはないのです。 
男性が優性で女性が劣性ではありますが、こと快楽に関しては区別はありません。 
大きな視野で見ると、生命体は誰一人として享楽者ではないのです。 

神はご自身を多くの拡張体に広げました。私たちはこれらの拡張体の一部なのです。 
神は比べるもののない唯一最高の存在ですが、楽しむために多数になろうと望みました。 
私たちは経験上、部屋に一人で座って独り言を言ってもほとんど、あるいは全く楽しくないことを知っています。 
しかし、そこに5人いれば楽しみは増しますし、 
多くの人々の前でクリシュナのことを語ることができれば楽しみはなおさら大きくなります。 
楽しみとは多様性を意味するのです。 
神はご自分の楽しみのためにたくさんになりました。そして、私たちの立場は楽しまれる者のそれです。 
それが私たちの本来の立場であり、私たちが創造された目的です。 
楽しむ者と楽しまれる者は、どちらも意識を持っています。 
しかし、楽しまれる者の意識は楽しむ者の意識に従属しています。 
クリシュナが楽しむ者であって私たちは楽しまれる者ではありますが、楽しさはすべての者に平等に及びます。 
私たちの楽しみは、私たちが神の楽しみに参加するときに完成します。 
身体的な水準で、私たちだけが神から離れて楽しむことは不可能です。 
バガヴァッド・ギーター全体を通して、密度の濃い物質である身体の水準での物質的な楽しみを思いとどまるよう語られています。 

mātrā-sparśās tu kaunteya
śītoṣṇa-sukha-duḥkha-dāḥ
āgamāpāyino ’nityās
tāṁs titikṣasva bhārata
「おお、クンティーの息子よ、熱と冷たさ、幸せと不幸せが現れては消える非永遠なる様子は、冬や夏の季節が訪れては去るようなものだ。 
どれも感覚認知が原因なのです。おお、バーラタの末裔なる者よ、人はこれらに惑わされずに耐えることを学ばなければならない。」(バガヴァッド・ギーター2.14) 

密度の濃い物質の体は物質自然の相の相互作用の結果であり、いずれ破壊される運命にあります。 

antavanta ime dehā
nityasyoktāḥ śarīriṇaḥ
anāśino ’prameyasya
tasmād yudhyasva bhārata

「破壊され得ず、測り知れず、永遠なる生命体の、単に物質的な体だけが破壊される運命にある。 
だから、おお、バーラタの子孫よ、戦いなさい。」(バガヴァッド・ギーター2.18) 

シュリー・クリシュナは、そのため、存在の物質的な概念を超越して本来の霊的な人生に到達するように私たちに勧めます。 

guṇān etān atītya trīn
dehī deha-samudbhavān
janma-mṛtyu jarā-duḥkhair
vimukto ’mṛtam aśnute

「体に閉じ込められた者がこれらの3つの相(徳、激情、無明)を超越することができるとき、その者は生、死、老いと苦しみから解放され、現在の人生においてさえ甘露を楽しむことができる。」( バガヴァッド・ギーター14.20)

純粋なるブラフマ・ブータの霊的な水準、3つの相を超えたところに自己を確立するために、私たちはクリシュナ意識という手段を用いなければなりません。 
チャイタンニャ・マハープラブは、私たちにクリシュナの名前を唱えることという贈り物を下さいました。ハレー・クリシュナ、ハレー・クリシュナ、クリシュナ・クリシュナ、ハレー・ハレー、ハレー・ラーマ、ハレー・ラーマ、ラーマ・ラーマ、ハレー・ハレー。御名を唱えることで、霊的な水準に自己を確立する過程が容易になります。 
この方法は、バクティ・ヨーガ、またはマントラ・ヨーガと呼ばれ、最高位の超越主義者たちによって用いられています。 
この後に続く章では、超越主義者たちがいかにして生と死と物質の体を越えたところにある自己を認識し、自らを物質宇宙から霊的な宇宙に移行させるのかという主題について論じていきます。 

第2章「死のときの昇格」 

ヨーギーと呼ばれる超越主義者には何種類かあります。 
ハタ・ヨーギー、ジニャーナ・ヨーギー、デャーナ・ヨーギー、そしてバクティ・ヨーギーですが、どれも霊的な世界に移行される資格があります。 
ヨーガという言葉は「上に繋げる」ということを意味しており、ヨーガ体系は私たちが超越的な世界とつながることができるようになることを目的としています。 
前の章で述べたように、私たちは本来はみな至高主と繋がっていますが、今は物質的な汚染に影響されているのです。 
私たちは霊的な世界に返らなければならない立場にあり、上方に繋げるその過程をヨーガといいます。 
ヨーガという言葉には「足す」という意味もあります。 
現在では私たちは神を差し引いた状態、すなわち至高存在を差し引いた状態にあります。 
私たちがクリシュナを、すなわち神を自分たちの人生に足すとき、人間としてのこの人生は完成します。 

完成のためのその過程は、死のときに終わります。 
生きている間にその完成に至る方式を実践しなければなりません。 
この物質の体を捨てなければならない死の時に、その完成が実現するようになるためです。 

prayāṇa-kāle manasācalena
bhaktyā yukto yoga-balena caiva
bhruvor madhye prāṇam āveśya samyak
sa taṁ paraṁ puruṣam upaiti divyam

「死のときに生命の気を眉間に固定して、献愛に溢れて至高主を思い出している者は、必ず至高の人格神のもとに至る。」(バガヴァッド・ギーター8.10) 

学生がある学問を4年や5年勉強して、それから試験を受けて学位を受け取るのと同じように、人生という学問では生きている間に死のときの試験に向けて練習すれば、そしてそれに合格すれば、私たちは霊的世界に移行されます。 
死のときに私たちの全人生が試されます。 

yaṁ yaṁ vāpi smaran bhāvaṁ
tyajaty ante kalevaram
taṁ tam evaiti kaunteya
sadā tad-bhāva-bhāvitaḥ

「何であれ、体を捨てるときに覚えている状態を、人は間違いなく獲得する。」 (バガヴァッド・ギーター8.6)

ベンガル語には「何であれ人が完成のためにすることは死のときに試される」という諺があります。 
クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、人が体を捨てるときに何をするべきかということを描写しています。 
クリシュナはデャーナ・ヨギー(瞑想者)に対しては以下の句を語られました。 

yad akṣaraṁ veda-vido vadanti
viśanti yad yatayo vīta-rāgāḥ
yad icchanto brahmacaryaṁ caranti
tat te padaṁ saṅgraheṇa pravakṣye

sarva-dvārāṇi saṁyamya
mano hṛdi nirudhya ca
mūrdhny ādhāyātmanaḥ prāṇam
āsthito yoga-dhāraṇām

「ヴェーダをよく修めた者、オームカーラを声に出す者、そして放棄階級の偉大なる聖人たちは、ブラフマンに帰入する。 
そのような完成を望んで、人は性的な禁欲を守る。 
私は今お前に、人が救いを得るための過程を説明する。 
ヨーギーであるということは、すべての感覚的な活動から執着をなくすことを意味する。 
すべての感覚の扉を閉じ、心を心臓に、生命の気を頭の頂上に固定して、人は自己をヨーガで確立する。」 
(バガヴァッド・ギーター8.11-12)

ヨーガ体系では、この過程は「正反対」を意味する「プラテャーハーラ」と呼ばれます。 
生きている間は目は俗世の美しさを見ることに携わっていますが、死のときには人は感覚を対象から引っ込めて内なる美しさを見なければなりません。 
同様に、耳はこの世の様々な音を聞くのに慣れていますが、死の時には内部から発する超越的なオームカーラを聞かねばなりません。 

oṁ ity ekākṣaraṁ brahma
vyāharan mām anusmaran
yaḥ prayāti tyajan dehaṁ
sa yāti paramāṁ gatim

「このヨガの方式を実践し、至高の文字列である聖なる音節オームを振動させた後で、もし人が至高の人格神のことを考えて体を去れば、その人は必ず霊的な天体に至る。」 (バガヴァッド・ギーター8.13)

このようにして、すべての感覚を外的な活動から退けて、ヴィシュヌ・ムールティの形、すなわち神の形に集中しなければなりません。 
心はとても落ち着きがなくて乱れやすいものですが、心臓にいらっしゃる主に固定させなければなりません。 
心が心臓に固定して生命の気が頭の頂上に移行したとき、人はヨーガの完成に到ることができます。 

この時点でヨーギーはどこに行くのかを決めます。 
物質的な宇宙には無数の天体があり、この宇宙の外には霊的な宇宙があります。 
ヨーギーはヴェーダ文献からこれらの場所に関する情報を得ています。 
アメリカへ行こうとする人が本を読んでそこがどんなところかを幾らか知ることができるように、人はヴェーダ文献を読んで霊的な天体に関する知識を得ることができるのです。 
ヨーギーはこれらすべての描写を知っており、宇宙船の助け無しにどこでも好きな天体に自分を移行させることができます。 
機械的な手段による宇宙旅行は、他の天体への昇格のために認められた方法ではありません。 
もしかしたら、多大な時間と労力と資金をつぎ込めば、宇宙船や宇宙船などの機械的な方法でほんの2-3人は他の天体に行きつけるかもしれませんが、これはとてもやっかいで非現実的な方法です。 
どちらにしても、機械的な方法では物質宇宙の外へ行くことはできません。 

高位の天体へ移行するための方法として一般的に認められているのは、ジニャーナ方式と呼ばれる瞑想的なヨーガ体系です。 
ひるがえって、バクティ・ヨーガ体系は物質的な天体への移行のために実践されるものではありません。 
至高主であるクリシュナに仕える者は、この物質世界のどの天体にも興味がないからです。 
彼らは物質宇宙のどの天体に入っても生老病死という4つの原理が存在することを知っているからです。 
高位の天体ではこの地球上より寿命は長いでしょうが、それでも死はあります。 
「物質宇宙」と言うとき、私たちは生老病死が存在する場所を指し、「霊的宇宙」はそれらが存在しない場所を指しています。 
知性ある者は、物質宇宙の中のどの天体へも昇格しようとはしません。 

もし人が機械的な手段で高位の天体に入ろうとすれば、瞬間的な死は確実です。 
体は環境の急激な変化に耐えられないからです。 

しかし、もし人がヨーガの体系という手段で高位の天体に行こうとするなら、その天体での誕生に適した体を得るでしょう。 
このことは、この地球上でも例を見ることができます。 
私たちは水の中という環境の海中には住めませんし、水生生物が地上に住めないことも知っています。 
この地上でさえ特定の場所に住むには特定の体を持たねばならないことからも分かるように、他の天体に住むにもそれなりの体が必要です。 
高位の天体では体は地上でよりずっと長持ちします。地上の6ヵ月が1日に相当するからです。 
このように、ヴェーダでは高位の天体の住人の寿命は1万年以上だと描写しています。 
しかし、そのように長い寿命にも関わらず、誰もが死を迎えます。 
たとえ人が2万年生きようと、5万年生きようと、何百万年生きようと、物質世界ではきっちりと年月が数えられ、死が待ち受けています。 
どうやってこのような死による征服を逃れることができるでしょうか。 
それがバガヴァッド・ギーターの教えです。 

na jāyate mriyate vā kadācin
nāyaṁ bhūtvā bhavitā vā na bhūyaḥ
ajo nityaḥ śāśvato ’yaṁ purāṇo
na hanyate hanyamāne śarīre

「魂には生も死もない。 
また、一旦存在すると、存在しなくなることもない。 
魂は生まれず、永遠であり、常に存在し、死なず、太古の存在でである。 
魂は体が死んでも死なない。」 (バガヴァッド・ギーター2.20)

私たちは霊魂なので、したがって永遠です。 
では、なぜ私たちは自らに生と死を運命付けるのでしょう。 
この問いかけをする者は知性のある者です。 
クリシュナを意識している者は大変知性的です。 
彼らはどこであれ死の待つ天体には入ろうと思わないからです。 
神のそれに似た体を得るためには、彼らは長い寿命を退けます。 
Īśvaraḥ paramaḥ kṛṣṇaḥ sac-cid-ānanda-vigrahaḥ [Bs. 5.1].「サット」は「永遠」を、「チット」は「完全なる知識」を、そして「アーナンダ」は「あふれる喜び」を意味します。 
クリシュナはすべての喜びの宝庫なのです。 
霊的な世界に移行すれば、それが(クリシュナの天体である)クリシュナローカであれ、他の霊的な天体であれ、私たちは(クリシュナの体に)似たサット・チット・アーナンダな(永遠で知識と喜びに溢れた)体を受け取るのです。
このように、クリシュナ意識の者の目的はこの物質世界の中の高位の天体に昇格しようとしている者とは異なるのです。 

個人の自己、すなわち魂は、微細で霊的な輝きです。 
ヨーガの完成は、この霊的な輝きを頭の頂上に移動させることによって完成します。 
この過程に成功すると、ヨーギーは物質世界の中のどこであれ、望む天体に移行することができます。 
月がどんなところか知りたいという好奇心を持っているヨーギーは、そこに行くことができます。 
高位の天体に興味があるなら、そこに行けます。 
旅行者が地球上でニューヨークなりカナダなり他の街なりに行くのと同じようなものなのです。 
地球上では、どこに行っても同じように査証や税関の制度が機能しています。 
そして、物質的な天体も同じくどこに行っても生老病死という原理が機能しています。 

Oṁ ity ekākṣaraṁ brahma: ヨーギーは死のときに超越的な音の振動の簡潔な形であるオーム、オームカーラを発音することができます。 
もしもヨーギーがこの音を振動させることができて、同時にクリシュナを、すなわちヴィシュヌ(マーム・アヌスマラン)を覚えていることができれば、そのヨーギーは最高の目的地に至ることができます。 
ヨーガの過程というのは心をヴィシュヌに集中させることなのです。 
非人格主義者は何らかの至高主の形を想像しますが、人格主義者はそれを想像するのではなく、実際に見るのです。
クリシュナの姿を想像するのであれ、実際に見るのであれ、人はクリシュナの人格的な形に心を集中させなければなりません。 

ananya-cetāḥ satataṁ
yo māṁ smarati nityaśaḥ
tasyāhaṁ sulabhaḥ pārtha
nitya-yuktasya yoginaḥ

「おお、プリサーの息子よ、わき目を振ることなく私を覚えている者は、簡単に私を手に入れる。常に献身的な奉仕に携わっているからだ。」(バガヴァッド・ギーター8.14) 

バガヴァッド・ギーターによるだけでなく、一時的な生活、一時的な喜び、そして一時的な設備に満足している者は知性的ではないと考えられます。 
ギーターによると、脳の内容が大変乏しい者は一時的な物に興味を持ちます。 
私たちは永遠です。それなら、なぜ一時的なものに関心を持たなければならないのでしょう。 
非永遠な状況を望む者はいません。 
アパートに住んでいて家主に「出て行ってくれ」と言われたら、悲しく思うでしょう。 
しかし、もっといいアパートに移るのであれば悲しくはありません。 
私たちは永遠なので、永遠の住まいを求めるのは本来の性質なのです。 
私たちは本当は恒久的な存在なので、死にたくありません。 
また、老いたり病気になったりすることも望みません。これらはどれも外的な、あるいは非恒久的な状態だからです。 
私たちは元来は熱にうなされたりするはずではないのですが、時には熱が出ます。そして、熱が出ないように予防したり、良くなるために薬を飲んだりしなければなりません。 
四重の悲惨さは熱のようなもので、どれも物質の体に起因します。 
もしも何とかして物質の体から抜け出すことができれば、それに必ず付き物の悲惨さからも逃れることができます。 

クリシュナはここで、非人格主義者のために、この一時的な体から抜け出すためにオームの音節を振動させることを薦めています。 
こうすることで、彼らは確実に霊的世界に移行することができます。 
しかし、彼らは霊的世界に入ることはできても、そこにある天体には入れません。 
彼らは外側であるブラフマジョーティに留まります。 
ブラフマジョーティは「太陽光」に、霊的な天体は「太陽そのもの」に例える事ができます。 
霊的な天空の中で、非人格主義者たちは至高主の光輝であるブラフマジョーティの中に留まります。 
非人格主義者たちは霊的な火花としてブラフマジョーティに置かれ、このようにしてブラフマジョーティは霊的な輝きで満ちるのです。 
霊的な存在への同化というのは、このような状態を指します。 
しかし、人がブラフマジョーティに同化することを、それと一つになることとして考えるべきではありません。 
霊的な火花の個体性は維持され、しかし非人格主義者たちは人格的な形を取りたくないので、光輝の中の一粒の火花となるのです。 
ちょうど太陽の光が無数の原子の粒から成るように、ブラフマジョーティは無数の霊的な火花から成ります。 

しかし、生命体として私たちは楽しみを求めます。 
存在することは、それだけでは十分ではないのです。 
私たちは存在すること(サット)だけでなく幸せ(アーナンダ)をも欲します。 
生命体は、その完全な姿においては、永遠性、知識、幸福という3つの性質から成ります。 
非人格的にブラフマジョーティに入る者は、いまやブラフマンと同質に融合したということを完全に知りつつ、しばらくの間そこに留まることができます。 
しかし、彼らはその永遠のアーナンダ、幸福を得ることができません。 
その部分が欠けているからです。 
人はしばらくの間は部屋で一人で本など読んだり考え事をしたりして楽しく過ごすことができます。 
しかし、何年も何年もその部屋でそうしていることはできません。そして、当然ながらずっと永遠にそうしていることはできません。 
だから、非人格的に至高存在に同化する者にとっては、何らかの人格的な関わりを得るために物質界に転落する恐れが常に待ち受けているのです。 
これがシュリーマド・バーガヴァタムの結論です。 
宇宙飛行士は何千キロも何万キロも旅するでしょうが、どこかの星に安らぎを見つけることができなければ、またこの地球に戻ってこなければなりません。 
どうあろうと休息は必要なのです。 
非人格的な形では、安らぎは不確実です。 
そのため、シュリーマド・バーガヴァタムは、「どんなに大変な努力をしても、非人格主義者が霊的な世界に入って非人格的な形を得れば、至高主に愛と献身をもって仕えないので、再び物質界に戻ってくる」と述べています。 
この地上にいる限り、私たちはクリシュナを、至高主を愛して仕えることを学ばなければなりません。 
これを学ぶことができれば、私たちは霊的な天体に入ることができます。 
霊的な世界での非人格主義者の立場は非永遠であり、淋しさから何らかの人格的な関わりを持とうとします。
しかし、非人格主義者は至高主と人格的な関わりを持たないので、物質世界に戻ってそこにいる制約された生命体たちと関わらねばならないのです。 

したがって、私たちが本来の立場を知ることは何よりも大事なことなのです。 
私たちは永遠性と完全な知識と喜びを欲する存在です。 
長い間たった一人でブラフマジョーティの中に放っておかれると、喜びを得ることができないので、物質世界が与えてくれる喜びを受け入れます。 
しかしクリシュナを意識していると本物の喜びを楽しむことができます。 
物質世界では一般に最高の快楽は性行為であると理解されています。 
これはクリシュナと関わることの喜びという霊的世界における性の喜びが歪んだ形で反映されたものです。 
しかし、私たちはそこでの喜びが物質世界での性的な喜びのようなものだと考えてはなりません。 
それは異なっているのです。 
しかし、霊的世界に性生活がなければここに反映されることもありません。 
ここではそれは単なる歪んだ反映に過ぎませんが、本当の生活はすべての喜びに満ち溢れたクリシュナの中にあるのです。 
したがって、最良の方法は今自分自身を訓練して、死のときに霊的宇宙へ、クリシュナローカへと移行して、クリシュナと関わることができるようにすることです。 
ブラフマ・サムヒター(5.29)に、シュリー・クリシュナと主のお住まいが以下のように描写されています。 

cintāmaṇi-prakara-sadmasu kalpa-vṛkṣa-
lakṣāvṛteṣu surabhīr abhipālayantam
lakṣmī-sahasra-śata-sambhrama-sevyamānaṁ
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi

「私は父祖の初めであり太古の主であるゴーヴィンダを崇拝します。 
主は牛の世話をし、すべての望みを叶え、 
そのお住まいは霊的な宝珠で作られ、何百万という望みを叶える木々に囲まれ、 
いつも大いなる尊敬と愛情をもって何百何千というラクシュミー、すなわちゴピー(牛飼いの娘)たちがお仕えしています。」 

これがクリシュナローカの描写です。 
家々は「タッチストーン」(試金石)というもので作られています。 
タッチストーンが触れたものは、何でもすぐに黄金に変わります。 
木々は「望みの木」と呼ばれる、望みを叶える木です。何でも望むものをそれらの木々から得ることができるからです。 
この世界ではマンゴーの木からはマンゴーを、リンゴの木からはリンゴを得ることができますが、そこではどの木からでも何でも欲しいものを得ることができます。 
同様に、牛はスラビと呼ばれ、無限に牛乳を与えてくれます。 
これらがヴェーダ文献に見られる霊的な天体の描写です。 

この物質世界で、私たちは生や死や様々な苦しみに慣れてしまいました。 
物質的な科学者たちは感覚的な快楽と破壊のための多くの設備を発明しました。 
しかし、彼らは老と病と死という問題に対しては何の解決策も見出していません。 
彼らは死と老いと病いを食い止める機械を作ることはできません。 
私たちは死を加速させるものを作ることはできますが、死を止めるものを作ることはできません。 
しかし、知性的な者は物質生活の四重の悲惨さには関心がありません。その代わり、霊的な天体への昇格に興味があるのです。 
永続的に恍惚状態(ニッチャ・ユクタシャ ヨーギナハ)にある者は、他の何事にも関心をそらしません。 
その人は常に恍惚状態にあります。 
その人の心は常に、それることなくクリシュナのことで満たされています。(アナンニャ・チェ-ターハ サタタム) 
「サタタム」は、「いつでもどこでも」と意味します。 

インドでは私はヴリンダーヴァナに住んでいました。今はアメリカにいますが、だからといってヴリンダーヴァナにいないわけではありません。 
なぜなら、私がいつもクリシュナのことを思うなら、物質的な場所の如何にかかわらず、私はいつもヴリンダーヴァナにいるからです。 
クリシュナを意識しているということは、その人がゴーローカ・ヴリンダーヴァナというその霊的な天体に常にクリシュナと共に住んでいるということ、そして、単にこの物質の体を捨てるときを待っているに過ぎないということを意味しています。 
「スマラティ・ニチャシャハ」は、「永続的に思い出していること」を意味し、永続的にクリシュナを思い出している者にとっては、主は簡単に獲得することのできる存在「タシャーハム・スラバハ」となります。 
クリシュナ御自身が、自分はこのバクティ・ヨーガの方法で簡単に手に入れられる、とおっしゃいます。 
それなら、なぜ他の方法に目をくれる必要があるでしょう。 
私たちは毎日24時間「ハレー・クリシュナ ハレー・クリシュナ クリシュナ・クリシュナ ハレー・ハレー ハレー・ラーマ ハレー・ラーマ ラーマ・ラーマ ハレー・ハレー」を唱えることができます。 
難しい規則は何もありません。 
路上でも、地下鉄でも、家でも、職場でも、唱えることができます。 
税金も費用もかかりません。 
ぜひ実行してください。 

第3章 「物質的な天体からの解放」

第1段落
The jnanis and yogis are generally impersonalists, 
ジナーニーとヨギーは、一般に非人格主義者です。

and although they attain the temporary form of liberation by merging into the impersonal effulgence, the spiritual sky, 
霊的な天空という非人格的な光輝の中に同化することによって一時的な形の解放を獲得しますが、

according to Srimad-Bhagavatam their knowledge is not considered pure. 
シュリマッド・バーガヴァタムによれば彼らの知識は純粋とは見なされません。

By penances, austerities, and meditations they can rise up to the platform of the Supreme Absolute, 
苦行と禁欲生活と瞑想によって彼らは至高完全存在の水準に上ることができますが、

but as has been explained, they again fall down to the material world, 
すでに説明したように、彼らは再び物質世界へと墜落します。

because they have not taken Krsna's personal features seriously.
クリシュナの人格的な特徴を真剣にとらえていないからです。

Unless one worships the lotus feet of Krsna, he again has to descend to the material platform. 
クリシュナの蓮の御足を崇拝しないかぎり、人は再び物質の水準へと落ちるしかないのです。

The ideal attitude should be, 
理想的な姿勢とは、次のようなものです。

"I am Your eternal servitor.
「私はあなたの永遠の僕です。

Please let me somehow engage in Your service." 
何とかしてお役に立たせてください。」

Krsna is called ajitah-- unconquerable--
クリシュナは「アジター」、すなわち「征服され得ない者」と呼ばれます。

for no one can conquer God, 
神を征服できる者はいないからです。

but according to Srimad-Bhagavatam, one with this attitude easily conquers the Supreme. 
しかし、シュリマッド・バーガヴァタムによると、このような姿勢を持つ者は簡単に至高存在を征服します。

Srimad-Bhagavatam also recommends that we give up this futile process to measure the Supreme. 
また、シュリマッド・バーガヴァタムは、至高存在を推し量ろうという無駄な努力をやめるように薦めています。

We cannot even measure the limitations of space, 
私たちは宇宙の限界でさえ測り知ることができません。

what to speak of the Supreme. 
ましてや至高存在であれば、何をか言わんや。

It is not possible to measure the length and breadth of Krsna by one's minuscule knowledge, 
クリシュナの大きさを人の微小な知識で測ることは不可能です。
(訳注、the length and breadth of というのは慣用句で、縦横全部、隅々まで、というような意味です。直訳すると長さと幅ですが、つまりは大きさのことです。この文は、人間に神のすべてを測り知ることはできない、と訳してもいいと思います。)

and one who arrives at this conclusion is considered intelligent by Vedic literature. 
そして、この結論に辿りつく者はヴェーダ文献によると知性ある者と見なされます。

One should come to understand, submissively, that he is a very insignificant segment of the universe. 
自分が宇宙の大変小さな一部分であるということを、人は素直に理解するようになるべきなのです。
(訳注、insignificantは、とても小さくて取るに足らないことを指します。)

Abandoning the endeavor to understand the Supreme by limited knowledge or mental speculation, 
限られた知識や精神的な推察で至高存在を理解しようとする努力を放棄し、

we should become submissive and hear of the Supreme through the authoritative sources such as Bhagavad-gita or through the lips of a realized soul.
謙虚になって、バガヴァッド・ギーターや真理を悟った魂(の口)などの正統的な源から至高存在のことを聞くべきなのです。

第2段落
In Bhagavad-gita Arjuna is hearing about God from the lips of Sri Krsna
Himself. 
バガヴァッド・ギーターの中で、アルジュナは神についてシュリー・クリシュナご自身の口から聞いています。

In this way Arjuna set the criterion for understanding the Supreme by
submissive hearing. 
このようにして、アルジュナは謙虚に聞くことによって至高存在を理解するための手本を示しました。

It is our position to hear Bhagavad-gita from the lips of Arjuna or his bona fide representative, the spiritual master. 
私たちの立場は、バガヴァッド・ギーターをアルジュナや彼の正当な代理人である霊的指導者からから聞くことにあります。

After hearing, it is necessary to practice this acquired knowledge in daily life. 
聞いたあとは、この知り得た知識を日々の生活の中で実行する必要があります。

"My dear Lord, You are unconquerable," the devotee prays, 
「我が親愛なる主よ、何物もあなたを征服することはできません」と献身者は祈ります。

"but by this process, by hearing, You are conquered." 
「しかし、聞く、というこの方法によって、あなたは征服されます。」

God is unconquerable, but He is conquered by the devotee who abandons mental speculation and listens to authoritative sources.
神は征服され得ない存在ですが、精神的な推察を捨てて正統な源から聞く献身者によって征服されます。

第3段落
According to Brahma-samhita there are two ways of acquiring knowledge
ブラーマ・サムヒターによると、知識を得るには2通りの方法があります。

--the ascending process and the descending process. 
上昇方式と下降方式です。

By the ascending process one is elevated by knowledge acquired by himself. 
上昇方式では、人は自分で得た知識で高みへと上っていきます。

In this way one thinks, 
この方法では、人は次のように考えます。

"I don't care for any authorities or books.
「どんな正統な権威も本も、どうだっていい。
(訳注、care for というのは、何かを好むときに使う表現です。これは権威や聖典などを好まない反抗的な姿勢を表現した一文です。)

I will attain knowledge myself by meditation, philosophy, etc. 
私は瞑想や哲学などによって自分で知識を身につける。

In this way I will understand God." 
私はこうやって神を理解するだろう」

The other process, the descending process, involves receiving knowledge from higher authorities.
もう一つの方法である下降方式には、より高い権威者から知識を受け取るということが関わってきます。

Brahma-samhita states that if one takes to the ascending process and travels at the speed of mind and wind for millions of years, he will still end up not knowing. 
ブラーマ・サムヒターには、人が上昇方式を取るならたとえ風や心の速度で何百万年進んでも(神を)知ることなく終わるだろう、と書かれています。

For him, the subject matter will remain elusive and inconceivable. 
そのような人にとっては、(神という)主題は掴みどころがなくて不可解なままでいるでしょう。

But that subject matter is given in Bhagavad-gita: ananya-cetah. 
しかし、その主題はバガヴァッド・ギーターの中に与えられています。「アタニャ・セター」。

Krsna says to meditate on Him without deviation from the path of devotional service in submission. 
クリシュナは、「献身奉仕の道からそれることなく謙虚に私に瞑想しなさい」とおっしゃいます。

For one who worships Him in this way--tasyaham sulabhah: "I become easily available." 
主をこのように崇拝する者にとって、「タシャーハム・スラブハー」、「私は簡単に手に入るようになります」。

This is the process: if one works for Krsna twenty-four hours a day, Krsna cannot forget him. 
これがその(決定的な)方法なのです。もし人が一日24時間クリシュナのために働くなら、クリシュナはその人を忘れることができません。

By becoming submissive, he can attract the attention of God. 
謙虚になることによって、その人は神の関心をひきつけるのです。

As Guru Maharaja Bhaktisiddhanta Sarasvati used to say, 
尊師マハラジャ・バクティシッダーンタ・サラスヴァティは、かねがね次のようにおっしゃっていました。

"Don't try to see God. 
「神を見ようとしてはなりません。

Is God to come and stand before us like a servant just because we want to see Him? 
私たちが神を見たいからといって、神が従者のようにやってきて私たちの目の前に立つものでしょうか。

That is not the submissive way. 
それは謙虚な方法とはいえません。

We have to oblige Him by our love and service."
私たちは愛と奉仕によって神を喜ばせなくてはならないのです。」 

第4段落
The proper process for approaching Krsna was given to humanity by Lord Caitanya Mahaprabhu, 
主チャイタンニャ・マハープラブは、クリシュナに近づくための正しい方法を教えてくださいました。
(訳注、主語は「クリシュナに近づくための正しい方法」ですが、日本語の構文では「何かが誰かによって与えられました」という文は少々座りが悪いので、「誰かが何かをくれました」というふうに形を変えて訳します。でも、お気づきかと思いますが、このサイトでは基本的に逐語訳をしています。)

and Rupa Gosvami, His first disciple, appreciated it. 
そして、主の最初の弟子であったルーパ・ゴスヴァーミーはそれに深く感謝していました。

Rupa Gosvami was a minister in the Muhammadan government, but he left the government to become a disciple of Caitanya Mahaprabhu. 
ルーパ・ゴスヴァーミーはイスラム政権の大臣でしたが、チャイタンニャ・マハープラブの弟子になるために政府を去りました。

When he first went to see the Lord, Rupa Gosvami approached Him with the following verse:
初めて主に会ったとき、ルーパ・ゴスヴァーミーは次のような詩句を主に捧げました。

namo maha-vadanyaya
krsna-prema-pradaya te
krsnaya krsna-caitanyanamne
gaura-tvise namah

"I offer my respectful obeisances unto the Supreme Lord, Sri Krsna Caitanya, 
「私は至高主シュリー・クリシュナ・チャンタンニャに尊敬をもって服従します。

who is more magnanimous than any other avatara, even Krsna Himself, 
主は他のどのアヴァターラ(化身)よりも、クリシュナ御自身よりも寛大でいらっしゃいます。

because He is bestowing freely what no one else has ever given--pure love of Krsna." 
他の誰も与えなかったクリシュナへの純粋な愛を惜しげもなく授けていらっしゃるからです。」

Rupa Gosvami called Caitanya Mahaprabhu "the most munificent, the most charitable personality," 
ルーパ・ゴスヴァーミーはチャイタンニャ・マハープラブを「最も気前が良くて最も情け深い人物」と呼びました。

because He was offering the most precious thing of all very cheaply--love of God. 
神への愛という何よりも最も価値のあるものを、とても安く提供していらしたからです。

We all want Krsna and are all hankering after Him. 
私たちは皆クリシュナを欲しており、クリシュナを得ようとしてがんばっています。

Krsna is the most attractive, the most beautiful, the most opulent, the most powerful, and the most learned. 
クリシュナは最も魅力的で、最も美しく、最も豊かで、最も力強く、最も知恵のあるお方です。

That is the object of our hankering. 
それが私たちの欲望の対象です。

We're hankering after the beautiful, the powerful, the learned, the wealthy. 
私たちは美と力と知と富を求めています。

Krsna is the reservoir of all of this, 
クリシュナはこれらすべての宝庫なので、

so we need only turn our attention toward Him, 
私たちは関心を主に向けさえすればよいのです。

and we will get everything. 
そうすればすべてを得られます。

Everything--whatever we want. 
何もかも、欲しいものはすべてです。

Whatever is our heart's desire will be fulfilled by this process of Krsna consciousness.
私たちの心の望みは、すべてこのクリシュナ意識という方法で叶えられます。

第5段落
For one who dies in Krsna consciousness, as stated before, entrance into Krsnaloka, the supreme abode where Krsna resides, is guaranteed. 
クリシュナを意識して死ぬ者は、前述したように、クリシュナの住む至高の住みかクリシュナロカに確実に入ることができます。

At this point one may ask what the advantage is in going to that planet, 
この時点で、その天体へ行くことの利点は何かという疑問があるかもしれません。

and Krsna Himself answers,
それについては、クリシュナ御自身が以下のように答えていらっしゃいます。

mam upetya punar janma
duhkhalayam asasvatam
napnuvanti mahatmanah
samsiddhim paramam gatah

"After attaining Me, the great souls, who are yogis in devotion, never return to this temporary world, which is full of miseries, 
「私を得た後は、献愛に溢れたヨギーである偉大な魂は、悲惨さに満ちたこの一時的な世界に戻ることはありません。

because they have attained the highest perfection." (Bg. 8.15)
彼らは最高の完成を得たからです。」

第6段落
This material world is certified by Sri Krsna, the creator, as duhkhalayam--
full of miseries. 
この物質世界は、創造者であるシュリー・クリシュナによって「ドゥーカーラヤム」すなわち「悲惨さに満ちている」と断定されています。

How then can we make it comfortable? 
それでは、どうやって私たちがここを居心地の良い場所にできるというのでしょう。

Is it possible to make this world comfortable by the so-called advancement of science? 
いわゆる科学の進歩によってこの世界を快適にすることは可能でしょうか。

No, this is not possible. 
それは不可能です。

As a result, we do not even wish to know what these miseries are. 
結果として、私たちはこれらの悲惨さが何であるかを知りたいとも思いません。

The miseries, as stated before, are birth, old age, disease, and death, 
前述したように、これらの悲惨さとは生、老、病、死です。

and because we cannot make a solution to them, we try to set them aside. 
そして、私たちはこれらに解決策を見出すことができないので、見ないふりをしています。

Science has no power to solve these miseries that are always giving us trouble. 
科学は、いつも私たちを困難な目にあわせるこれらの悲惨さを解決する力を持ちません。

Instead, they divert our attention to the making of spaceships or atomic bombs. 
その代わり、彼ら(科学者たち?科学の非力さ?)は私たちの関心をそらして宇宙船や原子爆弾を作ることに向けさせます。

The solution to these problems is given here in Bhagavad-gita: 
これらの問題への解決策は、バガヴァッド・ギーターの中に与えられています。

if one attains to Krsna's platform he does not have to return again to this earth of birth and death. 
クリシュナの水準(領域)に達することができれば、その人は生と死のあるこの地上に再び戻る必要はありません。

We should try to understand that this place is full of miseries. 
私たちは、この場所は悲惨さに満ちているということを理解しようとすべきです。

It takes a certain amount of developed consciousness to understand this. 
このことを理解するには、ある程度発達した意識が必要です。

Cats and dogs and hogs cannot understand that they are suffering. 
犬や猫や豚は自分が苦しんでいるのだということを理解できません。

Man is called a rational animal, 
人間は「理性的な動物」と呼ばれますが、

but his rationality is being used to further his animalistic propensities instead of to find out how to get liberation from this miserable condition. 
この悲惨な状態から抜け出す方法を見つけるためではなく、人間の動物的な性癖を深めるためにその理性が使われているのが現状です。

Here Krsna explicitly states that one who comes to Him will never be reborn to suffer miseries again. 
ここでクリシュナははっきりと、「私のもとに来た者は二度と決して生まれ変わって苦しみをなめることはない」と述べていらっしゃいます。
(訳注、この構文も「苦しみをなめるために生まれ変わる」が直訳ですが、もうちょっと自然な日本語にしてみました。)

Those great souls who come to Him have attained the highest perfection of life, 
主のもとに至った偉大な魂たちは、最高の完成を得ました。

which alleviates the living entity from the suffering of conditional existence.
その完成は生命体の制約された存在の苦しみを和らげてくれます。 

第7段落
One of the differences between Krsna and an ordinary being is that an ordinary entity can be in only one place at a time, 
クリシュナと普通の生命体との違いの一つは、普通の生命体は一度に一つの場所にしかいられないけれど、

but Krsna can be everywhere in the universe and yet also in His own abode, simultaneously. 
クリシュナは宇宙の中のどこにでもいて、同時にご自身の独自のお住まいにもおいでになることができる、という点です。

Krsna's abode in the transcendental kingdom is called Goloka Vrndavana. 
超越的な王国にあるクリシュナのお住まいは、ゴロカ・ヴリンダーヴァナと呼ばれます。

The Vrndavana in India is that same Vrndavana descended on this earth. 
インドのヴリンダーヴァナは、その同じヴリンダーヴァナがこの地上に降臨したものです。

When Krsna descends Himself by His own internal potency, His dhama, or abode, also descends. 
クリシュナがご自分の内的な力で降臨なさるとき、主のダーマ、すなわちお住まいも降臨します。

In other words, when Krsna descends on this earth, He manifests Himself in that particular land.
言い換えると、クリシュナがこの世に降臨なさるとき、その特定の地にお現れになるということです。

Despite this, Krsna's abode remains eternally in the transcendental sphere, i the Vaikunthas. 
このことにも関わらず、クリシュナのお住まいは永遠に超越的な領域に、すなわちヴァイクンサに留まります。

In this verse Krsna proclaims that one who comes to His abode in the Vaikunthas never has to take birth again in the material world. 
この句でクリシュナは、ヴァイクンサにあるご自分のお住まいに辿り付いた者は二度と物質世界に生を受けないと名言しています。

Such a person is called a mahatma. 
そのような人はマハートマーと呼ばれます。

The word mahatma is generally heard in the West in connection with Mahatma Gandhi, 
マハートマーという言葉は、西洋では一般にマハートマー・ガンディーとの関連で使われます。

but we should understand that mahatma is not the title of a politician. 
しかし、マハートマーとは政治家の称号ではないことを理解すべきです。

Rather, mahatma refers to the first-class Krsna conscious man who is eligible to enter into the abode of Krsna. 
そうではなく、マハートマーというのはクリシュナの住まいに入る資格のある第一流のクリシュナ意識の人のことを指します。

The mahatma's perfection is this: 
マハートマーの完成とは次のようなことです。

to utilize the human form of life and the resources of nature to extricate himself from the cycle of birth and death.
人間の形の人生と自然の資源を、生と死の循環から自らを救い出すために利用することです。

第8段落
An intelligent person knows that he does not want miseries, but they are inflicted upon him by force.
知性的な人は、望まないのに避けようもなく不幸が訪れるということを知っています。

As stated before, we are always in a miserable condition due to this mind, body, natural disturbances, or other living entities. 
前述のように、この心と体と天災と他の生命体が原因で、常に私たちは惨めな状況にあります。

There is always some kind of misery inflicted upon us. 
いつも何かしらの不幸が起こっているのです。

This material world is meant for misery; 
この物質世界は悲惨であるように作られています。

unless the misery is there, we cannot come to Krsna consciousness. 
悲惨さがなければ、私たちはクリシュナ意識に至ることができません。

Miseries are actually an impetus and help to elevate us to Krsna consciousness. 
悲惨は、実は私たちをクリシュナ意識へと向上させるための刺激であり助けであるのです。

An intelligent man questions why these miseries are inflicted on him by force. 
知性ある人は、なぜ望まないのにこれらの悲惨さが与えられるのか、と疑問を持ちます。

However, modern civilization's attitude is, 
しかし、現代文明の態度は次のようなものです。

"Let me suffer. Let me cover it by some intoxication, that's all." 
「苦しんだっていい。陶酔物でごまかせばそれでいい」

But as soon as the intoxication is over, the miseries return. 
しかし、陶酔物の効き目が切れたら途端に悲惨さが戻ってきます。

It is not possible to make a solution to the miseries of life by artificial intoxication. 
人生の悲惨さを人工的な陶酔物で解決することはできません。

The solution is made by Krsna consciousness.
解決してくれるのはクリシュナ意識なのです。

第9段落
One may point out that although the devotees of Krsna are trying to enter Krsna's planet, everyone else is interested in going to the moon. 
「クリシュナの献身者たちはクリシュナの天体に行こうとしているが、他の人たちは皆、月へ行くことに興味をもっているではないか」と言う人がいるかもしれません。

Isn't going to the moon also perfection? 
月へ行くことも(人生の)完成ではないのでしょうか。

The tendency to travel to other planets is always present in the living entity. 
生命体は常に他の天体へ行こうという傾向を持っています。

One name for the living entity is sarva-gata,which means "one who wants to travel everywhere."
生命体の名前の一つは、「サルヴァ・ガタ」、すなわち「どこにでも行きたがる者」です。

Travel is part of the nature of the living entity. 
旅をすることは、生命体の本来の性質の一部です。

The desire to go to the moon is not a new thing. 
月へ行きたいという望みは新しいことではありません。

The yogis also are interested in entering the higher planets, 
ヨギーも高位の天体に行くことに興味を持っていますが、

but in Bhagavad-gita (8.16) Krsna points out that this will not be of any help.
バガヴァッド・ギーター(8.16)において、クリシュナは「それは何の益にもならない」と指摘しています。

abrahma-bhuvanal lokah
punar avartino 'rjuna
mam upetya tu kaunteya
punar janma na vidyate

"From the highest planet in the material world down to the lowest, all are
places of misery 
「物質世界では、最上の天体から最下のそれまで、すべてが悲惨な場所です。

wherein repeated birth and death take place. 
そこでは生と死が繰り返されます。

But one who attains to My abode, O son of Kunti, never takes birth again." 
しかし、私の住まいにたどり着くものは、おおクンティーの息子よ、二度と生を受けることがありません。」

The universe is divided into higher, middle, and lower planetary systems. 
宇宙は、高位、中位、低位の天体系に分けられます。

The earth is considered to be a member of the middle planetary system. 
地球は中位の天体系に属すると考えられています。

Krsna points out that even if one enters into the highest planet of all, called Brahmaloka, there is still repetition of birth and death. 
クリシュナは、たとえブラーマロカと呼ばれる最高位の天体に入っても、そこにもやはり生と死の繰り返しがある、と指摘しています。

Other planets in the universe are full of living entities. 
宇宙の他の天体は生命体で満ちています。

We should not think that we are here and that all the other planets are vacant. 
私たちは、自分たちはここにいるが他の天体はすべて空っぽだ、と思うべきではありません。

From experience we can see that no place on earth is vacant of living entities. 
私たちは経験から、この地上に生命のいない場所はない、ということを観察できます。

If we dig deep down into the earth, we find worms; 
深く地を掘れば、ミミズがいます。

if we go deep into the water, we find aquatics; 
水中深くもぐれば、水生生物がいます。

if we go into the sky, we find so many birds. 
空に目を向ければ、たくさんの鳥がいます。

How is it possible to conclude that other planets have no living entities?
他の天体には生命はいないと結論づけることが、どうして可能でしょうか。

But Krsna points out that even if we enter into those planets where great demigods reside, we will still be subjected to death. 
しかしクリシュナは、たとえ私たちが半神たちの住む天体に入ったとしても、それでもなお死が運命づけられているとおっしゃいます。

Again, Krsna repeats that upon reaching His planet, one need not take birth again.
またしてもクリシュナは、ご自分の天体に至れば二度と生を受けなくてよい、と繰り返されます。

第10段落
We should be very serious about attaining our eternal life full of bliss and knowledge. 
私たちは、喜びと知恵に溢れた永遠の生命を非常に真剣に求めるべきであるのです。

We have forgotten that this is actually our aim of life, our real self-interest. 
私たちは、これこそが私たちの本当の人生の目的であって自分の利益であることを忘れてしまっています。

Why have we forgotten? 
なぜ忘れてしまったのでしょうか。

We have simply been entrapped by the material glitter, 
私たちは、単に物質的なきらびやかさのワナにはまってしまったのです。

by skyscrapers, big factories, and political play,
聳え立つビル群や、大きな工場や、政治の舞台で繰り広げられる芝居などです。

although we know that however big we build skyscrapers, we will not be able to live here indefinitely. 
たとえどんなに大きな建物を建てても、ここに永遠に住むことはできないことが分かっているというのに。

We should not spoil our energy in building mighty industries and cities to further entrap ourselves in material nature; 
私たちは、巨大な産業や町を作ってなおさら物質的な自然の深みにはまっていくことにエネルギーを無駄にすべきではありません。

rather, our energy should be used to develop Krsna consciousness, in order to attain a spiritual body whereby we may enter into Krsna's planet.
それよりも私たちは、クリシュナの天体に入るための霊的な体を手に入れるために、クリシュナ意識を培うことのためにエネルギーを使うべきです。

Krishna consciousness is not a religious formula or some spiritual recreation; 
クリシュナ意識は、宗教的な教義でもなければ何かの霊的な娯楽でもありません。

it is the most important part of the living entity.
生命体の最も大切な部分なのです。 

第4章 宇宙の彼方の天空

第1段落
If even the higher planets in this universe are subject to birth and death,
この宇宙の中の高位の天体でさえ生と死を運命づけられているとすれば、

why do great yogis strive for elevation to them? 
なぜ偉大なヨギーはそれらへの昇格のために努力をするのでしょうか。

Although they may have many mystic powers,

たくさんの神秘的な能力を持っているかもしれませんが、

these yogis still have the tendency to want to enjoy the facilities of material life. 
これらのヨギーはまだ物質的な人生(の設備)を楽しみたいという傾向を持っています。
(訳注、たびたび出てくる「設備」という言葉ですが、これはどう訳したらいいのでしょう。ここでの意味は「人生で得られる様々なもの」というもので、省略しても大したことはないし、むしろ日本語としてはそのほうが自然だろうと思います。)

On the higher planets, it is possible to live for incredibly long lifetimes. 
高位の天体では、非常に長い間生きていることができます。

The time calculation on these planets is indicated by Sri Krsna:
これらの天体での時間計算は、クリシュナは以下のように示しておいでです。

sahasra-yuga-paryantam
ahar yad brahmano viduh
ratrim yuga-sahasrantam
te 'ho-ratra-vido janah

"By human calculation, a thousand ages taken together is the duration of Brahma's one day. 
「人間の計算でいうと、千年がブラーマーの一日の昼間にあたります。

And such also is the duration of his night." (Bg. 8.17)
そして、ブラーマーの一晩も同じ長さです。」

第2段落
One yuga covers 4,300,000 years. 
一つのユガは430万年です。
(訳注、ユガというのはヴェーダ文献が示している時代区分を指します。)

This number multiplied by one thousand is calculated to be twelve hours of Brahma on the planet Brahmaloka. 
この数字の1,000倍がブラーマロカという天体でのブラーマーの12時間になる計算です。

Similarly, another twelve-hour period covers the night. 
同様に、夜も12時間続きます。

Thirty such days equal a month, twelve months a year, 
そのような一日が30日集まって一ヶ月になり、それが12月集まって一年になり、

and Brahma lives for one hundred such years. 
そしてブラーマーはそのような年月を100年生きます。

Life on such a planet is indeed long, 
こういう天体での寿命は、本当にとても長いのです。

yet even after trillions of years, the inhabitants of Brahmaloka have to face death. 
しかし、それでも何兆年という年月の後にブラーマロカの住人たちは死に直面しなければなりません。

Unless we go to the spiritual planets, there is no escape from death.
霊的な天体に行かない限り、死から逃れることはできないのです。

avyaktad vyaktayah sarvah
prabhavanty ahar-agame
ratry-agame praliyante
tatraivavyakta-samjnake

"When Brahma's day is manifest, this multitude of living entities comes into being, 
「ブラーマーの昼間が顕現しているときは、これらの無数の生命体は体を得て、
(訳注、comes into beingは、直訳すると「存在し始める」ですが、存在し始めるのは体であって生命体そのものではないので、このように訳しました。)

and at the arrival of Brahma's night, they are all annihilated." (Bg. 8.18) 
ブラーマーの夜が終わると皆滅ぼされます。

At the end of the day of Brahma, all the lower planetary systems are covered with water, 
ブラーマーの昼間の終わりには、低位の天体系はすべて水に沈み、

and the beings on them are annihilated. 
そこにいた生命体はすべて滅ぼされます。

After this devastation and after the night of Brahma passes, 
この破壊の後、ブラーマーの夜が過ぎて

in the morning when Brahma arises 
朝になってブラーマーが起きると、

there is again creation, and all these beings come forth. 
再び創造がなされてこれらすべての生命体が体を持ちます。

Thus subjection to creation and destruction is the nature of the material world.
このように、創造を破壊を運命づけられているのは物質世界の自然な特性なのです。

bhuta-gramah sa evayam
bhutva bhutva praliyate
ratry-agame 'vasah partha
prabhavaty ahar-agame

"Again and again the day comes, and this host of beings is active; 
「繰り返し繰り返し、昼間がやってきて、これらの無数の生命体は活動的になる。
(訳注、「ホスト」というと普通は「客を迎える主人」という意味なのですが、この場合はあまり一般的ではない古い表現で、「おびただしい」という意味になります。」

and again the night falls, O Partha, 
そして再び夜がやってきて、おお、パルサよ、

and they are helplessly dissolved." (Bg. 8.19)
彼らは非力にも破壊される。」

Although the living entities do not like devastation, 
生命体は破壊を好みませんが、

that devastation will come 
その破壊は必ずやってきて、

and overflood the planets until all living beings on the planets stay merged in water throughout the night of Brahma. 
ブラーマーの夜の間じゅう生命体が水面下にあるように天体を水に浸します。

But as day comes, the water gradually disappears.
しかし、昼間が来ると水は徐々に消えていきます。

paras tasmat tu bhavo 'nyo
'vyakto 'vyaktat sanatanah
yah sa sarvesu bhutesu
nasyatsu na vinasyati

"Yet there is another nature, 
「そして、さらに別の自然があります。

which is eternal and is transcendental to this manifested and unmanifested matter.
それは永遠で、顕現したり消滅したりする物質を超越しています。

It is supreme and is never annihilated. 
それは至高であり、決して破壊されません。

When all in this world is annihilated, that part remains as it is." (Bg. 8.20) 
この世界のすべてが破壊されるとき、その部分はそのままで変化しません。」

We cannot calculate the extent of the material universe, 
私たちは物質宇宙の広がりを測ることはできませんが、

but we have Vedic information that there are millions of universes within the entire creation, 
ヴェーダの情報を持っています。(それによれば)創造全体の中には無数の宇宙があり、
(訳注、しょっちゅう出てくるmillions of というような表現ですが、これはhundredsでもthousandsでもtrillionでも、意味はすべて同じ「数え切れないほどたくさん」なのです。multitudeとかhostも同様。使われている数が違うのは、程度の問題に過ぎません。)

and beyond these material universes there is another sky, which is spiritual. 
これらの物質的な宇宙の彼方にはもうひとつの宇宙が、霊的な宇宙があります。

There all the planets are eternal, and the lives of all the beings on them are eternal. 
そこではすべての天体は永遠であり、そこに住む生命体の命も永遠です。

In this verse the word bhavah means "nature," 
この句では、「バーヴァー」は「自然」を意味し、

and here another nature is indicated. 
ここでもう一つの自然が示されています。

In this world we have experience also of two natures. 
この世界でも、私たちは二つの自然を経験することができます。

The living entity is spirit, and as long as he is within matter, matter is moving, 
生命体は霊であり、それが物体の中にいる限り、物体は動きます。

and as soon as the living entity, the spiritual spark, is out of the body, the body is immovable. 
そして、霊的な火花である生命体が体を去ると同時に、体は動かなくなります。

The spiritual nature is called Krsna's superior nature, 
霊的な自然はクリシュナの優性な自然であり、

and the material is called the inferior. 
物質的なそれは劣性と呼ばれます。

Beyond this material nature there is a superior nature, 
この物質自然の彼方には優性な自然があり、

which is totally spiritual. 
それは完全に霊的です。

It is not possible to understand this by experimental knowledge. 
このことを実験的な知識で理解することはできません。

We can see millions and millions of stars through a telescope, 
私たちは望遠鏡を通して無数の星々を見ることができますが、

but we cannot approach them.
それらに近づくことはできません。

We have to understand our incapabilities. 
私たちは自分の非力さを理解しなければなりません。

If we cannot understand the material universe by experimental knowledge, 
もし私たちが実験的な知識によって物質宇宙を理解することができないならば、

what is the possibility of understanding God and His kingdom? 
神と神の王国を理解できる可能性があるでしょうか。

It is not possible experimentally. 
実験的には不可能なのです。

We have to understand by hearing Bhagavad-gita. 
私たちはバガヴァッド・ギーターを聞くことで理解しなければなりません。

We cannot understand who our father is by experimental knowledge; 
私たちは、自分の父親が誰なのか、実験的な知識で知ることはできません。

we have to hear the word of our mother and believe her. 
母親の言葉を聞いて信じなければなりません。

If we do not believe her, there is no way of knowing. 
母親を信じないなら、知る方法はありません。

Similarly, if we just stick to the Krsna conscious method, all information about Krsna and His kingdom will be revealed.
同様に、私たちがクリシュナ意識の方法を固守すれば、クリシュナと主の王国に関するすべての情報は明かされるのです。

第3段落
Paras tu bhavah means "superior nature," 
「パラス・トゥ・バーヴァー」は「優性の自然」を意味し、

and vyaktah refers to what we see manifested. 
「ヴャクター」は顕現したものを指します。

We can see that the material universe is manifested through the earth, sun, stars, and planets. 
私たちは、物質宇宙が地球と太陽と星々と惑星という形で顕現しているのを見ることができます。

And beyond this universe is another nature, an eternal nature. 
そして、この宇宙の彼方には別の永遠なる自然があります。

Avyaktat sanatanah. 
「アヴャクタート・サナータナー」

This material nature has a beginning and an end, 
この物質自然には始まりと終わりがあります。

but that spiritual nature is sanatanah--eternal. 
しかし、霊的な自然はサナータナー、永遠です。

It has neither beginning nor end. 
始まりも終わりもありません。

How is this possible? 
どうしてそのようなことが可能でしょうか。

A cloud may pass over the sky, and it may appear to cover a great distance, 
雲は空を渡り、はるかに大空を覆うように見えるかもしれません。

but actually it is only a small speck covering an insignificant part of the whole sky. 
しかし、実際にはそれは空全体のほんの一部を覆っている小さな点に過ぎないのです。

Because we are so small, if only a few hundred miles is covered by cloud, 
私たちはとても小さいので、雲がほんの何百キロメートルでも覆っていれば、

it appears that the whole sky is covered.
空全体が覆われているように見えます。

Similarly, this whole material universe is like a small, insignificant cloud in
the vast spiritual sky. 
同様に、この物質宇宙全体も、広大な霊的天空に浮かぶ小さくて取るに足らない雲のようなものなのです。

It is encased by the mahat-tattva, matter. 
それは「マハット・タットヴァ」すなわち物体に閉じ込められています。

As a cloud has a beginning and an end, this material nature also has a beginning and an end. 
雲に始まりと終わりがあるように、この物質自然にも始まりと終わりがあります。

When the clouds disappear and the sky clears, we see everything as it is.
雲が消えて空が冴え渡るとき、私たちはすべてをありのままに見ることができます。

Similarly, the body is like a cloud passing over the spirit soul. 
同様に、体は霊魂の上を渡る雲のようなものです。

It stays for some time, gives some by-products, dwindles, and then vanishes. 
それはしばらくの間留まり、副産物を生み、だんだん小さくなって、やがて消えます。

Any kind of material phenomenon that we observe is subject to these six transformations of material nature--
私たちが観察するすべての物質的な減少は、これらの物質自然の6つの変転を運命づけられています。

it comes into being, grows, stays for a while, produces some by-products, dwindles, and then vanishes. 
現れ、育ち、しばらくの間留まり、副産物を生み、衰え、やがて消えます。

Krsna indicates that beyond this changing, cloudlike nature there is a spiritual nature, which is eternal. 
クリシュナは、このような変転する雲のような自然の彼方に永遠なる霊的な自然があると指し示しています。

In addition, when this material nature is annihilated, that avyaktat sanatanah will remain.
加えて、この物質自然が破壊されるとき、その「アヴャクタート・サナータナー」はそのまま留まります。

第4段落
In Vedic literatures there is a good deal of information about the material and spiritual skies. 
ヴェーダ文献には、物質と霊の天空について多くの情報があります。

In the Second Canto of Srimad-Bhagavatam there are descriptions of the spiritual sky and of its inhabitants.
シュリマッド・バーガヴァタムの2巻には、霊的な天空とそこの住人についての描写があります。

There is even information given that there are spiritual airplanes in the spiritual sky 
霊的な天空に浮かぶ霊的な飛行機があることや、

and that the liberated entities there travel about on these planes like lightning.
そこに住む解放された生命体がこれらの飛行機に乗って稲妻のように旅することも書かれています。
(訳注、「解放された」というのは、囚人と比較した自由民のような意味です。)

Everything that we find here can also be found there in reality. 
私たちがここで見るものは、すべてそこでも現実に見ることができます。

Here in the material sky everything is an imitation, or shadow, of that which exists in the spiritual sky. 
ここ物質の天空では、すべてのものは霊的な天空に存在するものの模倣、あるいは影なのです。

As in a cinema we simply see a show or facsimile of the real thing, 
映画では現実の物の芝居や複写を見るように、

in Srimad-Bhagavatam it is said 
シュリマッド・バーガヴァタムには、

that this material world is but a combination of matter modeled after the reality, 
「この物質世界は現実に倣って作られた物質の組み合わせに過ぎない」と述べられています。

just as a mannequin of a girl in a store window is modeled after a girl. 
店のショウウィンドウにある女の子のマネキンが本物に女の子に倣って作られているようなものです。

Every sane man knows that the mannequin is an imitation. 
正気な者は誰でもマネキンは模造品であると知っています。

Sridhara Svami says that because the spiritual world is real, 
シュリードハラ・スヴァーミーは、「霊的な世界が現実なので、

this material world, which is an imitation, appears to be real. 
模倣であるこの世界も現実であるかのように見える」とおっしゃいます。

We must understand the meaning of reality--
私たちは現実というものの意味を理解しなければなりません。

reality means existence which cannot be vanquished; 
現実とは、征服されない存在を意味します。

reality means eternity.
現実とは永遠を指すのです。
(訳注、私たちが普通に見る「現実」は、「現象」と呼んで区別します。)

nasato vidyate bhavo
nabhavo vidyate satah
ubhayor api drsto 'ntas
tv anayos tattva-darsibhih

"Those who are seers of the truth have concluded that 
「真実を見る賢者は、次のように結論づけました。

of the nonexistent there is no endurance, 
非存在は永続せず、

and of the existent there is no cessation. 
存在には終焉がない。

This seers have concluded by studying the nature of both." (Bg. 2.16)
このことを、彼らは両者の自然な性質を学んで結論づけました。」

第5段落
Real pleasure is Krsna, whereas material pleasure, which is temporary, is not actual. 
本当の喜びはクリシュナであり、一方で一時的な物質の喜びは本物ではありません。

Those who can see things as they are 
物事をありのままに見ることのできる者は、

do not take part in shadow pleasure. 
影のような喜びに加わりません。

The real aim of human life is to attain to the spiritual sky, 
人間の人生の本当の目的は霊的な天空にたどり着くことですが、

but as Srimad-Bhagavatam points out, most people do not know about it. 
シュリマッド・バーガヴァタムが指摘するように、ほとんどの人はそれを知りません。

Human life is meant to understand reality and to be transferred into it. 
人間の人生は、現実を理解してそこに移行するためのものです。

All Vedic literature instructs us not to remain in this darkness. 
すべてのヴェーダ文献が、この暗闇に留まっていないようにと私たちに指導しています。

The nature of this material world is darkness, 
この物質世界の性質は闇ですが、

but the spiritual world is full of light 
霊的世界は光にあふれていて、

and yet is not illumined by fire or electricity. 
しかも火や電気で照らされていません。

Krsna hints of this in the Fifteenth Chapter of Bhagavad-gita (15.6):
クリシュナはバガヴァッド・ギーターの15章でこのことを暗示しています。

na tad bhasayate suryo
na sasanko na pavakah
yad gatva na nivartante
tad dhama paramam mama

"That abode of Mine is not illumined by the sun or moon, nor by electricity.
「私の住むその場所は、太陽でも月でも電気でも照らされていません。

One who reaches it never returns to this material world."
そこに至った者は、二度とこの物質世界に戻りません。」

第6段落
The spiritual world is called unmanifested 
霊的な世界は非顕現と呼ばれます。

because it cannot be perceived by material senses.
物質的な感覚で知覚できないからです。

avyakto 'ksara ity uktas
tam ahuh paramam gatim
yam prapya na nivartante
tad dhama paramam mama

"That supreme abode is called unmanifested and infallible, 
「その至高の住まいは非顕現にして絶対真理と呼ばれ、

and it is the supreme destination. 
至高の目的地です。

When one goes there, he never comes back. 
そこに至れば、二度と戻ってくることはありません。

That is My supreme abode." (Bg. 8.21) 
それが私の至高の住まいです。」

A great journey is indicated in this verse. 
この句では、偉大なる旅が示されています。

We have to be able to penetrate outer space, traverse the material universe, penetrate its covering, and enter the spiritual sky. 
私たちは宇宙空間を貫いて物質宇宙を横切り、その覆いを突き抜けて霊的な天空に入ることができなくてはなりません。

Paramam gatim--that journey is supreme. 
パラマーム・ガティム、それは至高の旅です。

There is no question of going a few thousand miles away from this planet and then returning. 
この惑星から何千キロメートルか行って戻ってくるようなものではないのです。

This sort of journey is not very heroic. 
そのような旅はあまり勇壮ではありません。

We have to penetrate the whole material universe. 
私たちは物質宇宙全体を突き抜けなければならないのです。

This we cannot do by spaceships but by Krsna consciousness. 
これは宇宙船でできることではありません。クリシュナ意識によって可能です。

One who is absorbed in Krsna consciousness and who at the time of death thinks of Krsna is at once transferred there. 
クリシュナ意識に浸り、死のときにクリシュナのことを思う者は、直ちにそこに移行されます。

If we at all want to go to that spiritual sky and cultivate eternal, blissful life, full of knowledge, 
もし私たちにその霊的な天空に行って永遠で喜びと知恵に溢れた人生を培いたいという気持ちがわずかでもあれば、

we will have to begin now to cultivate a sac-cid-ananda body. 
私たちは「サック・スィッド・アーナンダ」の体を培うために、今始めなければなりません。

It is said that Krsna has a sac-cid-ananda body--
クリシュナは「サック・スィッド・アーナンダ」の体を持っていると言われています。

isvarah paramah krsnah sac-cidananda- vigrahah--

and we also have a similar body of eternity, knowledge, and bliss, 
そして、私たちも類似の永遠で知恵と喜びに溢れた体を持っていますが、

but it is very small and is covered by the dress of matter. 
とても小さいので物体の衣服に覆われています。

If somehow or other we are able to give up this false dress, 
もし何らかの方法でこの虚偽の衣服を脱ぎ捨てることができれば、

we can reach that spiritual kingdom. 
私たちはその霊的な王国にたどり着くことができます。

If once we can attain that spiritual world, return is not necessary (yam prapya na nivartante).
いったんその霊的な世界にたどり着ければ、戻ってくる必要はないのです。

第7段落
Everyone, then, should try to go to that dhama paramam--Krsna's supreme abode. 
ですから、全ての人がその「ダーマ・パラマム」、クリシュナの至高の住まいに行こうとすべきなのです。

Krsna Himself comes to call us, 
クリシュナご自身がここに来て私たちを呼んでおられます。

and He gives us literatures as guidebooks 
そして案内所として文献を与えてくださり、

and sends His bona fide representatives. 
真正の代理人も寄こしてくださいます。

We should take advantage of this facility given to human life. 
私たちは人間に与えられたこの設備を利用すべきです。

For one who reaches that supreme abode, 
その至高の住まいに辿り付いた者には、

penances, austerities, yogic meditations, and so on are no longer required, 
苦行や禁欲やヨガの瞑想その他はもはや必要ありません。

and for one who does not reach it, 
そして、そこに至らないものには、

all penances and austerities are a useless waste of time.
あらゆる苦行や禁欲は何の役にも立たない時間の無駄に過ぎません。

The human form of life is an opportunity to get this boon, 
人間の形の人生はこの恩恵を受ける機会であり、

and it is the duty of the state, parents, teachers, and guardians to elevate those who have acquired this human form of life to attain this perfection of life. 
この人間の形の人生を得た者を(クリシュナへ至るという)人生の完成を得るために引き上げることは、国家と両親と教師と保護者の義務なのです。

Simply eating, sleeping, mating, and quarreling like cats and dogs is not civilization. 
単に犬や猫のように食べて寝て交尾していさかいを起こすのは、文明ではありません。

We should properly utilize this human form of life 
私たちはこの人間の形の人生を正しく利用して、

and take advantage of this knowledge to prepare ourselves in Krsna consciousness, 
クリシュナ意識になるように、この知識を自らの益のために使うべきです。

so that twenty-four hours of the day we will be absorbed in Krsna and at death at once transfer to that spiritual sky.
そうすれば一日24時間クリシュナへの思いに浸っていることができて、死のときに直ちに霊的世界に移行することができます。

purusah sa parah partha
bhaktya labhyas tv ananyaya
yasyantah-sthani bhutani
yena sarvam idam tatam

"The Supreme Personality of Godhead, who is greater than all, is attainable by unalloyed devotion. 
「誰よりも偉大な至高の人格神は、純粋な献愛によって得ることができます。

Although He is present in His abode, 
主はご自分のお住まいにいらっしゃいますが、

He is all-pervading, and everything is situated within Him." (Bg. 8.22)
(同時に)あらゆるところに偏在しておられ、すべては主の中にあります。」

第8段落
If we are at all interested in reaching that supreme abode, 
もし私たちにその至高のお住まいに行きたいという気持ちがすこしでもあれば、

the process, as indicated here, is bhakti. 
ここに示されているように、その方法はバクティです。

Bhaktya means devotional service, submission to the Supreme Lord. 
「バクテャー」は献愛奉仕、すなわち至高主への服従を意味します。

The root word for bhaktya is bhaj, which means "service." 
「バクテャー」の語源(語幹?)は「奉仕」を意味する「バージ」です。

The definition of bhakti given in the Narada-pancaratra is "freedom from
designation." 
ナーラダ・パンカラートラに示されている「バクティ」の定義は、「特定の肩書きからの自由」です。
(訳注、ここで言う「肩書き」とは、私を例に取れば自分は「女である」、「日本人である」、「お姉さんである(正直におばさんと言うべきか)」などを指します。)

If one is determined to get out of all the designations that are attached to the pure spirit soul, 
もし人が純粋な霊魂に付随しているすべての肩書きから自由になろうと決意すれば、

and which arise due to the body and are always changed when the body is changed, 
そしてそれらの肩書きは体に起因して生じて体の変化に応じて常に変化しているのですが、

one can attain to bhakti. 
そうすれば人はバクティを得ることができます。

Bhakti is realizing that one is pure spirit and not matter at all. 
バクティとは、自分が霊魂であって決して物体ではないことを理解することです。

Our real identity is not this body, 
私たちの本当の自己はこの体ではありません。

which is simply a covering of the spirit,
体は単に霊の覆いに過ぎません。

but our real identity is dasa, servant of Krsna. 
そうではなく、私たちの本当の自己は「ダーサ」、すなわちクリシュナの従者なのです。

When one is situated in his real identity and is rendering service to Krsna, he is a bhakta. 
人が本当の自己を認識してクリシュナに奉仕をしているとき、その人は「バクタ」です。

Hrsikena hrsikesa-sevanam: 

when our senses are free from material designations, 
私たちの感覚が物質的な肩書きから自由であるとき、

we will utilize them in the service of the master of the senses, Hrsikesa, or Krsna.
私たちはそれを感覚の主人であるハリシーケサ、すなわちクリシュナのために利用します。

第9段落
As Rupa Gosvami points out, we have to serve Krsna favorably. 
ルーパ・ゴスヴァーミーが指摘したように、私たちは好意をもってクリシュナに奉仕しなければなりません。

Generally we want to serve God for some material purpose or gain. 
一般的に、私たちは何らかの物質的な目的や利益のために神に仕えます。

Of course, one who goes to God for material gain is better than one who never goes, 
もちろん、物質的な利益のために神のもとへ行くものは、全然行かない者より優れています。

but we should be free from desire for material benefit. 
しかし、私たちは物質的な利益を望む気持ちを捨てるべきなのです。

Our aim should be to understand Krsna. 
私たちの目的は、クリシュナを理解することであるべきです。

Of course Krsna is unlimited, and it is not possible to understand Him, 
もちろん、クリシュナは無限であり、理解することは不可能です。

but we have to accept what we can understand. 
しかし、わたしたちは自分たちに理解できることを受容しなければなりません。

Bhagavad-gita is specifically presented for our understanding. 
バガヴァッド・ギーターは、私たちの理解のために特別に与えられたものです。

Through receiving knowledge in this way, 
このような方法で知識を受け取ることにより、

we should know that Krsna is pleased, 
私たちはクリシュナが喜んでいることを知るべきであり、

and we should serve Him favorably, according to His pleasure.
クリシュナの喜びのために(クリシュナの喜びに叶うように)、好意的に主に仕えるべきです。

Krsna consciousness is a great science with immense literatures, 
クリシュナ意識は膨大な文献を備えた偉大な科学であり、

and we should utilize them for the attainment of bhakti.
私たちはバクティを得るためにそれらを利用すべきです。 

第10段落
Purusah sa parah: in the spiritual sky, the Supreme Lord is present as the Supreme Person. 
プルサー・サ・パラー、霊的な天空では、至高主は至高の人格として存在していらっしゃいます。

There are innumerable self-luminous planets there, 
そこには自ら輝く天体が無数にあり、

and in each one an expansion of Krsna resides. 
そのすべてにクリシュナの拡張体がお住まいです。

They are four-armed and have innumerable names. 
彼らは4本の腕を持ち、無数の名前を持っています。

They are all persons--they are not impersonal. 
彼らはすべて人格です。非人格ではありません。

These purusas, or persons, can be approached by bhakti, 
これらのプルサ、すなわち人格たちには、バクティによって近づくことができます。

not by challenge, philosophical speculation, or mental concoctions, nor by physical exercises, 
挑戦(的な態度)や哲学的な推察や、精神的な作り話や身体的な運動によってではありません。

but by devotion without the deviations of fruitive activity.
物質的な利益を求める活動という逸脱のない献身的な愛情によってなのです。

第11段落
What is the purusah, the Supreme Person, like? 
プルサー、至高の人格とはどのような存在でしょうか。

Yasyantah-sthani bhutani yena sarvam idam tatam: 

every living entity and everything is within Him, 
すべての生命体とすべてのものは主のうちにあり、

and yet He is without, all-pervading. 
それにも関わらず主はそれらの外にあり、あらゆるところに偏在しています。

How is that? 
これはどういうことでしょうか。

He is just like the sun, 
主はちょうど太陽のようなものです。

which is situated in one place and yet is present all over by its rays. 
太陽は、一つのところにありながら、その光線によってあらゆるところに存在しています。

Although God is situated in His dhama paramam, 
神はご自分の「ダーマ・パラマム」に存在していしゃっしゃいますが、

His energies are distributed everywhere. 
主のエネルギーはあらゆるところに配られています。

Nor is He different from His energies, 
また、主は主のエネルギーと異なるものではありません。

inasmuch as the sunshine and the sun are nondifferent. 
太陽の光と太陽が変わらないのと同様です。

Since Krsna and His energies are nondifferent, 
クリシュナと主のエネルギーは違いがないので、

we can see Krsna everywhere if we are advanced in devotional service.
もし私たちが献身奉仕に秀でていれば、クリシュナをどこにでも見ることができます。

premanjana-cchurita-bhakti-vilocanena
santah sadaiva hrdayesu vilokayanti

"I worship the original Personality of Godhead, Govinda, 
「私は根源たる人格神ゴヴィンダを崇拝します。

whom the pure devotees whose eyes are smeared with the ointment of love of Godhead 
目に至高神への愛の軟膏が塗られた純粋な献身者たちは、

always observe within their hearts." (Brahma-samhita 5.38) 
常に主を彼らの心の中に見ます。」

Those who are filled with love of God see God constantly before them. 
神への愛に満たされた者は、常に神を目前に見ます。

It is not that we saw God last night and He is no longer present. No. 
昨夜は神を見たけれど今はもういない、というようなものではないのです。違います。

For one who is Krsna conscious, Krsna is always present and can be perceived constantly. 
クリシュナ意識の者にとっては、クリシュナは常に存在しており、常に知覚できます。

We simply have to develop the eyes to see Him.
私たちは単に主を見る力を養わなければならないだけです。

第12段落
Due to our material bondage, the covering of the material senses, 
物質的な呪縛、すなわち物質的な感覚という覆いのために、

we cannot understand what is spiritual. 
私たちは霊的なものを理解することができません。

But this ignorance can be removed by this process of chanting Hare Krsna. 
しかし、この無明はハレ・クリシュナを唱えるという方法によって取り除くことができます。

How is this? 
これはどういうことでしょうか。

A sleeping man may be awakened by sound vibration. 
眠っている人は、音の振動によって起こすことができます。

Although a man may be for all intents and purposes unconscious--
たとえその人がどこから見ても無意識状態であっても、
(訳注、for all intents and purposesは熟語で、どう見ても、というような意味です。直訳すると「すべての目的と目的にとって」でしょうか。)

he cannot see, feel, smell, etc.--
つまり、見ることや感じることや匂いをかぐことができないにしても、

the sense of hearing is so prominent 
聴覚は特に突出しているので、

that a sleeping man may be awakened just by sound vibration. 
眠っている人を音の振動だけで起こすことができます。

Similarly, the spirit soul, although now overpowered by the sleep of material contact, 
同様に、霊魂は、たとえ今は物質との接触という眠りによって圧倒されていても、

can be revived by this transcendental sound vibration of Hare Krsna, Hare Krsna, Krsna Krsna, Hare Hare. Hare Rama, Hare Rama, Rama Rama, Hare Hare. 
「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」というこの超越的な音の振動によって蘇らせることができます。

Hare Krsna is simply an address to the Supreme Lord and His energies. 
「ハレ・クリシュナ」とは、単に至高主と主のエネルギーを指し示したものです。

Hare means energy, and Krsna is the name of the Supreme Lord, 
「ハレ」はエネルギーを意味し、「クリシュナ」は至高主の名前です。

so when we chant Hare Krsna we are saying, 
したがって、ハレ・クリシュナを唱えるとき、私たちは次のように言っているのです。

"O energy of the Lord, O Lord, please accept me." 
「おお、主のエネルギーよ、おお、主よ、どうか私を受け入れてください」

We have no other prayer for acceptance by the Lord. 
私たちは、主に受け入れてもらうための他の祈りを持ちません。

There is no question of praying for daily bread, 
日々の糧のために祈る必要はありません。
(訳注、daily breadは直訳すると「日々のパン」ですが、この場合は食料すべてを指します。)

for the bread is always there. 
それはすでに与えられているからです。

Hare Krsna is but an address to the Supreme Lord, requesting Him to accept us. 
「ハレ・クリシュナ」は、至高主に対して私たちを受け入れてくれるように頼んでいるものに他なりません。

Lord Caitanya Mahaprabhu Himself prayed,
主チャイタンニャ・マハープラブご自身は、次のように祈りました。

ayi nanda-tanuja kinkaram
patitam mam visame bhavambudhau
krpaya tava pada-pankajasthita-
dhuli-sadrsam vicintaya

"O son of Maharaja Nanda, I am Your eternal servitor, 
「おお、マハーラジャ・ナンダの息子よ、私はあなたの永遠の僕です。

and although I am so, 
しかし、それにも関わらず、

somehow or other I have fallen in the ocean of birth and death. 
私はどうしたわけか私は生と死の海に落ちてしまいました。

Please, therefore, pick me up from this ocean of death 
だから、どうか私をこの死の海から拾い上げ、

and fix me as one of the atoms at Your lotus feet." (Siksastaka 5) 
あなたの蓮の御足の下へ原子の一つとして据え置いてください。」

The only hope for a man fallen in the middle of the ocean is that someone will come and pick him up. 
海の真ん中に落ちた人の唯一の希望は、誰かがやってきて拾い上げてくれることです。

If someone just comes and hauls him but a few feet out of the water, 
もし誰かがやってきて水からほんの1メートルでも引き揚げてくれたら、

he is immediately relieved.
その人はただちに救われます。

Similarly, if we are somehow lifted from the ocean of birth and death by the process of Krsna consciousness, 
同様に、クリシュナ意識の方法によって生と死の海から何とかして引き揚げてもらえれば、

we are immediately relieved.
私たちはただちに救われるのです。 

第13段落
Although we cannot perceive the transcendental nature of the Supreme Lord, His name, fame, and activities, 
私たちには至高主の超越的な性質、すなわち主の名前、名声、活動などを知覚することはできませんが、

if we establish ourselves in Krsna consciousness, 
確固たるクリシュナ意識を持つことができれば、

gradually God will reveal Himself before us. 
神は徐々に私たちの前にご自分を現してくださいます。

We cannot see God by our own endeavor, 
私たちは自分の努力によって神を見ることはできません。

but if we qualify ourselves, God will reveal Himself, 
しかし、私たちが資格を得れば神はご自分を表してくださり、

and then we will see.
そうすれば神を見ることができます。

No one can order God to come before him and dance, 
神に「ここに来て踊れ」と命令することができる人はいません。

but we do have to work in such a way that Krsna will be pleased to reveal Himself to us.
そうではなく、私たちはクリシュナが喜んで私たちにご自分を現してくださるように努めなければならないのです。

第14段落
Krsna gives us information about Himself in Bhagavad-gita, 
クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中でご自分に関する情報を下さっています。

and there is no question of doubting it; 
疑う余地はありません。

we just have to feel it, understand it. 
私たちは単にそれを感じて理解しなければならないだけです。

There is no preliminary qualification necessary for the understanding of Bhagavad-gita, 
バガヴァッド・ギーターを理解するために必要な予備的な資格などはありません。

because it is spoken from the absolute platform. 
それは絶対的な領域から語られているからです。

The simple process of chanting the names of Krsna will reveal (、、、and everything else, step by step. )
クリシュナの名前を唱えるという単純な方法は、次のようなことを(および他のすべてを少しずつ段階を追って)明かしてくれます。

what one is, what God is, what the material and spiritual universes are, 
人は誰であるか、神とは何であるか、物質的および霊的な宇宙とは何か、

why we are conditioned, how we can get out of that conditioning--
なぜ私たちは制約されているのか、どうやったらこの制約から抜け出せるのか、

and everything else, step by step. 
そして、そのほかのすべてのことを、少しずつ段階を追って。
(訳注、この文は長いので短く区切ってみました。日本語と英語の構造の違いのため、ちょっと変なふうになってますけど。)

Actually, the process of belief and revelation is not foreign to us. 
実際のところ、信じることと明かされることという方法は、私たちにとって異質のものではないのです。

Every day we place faith in something 
私たちは、毎日何かに信頼をおいています。

that we have confidence will be revealed later. 
後に明かされるだろうという自信をもっている何かに。

We may purchase a ticket to go to India, 
インドへの切符を買ったとして、

and on the basis of the ticket 
その切符の存在によって

we have faith that we will be transported there. 
私たちはそこへ連れて行ってもらえるだという信頼を持ちます。

Why should we pay money for a ticket? 
なぜ私たちは切符にお金を払うのでしょうか。

We do not just give the money to anyone. 
私たちは誰彼構わずお金を上げたりはしません。

The company is authorized and the airline is authorized, 
会社(旅行代理店)は正統で、航空会社も正統です。

so faith is created. 
だから信頼が作られるのです。

Without faith we cannot take one step forward in the ordinary course of our life. 
信頼がなくては、私たちは日常生活で一歩も踏み出せません。

Faith we must have, 
私たちは信頼を持たなければなりませんが、

but it must be faith in that which is authorized.
それは正統と認められたものへの信頼でなければなりません。

It is not that we have blind faith, 
私たちは盲信しているわけではないのです。

but that we accept something that is recognized. 
そうではなく、認められているものを受け入れているのです。

Bhagavad-gita is recognized and accepted as scripture by all classes of men in India, 
バガヴァッド・ギーターは、インドのすべての階層の人々によって聖典として認められています。

and as far as outside India is concerned, 
インドの外では、

many scholars, theologians, and philosophers accept Bhagavad-gita as a great, authoritative work. 
多くの学者や進学者や哲学者がバガヴァッド・ギーターを偉大にして正統な書物であると認めています。

There is no question that Bhagavad-gita is authority. 
バガヴァッド・ギーターが正統な権威であることは疑いの余地がありません。

Even Professor Albert Einstein, such a scientist, read Bhagavad-gita regularly.
大変立派な科学者であるアルバート・アインシュタイン博士でさえ、バガヴァッド・ギーターを定期的に読んでおられます。

第15段落
From Bhagavad-gita we have to accept that there is a spiritual universe which is the kingdom of God. 
バガヴァッド・ギーターから、私たちは神の王国である霊的な宇宙が存在することを受け入れなければなりません。

If somehow we are transported to a country 
もし何かの理由でどこかの国に連れて行かれて、

where we are informed that we will no longer have to undergo birth, old age, disease, and death, will we not be happy? 
そこでは私たちはもはや生老病死に苦しまないでよいと知らされたら、幸せに感じないでしょうか。

If we heard of such a place, surely we would try as hard as possible to go there. 
もしそんな場所のことを聞いたら、私たちはきっと、何とかしてそこへ行こうとしてできるだけの努力をするでしょう。

No one wants to grow old; no one wants to die.
誰しも老いたくないし、死にたくありません。

Indeed, a place free of such sufferings would be our heart's desire. 
ほんとうに、そのような苦しみのない場所は私たちの心の望みなのです。

Why do we want this? 
なぜ私たちはそれを欲するのでしょう。

Because we have the right, the prerogative, to want it. 
それは、私たちにはそれを望む権利が、特権があるからです。

We are eternal, blissful, and full of knowledge, 
私たちは永遠で、喜びと知恵に溢れています。

but having been covered by this material entanglement, 
しかし、物質的なもつれに覆われて、

we have forgotten ourselves. 
私たちは自分たちの本来の姿を忘れてしまったのです。

Therefore Bhagavad-gita gives us the advantage of being able to revive our original status.
そのため、バガヴァッド・ギーターは私たちに本来の身分を取り戻すことができるように力を貸してくれるのです。

第16段落
The Sankarites and Buddhists claim that the world beyond is void, 
「サンカリット」と仏教徒たちは、この世界の彼方は空(くう)であると主張します。

but Bhagavad-gita does not disappoint us like this. 
しかし、バガヴァッド・ギーターはそのようにして私たちを落胆させることはしません。

The philosophy of voidness has simply created atheists. 
虚空主義の哲学は、単に無神論者を生み出しました。

We are spiritual beings, and we want enjoyment, 
私たちは霊的な存在であり、楽しみを欲しています。

but as soon as our future is void, 
しかし、将来が空虚になると、途端に

we will become inclined to enjoy this material life.
私たちはこの物質的な人生を楽しむ傾向が強まります。

In this way, the impersonalists discuss the philosophy of voidism while trying as much as possible to enjoy this material life. 
このように、非人格主義者たちは、この物質的な人生を可能なかぎり楽しみながら虚空主義の哲学を議論します。

One may enjoy speculation in this way, 
人はこのようにして推察することを楽しむかもしれませんが、

but there is no spiritual benefit.
そこには霊的な利益はありません。

brahma-bhutah prasannatma
na socati na kanksati
samah sarvesu bhutesu
mad-bhaktim labhate param

"One who is thus transcendentally situated at once realizes the Supreme Brahman. '
「このように超越的な場所に自らを位置づけたものは、直ちに至高のブラーマンを認識します。

He never laments or desires to have anything; 
その人は、何かを失うことを悲しんだり、何かを得たいと欲することがありません。

he is equally disposed to every living entity. 
その人はすべての生命体に対して平等に心を配ります。

In that state he attains pure devotional service unto Me." (Bg. 18.54)
そのような状態で、その人は私に対する純粋な献身奉仕を得ます。」

He who has progressed in devotional life 
献身的な生活に秀で、

and who is relishing service to Krsna 
クリシュナへの奉仕を楽しんでいる者は、

will automatically become detached from material enjoyment. 
自動的に物質的な楽しみから離れていきます。

The symptom of one absorbed in bhakti is that he is fully satisfied with Krsna.
バクティに浸った者の特徴は、クリシュナに完全に満足しているということです。

第5章 クリシュナとの関わり
第1段落
If one gets something superior, he naturally gives up all inferior things. 
より優れたものを得れば、人は自然と劣ったものを捨てます。

We want enjoyment, 
私たちは楽しみを求めていますが、

but impersonalism and voidism have created such an atmosphere 
非人格主義と虚空主義が作り出した雰囲気のために、

that we have become addicted to material enjoyment. 
物質的な楽しみに溺れてしまいました。

There must be enjoyment in connection with the Supreme Person (purusah sa parah), whom we can see face to face. 
互いに顔を合わせることのできる至高の人格(プルサー・サ・パラー)との関わりの中での楽しみがなければならないのです。

In the spiritual sky we are able to speak personally with God, play with Him, eat with Him, etc. 
霊的な天空では、私たちは神と個人的に話したり遊んだり一緒に食事をしたりすることができます。

All of this can be attained by bhaktya--transcendental loving service. 
これらすべてのことが、バクテャー、すなわち超越的な献愛奉仕によって得られます。

However, this service must be without adulteration, 
しかし、この奉仕は混じり物のない心でなされねばなりません。

that is to say, we must love God without expecting material remuneration. 
これはつまり、私たちは見返りを期待することなく神を愛さねばならないということです。

Loving God to become one with Him is also a form of adulteration.
神と一つになるために主を愛するというのも、不純さの一つの形です。

第2段落
One of the major differences between the spiritual sky and the material sky is
霊的な天空と物質的な天空の大きな違いのひとつは、

that in the spiritual sky the head or leader of the spiritual planets has no rival. 
霊的な天空では霊的な惑星の頭首、すなわち支配者には対抗するものがいないということです。

In all cases, the predominating personality in the spiritual planets is a
plenary expansion of Sri Krsna. 
どの場合でも、霊的な惑星での支配的な人格はシュリー・クリシュナの完全な拡張体です。

The Supreme Lord and His multifarious manifestations preside over all the Vaikuntha planets. 
至高主とその多種多様な顕現体がヴァイクンサのすべての惑星の主として鎮座しています。

On earth, for instance, there is rivalry for the position of president or prime minister, 
地上では、例えば大統領や首相の地位への競争があります。

but in the spiritual sky everyone acknowledges the Supreme Personality of Godhead to be supreme. 
しかし、霊的な天空では誰もが至高の人格神を至高者として認めています。

Those who do not acknowledge Him and attempt to rival Him are placed
into the material universe, 
主を認めず、主に対抗しようとする者は、物質宇宙に入れられます。

which is just like a prison house. 
それはちょうど刑務所のようなものです。

As in any city there is a prison, 
どの街にも刑務所があり、

and the prison forms a very insignificant part of the whole city, 
刑務所は町全体から見るとほんの取るに足らない一部でしかないように、

so the material universe is a prison for the conditioned souls. 
同様に、物質宇宙は制限された魂のための刑務所なのです。

It forms an insignificant part of the spiritual sky, 
それは霊的な天空の中の小さな一部を形成していますが、

but it is not outside the spiritual sky, 
それは霊的な天空の外にあるわけではありません。

just as a prison is not outside of the city. 
刑務所が街の外にあるのではないのと同じことです。

第3段落
The inhabitants of the Vaikuntha planets in the spiritual sky are all
liberated souls. 
霊的な天空にあるヴァイクンサの惑星の住人たちは、皆解放された魂です。

In Srimad-Bhagavatam we are informed that their bodily features are exactly like God's. 
シュリーマッド・バーガヴァタムにおいて、私たちは彼らの身体的な特徴はちょうど神のそれのようであると知らされています。

On some of these planets God is manifested with two arms, and on others He has four. 
これらの惑星の一部では神は2本の腕を持ち、他では4本の腕を持っています。

The inhabitants of these planets, like the Supreme Lord, also manifest two and four arms, 
これらの惑星の住人たちは、至高主と同じく、2本か4本の腕を持っています。

and it is said that one cannot distinguish between them and the Supreme Person. 
そして、住人たちと至高人格を見分けることはできないとも言われています。

In the spiritual world there are five kinds of liberation. 
霊的な世界には、5つの解放の形があります。

Sayujya-mukti is a form of liberation in which one merges into the impersonal existence of the Supreme Lord, called Brahman.
「サーユジャ・ムクティ」は、ブラーマンと呼ばれる至高主の非人格的な存在に同化する形での解放です。

Another form of liberation is sarupya-mukti, by which one receives features
exactly like God's. 
「サールーピャ・ムクティ」では、人は神のそれとそっくりな特徴を得ます。

Another is salokya-mukti, by which one can live in the same planet with God. 
「サーロキャ・ムクティ」では、神と同じ惑星に住むことができます。

By sarsti-mukti one can have opulences similar to the Supreme
Lord's. 
「サーシュティ・ムクティ」では、至高主のそれと似た富を得ることができます。

Another type enables one to remain always with God as one of His
associates, 
もう一つの形では、主の仲間の一人として常に神とともにいることができます。
(訳注、associateというのは、深い関係を持つ人を指す広い言葉です。友人関係、恋人関係、親子関係、主従関係などで関わる場合も含めます。)

just like Arjuna, who is always with Krsna as His friend. 
ちょうど、友人として常にクリシュナと共にいるアルジュナのように。

One can have any of these five forms of liberation, 
人はこれらの5つの形の解放のうちどれでも得ることができます。

but of the five 
しかし、これら5つのうち

the sayujya-mukti,merging with the impersonal aspect, is not accepted by Vaisnava devotees. 
「サーユジャ・ムクティ」、すなわち非人格的な側面と同化することは、ヴァイシュナヴァの献身者によって受容されていません。

A Vaisnava wishes to worship God as He is and retain his separate individuality to serve Him, 
ヴァイシュナヴァ主義者は神をありのままの主として崇拝し、主に仕えるために自分の独立した自己を持ち続けることを望みます。

whereas the Mayavadi impersonal philosopher wishes to lose his
individuality and merge into the existence of the Supreme. 
他方、マーヤーヴァーディーの非人格主義的な哲学者たちは、自分の独立性をなくして至高存在に同化することを求めます。

This merging is recommended neither by Sri Krsna in Bhagavad-gita nor by the disciplic succession of Vaisnava philosophers. 
このような同化は、バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナは薦めておらず、ヴァイシュナヴァ哲学者の師弟継承でも薦められていません。

Lord Caitanya Mahaprabhu wrote on this subject in His Siksastaka (4):
主チャイタンニャ・マハープラブは、この主題について主の「シクシャーシュタカ」において次のように書いておられます。

na dhanam na janam na sundarim
kavitam va jagad-isa kamaye
mama janmani janmanisvare
bhavatad bhaktir ahaituki tvayi

"O almighty Lord! 
「おお、万能なる主よ、

I have no desire to accumulate wealth, 
私は富を蓄えたいとは思いません。

nor have I any desire to enjoy beautiful women, 
美しい女性たちを楽しみたいとも、

nor do I want any number of followers. 
弟子が欲しいとも思いません。

What I want only is that I may have Your causeless devotional service in my life, birth after birth." 
私が望む唯一のものは、何度生を繰り返しても常にあなたへの純粋な奉仕をすることです。
(訳注、causelessは、文字通りの意味は「理由のない」です。普通は誰かからの親切などを描写するときに使います。理由のない親切、つまり、「私に親切にする義理などないはずなのに、何の見返りを求めるでもなく、とにかく純粋に与えてくれる親切」というような意味です。この場合はそれを神に対して自分が捧げ続けられますように、ということです。)

Here Lord Caitanya Mahaprabhu refers to "birth after birth." 
ここで主チャイタンニャ・マハープラブは「何度生を繰り返しても」と述べています。

When there is birth after birth, there is no liberation. 
生が繰り返す状態では、解放はありません。

In liberation one either attains the spiritual planets or merges into the existence of the Supreme--
解放されると、人は霊的な天体に至るか至高の存在に同化するかのどちらかですが、

in either case, there is no question of rebirth into the material world. 
どちらにしても物質世界に生まれ変わることはありません。

But Caitanya Mahaprabhu doesn't care whether He is liberated or not: 
しかし、主チャイタンニャ・マハープラブは、ご自分が解放されるかどうかはどうでもいいのです。

His only concern is to be engaged in Krsna consciousness, to serve the Supreme Lord. 
主の唯一の関心事は、クリシュナ意識であること、すなわち至高主にお仕えすることなのです。

The devotee doesn't care where he is, 
献身者は、自分がどこにいようと気にしません。

nor does he care whether he is born in the animal society, human society, demigod society, or whatever--
動物の社会に生まれようが、人間の社会や半神の社会や、他のどのような社会に生まれようが、どうでもいいのです。

he only prays to God that he not forget Him and that he always be able to engage in His transcendental service. 
献身者は、唯一自分が神を忘れず常に主への超越的な奉仕ができるようにと祈ります。

These are symptoms of pure devotion. 
これらが純粋な奉仕の特徴です。

Of course a devotee, wherever he is, 
もちろん、献身者はたとえどこにいようが、

remains in the spiritual kingdom, 
霊的な王国に留まっています。

even while in this material body.
この物質の体の中にいるときでさえも。

But he does not demand anything from God for his own personal elevation or comfort.
しかし、献身者は自分の個人的な昇格や快適さのために神に何かを要求することはありません。 

第4段落
Although Sri Krsna indicates that He can be easily reached by one who is devoted to Him, 
献身的な愛情を持つものは簡単にご自分に手が届く、とシュリー・クリシュナは述べていらっしゃいますが、

there is an element of risk involved for the yogis who practice other methods of yoga. 
ヨガの方法を修行しているヨギーには危機的な要素が関わっています。

For them, He has given directions in Bhagavad-gita (8.23) regarding the proper time to leave the gross body.
彼らのために、主は密度の濃い(物質の)体を去るための正しい時間について、バガヴァッド・ギーターの中で方法を示しておられます。

yatra kale tv anavrttim
avrttim caiva yoginah
prayata yanti tam kalam
vaksyami bharatarsabha

"O best of the Bharatas, I shall now explain to you the different times 
「おお、バーラタのうちで最も優れた者よ、私は今、異なる時間について説明します。

at which, passing away from this world, one does or does not come back." 
それらの時間にこの世界を離れることで、人は戻ってきたり戻ってこなかったりします。」

Here Krsna indicates that if one is able to leave his body at a particular time, 
ここでクリシュナは、もし人がある特定の時間にこの世を去ることができれば

he can become liberated, never to return to the material world.
解放されることができ、再び物質的な世界に戻る必要はない、と示しています。

On the other hand, he indicates that if one dies at another time, he has to return. 
一方で、もし別の時間に去れば戻って来なければならない、とも述べていらっしゃいます。

There is this element of chance, 
このように、偶然の要素があるのです。

but there is no question of chance for a devotee always in Krsna consciousness, 
しかし、常にクリシュナ意識にある献身者には偶然の要素が入り込む余地はありません。

for he is guaranteed entrance into the abode of Krsna by dint of his devotion to the Lord.
献身者には、主への献身的な愛の力によってクリシュナのお住まいに入ることが保証されているからです。

agnir jyotir ahah suklah
san-masa uttarayanam
tatra prayata gacchanti
brahma brahma-vido janah

"Those who know the Supreme Brahman pass away from the world during the influence of the fiery god, in the light, at an auspicious moment, during the fortnight of the moon and the six months when the sun travels in the north." (Bg. 8.24) 
「至高のブラーマンを知る者は、火のような神の影響のうちに、光の中で、縁起の良い瞬間に、月の出ている2週間の間に、そして太陽が北を巡る6ヶ月のうちに、この世を去ります。」

The sun spends six months on the northern side of the equator and six months on the southern side. 
太陽は赤道の北を6ヶ月巡り、南を6ヶ月巡ります。

In Srimad-Bhagavatam we have information that as the planets are moving, so also the sun is moving. 
シュリーマッド・バーガヴァタムにおいて、私たちは惑星が動いているように太陽も動いていると知らされています。

If one dies when the sun is situated in the northern hemisphere, he attains liberation.
もし人が太陽が北半球にあるときに死ねば、解放されることができます。

dhumo ratris tatha krsnah
san-masa daksinayanam
tatra candramasam jyotir
yogi prapya nivartate
sukla-krsne gati hy ete
jagatah sasvate mate
ekaya yaty anavrttim
anyayavartate punah

"The mystic who passes away from this world during the smoke, the night, the moonless fortnight, or in the six months when the sun passes to the south, or who reaches the moon planet, again comes back. 
「煙(のような神の影響)のうちに、夜、月のない2週間のうちに、あるいは太陽が南を巡る6ヶ月の間にこの世を去る神秘主義者、あるいは月に至った者は、再び戻ってこなければなりません。

According to the Vedas, there are two ways of passing from this world--
ヴェーダによれば、この世を去るには二つの方法があります。

one in light and one in darkness. 
光の中と闇の中です。

When one passes in light, he does not come back; 
光の中で去るとき、人は戻ってくる必要がありません。

but when one passes in darkness, he returns." (Bg. 8.25-26)
しかし、闇の中で去れば、戻ってこなければなりません。」

第5段落
This is all by chance. 
これらはすべて偶然によります。

We do not know when we are going to die, 
私たちは、自分がいつ死ぬか分かりません。

and we may die accidentally at any time. 
何らかの事故で急に死ぬかもしれません。

But for one who is a bhakti-yogi, who is established in Krsna consciousness, 
しかし、バクティ・ヨギー、すなわち確固たるクリシュナ意識の持ち主には、

there is no question of chance.
偶然の入り込む余地はありません。

He is always sure.
いつでも確実なのです。

naite srti partha janan
yogi muhyati kascana
tasmat sarvesu kalesu
yoga-yukto bhavarjuna

"The devotees who know these two paths, O Arjuna, are never bewildered.
「これらの二つの道を知る者は、おお、アルジュナよ、決して惑わされません。

Therefore, be always fixed in devotion." (Bg. 8.27)
だから、いつも確かな献愛の心を持っていなさい。」 

第6段落
It has already been ascertained that at the time of death, if one can think of Krsna, he is immediately transferred to the abode of Krsna.
もしも死のときにクリシュナのことを考えることができれば人は直ちにクリシュナのお住まいに移行されるということは、すでに確認されています。

anta-kale ca mam eva
smaran muktva kalevaram
yah prayati sa mad-bhavam
yati nasty atra samsayah
abhyasa-yoga-yuktena
cetasa nanya-gamina
paramam purusam divyam
yati parthanucintayan

"And whoever, at the time of death, quits his body remembering Me alone, at once attains My nature. 
「そして、死のときに私だけを思い出して体を去るものは、ただちに私の自然に至ります。

Of this there is no doubt. 
このことに疑いの余地はありません。

He who meditates on the Supreme Personality of Godhead, his mind constantly engaged in remembering Me, undeviated from the path, 
至高の人格神を瞑想する者、道からそれることなく、その心で常に私を思い出している者は、

he, O Partha [Arjuna], is sure to reach Me." (Bg. 8.5, 8.8) 
おお、パルサ(アルジュナ)よ、その者は必ず私のもとに至ります。」

Such meditation on Krsna may seem very difficult, but it is not. 
クリシュナへのそのような瞑想は、とても難しいように見えるかもしれません。しかし、そうではないのです。

If one practices Krsna consciousness by chanting the maha-mantra, 
もし人が(以下に挙げる)マハーマントラを唱えることでクリシュナ意識を培えば、

Hare Krsna, Hare Krsna, Krsna Krsna, Hare Hare. Hare Rama, Hare Rama, Rama Rama, Hare Hare, 
ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ・クリシュナ、ハレ・ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ・ラーマ、ハレ・ハレ。

he will be quickly helped. 
その人は迅速に助けを得られます。

Krsna and His name are nondifferent, 
クリシュナと主の名前は異なるものではありません。

and Krsna and His transcendental abode are also nondifferent. 
そして、クリシュナと主の超越的なお住まいもまた、異なるものではありません。

By sound vibration we can have Krsna associate with us. 
音の振動によって、私たちはクリシュナと関わることができます。

If, for instance, we chant Hare Krsna on the street, 
たとえば、もしもハレ・クリシュナを路上で唱えるなら、

we will see that Krsna is going with us, 
私たちはクリシュナが私たちと一緒に来ておられるのが分かります。
(訳注、seeは「見る」という言葉ですが、「(見るように)理解する」という意味もあります。)

just as when we look up and see the moon overhead, we perceive that it is also going with us. 
ちょうど、空を見上げて月を見るとき、月が一緒に来ているように見えるようなものです。

If Krsna's inferior energy may appear to go with us, 
もしクリシュナの劣性のエネルギーが私たちと一緒に来ているように見えるなら、

is it not possible for Krsna Himself to be with us when we are chanting His names? 
私たちが主のお名前を唱えるとき、クリシュナご自身が私たちと共にいることが可能でないはずがあるでしょうか。

He will keep us company, 
主は私たちと共にいてくださいます。

but we have to qualify to be in His company. 
ただ、私たちは主と共にいる資格を得なければならないのです。

If, however, we are always merged in the thought of Krsna,
しかし、もしも私たちが常にクリシュナへの思いに浸っていれば、

we should rest assured that Krsna is always with us. 
クリシュナは常に必ず私たちと一緒にいらっしゃいます。

Lord Caitanya Mahaprabhu prays,
主チャイタンニャ・マハープラブは、次のように祈りました。

namnam akari bahudha nija-sarva-saktis
tatrarpita niyamitah smarane na kalah
etadrsi tava krpa bhagavan mamapi
durdaivam idrsam ihajani nanuragah

"O my Lord! Your holy name alone can render all benediction upon the living beings, 
「おお、我が主よ、あなたの聖なるお名前だけが、生命体にすべての祝福を与えることができます。

and therefore You have hundreds and millions of names, like Krsna and Govinda. 
だからあなたにはクリシュナやゴヴィンダなど無数の名前があります。

In these transcendental names You have invested all Your transcendental energies, 
これらの超越的な名前にあなたはご自身のすべての超越的なエネルギーを注がれました。

and there is no hard and fast rule for chanting these holy names. 
そして、これらの聖なる名前を唱えるのに、決まった難しい規則などはありません。

O my Lord! 
おお、我が主よ。

You have so kindly made approach to You easy by Your holy names, 
あなたは慈愛深くもあなたへ近づくことを簡単にしてくださいました。あなたの聖なる名前という方法によって。

but unfortunate as I am, I have no attraction for them." (Siksastaka 2)
しかし、不幸な私はそれらに魅力を感じません。」

第7段落
Merely by chanting we can have all the advantages of personal association with Krsna. 
単に聖なる御名を唱えることで、私たちはクリシュナと個人的に関わることによる利益のすべてを得ることができます。

Lord Caitanya Mahaprabhu, who is not only considered to be a realized soul but an incarnation of Krsna Himself, has pointed out 
覚醒した魂であると考えられているだけでなく、クリシュナご自身の化身でもある主チャイタンニャ・マハープラブは、次のように指摘しています。

that in this age of Kali, although men have no real facilities for self-realization, 
このカリの時代には、人は自己認識のための本当の方法を持たないが、

Krsna is so kind that He has given this sabda (sound incarnation) to be utilized as the yuga-dharma, or way of realization of this age. 
クリシュナは慈悲深くも、ユガ・ダーマ、すなわちこの時代の認識方法として利用するために、このサブダ(音の化身)を与えられました。

No special qualification is necessary for this method; 
この方法には、何ら特別な資格は要りません。

we need not even know Sanskrit. 
サンスクリットを知っている必要もありません。

The vibrations of Hare Krsna are so potent 
ハレ・クリシュナの振動はとても強力なので、

that anyone can immediately begin chanting them, without any knowledge of Sanskrit whatsoever.
全然サンスクリットを知らなくても、誰でもすぐに唱え始めることができます。

vedesu yajnesu tapahsu caiva
danesu yat punya-phalam pradistam
atyeti tat sarvam idam viditva
yogi param sthanam upaiti cadyam

"A person who accepts the path of devotional service is not bereft of the results derived from studying the Vedas, performing austere sacrifices, giving charity, or pursuing philosophical and fruitive activities. 
「献身的な奉仕の道を受け入れる者は、ヴェーダを学ぶことや禁欲的な犠牲をなすことや、喜捨をすることや、哲学的および物質的な益を求める活動をすることによって得られる結果を得ることができないわけではありません。

At the end he reaches the supreme abode." (Bg. 8.28) 
最終的に、献身者は至高の住まいに至ります。」

Here Krsna says that the purpose of all Vedic instructions is to achieve the ultimate goal of life--to go back to Godhead.
ここでクリシュナは、ヴェーダのすべての指導の目的は人生の究極の目的地に至ること、すなわち至高神のもとへ帰ることであると述べていらっしゃいます。

All scriptures from all countries aim at this goal. 
すべての国のすべての聖典はこの目的を目指しています。

This has also been the message of all religious reformers or acaryas. 
これはすべての宗教改革者のメッセージでもあります。

In the West, for example, Lord Jesus Christ spread this same message. 
例えば西洋では主イエス・キリストがこの同じメッセージを広めました。

Similarly, Lord Buddha and Muhammad.
主仏陀やムハンマド(モハメッド)も同様です。

No one advises us to make our permanent settlement here in this material world.
この物質世界に永遠の住みかを作るようにと助言する人はいません。

There may be small differences according to country, time, and circumstance, and according to scriptural injunction, 
国や時代や状況によって、そして聖典によって、内容や禁止事項にわずかな差異はあるでしょう。

but the main principle that we are not meant for this material world but for the spiritual world is accepted by all genuine transcendentalists. 
しかし、私たちはこの物質世界にいるべきではなく、霊的世界にいるべき存在であるという主な原理は、すべての真正な超越主義者たちによって受け入れられています。

All indications for the satisfaction of our soul's innermost desires point to those worlds of Krsna beyond birth and death.
私たちの魂の最も深いところにある望みを叶えるためのすべてのしるしは、どれも生と死の彼方にあるクリシュナの世界を指し示しているのです。