「簡単な宇宙旅行・・・究極のヨガの実践による方法」


A.C. バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ 著 西山葉子 訳

前書き

生命体、ことに文明化した人間は、永遠に幸せに生きる自然な望みを持っています。これは、生命体が本来永遠であって幸せであることを考えると至極当然なことです。しかし、現状のような制約された状態では、生命体は終わることなく繰り返す生と死に苦しんでいます。幸せも永遠の生命も得られていません。

近年になって、人間は他の惑星に行きたいという大きな願いを持つようになりました。これもまた、ごく自然なことです。生命体には元来物質的な宇宙と霊的な宇宙の両方でどこにでも行ける権利があるからです。

このような旅行は、いかにも心をそそるし、考えるとわくわくするものです。どちらの宇宙にも様々に異なる惑星が数限りなく存在するし、そのどれにも様々な生命体が住んでいるからです。こうした幾多の惑星に到達するためには、ヨガという手段が必要です。ヨガを実践することで、どこであれ希望する惑星に行けるのです。永遠の生命と限りない喜びに加えて様々な快楽までも得られる惑星に行けるかもしれません。いったん霊的な惑星に辿り着いてそこで得られる自由を得た者は、生老病死の地であるこの惨めな惑星に帰ってくる必要はなくなります。

生命体にとって完成された状態とは、これなのです。誰でも個人的な努力によって簡単にこの状態に達することができます。バクティ・ヨガを指示された通りに一人で家で実践するだけでいいのです。この方法は、正しい指導に従いさえすれば単純で楽しいものです。本書は数あるヨガの手法の中でも最も高度なバクティ・ヨガという手段によって人が他の惑星に旅する方法を提供する試みです。市民一般、および哲学者、宗教学者の皆様にも一助となれば幸いです。

1.反物質世界

物質的な科学は、いつの日かついに永遠なる反物質世界を発見するかもしれません。その世界は物質主義一辺倒の論者にとっては絶えて知りえぬものでした。科学者たちが考える現代の反物質観に関して、タイムズ・オブ・インディア紙に以下の記事があります。(1959年10月27日)

「1959年10月26日、ストックホルム
今日、2名のアメリカ人原子科学者が1959年ノーベル物理学賞を受賞した。これは反陽子の発見によって物質が物体と反物体という二つの形で存在することを示した功績によるものである。この二人の科学者は、イタリア生まれのエミリオ・シーグリー博士(69歳)とサンフランシスコ生まれのオーエン・チャンバーレン博士である。。。新しい理論の基本的な推定の一つによると、反物質で構成された別の世界、すなわち反世界が存在する可能性がある。この反物質世界は、我々の知る世界の原子とは反対の軌道で回転する原子や半原子(subatomic)粒子で構成されていると思われる。これら二つの世界が万が一出会うことがあれば、両者は瞬時に目もくらむような閃光を放って壊滅するだろう。」

この声明では、次のような主張がなされている。
1.物質的な原子とは反対の性質を持つ反物質原子、あるいは粒子が存在する。
2.この物質世界以外にも別の世界が存在し、その世界について我々は限られた経験しか持たない。
3.反物質世界と物質世界はある時点で衝突するかもしれず、その場合には両者は互いを壊滅させる。

以上の3点に関して、我々有神論科学の学徒は1と2には完全に同意できます。しかし、3に関しては反物質の限られた科学的な定義の範囲内でしか同意できません。問題は、科学者の考える反物質の概念が単に物質エネルギーの別の種類に過ぎないというところにあります。本当の反物体は、完全に反物質的でなければなりません。形あるものはすべて壊滅しますが、反物体がいかなる物質的な性質も持たないのであれば、当然の帰結として壊滅という性質も持ちません。もし物体が壊滅や分離などをするなら、反物体は壊滅せず分離しないという性質を有していなければなりません。私たちはここでこれらの発議を正統的な聖典の観点から論議しようと思います。

世界で最も広範に認証されている聖典はヴェーダです。ヴェーダは、サーマ、ヤジュル、リグ、アタルヴァ、という4つの部分に分かれています。ヴェーダが取り上げる内容は、平均的な人間にとっては相当に理解の難しいものです。4つのヴェーダはマハーバーラタと呼ばれる歴史的な叙事詩と18のプラーナにおいても説明されています。ラーマーヤナも同じく歴史的な叙事詩であり、ヴェーダの中の必要な情報をすべて含んでいます。そのため、4つのヴェーダ、ヴァールミーキによる本来のラーマーヤナ、マハーバーラタ、およびプラーナは、いずれもヴェーダ文献であると分類されています。

ウパニシャッドは4つのヴェーダの一部分であり、ヴェダーンタ・スートラはヴェーダの真髄を体現したものです。これらすべてのヴェーダ文献を要約するものとして、バガヴァッド・ギーターがあります。これはすべてのウパニシャッドの凝縮であり、ヴェダーンタ・スートラの予備的な解説として受け入れられています。そのため、バガヴァッド・ギーターただ一つからヴェーダの凝縮を得られると結論づけることもできるでしょう。この書は至高の人格神である主シュリ・クリシュナによって語られたものです。神はエネルギーの優勢的な形について完全な情報を与えるために反物質世界からこの物質世界に降誕なさるのです。(訳注;Supreme Personality of Godheadについて。Godheadは「神、神性」と訳されますが、-headという語尾は往々にして何かの一番高い様子を表します。プラブパーダもこの語尾を使って造語をしている場合があるので、化身、拡張体など様々にある神々の姿の中でも最高の神、という意味と考えるべきでしょう。したがって、最高神あるいは絶対神の至高の人格、というのが厳密な訳語になると思いますが、ここでは日本語としての流れの良い「至高の人格神」という表現にします。)

至高の人格神が持つエネルギーの優勢的な形については、バガヴァッド・ギーターにパラー・プラクリティと描写されています。科学者は近年になって物体には壊滅しうる二つの形があることを発見しましたが、バガヴァッド・ギーターは物体と反物体の概念をエネルギーの二つの形であるとして完璧に描写しています。物体とは物質世界を作り出すエネルギーであり、その同じエネルギーが優勢的な形では反物質的な(物質存在を超越的した)世界を作り出します。生命体は優勢的なエネルギーの範疇に入ります。劣勢エネルギー、すなわち物質エネルギーは、アパラー・プラクリティと呼ばれます。バガヴァッド・ギーターでは、創造的なエネルギーはこのようにアパラーとパラー・プラクリティという二つの形で提示されています。

物体はそれ自身では創造的な力を持ちません。生命のあるエネルギーに操作されて初めて物質体が創出されます。物体はすなわち元来の形では絶対存在の潜在的なエネルギーなのです。我々がエネルギーについて考える場合、そのエネルギーの源について考えるのは自然なことです。例えば、電気エネルギーについて考えるなら、我々は同時にそれが生成される発電所のことを考えます。エネルギーというのは自己完結的なものではありません。優勢的な生命体の統治下にあるのです。例えば、火は光と熱という二つの別のエネルギーの源です。光と熱は火なくして独自に存在することはできません。同様に、劣勢および優勢のエネルギーはどちらもある源から発するものです。その源を人がどういう名前で呼ぼうとも構いませんが、それはあらゆる事物に関して完全な感覚を持つ生命体でなければなりません。その至高の生命体は、至高の人格神であるシュリ・クリシュナ、すべてを魅了する生命体です。

ヴェーダでは、至高の生命体あるいは完全なる真理は、バガヴァーン、すなわち「栄光あるもの、すべてのエネルギーの源である生命体」と呼ばれます。近年の科学者が限られたエネルギーの二つの形態を発見したことは、科学の発展のほんの始まりに過ぎません。彼らはこれから「物質的・反物質的」と名づけた二つの粒子あるいは原子について、その源を発見すべく研究を進めなければなりません。
反物質粒子はどのように説明できるでしょうか。私たちには物質的な粒子や原子に関する経験はありますが、反物質に関する経験はありません。しかし、バガヴァッド・ギーターは以下のように反物質粒子を鮮やかに描写しています。

「この反物質粒子は物質でできた体の中にあります。これが存在することで物質の体は子供から少年へ、少年から若者へ、やがては老年へと徐々に変化を続けます。その後、反物質粒子は古びて使い物にならなくなった体を離れ、別の体を得ます。」

生きた体に関する以上の描写は、エネルギーが二つの形で存在するという科学的な発見を立証するものです。その一つである反物質粒子が物質の体から分離するとき、後者は全く何の役にも立たなくなります。このように、反物質粒子は疑いようもなく物質エネルギーより優勢であるのです。

「したがって、誰であれ物質的なエネルギーの損失を嘆くにはあたりません。暑さと寒さ、幸せと不幸せなどのあらゆる相反的な感覚認知は、季節の変化のように現れては去っていく物質的なエネルギーの反応に過ぎません。そのような物質的な反応の一時的な発現と消滅は、物質的な体はジーヴァ・エネルギーと呼ばれる生命力に対して劣勢な物質エネルギーでできていることを立証しています。」

「幸せと不幸せによって左右されない知性ある人は、それらは劣勢エネルギーの反応によって生じる様々な物質的な表れであることを理解しています。そのような人は永遠の生命と永遠に失われることがない知識と永遠に尽きない喜びのある反物質世界に戻る資格があります。」

ここでは反物質世界が記述されており、さらに反物質世界では「季節による」変化がないという情報も加わっています。そこではすべてが永遠で、喜びが満ち溢れ、完全な知識があります。しかし私たちがこれを「世界」として語るときは、それが私たちの物質的な経験の域を超えた様々な種類の形や細部(paraphernalia、道具、付属品のすべて、などの意味)を持っていることを覚えておく必要があります。

「物質的な形は滅びるものであり、また、変化するもの、一時的なものでもあります。物質的な世界も同じです。しかし反物質的な生命力は滅びないので永遠です。したがって専門の科学者たちは物質と反物質の粒子についてそれぞれ「一時的、永遠」と規定しました。」

物体の二つの形を発見した人々は、反物質の性質はまだ発見していません。しかしバガヴァッド・ギーターにはすでに以下のような鮮やかな描写があります。科学者はこの貴重な情報に基づいてさらなる研究を進めることができるでしょう。

「反物質粒子は最も小さな物質粒子よりももっと細かい。この生命体(living force、生命力)は非常に強力で、その影響は物質の体全体に及びます。反物質粒子は物質粒子とは比べ物にならないほど強大な潜在力を持っているので、破壊されることがありません。」

これはバガヴァッド・ギーターにおける反物質粒子の描写の端緒に過ぎません。さらに以下のように説明されています。

「反物質粒子のうちで最も微細なものは、密度の濃い部分と密度の薄い部分からなる物質の体に閉じ込められています(gross and subtle material bodies)。物質の体は必ず破壊されるものですが、微細な反物質粒子は永遠です。したがって、人の関心はこの永遠の原理に向けられるべきなのです。」

物質的な科学者たちが反物質粒子の性質を知ってそれを永久性のない物質的な粒子から切り離せるようになったとき、科学は完成したと言えます。そのような解放は科学的な進歩の最高潮を記すことになるでしょう。

反物質原子からなる別の世界が存在しており、物質世界と衝突すれば両者ともに壊滅するであろう、という科学者たちの説は、部分的には正しいと言えます。衝突は常に起こっています。物質的な粒子は今この瞬間にも破壊されており、反物質粒子は解放を目指して苦闘しています。これはバガヴァッド・ギーターに以下のように説明されています。

「生命体である反物質粒子は物質粒子に影響を及ぼして動作させます。この生命体は決して破壊されることがありません。反物質粒子が密度の濃い部分と薄い部分からなる物質の体という物質エネルギーの塊の中に存在する限り、その生命体は生きた単体として顕現します。二つの粒子は常に持続的に衝突を繰り返していますが、反物質粒子は決して破壊されることがありません。過去、現在、未来、いつの時点であれ、誰も反物質粒子を滅ぼすことはできません。」

したがって、物質世界と反物質世界が衝突して両者が共に破滅するであろうという理論は、科学者の唱える限られた反物質の定義内においてのみ正しいと私たちは考えます。バガヴァッド・ギーターは、決して破壊されることのない反物質粒子の性質を説明しています。

「微細にして測定不可能な反物質粒子は、決して破壊されず、永遠であり永久です。しかし、物質的粒子でできた牢獄はしばしの時間の後に破壊されます。同じことが物質世界と反物質世界の関係においても起こります。反物質粒子が破壊されるのではないかと恐れる必要はありません。それは物質の世界が破壊されても生存しているからです。」

作られたものはすべて必ずいずれかの時点で破壊されます。物質的な体と物質的な世界はいずれも作られたものであるので、したがってどちらも破壊されます。しかし反物質粒子は作られることがないので、したがって壊されることもありません。このことも、同じくバガヴァッド・ギーターに示されています。

「生命力である反物質粒子は、生まれることも作られることもありません。永遠に存在しているのです。誕生日も命日もありません。繰り返し作られることも、繰り返し壊されることもありません。永久に存在しているので、何よりも古く、同時に常に若々しくて新しいのです。物質的な粒子が破壊されても、反物質粒子は決して影響されません。」

同じ原理が反物質粒子だけでなく反物質宇宙にも当てはまります。物質宇宙が破壊されるとき、状況のいかんに関わらず反物質宇宙は存在し続けます。これは後ほど詳述します。

科学者たちは、さらに以下のようなこともバガヴァッド・ギーターから学ぶことができます。

「反物質粒子が破壊されないことを完璧に理解している識者は、それがどのような手段をもってしても壊されないと知っています。」

原子科学者は物質世界を核兵器によって破壊することを考えるかもしれませんが、彼らの武器は反物質世界を破壊することはできません。反物質粒子は以下にさらに明確に説明されています。

「それはいかなる物質的な武器をもってしても切断され得ず、火で焼かれることもありません。水でふやかされることもなく、しおれることも、乾燥することもなく、空中に蒸発することもありません。分断されず、燃えず、溶解しません。永遠であるため、いかなる体にも出入りすることができます。元来一定しているため、その性質は常に同じで変わることがありません。いかなる物質的な性質にも対峙しているので、(物質的には)説明がつきません。通常の知性では理解することができないのです。変化することがないので、永遠にして反物質的な原理のことを何人も(破壊されるのではないかと)嘆くべきではありません。」

このように、バガヴァッド・ギーターおよび他のヴェーダ文献すべてにおいて、優勢エネルギー(反物質原理)は生命力や生きた霊として受け入れられています。これはジーヴァとも呼ばれます。この生命原理は、物質的な要素をいかに組み合わせても発生させることができません。劣勢エネルギーとして描写されているものには次の8つがあります。
1、土。2、水。3、火。4、空気。5、エーテル。6、心。7、知性。8、我(エゴ)
これらとは別に、反物質原理であって優勢エネルギーであると描写されている生命力があります。これらは至高の人格神(クリシュナ)という至高の生命体によってコントロールされているので、エネルギーと呼ばれます。

長い間、物質主義者たちの理解は上記の8つの物質原理の枠内に限られていました。今こうして彼らが反物質原理と反物質宇宙に関して少々の予備的な情報を持つようになったのは大変喜ばしいことです。私たちは、いずれ彼らも反物質世界の価値を理解できるようになることを望んでいます。反物質世界には物質的な原理の片鱗もないのです。言うまでもなく、「反物質」という言葉そのものが既にその原理はいかなる物質的な性質とも反対であることを示しています。

当然ながら、反物質原理について言及する精神的な思索家もいます。
(訳注;mental speculator(mental精神の、頭脳の)(to speculate思索する、推測する)つまり、人間の限られた頭脳であれこれと考えて真理を見つけ出そうとする人々のことです。)
彼らは主に二つのグループに分けられ、どちらもそれぞれに異なる誤った結論に達します。その一つである完全な物質主義者たちは、反物質原理を否定するか、あるいは(死という)一定の段階における物質的な組成の崩壊だけを認めます。もう一つのグループは反物質原理が24種類の物質原理に直接的に対峙するものとしてのみ受け入れます。このグループはサーンクヤイテと呼ばれ、物質原理を詳細に観察調査して分析します。その調査の最後に、彼らはついに超越的な(反物質の)非活動的な原理だけを受け入れます。しかし、こうした精神的な思索家は劣勢エネルギーの助けを得て考察するので困難が生じるのです。彼らは優位にあるものからの情報を受け入れません。反物質の本当の位置づけを理解するためには、人は優勢エネルギーの超越次元に上らなければなりません。バクティ・ヨガはまさに優勢エネルギーの活動そのものなのです。

物質世界の次元からでは、人は反物質世界の本当の位置づけを推察することができません。しかし、物質および反物質の両方のエネルギーを統率する絶対主は、見返りを期待することのない(causeless、原因のない)慈悲の心から物質界に降臨し、反物質世界に関する完全な情報を私たちに与えてくださいます。それによると、絶対主も生命体も、どちらも性質は反物質であるのです。したがって、私たちは生命体を詳細に研究することによって絶対主について知ることができます。すべての生命体はそれぞれに独自の人格です。ということは、絶対生命体もまた絶対人格でなければなりません。ヴェーダ文献では、絶対人格はクリシュナであると正しく呈示されています。絶対主を指す「クリシュナ」という名前は、最高ランクに位置する者の唯一真実に明瞭な名前です(the only truly intelligible name of the highest order)。彼は物質および反物質の両エネルギーを統治する者であり、「クリシュナ」という名前そのものが彼が絶対の統治者であることを示しています。バガヴァッド・ギーターでは、このことを主が以下のように確認しています。

「物質世界と反物質世界という二つの世界があります。物質世界は8つの物質原理からなる劣勢エネルギーでできています。反物質世界は優勢エネルギーでできています。どちらのエネルギーも至高の人格神、すなわち絶対的な超越存在から放射されているものであるため、私(主クリシュナ)がすべての創造と破壊の究極的な要因であると正しく結論付けることができます。」

主の二つのエネルギー(劣勢および優勢)が物質と反物質の両世界を顕現させるので、主は絶対完全真理と呼ばれます。主クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーターで以下のように説明しています。

「アルジュナ、私は超越性の最高原理であるため、私より偉大なものはありません。すべての事物は、ちょうど真珠が糸に通っているように、私のエネルギーを拠り所として存在します。」

反物体と反物質世界の原理が発見されるはるか昔、この主題はバガヴァッド・ギーターのページに記されていました。ギーターの中には、同書で述べられている哲学がかつて太陽の支配神に教えられた、と書かれています。ということは、バガヴァッド・ギーターの中の原理はクルクセトラの戦いのずっと前に、少なくともおよそ1億2千万年前に至高の人格神によって詳細に述べられたということを意味します。

反物質宇宙に関する推定もバガヴァッド・ギーターの中にあります。こうしたすべての情報に照らすと、反物質世界はバガヴァッド・ギーターにサナータナ・ダーマ、すなわち永遠自然として記されている反物質空間に存在するということが疑いもなく推量できます。

物質原理が物質世界を作るのと全く同じように、反物質原子はすべての細部を備えた反物質世界を作ります。反物質世界には反物質生命体が住んでいます。そこには不活発なもの(生命力のないもの、inert)は存在しません。そこにあるものはすべて生きた原理であり、そこでの絶対人格は神ご自身です。反物質世界の住人たちは、永遠の命と永遠に失われることのない知識と永遠に尽きることのない喜びを持っています。言い換えれば、彼らは神の資質のすべてを持っているのです。

物質世界における最高位の惑星は、サティアロカ、あるいはブラーマロカと呼ばれます。この惑星には最も偉大な能力を持つ者たちが住んでいます。支配神はこの物質世界で一番最初に作られた生命体であるブラーマーです。ブラーマーは私たちと同じく数多い生命体の一人ですが、物質界で最も優れた能力を持つ人格です。神の範疇に入るほどの能力ではありませんが、神に直接支配される生命体の範疇にあります。神も生命体も、どちらも反物質世界に属しています。したがって、科学者たちは反物質世界の原則を研究することですべての人に貢献することができます。そこではどのように管理運営がなされているのか、物事がどのように形成されるか、支配的な人格はどのような人々であるか、というようなことです。ヴェーダ文献の中でも、シュリマッド・バーガヴァタムはこれらの項目を詳しく取り上げています。バガヴァッド・ギーターはシュリマッド・バーガヴァタムの予備的な研究です。これら2巻の重要な知識の書物は科学界のすべてのひとによって完全に研究されるべきだといえます。それによって科学の進歩に多くのヒントが得られ、多くの新しい発見が促されることでしょう。

超越主義者と物質主義者は二つの全く異なる階層に属します。超越主義者はヴェーダなどの正統にして権威ある聖典から知識を集めます。ヴェーダ文献は超越的な師弟継承の連鎖の中にある正統で権威ある源から受け取られたものです。この師弟継承(パラムパラー)は、バガヴァッド・ギーターにも記述があります。バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナは次のように語りました。はるか昔、ギーターは太陽の支配神に語られ、太陽神はそれを息子マヌに伝えました。現世代の人間は、このマヌを祖先としています。マヌはこの超越知識を息子のイクシュヴァーク王に伝えました。イクシュヴァーク王は、至高の人格神シュリ・ラーマが現れた帝国の先祖です。この長い師弟継承の連鎖は、主クリシュナが降臨した5000年前には断絶していたので、クリシュナはバガヴァッド・ギーターを再び語りました。授けられたアルジュナは今世代の初めての弟子としてこれを後世に伝えました。したがって、今世代の超越主義者はアルジュナから始まる師弟継承の連鎖に連なっています。超越主義者は、物質的な研究で無駄に労力を費やすことなく物質と反物質に関する真理を全く完全な方法で(この師弟継承を通して)受け取り、エネルギーを大いに節約することができます。

他方、完全な物質主義者は至高の人格神の反物質世界を信じません。とても不運な人たちなのです。時として大いに才能があり、教育もあり、他のあらゆる面で発達していたにしても。。。彼らは物質的な顕現の影響に惑わされており、反物質の事物に関する知識を持ちません。したがって、物質主義的な科学者たちが徐々に反物質的な領域に近づきつつあるのは良い傾向なのです。もしかしたら、彼らもいずれ十分に発達してこの反物質世界の詳細を知るようになるかもしれません。そこでは至高の人格神が支配的な存在として住み、生命体は彼と共に住んで彼に仕えています。至高神に仕える生命体は性質において神と同等ですが、同時に従者として支配されています。反物質世界では支配するものとされる者の間に違いはないのです。その関係性は完璧であり、物質主義のかけらもありません。

物質世界の性質は破壊的です。バガヴァッド・ギーターによると、物質世界と反物質世界が衝突した場合に両者共に破壊されるという物理科学者たちの推量には部分的に真理が含まれます。物質世界は変化し続ける自然相の産物です。これらの相(グナ)は、善性(サットヴァ)、熱情(ラジャ)、無知(タマ)の3つです。物質世界はラジャ相によって作られ、サットヴァ相によって維持され、タマ相によって破壊されます。これらの相は物質世界にくまなく常在している(omnipresent)ので、したがって毎瞬毎時、物質世界のすべての場所で創造と維持と破壊の過程が進行しているのです。物質宇宙で最高位に位置する惑星、ブラーマロカであっても同じくこれらの自然相の影響下にあります。そこでは善性(サットヴァ)の相が支配的なので、寿命は長く、4、300、000x1,000x2x30x12x100太陽年であると言われています(solar year、太陽系の一年)。けれど、それでも自然相の影響から逃れることはできず、やはりいつか破壊される運命にあります。ブラーマロカでの寿命は地球でのそれに比べるとすばらしく長いものですが、それでも非物質世界での永遠の生命に比べると一瞬です。そのためバガヴァッド・ギーターを語る主クリシュナはご自身の住処である反物質宇宙の重要性を断固として主張なさるのです。

主クリシュナは物質宇宙の中のすべての惑星は4,300,000x1,000x2x30x12x100太陽年の後に破壊されると教えます。物質世界の壊滅に伴って、居住しているすべての生命体も物質的に破壊されます。生命体は本質的に反物質粒子です。しかし、反物質的な活動を重ねて自身を反物質世界の領域まで上昇させない限り、生命体は物質世界が破壊されるときにその体を破壊され、新しい物質宇宙が形成されるときに再び物質の体の中に入ることになります。言い換えれば、繰り返す生と死の痛みを経験しなければならないのです。物質の体を持っている間に人格神に愛情ある奉仕をした生命体だけが疑いの余地なく物質の体を離れた後に反物質世界に移動できます。反物質的な活動を実行することで神のもとに帰るものだけが不死の生命を得ることができるのです。

この反物質的な活動というのは何でしょうか。これは薬なのです。例えば、人は病気になったときに医師を訪れます。医師は薬を処方し、それが徐々に苦しむ患者を治します。同様に、物質主義者は病気で弱った状態にあり、専門家である超越主義者という医師の診断を仰ぐべきであるのです。彼らの病は何なのでしょうか。それは繰り返す生老病死の苦しみです。「神のもとへ帰る」という治療を受けることに合意しさえすれば、生と死を繰り返すのではなく、永遠の生命がある反物質世界に移動することができるのです。
物質世界の破壊には2つの形があります。部分的な破壊は4,300,000x1,000太陽年毎に起こります。これは物質世界の最高位であるブラーマロカの一日の終わりです。これらの部分的な破壊においてはブラーマロカなどの高位の惑星は破壊されませんが、4,300,000x1,000x2x30x12x100太陽年が過ぎたら顕現した宇宙の全体が反物質体に同化吸収されます。物質的な空間からはるか離れた反物質世界は決して破壊されることがありません。それは物質世界を吸収します。科学者たちが言うように物質と反物質の世界が「衝突」して物質世界が破壊されることはあるかもしれませんが、反物質世界の破壊ということはありえません。永遠に存在している反物質世界は物質主義的な科学者たちには顕現していません。物質世界の相にその存在の原則が相反する限りにおいて情報を得ることができるだけです。反物質宇宙に関する詳細は、反物質原則の本来的な性質を完全に理解した、(物質世界から)解放された(解脱した)権威者たちという絶対に間違いのない源からしか知りえません。この情報は口伝によって人格神の受動的な弟子から受けられます。

ヴェーダの知識はこのようにして物質的創造における最初の生命体であるブラーマーの心に授けられました。この知識をナーラダ・ムニという聖者に伝えたのはブラーマーでした。同様に、バガヴァッド・ギーターは人格神シュリ・クリシュナによって太陽の支配神であるヴィヴァスヴァーンに語られ、この口伝による師弟継承が壊れたときに主クリシュナはバガヴァッド・ギーターをクルクシェトラの戦場でアルジュナに再び語りました。そのとき、シュリ・クリシュナから超越的な知識を受けるためにアルジュナは弟子であって生徒である役割をしました。この世の全くの物質主義者たちが持っているであろう疑いをすべて拭い去るために、アルジュナはすべての適切な質問をし、クリシュナはいかなる俗人でも理解できるように答えを与えました。物質世界のきらめきに囚われた者だけは主シュリ・クリシュナの権威を受け入れることができません。反物質世界の詳細を理解できるようになる前に、人はその習慣とこころにおいて完全に清潔にならなければなりません。バクティ・ヨガは入門者であっても完璧なヨギーであっても実行できる詳細で科学的な超越活動なのです。

物質世界は反物質世界を映し出す影のような存在に過ぎません。心と習慣において清潔な知性ある人は、バガヴァッド・ギーターの文書から反物質世界の詳細のすべてをかいつまんで学ぶことができます。そして、これらは実際のところ物質的な詳細よりもっと完全なのです。基本的な詳細は以下の通りです。

反物質世界の支配神はシュリ・クリシュナであり、本来的で独自の人格ならびに多数の完全な拡張体として存在しています。この基本人格と拡張体は、一般的にバクティ・ヨガや献身奉仕として知られる反物質活動によってしか知ることができません。至高の人格神は至高の真理であり、反物質原理の全体でもあります。物質原理と反物質原理は、どちらもその人格神から放射されるものです。主は完全なる木の根であるとも言えます。木の根に水を注ぐと、枝や葉は自動的にその恩恵を受けます。同じように、至高の人格神であるシュリ・クリシュナが礼拝されると物質世界がすみずみまで啓発され、献身者の心は物質的な方法で努力することなく滋養に満たされるのです。これがバガヴァッド・ギーターの秘密です。

反物質世界に入るための方法は、物質的な過程とは異なります。個々の生命体は、物質世界に住んでいる間に反物質活動を実行することでたやすく反物質世界に入ることができます。しかし、根っからの物質主義者たちは実験的な考え方や精神的な推量や物質的な科学の持つ限られた力に頼っているので、反物質世界に入るのが大変困難になります。彼らは宇宙船や人工衛星やロケットなどを宇宙空間に飛ばして反物質世界に近づこうと努力するでしょうが、そういうやり方では物質空間の上位の領域にある惑星にさえ決して行き着けません。神秘的な能力を完全に統御できるヨギーでさえ、その領域に入るのは難しいのです。道を究めたヨギーは神秘的な能力の修練によって物質的な体の中にある反物質粒子を統御することができます。彼らはある特定の適切なタイミングで自分で意思で物質の体から抜け出ることができます。そして物質世界と反物質をつなぐ大通りを通って反物質世界に入ることができます。彼らは、そうする能力がある場合には以下のようにバガヴァッド・ギーターに示された規定の方法に従って行動します。

「超越性を認識した者はウッタラーヤナの期間に物質の体を離れて反物質世界に入ります。それは太陽が北の道を辿っているとき、すなわち火と輝きの神が大気を統御している縁起の良い時間のことです。」

様々な神々、あるいは強力な管理責任者たちは、宇宙の活動の運営管理をなすべく任命されています。宇宙の管理の複雑さを見通すことのできない愚かな人々は、半神たちが個人的に火や空気や電力や夜や昼などを管理しているという考えをあざ笑います。しかし完璧なヨギーはこれらの目に見えない物質的な業務の管理者たちを満足させる方法を知っています(to satisfy、満足させる、義務を果たす、負債を返済する)。そしてこれらの管理者たちの厚意にあずかって、反物質宇宙や物質空間の最上位の惑星に入るためにアレンジされた適切な瞬間に、自分の意思で物質の体を出ます。物質世界の高位の惑星では、ヨギーはより快適で快楽的な人生を何百年も何千年も(hundreds of thousands of years、慣用的な表現であり、この場合はもっともっと長いと考えられます。)生きることができますが、これらの惑星での人生は永遠ではありません。永遠の生命を欲する者は神秘的な力を使って反物質宇宙に入ります。そのための適切な瞬間は、宇宙の業務の管理者である半神によって作られています。これらの管理者は「地球」と呼ばれるこの第7等級の惑星に住む完全な物質主義者の目には見えません。

ヨギーではないけれど、捧げ物(sacrifice、供え物、犠牲)や慈善や贖罪などの敬虔な行いによって適切な瞬間に死んだ者は、死後高位の惑星に上ることはできるが、その後またこの(地球という)惑星に戻ってくる可能性があります。彼らの旅立ちの瞬間はドゥーマと呼ばれる期間にあたり、一月のうちで月のない暗い闇、あるいは太陽が南の道を通っているときになります。

要約すると、バガヴァッド・ギーターは人が反物質世界に入りたいなら献身的な奉仕すなわち反物質活動をすることを薦めています。道を究めた超越主義者が指示するようにこの献身奉仕をする者は反物質世界に入れなくてがっかりすることはありません。障害はいくらでもありますが、主クリシュナの献身者は超越した献身者がすでに示してくれた道を頑固に辿ることでそれを簡単に克服できます。反物質である神の王国に向かって旅している献身者はたぶらかされることがありません。反物質宇宙に入るための絶対的に保障された道を辿るものは、だまされもしないし落胆することもないのです。バクティ・ヨガとして知られる一方的な献身奉仕をするだけで、ヴェーダを研究したり供え物をしたり贖罪や慈善をしたときと同じ結果を簡単に得ることができるのです。

このようにバクティ・ヨガはすべての人にとってすばらしい万能薬(panacea、あらゆる問題の解決策)であり、現在の「鉄の時代」にあっては特に容易に実行できるように主クリシュナご自身が方法を示されました。クリシュナは、最も気高く、自由で、かつ惜しみなく与える主シュリ・チャイタンニャ(1486-1534)としてベンガル地方に降臨されました。そしてインド全体にサンキールタナという神の御名を歌って踊って唱えて称える方法を広めました。主チャイタンニャの慈悲によって、人はすばやくバクティ・ヨガの原則を会得できます。こうして心の疑いはすべて取り除かれ、物質的な苦難の炎は消され、超越的な喜びが満ちてきます。

ブラーマ・サムヒターの第5章には物質世界に存在する様々な惑星系の描写があります。バガヴァッド・ギーターにも、無数の物質宇宙の中には様々な惑星系があり、これらの宇宙は神の創造エネルギーの一部(4分の1)を構成している、と記されています。大部分(4分の3)は霊的空間に顕現しており、その空間はパラ・ヴョマあるいはヴァイクンサロカと呼ばれます。ブラーマ・サムヒターとバガヴァッド・ギーターにあるこれらの描写は、やがていつの日か物質科学者たちが反物質世界の存在の研究をするときに終に再確認されることになるでしょう。

加えて、1960年2月21日のモスクワニュースは次のように伝えています。
「ロシアの著名な天文学者ボリス・ヴォロンツォフ氏は、宇宙にはそれぞれの環境に適応した能力を持った生物の住む惑星が無数にあるに違いない、と発言した。」

ロシアの天文学者によるこの発言は、ブラーマ・サムヒターに述べられた情報を再確認するものです。(以下、サンスクリットでの引用が4行あります)

この引用によると、ロシアの天文学者の言うように無数の惑星があるだけでなく、同時に無数の宇宙も存在します。これらすべての宇宙とその中の惑星は、マハー・ヴィシュヌの超越的な体から発するブラーマンの光輝から作られてその中に漂っています。マハー・ヴィシュヌは我々の住む宇宙の支配神であるブラーマーが礼拝する存在です。

ロシアの天文学者はまた、すべての惑星に生物がいると言います。ブラーマ・サムヒターには、無数の宇宙のすべてに無数の様々な惑星があると述べられています。

彼の論点は、生物学者であるヴラディミール・アルパトフ氏によって支持されています。氏は「上記の惑星の一部は地球と同程度の発達をしている」という発言で擁護しているのです。モスクワからのニュースは以下のように伝えています。

「おそらくそのような惑星では地球のそれに似た生命が繁栄しているだろう。化学博士ニコライ・ズィーロフ氏は惑星上の大気の問題を研究しており、例えば火星人の体は低い体温で普通に存在できるように完全に順応しているであろう、と指摘している。火星のガス状の大気成分はそれに順応した生物の命を維持するには完全に適しているだろうと氏は考えている。」

様々に異なる惑星に住む生命体の順応性はブラーマ・サムヒターにヴィブーティ・ビナムと表現されています。宇宙にある無数の惑星の一つ一つにそれぞれ独自の大気があり、そこに住む生命体はその大気の優越性や劣等性に応じて科学や心理の面で相応に発達している、という意味です。ヴィブーティは「特定の力」という意味で、ビナムは「様々な」という意味です。

機械的な方法で他の天体にたどり着こうとして宇宙探査をしている科学者たちは、地球の大気に順応している生物は他の天体の大気の中では生存できないということに気がつかなければなりません。すなわち、人間は月や太陽や火星に行こうとしていますが、それらの天体を覆う大気は地球の生物には適さないので、全くの骨折り損なのです。しかし、個人的には人はどこでも好きな天体を目指すことができます。ただし、これは心の中で心理的な変化を起こすことによってのみ可能です。心は物質的な体の中核です。物質の体が徐々に進化するのは、心の中の心理的な変化によるものなのです。毛虫の体の組成が蝶のそれに変わり、近代の医科学で男の体が女のそれになったり(あるいはその逆になったり)するのは、多かれ少なかれ心理的な変化によります。

バガヴァッド・ギーターでは、人が死のときに心を至高の人格神シュリー・クリシュナに集中し、その状態で体を放棄すれば、ただちに反物質世界の霊的な存在に入ることができると言われています。これは、献身的な奉仕を規定された通りに行うことによって心を物質から至上神の霊的な形に向ける者は誰であっても反物質宇宙にある神の王国に簡単に入ることができる、ということなのです。疑いの余地はありません。

そして、同じようにして、物質宇宙の他のどの天体にでも、現在の体を捨てた直後に(例、死など)行けるのです。つまり、月なり太陽なりに行きたいなら、単にそのための行動をするだけで良いのです。バガヴァッド・ギーターでは、このことを以下のように確認しています。

「死のときに瞑想して想念を集中していた特定の対象を人は死後に得ることになります」

マハラジャ・バーラタは、生涯厳しい苦行をしていたにも関わらず、死のときに鹿(stag, 雄の鶏、七面鳥、キツネ)のことを考え、その結果、死後は鹿になりました。しかし、彼は過去生に関するはっきりした意識を持ち続けていて、自分の犯した間違いに気づきました。死のときに持つことになる考えは人がその生涯に為す事柄に影響されるということを知っておくことが大切です。

シュリマッド・バーガヴァタム(3巻32章)では、月に行くための方法が以下のように描写されています。

「神の王国のことを全く知らない物質的な人々は、富や名声や尊敬など、物質的なものをかき集めるのにいつも無我夢中です。そのような人々は、自己満足のために自分の家族のますますの繁栄を求め、同じく社会と国家の幸せも求めます。これらの人々は望むものを物質的な行いによって得ます。彼らは規定された義務を儀礼的に為すこと機械的に携わり、また、開示された聖典に示されている供え物をすることで、ピター(祖先)を満足させたり半神を思いのままに操ったりするする傾向があります。そのような犠牲の行為や祝祭日の順守などに一生懸命になっている魂たちは、死後は月に行きます。月に上げられると、ソマ・ラサという天界の飲み物を飲むことができるようになります。月の主神はチャンドラという半神です。月の大気と生活環境は地上のそれよりはるかに快適で優れています。月に達した後で、魂がその機会をさらに上位の天体に上げられるために使わないなら、地球か、それに似た下位の天体に下ろされることになります。しかし、物質的な人々は、たとえ最高位の天体系に辿り付いたとしても宇宙の終結のときに確実に破壊されることになっています。」

霊的宇宙の天体系については、パラ・ヴョマに無数のヴァイクンサ天体があります。ヴァイクンサは主の内的な潜在力の顕現である霊的な天体であり、これらの天体と物質的な宇宙の物質的な天体(外的なエネルギー)との比率は3対1です。したがって、みじめな物質主義者たちは神の創造の中で最も取るに足らない天体の上で利益を求めて取り引きに駆けずり回っているのです。この地球という天体は言うに及ばず、無数の銀河と無数の天体を内包する宇宙全体でさえ、カラシ種がたくさん入った袋の中の一粒のようなものに過ぎません。(訳注;カラシ種は大変小さく、聖書でも「とても小さくて取るに足らないもの」という意味で使われています。)しかし、みじめな物質主義者たちはここで快適に暮らす計画をたて、確実に欲求不満が約束されている事柄に貴重な人間エネルギーを無駄にするのです。駆け引きに時間を無駄にするかわりに、簡素な暮らしと高い霊的な思索の人生を求めて、そうして終わりのない物質的な不安から自分自身を救い出すべきであるのです。

物質主義者が物質的に高度な設備を楽しみたいと望んだ場合は、地上で得られるよりはるかに高度な物質的な快楽を経験できる天体に自分を移動させることができます。しかし、最高の計画は体を離れたあとに霊的な宇宙に戻れるように準備をすることです。しかし、物質的な設備を楽しみたいなら、ヨガの力を使って物質宇宙の他の天体に移動できます。宇宙飛行士たちのちゃちな宇宙船は子供じみた娯楽に過ぎず、この目的のためには全く役立ちません。

アシュターンガ・ヨガ体系もまた物質的です。これは物質の体の中の空気の動きを統御する方法を教えるものだからです。霊的な火花、すなわち魂は、体の中の空気の中に浮かんでいます。そして呼気と吸気は魂を含むその空気の波です。したがって、ヨガ体系とは、この空気を胃からヘソへ、胸から鎖骨へ、そして目玉へ、小脳へ、そしてそこからはどの天体でも望むところへ移動させることで統御する物質的な技法なのです。物質的な科学者は空気と光の速度を計算に入れますが、心と知性の速度については何の情報も持っていません。私たちは、心の速度についてはいくらかの経験があります。ほんの一瞬で心を何百何千キロと離れた場所に移動させることができるからです。知性は心よりさらに速く、魂は知性よりも速い速度で動きます。魂は心や知性と違って物体ではなく、霊、すなわち反物質であるのです。魂は知性より何百倍も何千倍も微細で強力です。私たちは魂が天体から天体へと移動する速度がどんなものか、想像することしかできません。言うまでもなく、魂はいかなる物質的な乗り物の助けも借りず、自力で移動します。

食べること、眠ること、恐れること、そして感覚の欲望を満たすことからなる野蛮な文明は、現代の人々に自分がいかに強力な魂を持っているかを忘れさせてしまいました。すでに述べたように、魂は太陽や月や電気よりも何倍も何倍も明るく輝く強力で霊的な火花です。人間の人生は、人が自らを魂であると正しく自己認識しないのならば駄目になってしまうのです。主チャイタンニャは、人をこのように誤った方向に導く文明から人間を救い出すために、弟子であるニチャーナンダと共に現れました。

シュリマッド・バーガヴァタムにも、ヨギーがいかにして宇宙のあらゆる天体に旅することができるのかが描写されています。生命力が小脳に上げられると、この力が目や鼻や耳などから溢れるように飛び出す恐れがあります。これらは生命力の第7軌道と言われる場所だからです。しかしヨギーは空気を完全に止めることでこれらの穴を閉じることができます。ヨギーは次に生命力を真ん中に位置に、すなわち両方の眉の間に集中します。この位置でヨギーは死後に行きたい天体のことを考えます。一度辿りついたら二度と物質界に下りて来る必要のない超越的なヴァイクンサにあるクリシュナの住みかに行きたいか、それとも物質宇宙の中の高位の天体に旅したいか、決めることができるのです。完全なヨギーはどちらでも好きなように決められます。

完全な意識を保ったままで体を離れるのに成功した完全なヨギーによって、ある天体から別の天体に移動するのは普通の人が八百屋に歩いていくほど簡単です。すでに論じたように、物質的な体は霊的な魂を覆うものに過ぎません。心と知性は下着であり、地、水、空気などからなる密度の濃い体は上着です。したがって、ヨガの体系によって自己を認識し、物体と霊の関係を知った高度な魂は、望むままに完璧な秩序をもって、まとっている密度の濃い衣服を脱ぎ捨てることができます。神の望みにより、私たちは完全な自由を持っています。主は慈悲深いので、私たちには霊的な宇宙と物質的な宇宙のどの天体であれ、望む場所に住む自由が与えられています。しかし、この自由を使い損なうと、人は物質の世界に堕ちて来て、様々な制約のある人生で幾重もの悲惨さに苦しむことになります。魂の選択によって物質世界で惨めな人生を送ることについては、ミルトンの「失楽園」に的確に描写されています。同様に、自らの選択によって魂は再び楽園を得ることもできます。家へ、至高神の元へ帰ることができるのです。

死の間際に、人は生命力を二つの眉の間に置いてどこへ行きたいか決めることができます。物質界との関わりを持ち続けたくないなら、一秒もかからずに超越的なヴァイクンサに辿りついて、霊的な大気の中に住むのにふさわしい完全に霊的な体をもってそこに現れることができます。単に、物質的な世界を密度の薄い部分と濃い部分の両方とも捨て去ることを望めばよいのです。そして生命力を頭蓋骨の頂上に動かし、そこにあるブラーマ・ランドラという穴から体を離れます。これがヨガの実践における最高の完成です。

もちろん、人には自由意志が与えられているので、物質界からの解放を望まないならブラーマ・パーダ(ブラーマーの官職)になってスィッダーロカという天体を訪れることもできます。そこには重力や空間や時間などを完全に統御する力を持った物質的に完璧な生命体が住んでいます。これらの物質的な宇宙の高位の天体を訪れるためには、心と知性(密度の薄い物体)を放棄する必要はありません。密度の濃い物体(物質の体)だけを放棄すればよいのです。

人工の衛星や機械的な宇宙船は、人を宇宙の他の天体へ運ぶことはできないでしょう。人はあれほど大々的に宣伝している月への旅行さえできません。すでに述べたように、そのような高位の天体の大気は地球のそれとは違うからです。天体はどれもそれぞれに異なった大気を持っているので、物質宇宙の中のどれか特定の天体を訪れたいなら、人はその天体の気候条件に完全に適応した物質の体を持たねばなりません。例えば、インドからヨーロッパへ行こうと思うなら、気候条件が違うのでそれなりの服装を整えねばなりません。同様に、ヴァイクンサの超越的な天体に行こうと思うなら、体を完全に取り替える必要があるのです。

高位の物質的な天体に行こうと思うなら、密度の薄い「衣類」である心と知性と自我はまとったままで構いませんが、地、水、火、その他の要素からできている密度の濃い衣類(体)は手放さなければなりません。しかし、超越的な天体へ行くときは、密度の濃いのと薄いのと、両方の体を取り替える必要があります。霊的な宇宙には、完全に霊的な姿で辿りつかねばならないからです。こうした衣服の変化は、人がそう望むなら、死に際して自動的に起こります。しかし、そのような臨終の希望は、それが生きている間に育まれていて初めて可能になります。宝のあるところに心あり。献身的な奉仕を実践するとき、人は神の王国への望みを培います。以下に述べる詳細は、生老病死の苦しみのない人生が待つヴァイクンサ(反物質)の天体への簡単な旅行に向けて準備をするための一般的な方法の概要を示しています。

一般的な方法(肯定的な心得)
1.真剣な生徒は、科学的に訓練を受けるために真正な霊的指導者を受け入れなければなりません。感覚は物質的なものであるため、それによって超越性を認識することは全く不可能です。したがって、霊的指導者の指示のもとで規定の方法で感覚を霊化しなければなりません。
2.霊的指導者を選んだら、その人から正式な洗礼を受けなければなりません。これが霊的な訓練の第一歩になります。
3.候補者は、あらゆる方法で霊的な指導者を満足させる心構えができていなければなりません。霊的な科学の方法に精通していて、バガヴァッド・ギーターやヴェダーンタ、シュリマッド・バーガヴァタムやウパニシャッドなどの霊的な聖典にも明るく、至高主としっかりと結ばれて自己を正しく認識した魂である真正な霊的指導者は、意欲のある候補者がヴァイクンサへの道を導いてもらえる透明な媒介者なのです。霊的指導者は、すべての面で満足させられなくてはなりません。なぜなら、彼の祝福によってのみ候補者は望みの道で素晴らしい前進をすることができるからです。
4.知性ある候補者は、進むべき道からすべての不明瞭な事柄を失くすために霊的指導者に知性ある質問をします。霊的指導者は、思いつきではなく実際にその道を通った正統な人々の原理に基づいて道を示します。これらの正統な人々の名前は聖典に明示されており、人は単に霊的指導者のもとでこれらの人々の足跡を辿ればよいのです。霊的指導者は決して正統な人々の道から外れることはありません。
5.候補者は、この方法を実践して成功を修めた偉大な聖人たちの足跡を常に辿るべきです。これは人生の指針として捉えられるべきものです。人は彼らを表面的に真似ようとするのではなく、それぞれの時と状況に即して誠実に辿るべきです。
6.候補者は、正統な書物に述べられた指導に応じて自分の習慣を変える心づもりをせねばなりません。また、主を満足させるために、アルジュナの例に倣って「感覚的な欲望の充足、および感覚的な理由で義務を放棄すること」を犠牲にする心の準備をする必要があります。
7.候補者は霊的な雰囲気の中で生活すべきです。
8.候補者は必要最低限の富で満足しなければなりません。簡素な生活をするのに必要な以上の富を貯め込もうとしてはなりません。
9.満ち欠けする月の11日目など、断食の日を守らねばなりません。
10.バニャンの木、牛、常識あるブラーマナおよび献身者に敬意を表さねばなりません。

以上は献身奉仕の道の最初の段階です。徐々に以下のような否定的な項目も修めねばなりません。
11.献身奉仕ならびに聖名を唱える上で、無礼のないようにせねばなりません。
12.非献身者との過度の関わりを避けねばなりません。
13.際限もなく弟子をとってはなりません。これはどういうことかというと、先の12の項目を十分に修めた者は自身が霊的指導者になれるということです。学生がクラスで何人かの限定された数の生徒を従える補助教員になるようなものです。
14.単に書物の中の文を引用することで、大いに学識のある人物であるかのようなふりをしてはなりません。必要な書物に関してはしっかりした知識を持ち、それ以外の不必要な知識を掻き集めることのないようにしなければなりません。
15.以上の14の項目を習慣的に実践して修めた者は、物質的な損失と集積の大いなる試練の中にあっても精神の平静を維持することができます。
16.次の段階では、嘆きと幻想に悩まされることがなくなりまs。
17.他者の宗教や崇拝のあり方や、至高の人格神やその献身者をあざけることがありません。
18.主やその献身者に対する侮辱を断固として許しません。
19.男女の関係に関する会話や他者の家庭の内情に関する無益な会話にうつつを抜かすべきではありません。
20.誰であれ、他の生物の体にも精神にも痛みを与えるべきではありません。

以上の20項目のうち、最初の3点は絶対であり、真剣な候補者にとって必要不可欠のものです。

他に真剣な候補者が従うべき24の項目がありますが、主チャイタンニャはそのうち以下に挙げる5つを最も重要であるとして選択しました。これらは現在の文明生活の状態に照らして選ばれたものです。
1.献身者と交友すべきです。献身者との交友は、彼らの発言を注意深く聞くこと、適切な質問をすること、食物を与えること、彼らに与えられた食物を受け取ること、贈り物をすること、彼らから贈られたものを受け取ること、によって成り立ちます。
2.いついかなるときでも主の御名を唱えるべきです。主の御名を唱えることは、簡単で安価な自己認識のための方法です。主の無数の名前のいずれをいつ唱えても構いません。無礼のないように気をつけなければなりません。超越的な名前を唱えるときに犯しかねない無礼には10種類ありますが、これは最善の注意を払って避けねばなりません。しかし、どうであれ、常に主の御名を唱えるよう努めるべきです。
3.シュリマッド・バーガヴァタムに記されている超越的な事柄について聞くべきです。これは正統な献身者がバーガヴァタムの正統な翻訳に基づいて行う講義によって可能となります。
4.主クリシュナの生誕地であるマスラーに住むべきです。それができないなら、霊的指導者から正式な洗礼を受けた後で、家族みんなが礼拝できるように主の神像を安置して自宅をマスラーと同じくらい良い場所にすべきです。
5.家全体の雰囲気が主の御住まいの模倣となるように、安置された神像を注意と献愛の心をもって崇拝すべきです。これは、超越的な技芸(アート)を知っていて候補者に正しい方法を示してくれる霊的指導者の指示によって可能になります。

上記の5つの項目は世界中の誰でも実行できます。したがって、今の時代の堕落した魂を救い出すために特に降臨した主シュリー・チャイタンニャ・マハープラブーなどの正統な人々によって認証された簡単な方法によって、誰もが家へ、至高主のところへ、帰る準備をすることができます。

この議題に関して更なる詳細な知識を求める者は、私たちが「献身の甘露」という題で英語の要約を発表したバークティ・ラサームリタ・スィンドゥーなどの文書を読むことをお薦めします。

霊的宇宙へ自分自身を移動させるためのプロセスの全体は、霊的な魂が被っている「密度が濃い部分と薄い部分の両方の覆い」という物質的な成分を徐々に失くしていくことに関わっています。上記の5つの献身奉仕活動は、霊的に大変強力なので、たとえ献身者が初歩的な段階にあっても、その実践は誠実な実行者を急速にバーヴァ(至高主への愛の直前の段階)に引き上げます。これは霊的な水準にある感情であり、精神的および知性的な働きを超越しています。バーヴァや神への愛に没頭している者は、物質の神殿(体のこと)を離れた直後に霊的な宇宙に移動される資格を得ます。献身者が神への愛を完成させることは、彼を実際に霊的な次元に置きます。たとえ密度の濃い物質の体を持っている間であっても。彼は熱く焼けた鉄のような存在になるのです。鉄は火に交わることで鉄のような性質を失い、火のような働きをするようにまります。これらの事柄は、主の計り知れない、想像も及ばないほどのエネルギーによって可能になります。そのような神のエネルギーについて、物質的な科学は計算するすべを持ちません。したがって、人は完全な信頼をもって献身奉仕に取り組むべきです。そして信頼を確固たるものにするために、(可能であれば)個人的な交友によって、そうでなければ彼らのことを考えることによって、主の正統なる献身者の交友を求めるべきです。この交友は、主に対する実際の献身奉仕を育む助けとなります。主に対する献身奉仕は、すべての物質的な恐れを稲妻のように失わせます。これらの異なる霊的認識の段階は、候補者によって個人的に感じられます。そして、こうして個人的に感じることは、自分が霊的な宇宙への道を前向きに進歩しているというしっかりした信念を築きます。そして、主とその御住まいに誠実に執着するようになります。神への愛はこのようにして徐々に進歩していき、それこそが人間の形をした人生における最大の必要事項なのです。

聖人たちや王たちを含む偉大な人物の歴史の中では、このプロセスで完成に至った人々がいます。幾人かの人々は、信頼と不屈の努力をもって献身奉仕のただ一つの項目を固守したことで成功しました。以下に例を示します。
1.パリークシット皇帝は、単にシュリー・シュカデヴァ・ゴスワーミーのような権威者から聞くことによって霊的な次元に至りました。
2.シュリー・シュカデヴァ・ゴスワーミーは、偉大なる父シュリー・ヴャーサデヴァから受け取った超越的なメッセージを単に一字一句忠実に詠じることで同じ結果を得ました。
3.プラーラーダ皇帝は、偉大な聖人であり献身者であるシュリー・ナーラダ・ムニに与えられた指示を遂行して常に主を覚えていることで霊的な成功を得ました。
4.幸運の女神ラクシュミージーは、単に座って主の蓮の御足をなでさすることで成功しました。
5.プリス王は、単に主を崇拝することで成功しました。
6.御者アルクーラは、単に主への祈りを唱えることで成功しました。
7.主シュリー・ラーマチャンドラの有名な献身者ハヌマーン(マハーヴィーラ)は、人間ではありませんが、単に主の命令を遂行することで成功しました。
8.偉大な戦士アルジュナは、単に主と友人になることで同じ完成を見ました。主は、友人アルジュナと彼に続く人々を啓発するためにバガヴァッド・ギーターのメッセージを届けてくださいました。
9.バリ皇帝は、自分自身の体までも含めて、すべてを主に捧げることで成功しました。

これらは、主への献身奉仕の9つの標準的な項目です。候補者は、その一つでも二つでも、三つでも四つでも、あるいはすべてでも、好きなように取り入れられます。完全なる者に捧げられた奉仕は、すべてそれ自身完全であり、物質的な水準に見られるような質的、量的な違いはありません。霊的な水準では、すべては他のすべてと完全に同一です。ただし、超越的な多様性はあります。アムバリーシャ皇帝は、上記の9つの項目をすべて取り入れ、完全な成功を得ました。心は主の蓮の御足に、声は霊的世界を描写することに、手は主の寺を清めることに、耳は主シュリー・クリシュナの言葉を受動的に聞くことに、目は主の神像を見ることに、体は献身者の体に触れることに、鼻腔は主に捧げられた花の匂いをかぐことに、舌は主に捧げられた食物を味わうことに、足は主の寺を訪れることに。そして、自分自身の感覚の満足を全く求めずに人生のすべてのエネルギーを主へ奉仕することに使いました。これらのすべての活動によって、彼は物質科学のすべての巧妙さを打ち負かす人生の完全な状態に至りました。

したがって、すべての人間にとって、人生の完成のためにこれらの霊的な認識の原理を受け入れることが重要です。人間の唯一の義務は霊的な認識です。不幸にして、現代の文明では人間の社会は国家の義務を果たすのに忙殺されています。実際には、国家的、社会的、人道的な義務は、霊的な義務を忘れた者だけのためにある義務なのです。人は地上に生を受けると同時に国家的、社会的、人道的な義務だけでなく、空気や光や水などを供給する半神たちにも義務が生じます。また、人生を通して導いてくれる多いなる知識の宝殿を残してくれた聖人たちに対しても義務が生じます。あらゆる生物、先祖、家族等々にも義務が生じます。しかし、ただ一つの特定の義務、霊的な完成という義務を果たすことに取り組むと同時に、自動的に他のすべての義務がそれぞれ別の努力をすることなしに解除されます。

主の献身者は、社会にとって決して迷惑の元となる要素ではありません。その反対に、社会にとって大いに益となる存在なのです。誠実な献身者には罪深い活動に惹かれる者はいません。そのため、ある人が純粋な献身者になれば、その人は直ちに今世でも来世でも、すべての者のために、平和と繁栄のために、社会のために、計り知れない無私の奉仕をすることができるのです。しかし、たとえそのような献身者が何らかの無礼を犯したとしても、主御自身が直ちにそれを改正してくださいます。したがって、献身者には物質的な知識を集める必要はなく、かといってすべてを捨てて隠遁者として生きる必要もありません。単に、家に在って、人生のどのような区分や階級にあっても、滞りなく献身奉仕をすることができます。そして、歴史上には極端に冷酷な人々が単に献身奉仕をすることによって心優しい人になった例があります。純粋な献身者の人生では、とりたててわざわざ努力することなくして自動的に知識が身につき、劣性な生き方を放棄するようになるのです。

この献身奉仕の霊的なアートと科学は、世界に対してインドの聖人たちがなした最高の貢献です。したがって、インドに生まれた者は誰でも、この偉大なアートと科学の原理を取り入れて自分の人生を完成させ、さらにそれを、世界の他の場所に住んでいるいまだに人生の究極の目的を知らない人々に広める義務があるのです。人間の社会は、徐々に知識を培うことによってこの完璧な段階に至るように運命付けられています。しかし、インドの聖人たちはすでにその場所に至りました。なぜ他の人たちはその高みに達するのに何千年も何千年も待たなければならないのでしょう。なぜ彼らに情報をたった今、系統立てて与えてあげないのでしょう。そうすれば彼らは時間と労力を節約できます。何百万年と苦労を重ねなければ得られなかったはずの人生を得られるチャンスを逃すべきではないのです。

ロシアのフィクション作家は今、世界に対して「科学的な発展によって人は永遠に生きられるようになるかもしれない」と述べています。もちろん彼は創造主である至高の存在を信じていません。それでも私たちは彼の説を歓迎するのです。科学的な知識が本当に発達すると、人は霊的な宇宙に到達できるし、科学者たちにいかなる科学的な概念をも超えた完全な力を持った至高の創造主がいることを教えてくれるからです。

すでに述べたように、すべての生物は永遠の何らかの形を持っていますが、密度の濃い部分と薄い部分から成る覆いを取り替えねばならず、この変化の過程は厳密には生と死として知られています。生物が物質の鎖に縛られている限り、この変化の過程から逃れることはできません。物質の人生の最高の段階においてもそれは続くのです。ロシアのフィクション作家は、フィクション作家にありがちなように推察をするかもしれませんが、自然の法則に関して幾らかの知識を持っていて、彼よりも正気な人々は、人がこの物質の世界で永遠に生きられるということには賛成しません。

自然主義者は、単に果物を一つを観察することで物質自然の一般的な成り行きを見ることができます。花が咲いて小さな果物ができ、それが大きくなり始め、しばらく枝に成っていて、やがて成長が止まり、熟れていき、そして日に日にしおれていき、最後には木から落ちて腐って土に返り始め、ついには土と同化してしまいます。今度は残された種が成長して木になり、やがて多くの実をつけます。そしてそれらもすべて先の果物と同じ運命を辿り、この成り行きが延々と続きます。

他の生命体も同様です。性交の直後に母親の子宮の中で有機的な形をとり、少しずつ育ち、生まれ、成長を続けて幼児になり、少年、若者、大人、老人、と変化して、ついにはしなびていって死を迎えます。どんな祈りや祝福も、フィクション作家の希望的な夢物語も、死を阻むことはできません。比較してみると、人と果物の間に違いはないのです。果物と同様に人も多くの子供を残すかもしれませんが、物質自然の法則により、物質の体の中に永遠に存在することはできません。

物質自然の法則を無視できるものがいるでしょうか。どんなに高慢であっても、物質科学者は自然の厳格な法則を変えることはできません。天文学者も他の科学者も、天体の軌道を変えることはできません。できるのはせいぜい彼らが人工衛星と呼ぶちゃちでおもちゃのような天体を作ることだけです。あまり知恵のない子供たちは、こうした現代の人工衛星その他に感銘を受けて、それを発明した人たちを大層偉大だと思うでしょう。しかし、人類のうちでも彼らよりもっと正気な人々は、太陽や星々などの巨大な衛星を、物質科学者がその果てを見ることもできない衛星群を、それを作った人の方をより偉大だと評価するのです。小さなおもちゃの衛星にもロシアやアメリカなどに作った人がいるのなら、巨大な衛星たちは霊的宇宙に作った人がいると考えるのは妥当です。おもちゃの衛星を作って飛ばすのに多数の科学的な頭脳が必要なら、星の集まった銀河を作って軌道から外れないように動かしているのはいかなる微細にして完璧な頭脳でしょうか。これまでのところ、無神論者たちはこの問いに答えることができないでいます。

信仰なき人々は、様々に独自の創造理論を作り出します。それはたいてい「それは理解しがたい」とか「我々の想像力で捕らえられる範囲を超えているが、可能性としては大いに有りうる」とか、「それは理解不能である」などの結論に終わります。これはつまり、彼らの情報には何ら正統的で権威ある土台がなく、科学的なデータに基づいていないということでしかないのです。彼らに単に推察しているのです。しかし、正統的な情報はバガヴァッド・ギーターに示されています。例えば、バガヴァッド・ギーターには寿命が4,300,000x1,000x2x30x12x100太陽年に及ぶ生命体がいると書いてあります。この知識の書はインドの偉大な聖人であるシャンカラーチャーリャ、シュリー・ラーマーヌジャーチャーリャ、シュリー・マドヴァーチャーリャ、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブーなどの人々によって正統な権威であるとして受け入れられているので、私たちはそれに倣うのです。バガヴァッド・ギーターには、この物質の世界では存在しているあらゆる形は寿命の長短に関わらず腐朽と死を迎えると示されています。

したがって、潜在的には物質的なエネルギーは保存されているとは言え、すべての物質的な形は変化の法則の下にあります。潜在的にはすべてのものは永遠ですが、物質的な世界では物体は形を取り、しばらくその形を維持し、成熟し、年老いて、しなび始めて最後には再び消えうせます。すべての物質的な物体はこうなるのです。物質主義者が、この物質宇宙の向こうに「何か別の形」があって、それは視覚的に認識できる範囲を超えていて、奇妙で理解しがたい、と言うのは、霊的宇宙のことをかすかに示しているに過ぎません。しかし、霊の基本的な原理はもっとずっと近くにあります。それは生命体の内部で機能しているからです。その霊的原理が物質の体から出ていると、体には生命がありません。例えば、子供の体の内部には霊的原理があり、したがって体に変化が生じて成長します。しかし、もしも霊が体を離れれば成長は止まります。この法則はすべての物質的な物体に当てはまります。物体は霊と触れていると一つの形から別の形に変化します。霊がないと形の変化はありません。宇宙全体がこのように発達します。それは神の霊的な力によって超越エネルギーから放射され、太陽、月、地球などの巨大な形へと発達します。天体系は14に分かれており、それぞれに大きさと性質は違いますが同じ発達の原理がすべてに当てはまります。霊的な力が創造者であり、その霊的な原理によってもに、変化や移行や発達が生じるのです。

生命は、多くの知恵の足りない人々が主張するように単なる化学的な組み合わせなどの物質的な反応によって生じるものでは断じてありません。物質的な相互作用は霊的な生命力を受け入れるにふさわしい状況を作る優性な存在によって始動させられます。優生的なエネルギーは、霊的存在の自由意志によって決定されたところに従って適切に物体を取り扱います。例えば、建築材料は自動的に「反応」して突然住宅の形を取ることはありません。生きた霊的存在が自由意志で物体を適切に取り扱うことによって家を作ります。同様に、物体は材料に過ぎず、霊が創造者なのです。この結論を避けるのは、知識の乏しい者たちだけです。創造者は隠れたところにいて見えないかもしれませんが、それで創造者がいないということにはなりません。物質の宇宙の巨大な形だけで惑わされてはなりません。むしろ、これらすべての物質的な顕現の背後にある至高の知性の存在を感知することを学ぶべきであるのです。至高の知性である至高の存在は、究極の創造者、すべてを魅了する至高の人格神シュリー・クリシュナなのです。人がこのことに気づいていなくても、バガヴァッド・ギーターや、殊にシュリマッド・バーガヴァタムなどのヴェーダ文献には、創造者に関する確固たる情報が与えられています。

人工衛星が空に打ち上げられると、子供はその背後に科学的な頭脳があることを理解できないかもしれませんが、知性ある大人は地上の科学的な頭脳が人工衛星を制御していることを認識しています。同様に、知性の低い人々は創造者および私たちの視覚的な認知の範囲をはるかに超えた霊的な宇宙にある創造者の永遠の御住まいについて、何の情報も持っていません。しかし、霊的な宇宙は実際にあり。物質的な宇宙のそれよりも大きくて数も多い霊的な天体も実際にあるのです。私たちはバガヴァッド・ギーターから物質宇宙は創造全体の一部(4分の1)に過ぎないという情報を得ています。そのような情報はシュリマッド・バーガヴァタムや他のヴェーダ文献に詳しく述べられています。

もしも生命エネルギーが科学者の実験室の中で「ある特定の物理的および化学的な組み合わせによる反応」によって作られ得るなら、なぜ高慢な物質科学者たちはいまだに生命を作り出していないのでしょう。霊的な力は物体とは明らかに異なっていて、そのようなエネルギーはどのように物質的な操作をしても作り出せないことを彼らははっきりと知るべきです。現在のところ、ロシア人とアメリカ人は疑いもなく技術科学の様々な分野で非常に高度な発達を遂げています。しかし、彼らはいまだに霊的な科学には無知なままです。完全で前向きに進歩する人間社会を作るために、彼らは優れた知性から学ぶ必要があります。

シュリマッド・バーガヴァタムで社会主義哲学が全く完璧に描写されていることにロシア人たちは気づいていません。シュリマッド・バーガヴァタムは、あらゆる富、あらゆる天然資源(農業、鉱業その他)は、究極の創造者によって作られたものであり、したがってすべての生命体が自分の分け前を受け取る権利を持つ、と教えています。さらに、人は自分の体を維持するのに十分な富より多くを保有すべきではなく、それより多くを望んだり分け前以上を取ったりすると罰せられる、と言います。また、動物は我々の子供たちとして取り扱うべきだと述べられています。

私たちは、シュリマッド・バーガヴァタム以上に社会主義を正しく論じることのできる国家はないと信じています。また、人は創造者および生命体の本来的な性質について完全に理解して初めて人間以外の生命体を兄弟や子供たちとして取り扱うことができます。

死にたくない、という人間の望みは、霊的世界でのみ実現できます。この文章の初めで述べたように、永遠の生命への望みは休眠状態にある霊的生命のしるしなのです。人間の文明の目的は、それを焦点とすべきです。ここで述べたように、すべての人がバークティ・ヨガの過程によって自己を霊的な領域に移動させることができます。それは偉大な科学であり、インドには人生の完成を実現するための科学的な書物がたくさんあります。

バークティ・ヨガは人類の永遠の宗教です。物質的な科学が宗教の教義も含めてすべての学問分野を支配しているとき、現代の科学者たちの視点から人間の永遠の宗教の原理が語られるのを見るのは心躍ります。世界宗教会議において、S.ラダークリシュナン博士でさえも、現代の文明では科学的な視点から受け入れられなければ宗教は受け入れられないだろう、と認めています。返答として、私たちは真実を愛する人々へここに喜んで表明します。バークティ・ヨガは世界の永遠の宗教であり、至高主と永遠の関係を持つすべての生命体のためにあるものです。

シュリーパーダ・ラーマーヌジャーチャーリャは、永遠という意味のサナータナという語を「始まりも終わりもないもの」と定義しています。永遠の宗教、サナータナ・ダールマについて考えるとき、この定義はまさに真実を表しています。始まりもなく終わりもないものは、限界や境界のあるどのような宗派とも異なります。現代科学に照らすと、サナータナ・ダールマは世界のすべての人々の、いや、宇宙のすべての生命体の主要な職務であると見ることができます。サナータナでない宗教信条は、人間の下らない思いつきに端を発しているものもあるかもしれませんが、サナータナ・ダールマは生命体と永遠に共にあるもので、歴史的な始まりはないのです。

ヒンズー教徒であれ、イスラム教、キリスト教、仏教その他何であれ、人が何か特定の宗教の信者であると言うとき、そして出生の時間や状況について語るとき、そのような自己認識はサナータナ・ダールマとは言えません。ヒンズー教徒はイスラム教徒になるかもしれず、イスラム教徒がヒンズー教徒やキリスト教徒になるかもしれないからです。しかし、どのような状況でも変わらないことが一つあります。それは、いついかなるときも誰かのために何かしている、ということです。ヒンズー教徒もイスラム教徒も仏教徒もキリスト教徒も、常に変わらず誰かの従者です。特定の信仰はサナータナ・ダールマではありません。サナータナ・ダールマは生命体と常に共にあるものであり、すべての宗教を統一するものです。サナータナ・ダールマは、誰かのために何かをする、ということなのです。

バガヴァッド・ギーターでは、サナータナであるものについていくつかの描写があります。サナータナ・ダールマの重要性について、この正統なる権威の書から学びましょう。

7章10節にサナータナムという語があります。そこでは、主が「私はすべてのものの根源的な永遠の源であり、したがってサナータナムである」と述べています。ウパニシャッドには、すべてのものの根源的な源は完全な全体であると描写されています。根源的な源から発するものはすべてそれ自身完全ですが、多くの完全体が完全なサナータナの根源的な源から発しても、サナータナである源は質でも量でもそれによって減少することはありません*。(*シュリー・イーソパニシャッドの「祈り」参照)それはサナータナの性質が不可変であるからです。時間と状況の影響で変化するものはサナータナではありません。したがって、形と性質がほんのわずかでも変化するものはサナータナとして受け入れることはできません。物質的な例を挙げれば、太陽は何万年も何億年も光線を発し続けており、物質的に作られたものであるとはいえ、その形と光線はまだ変わっていません。したがって、作られたことのない存在はたとえすべてのものの種となる源であっても形と性質において変化しようがないのです。

主は、自分はすべての種類の生命体の父である、と主張しています。主は、すべての生命体は、どのようなものであってもすべて自分の欠かすべからざる小片である、と言います。したがって、バガヴァッド・ギーターはそれらすべての生命体のために語られました。ギーターには、至高主のこのサナータナという性質に関する情報があります。また、物質の宇宙からはるかに遠いところにある主の御住まいに関する情報もあり、生命体のサナータナなる性質に関する情報もあります。

バガヴァッド・ギーターにおいて、主は、この物質世界は生老病死の形を取った悲惨さに溢れている、とも述べています。物質宇宙の最高位の天体であるブラーマロカにおいてさえ、これらの悲惨さは存在しています。これらが全く存在しないのは、主御自身の御住まいだけです。そこでは、太陽や月や火などからの明かりは必要ありません。天体は自分で輝いているのです。そこでの生活は終わりがなく、完全な英知と喜びがあります。それがサナータナ・ダールマとして知られるものなのです。したがって、生命体は家へ、至高神のもとへ、帰らねばならないという結論に自然に達するのです。帰って、サナータナ・プルシャやプルショッタマとも呼ばれる主シュリー・クリシュナと共にサナータナ・ダールマに満ちた生活を楽しむために。物質的な存在という、この惨めな地で朽ちるにまかせていてはいけません。ブラーマロカにおいてさえ、物質的な領域に幸せはありません。したがって、物質宇宙内の高位の天体へ上ることを目的とした計画や活動は、知性の足りない者たちが行っているのです。彼らはまた、半神たちに依り頼み、限られた期間だけ持続する恩恵を得ます。このように、彼らの宗教原理とそこから得られる利益は一時的なものでしかありません。しかし、知性ある者は宗教の名を借りたすべての契約を破棄し、至高の人格神に帰依し、万能の父から究極の庇護を受けます。したがって、サナータナ・ダールマはバークティ・ヨガの過程であり、それによって人はサナータナである主とそのサナータナなる御住まいを知るに至ります。この過程を辿ることによってのみ、人はサナータナ、ダールマ、すなわち霊的な宇宙に帰ってそこに偏在するサナータナなる楽しみに参加することができます。

サナータナ・ダールマを辿る者は、今後はこれらの原理をバガヴァッド・ギーターの精神で取り上げるべきでしょう。永遠の原理を受け入れるのを阻むものはありません。あまり啓発されていない人々でも、至高神のもとに帰ることができます。これがシュリマッド・バーガヴァタムの説く教えであり、至高主御自身がバガヴァッド・ギーターの中で語ることでもあります。人類には家に帰る機会が与えられています。これを逃してはなりません。バガヴァッド・ギーターはバーラタ・ヴァルシャの地で語られたので、すべてのインド人は世界の他の場所で本当のサナータナ・ダールマの福音を述べ伝える責任があります。ことに現代にあっては、誤った道に導かれた人々が物質主義の暗闇の中で苦しんでいて、彼らのいわゆる学びは原子爆弾を発見するという結果を導きました。今、彼らは滅亡の危機に瀕しています。サナータナ・ダールマは人生の本当の目的を教えるものであり、誤った道に導かれた人々はこれを学ぶことで多くを得ることになるのです。

2.天体系の多様性

人類が月を目指している現在にあって、人々はクリシュナ意識が何か古臭いものをどうこう言っているのだと考えるべきではありません。世界が月に至ろうとして進歩しているとき、私たちはハレ・クリシュナを唱えています。しかし、人々は私たちが現代の科学的な進歩に取り残されているのだと誤解すべきではありません。私たちはすでにあらゆる科学的な発展を終えてしまったのです。バガヴァッド・ギーターには、人が高位の天体を目指すのは新しいことではない、と書かれています。新聞の見出しには「人類が初めて月に降り立った」と書かれていますが、記者たちはすでに何百万人もの人がそこに行って帰ってきたことを知らないのです。これは初めてのことではありません。古くから行われていることなのです。バガヴァッド・ギーターには、はっきりと「アルジュナ、たとえあなたがブラーマロカと呼ばれる最高位の天体に行ったとしても、戻ってこなければならない。」と書かれています。したがって、天体間の旅は新しいことではないのです。クリシュナ意識の献身者には知られていることです。

私たちはクリシュナ意識なので、クリシュナの言葉を絶対真理として受け取ります。ヴェーダ文献によれば、宇宙には多くの天体系が存在します。私たちが住んでいる天体系はバールロカと呼ばれます。この上にあるのはバーヴァルロカで、その上はスヴァルロカです。(月はスヴァルロカに属します。)スヴァルロカの上はマハルロカ、その上がジャナロカ、その上がサテャロカです。同様に、低位の天体系も存在します。このように、この宇宙には14の天体系が存在し、太陽は主たる天体です。太陽はブラーマ・サムヒターに以下のように描写されています。

「私はゴヴィンダ(クリシュナ)を、太古の主を礼拝します。主の命令によって太陽は巨大な力と熱を持ち、軌道を回ります。すべての天体系の筆頭である太陽は至高主の目です。」実際、太陽なくして私たちは見ることができません。私たちはずいぶんと目を誇りにしていますが、隣の家の人を見ることもできないのです。人々は「私に神を見せてくれませんか」と挑戦してきます。しかし、彼らに何を見ることができるというのでしょう。彼らの目にどれほどの価値があるでしょう。神は安くありません。太陽の光なくしては、私たちには神はおろか、何一つ見えないのです。太陽の光がないと私たちは盲目です。夜には何も見えないので、私たちは電気を使います。太陽がないからです。

宇宙の中には、太陽は一つだけではありません。何百万何千万という太陽があります。これもブラーマ・サムヒターに述べられています。
(サンスクリット引用)
至高の人格神クリシュナの霊的な体の光輝はブラーマジョティと呼ばれ、その中には無数の天体があります。太陽の光の届くところに無数の天体があるのと同様に、クリシュナの体の輝く光の中にも無数の天体と宇宙があるのです。私たちは多くの宇宙に関して知識を持っており、それぞれの宇宙には太陽があることを知っています。このように、何百万何千万という宇宙があり、何百万何千万という太陽と月と惑星があるのです。しかし、クリシュナは人がこれらの天体のどれかに行こうとするならそれは単なる時間の無駄にしかならないと言います。

先ごろ人間が月に行きましたが、人間社会はそれから何の得るところがあるでしょう。莫大なお金とエネルギーを使って10年もの努力を重ね、誰かが月に行って手を触れてきたら、それが何の益になったでしょう。そこに長居して友達を呼ぶことができますか。たとえ月に長いこといたとしても、それが何の役に立つでしょう。私たちがこの物質世界にいる限り、この天体であれどの天体であれ、生老病死という同じ悲惨さが付きまとうのです。私たちはそれから逃れることはできません。

もしも私たちが月に住むなら、それが可能だと仮定して、ということですが、酸素マスクを付けていたとしても、どれほどの間そこにいることができるでしょうか。さらに、たとえそこに住む機会があったにしても、それで何を得ることができるでしょう。少しは寿命が長くなるかもしれませんが、永遠に住むことはできません。そんなことは不可能なのです。それに、長い寿命があったとしても、それが何の益になるでしょう。
(サンスクリット引用)
木は何年も何年も生きているではありませんか。私はサンフランシスコの近くで7、000年もの樹齢の木が生えている森を見ました。でも、それが何になるでしょう。同じ場所に7千年も突っ立っていてそれを誇りに思っていても、そんなことは大した業績ではありません。

人が月へ行って、そこから帰ってくる、それは素晴らしい話ですが、これもすべてヴェーダ文献に書かれています。それほど新しいことではないのです。私たちのクリシュナ意識協会の目的は違います。私たちは貴重な時間を無駄にしたりはしません。クリシュナは「あっちの星やこっちの星に行こうとして時間を無駄にしてはなりません。そんなことをして何の得になるでしょう。あなたの物質的な苦しみはどこに行ってもついてくるのです。」と言います。したがって、チャイタンニャ・チャリタームリタ(アーディ3.97)には以下のように見事に述べられています。「この物質世界では、ある者は楽しみ、別の者は楽しんでいないように見えるが、実際にはすべての人が苦しんでいる。自分は楽しんでいると思っている者もいるが苦しみに気づいている者もいる。」本当は、全ての人が苦しんでいるのです。この物質世界で病気にならない人がいるでしょうか。年老いていかない人がいるでしょうか。死なない人がいるでしょうか。年をとったり病気になったりしたい人はいませんが、皆そうなるのです。それなら、どこに楽しみがあるというのでしょう。私たちの考える楽しみなるものは、すべて無意味なのです。この物質の世界には楽しみなどないからです。すべては私たちの想像に過ぎません。人は「これは楽しみ、これは苦しみ」と考えるべきではありません。すべてが苦しみなのです!したがって、チャイタンニャ・チャリタームリタには「食べること、眠ること、生殖すること、防御すること、という原理は常に存在します。しかし、それらは異なる水準で存在します」と書かれています。例えば、アメリカ人は過去生に為した善き行いの結果としてアメリカの地に生を受けました。インドでは人々は貧困に苦しんでいますが、アメリカ人はバターを塗ったおいしいパンを食べていてインド人はバター無しで食べているという違いはあっても、どちらも食べていることに違いはありません。インドが貧困に苦しんでいると言っても、そのために全国民が餓死しているわけではないのです。体の4つの主要な要求、すなわち食、眠、性、守は、人が良い環境に生まれても悪い環境に生まれても、それなりに満足させられるものなのです。問題はしかし、いかにしてこの4つの原理、生老病死から自由になるか、ということにあります。

これが本当の問題なのです。「何を食べようか」ということではないのです。鳥や獣にはそういう問題はありません。朝になると彼らは早々に「ジー、ジー、ジー、ジー」と鳴きたてます。食べるものがあることが分かっているのです。死ぬ者はいないし、神の配剤によってすべての者に行き渡るだけの食べ物が与えられているので、人口過多という問題もありません。質の違いはありますが、高度な物質的快楽を得ることは人生の究極の目的ではありません。本当の問題はいかにして生老病死から自由になるかということです。これは、この宇宙の中を旅することに無駄に時間を使っていて解決できるようなことではありません。たとえ人が最高位の天体に行けたとしても、この問題は解決しません。死はどこにでもあるからです。

ヴェーダの情報によると、月に住む人の寿命は一万年です。また、月での一日は地球の6ヶ月に当たります。したがって、1万x180年が(地球の計算で)月での寿命になります。(訳注;月での一年を地球のように360日とすると、地球の180年分になる。それが1万年続くから)しかし、地球人は月に行って長く住むことはできません。そうでなければヴェーダ文献はすべて偽りであることになります。人間は月へ行こうと試みることはできますが、そこに住むことはできません。この知識はヴェーダの中にあります。したがって、私たちはあっちの星やこっちの星に行くことにあまり熱心ではないのです。私たちは直接クリシュナの住む星に行こうとして努力しています。クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中で以下のように述べています。「人は月に行くこともできるし、太陽や、その他の何千万という天体に行くことさえできるし、物質的な執着が強すぎるならここに居続けることもできます。でも、私の献身者は私のところに来ます。」これが私たちの目的なのです。クリシュナ意識の洗礼を受けることで、生徒は究極的には至高の天体クリシュナロカに行けることを保証されます。私たちはただじっと座っているのではありません。私たちもまた他の天体に行こうとしていますが、単に時間を無駄にしてはいないのです。

正気で知性的な人間は、どの物質的な天体にも行こうとは望みません。物質的な悲惨さの4つの形態がどこにでも存在しているからです。バガヴァッド・ギーターから私たちはたとえこの宇宙の最高位の天体系であるブラーマロカに行けたとしても4つの苦しみがあることを学んでいます。また、バガヴァッド・ギーターからはブラーマロカでの一日は私たちの時間にすると何百万年にもなるということを学んでいます。これは事実です。

最高位の天体系であるブラーマロカにさえ行けるものかもしれませんが、科学者たちはそれには人工衛星の速度で4万年かかると計算しています。宇宙空間を4万年も旅する覚悟ができている者がいるでしょうか。ヴェーダ文献から私たちはそれなりの準備をすればどの天体にも行けることを知っています。もし人が半神たちが住むという高位の天体系に行く準備を整えれば、そこに行くことができます。同様に、低位の天体系に行くこともできるし、望むならこの惑星に留まることもできます。終には、もしそう望むなら、至高の人格神の住む星に行くこともできます。どう準備するかの問題なのです。しかし、私たちの物質宇宙の中のすべての天体系は一時的なものです。一部の物質的な天体における寿命は大変長いようですが、物質宇宙に存在するすべての生命体はやがて滅亡する運命にあり、次なる体を持たねばなりません。体には様々な種類があります。人間の体は100年もちますが、虫の体は12時間程度の場合もあります。このように、異なる体の寿命は相対的なものです。しかし、もし人が霊的な惑星であるヴァイクンサロカに行ったなら、喜びと知恵に満ちた永遠の命を得ることができます。人間は、もし望むのなら、このように人生を完成させることができるのです。このことはバガヴァッド・ギーターに「至高の人格神を真実に知る者は私の性質を得る。」という主の言葉で記されています。

「神は偉大だ」と多くの人が言います。しかしこれは言い古された言葉です。人は神がどう偉大であるのかを知らねばならず、それは正統な聖典から知ることができます。バガヴァッド・ギーターにおいて、神はご自身を描写していらっしゃいます。「私が普通の人間のような姿で生まれるのは、実際は(物質の束縛を)超越した出来事です」と神はおっしゃいます。神はとても慈悲深いので、私たちの前に普通の人間として現れてくださいますが、神の体は人間の体と同じではありません。神について知らない愚かな者たちは、クリシュナは私たちの一人のようなものだと言います。そのこともバガヴァッド・ギーターに記されています。
(サンスクリット引用)
「愚か者たちは、私が人間の姿で現れると嘲笑います。彼らは私の超越的な性質を知らず、私が万物の究極的な支配者であることを知らないのです。」私たちは、正しい指導のもとで正しい書物を読むならばクリシュナについて知る機会があります。そして、もし私たちが神の性質とは何かを知りさえすれば、ただこの一つのことを理解するだけで私たちは解脱することができます。私たちの人間的な状態では、至高の絶対人格神を完全に理解することはできませんが、至高に人格神によって語られたバガヴァッド・ギーターと霊的指導者の助けによって、私たちは主を私たちの能力の許す限り知ることができます。もし私たちが神の真実の性質を知ることができれば、この体を離れると同時に神の王国に入ることができます。(サンスクリット引用)「この体を離れたあと、知識のある者はこの物質の世界に再び戻ることはありません。霊的な世界に入って私のもとに来るからです」とおっしゃいます。

私たちのクリシュナ意識運動の目的は、この高度な科学的理念を一般の人々に広く伝えることであり、その方法はごく単純です。単に神の御名を唱えるだけで、人は心の汚れを洗い去り、自分が至高主の欠かすべからざる小片であって主に仕えることが任務であるという理解を得ることができます。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ、ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。この方法は大変楽しいものです。私たちはハレ・クリシュナ・マントラを唱え、リズムにのって踊り、おいしいお供えのお下がり(プラサーダ)を食べます。この人生を楽しみながら次の人生で神の王国に入る準備をしているのです。これはでっちあげなどではなく、全くの事実です。俗人には嘘やでっちあげにも思えるでしょうが、クリシュナは神を真剣に知ろうとしている者に対しては内面からご自身を明かしてくださいます。クリシュナと霊的指導者が共に真摯な魂を助けてくれます。霊的指導者は神の外的な顕現であり、神はすべての者の心に超魂として存在しています。至高の人格神を非常に真剣に理解しようとしている者に対しては、超魂は直ちに彼を真正な霊的指導者のもとに連れて行くことで助けの手を差し伸べてくれます。このようにして霊的な候補者は内と外から助けられるのです。

バーガヴァタ・プラーナによれば、絶対真理は3段階で認識されます。まず、非人格のブラーマンすなわち非人格の完全性があります。次に、パラマートマーすなわちブラーマンの分在的な側面があります。原子核はパラマートマーを表すものとして考えることができます。パラマートマーは原子にも入ります。これはブラーマ・サムヒターに描写されています。しかし、究極的には至高の神聖存在は、富、力、名声、美、知、無執着を完全にして計り知れないレベルで備えた、すべてを魅了する至高の人物(クリシュナ)として認識されます。これらの6つの力は、シュリー・ラーマとシュリー・クリシュナが人間の前に降臨なさるときに完全に現されます。一部の人間だけが、本物の献身者だけが、開示された正統な聖典に基づいてクリシュナを認識することができますが、その他の人々は物質エネルギーの影響によって惑わされます。絶対真理は、したがって、対等なる者も競うべき者もない絶対人物なのです。非人格的なブラーマンの光は神の超越的な体の光です。太陽の光が太陽からの放射であるように。

ヴィシュヌ・プラーナによると、物質的なエネルギーはアヴィデャ、すなわち無知と呼ばれ、感覚的な楽しみのために結果を求めて為す行いの中に現れます。しかし、生命体は感覚的な楽しみのために物質的なエネルギーによって惑わされて囚われる傾向があるにも関わらず、反物質エネルギー、すなわち霊的なエネルギーに属しています。この意味では生命体は肯定的なエネルギーであって物体は否定的なエネルギーです。物体は、霊的な全体の直接的で欠かすべからざる小片である、優性で霊的な、すなわち反物質のエネルギーと接して初めて成長します。生命体によって表されるこの霊的なエネルギーの問題は、疑いもなく一般的な人には大変複雑で呆然としてしまうような事柄です。時には、そのような人でも不完全な感覚を通して部分的に理解し、時には全然分かりません。したがって、最高の権威であるシュリー・クリシュナから、あるいは主から続く師弟継承に連なって主を代弁する献身者から聞くのが一番なのです。

このクリシュナ意識運動は、神を理解することを目的としています。霊的指導者はクリシュナの生きた代弁者であり、外から助けます。超魂としてのクリシュナは内から助けます。生命体はそのような助けを利用して人生を成功させることができます。私たちは、この運動を理解するために正統で権威ある書物を読んでくださるよう、すべての人にお願いします。私たちは、「真訳バガヴァッド・ギーター」、「主チャイタンニャの教え」、「シュリマッド・バーガヴァタム」、「至高の人格神クリシュナ」、および「献身の甘露」を刊行しました。また、毎月多くの言語で「至高神への回帰」(バック・トゥ・ゴッドヘッド)という雑誌を発行しています。私たちの使命は、終わりもなく生と死を繰り返す輪廻という落とし穴から人類を救い出すことにあります。

誰でもクリシュナのところに戻ろうとすべきなのです。私たちは「至高神への回帰」誌に「宇宙の向こうに」という記事を載せました。そこでは、バガヴァッド・ギーターに述べられている知識に基づいて、この宇宙の向こうにある場所を描写しました。バガヴァッド・ギーターは大変人気の高い本で、アメリカにもインドにもたくさんの翻訳や解説が出回っています。しかし、不幸にして西洋にはたくさんの愚か者が来てバガヴァッド・ギーターの解説をしました。彼らは本当の情報を与えないで人をはったりで騙すので、愚か者と呼ばれるのです。しかし私たちの「真訳バガヴァッド・ギーター」では、霊的な自然が断固たる権威をもって描写されています。

この宇宙は「自然」と呼ばれますが、その他にももう一つの自然があり、そちらのほうが優性です。宇宙は劣性な自然であり、現れては消えるこの自然の向こうにはもう一つの自然があり、それはサナータナ、永遠と呼ばれます。ここに現れているもののすべてが一時的であることを理解するのは簡単です。明らかな例は私たちの体です。もしある人が30歳なら、30年前にはその人の体はありませんでした。そして、50年もすればまた消えてなくなります。これが自然の厳然たる法則です。波が何度も寄せては返すように、現れては消えるものなのです。しかし、物質主義者たちは単にこの、やがて死を迎える人生ばかり気にしています。一寸先は闇。いつ終わってもおかしくないのが人生なのです。さらに、この体が死ぬのと同様、この巨大な物質の体、すなわち宇宙全体も、やがて破壊されます。そして、私たちが幸運だろうが不運だろうが、あの星にいようがこの星にいようが、すべてが終わりを迎えるのです。それなら、なぜ私たちはすべてが終わりを迎えると分かっている天体へ行こうとしているのでしょうか。私たちはクリシュナロカを目指すべきなのです。これは霊的な科学です。理解しようと努めなければなりません。そして、これを自分で理解したら、その後はこのメッセージを世界中に広めるべきであるのです。誰もが暗闇の中にいます。人々は何の知識も持っていないのにとても誇らしげです。しかし、10年もの間努力して月へ行って石ころを持って帰るのは、知識の進歩ではないのです。宇宙旅行者たちはひどく誇り高く感じています。「すばらしい、私は月に触れた」と思っているのです。しかし、それで何が得られたでしょう。たとえ月に住むことができても、長くではありません。そこもまた、しまいに破壊されるのです。

辿りついたらここに戻ってくる必要がなく、永遠の人生があり、クリシュナと一緒に踊れる、そんな天体を見つける努力をしてください。これがクリシュナ意識の意味なのです。この運動を真剣に受け止めてください。クリシュナ意識は、クリシュナの元に辿りついてクリシュナと一緒に永遠に踊れる機会を提供するものだからです。ヴェーダ文献から、私たちはこの物質世界は神の全創造の4分の1に過ぎないことを知っています。4分の3は霊的世界なのです。これはバガヴァッド・ギーターに書かれています。クリシュナは「この物質世界は全体の一部に過ぎない」と言います。もし私たちが空を見上げてできるだけ遠くまで見ても、私たちの視界はそれでも一つの宇宙の中だけに限定されます。そして、物質世界と呼ばれる場所には無数の宇宙が集まっているのです。しかし、この無数の宇宙の群れの向こうには、霊的な天空があります。それもバガヴァッド・ギーターに書かれています。主は「この物質の世界の向こうにはもう一つの自然があり、それは永遠で、始まりの歴史もなく、終わりもない」と言います。「永遠」とは、終わりも始まりもないものを指します。ヴェーダの宗教は、いつ始まったのか、誰もその歴史を辿ることができないので、永遠と呼ばれます。キリスト教は2千年の歴史があり、イスラム教にも歴史がありますが、ヴェーダの宗教の歴史を辿ろうとすると、その始まりを見つけることは誰にもできないのです。したがってヴェーダ宗教は永遠の宗教と呼ばれます。

私たちは、神がこの物質世界をお作りになった、と言います。このことは、創造の前に神が存在していたということを意味します。「創造」という言葉自体、宇宙が創造される前に主が存在しておられたということを指し示しているのです。したがって、神は創造の下にはありません。もし神が創造の下にあるなら、どうして創造することができたでしょう。もしそうなら、神はこの物質創造の一つに過ぎなかったということになります。しかし、神は創造の下にはありません。主は創造者であり、したがって永遠なのです。

霊的な天空というものが存在し、そこには無数の霊的な天体があって、無数の霊的な生命体が住んでいますが、その霊的な世界に住むにふさわしくない者はこの物質世界に送られます。自ら進んで私たちはこの物質の体を受け入れたのですが、本当は私たちは霊魂なので、そういうものを受け入れるべきではなかったのです。いつどうやってそうするに至ったのかは、その歴史を辿ることができません。物質的に制約された魂がいつ最初に物質の体を受け入れたのか、誰にも分かりません。生命体には、840万の種類があります。水中には90万種、植物が200万種。不幸にして、ヴェーダのこの知識はどの大学でも教えられません。しかしこれは事実なのです。植物学者や人類学者は、ヴェーダが教える結論を検証すべきです。有機的な物体の進化に関するダーウィンの論理は、学習研究機関においてもちろん大変広く受け入れられています。しかし、バーガヴァタ・プラーナやその他の科学的に重要で正統なる聖典は、生命体が次から次へと異なる形の体を得て進化する様子を描写しています。それは新しい考えではありませんが、ヴェーダ文献にはこの物質世界での生命の在り方について膨大な情報があるにも関わらず、教育者たちはダーウィンの説ばかりに重要性をおいているのです。

私たちは、物質宇宙の数ある宇宙の中のすべての生命体のうち、ほんのわずかな部分を占めているに過ぎません。物質世界にいて物質の体に入っている者は、苦しい在り方を運命付けられています。たとえば、刑務所に入っている者は政府によって苦しみを運命付けられていますがその数は全人口のほんの一部です。人口の全部が刑務所に行くわけではありません。決まりを守らない一部の者が刑務所に閉じ込められるのです。同様に、この物質世界の中で制約されている魂は、神の創造の中のすべての生命体の一部に過ぎません。彼らは神に背いたので、すなわちクリシュナの命令に従わなかったので、この物質世界に入れられました。常識的で探求的な者は、「なぜこの制約された人生を送らされる破目になったのだろう。私は苦しみたくない。」という命題を理解するように努めるべきです。

苦しみには3種類あり、その一つは体と心に関するものです。ハワイの私の家の前で、ある男が屠殺場に持ち込むために動物と鳥を飼っていました。私は生徒たちにこの例を挙げました。そこに立っている動物たちに「おお、お前たち、なぜここに突っ立っているのだ、去りなさい、屠殺場に連れて行かれるぞ」と言っても、彼らは去ることができません。知性がないからです。

知識なく、治療法もなく苦しむのは動物の人生です。自分が苦しんでいることが理解できず、自分は人生で大変うまくやっていると思っている者は、人間ではなく動物の意識を持っているのです。人間はこの惑星の幾重もの(原文ではthreefold,三重の)苦しみに気づいているべきです。生に苦しみ、老に苦しみ、病に苦しみ、死に苦しんでいることを知るべきです。そして、どうしたら苦しみを避けることができるだろうかと考えてみるべきなのです。それが本当に研究というものです。

私たちは生の始まりの時から苦しんできまshた。胎児の頃は9ヶ月もの間母親の腹部の密閉された袋の中に窮屈に閉じ込められています。動くことさえできず、虫に噛まれても抗議することもできません。体外に出てからも苦しみは続きます。母親がよく子供の面倒を見るのは疑いようもありませんが、それでも子供は泣きます。苦しんでいるからです。虫に刺されたり、お腹が痛くなったりします。子供は泣いていますが、母親はどうやってなだめたらいいのかわかりません。人の苦しみは母の子宮の中で始まります。そして、生まれて後、成長するにつれて苦しみは増します。学校に行きたくないのに強制されます。勉強したくないのに先生が宿題を出します。人生を分析すると、それが苦しみだらけであることに気づくのです。それなら、なぜ私たちはここに来るのでしょう。制約された魂は、あまり賢くありません。私たちは「なぜ苦しんでいるのか」と考えてみるべきです。もし治療法があるのなら、それを利用せねばなりません。

私たちは至高主と永遠に繋がっていますが、どうしたわけか今は物質的に汚染された状態にいます。したがって、再び霊的な世界に戻るための手段を取らねばならないのです。私たちを霊的世界に繋げるその手段はヨガと呼ばれます。ヨガという言葉の本当の訳語は「足す」です。現在、私たちは自分たちから神すなわち至高性を「引いた」状態にあります。これを「足した」状態に、すなわち繋がった状態にすると、私たちの人間としての人生は完成します。生きている間は、その完成地点に辿り付くように修練しなければなりません。そして、この物質の体を手放す死のときに、その完成地点に到達せねばなりません。死のときに準備ができていなければならないのです。たとえば、学生は大学で2年ないし5年準備し、教育の最終試験に臨みます。もしも試験に合格すれば、学位が得られます。同様に、人生という学問では、死に際しての試験のために準備をして合格すれば霊的世界に移行されるのです。死のときにすべてが試されます。

ベンガル語には、「何であれ人が完成のためにしたことは、すべて死のときに試される」というよく知られた諺があります。バガヴァッド・ギーターは、私たちがこの現在の体を手放す死のときに何を為すべきかを描写しています。デャーナヨギー(瞑想者)には、クリシュナは以下のように言います。
(サンスクリット引用)
「隠遁階級にある偉大な聖人であって、オームカーラを口にし、よくヴェーダを学んだ者は、ブラーマンに入ります。そのような完成を望んでいる人は肉体的純潔を守ります。今ここに、解脱を得るための方法を説明します。ヨガの在り方というのは、感覚の満足のためのあらゆる行いから離れることです。すべての感覚の扉を閉じ、心を心臓に、生命空気を頭の頂上に据え置くことで人は世がを完成させます。」(Bg.8.11-12)ヨガ体系ではこの方法はプラテャーハーラと呼ばれます。厳密には「反対」という意味の言葉です。今は目は俗世の美しさを見るのにかまけていますが、これをそれらの美を楽しむことから引き離し、内にある美を見ることに集中しなければなりません。これがプラテャーハーラと言われるものです。同様に、人はオームカーラの音を内から聞かねばなりません。
(サンスクリット引用)
「このヨガの修練を積んで、至高の文字列である聖なる音節オームを振動させ、至高の人格神を思いつつ体を離れれば、人は必ず霊的な天体に至るでしょう。」(Bg.8.13)このようにして、すべての感覚は外的な活動を停止せねばならず、心は主ヴィシュヌの形であるヴィシュヌ・ルームティに集中せねばなりません。それがヨガの完成です。心はとても乱れやすいので、心臓に固定されていなければなりません。心が心臓に固定されていて生命空気が頭の頂上に移動されるとき、人はヨガの完成に至ることができます。

完璧なヨギーは、それからどこに行くかを決めます。無数の物質的な天体が存在し、これらの向こうには霊的な世界があります。ヨギーはヴェーダの聖典からこれらの情報を得ています。例えば、私はアメリカに来る前に本でアメリカについて書いてあることを読みました。同様に、ヴェーダの聖典で高位の天体や霊的世界に関する描写を読むことができます。ヨギーはすべてを知っています。彼はどこであれ好きな天体にいけます。宇宙船は要らないのです。

物質科学者は、もう何年も努力していますし、今後も何百年何千年と努力し続けるでしょうが、どんな天体にも行き着けないでしょう。科学的な方法で一人や二人はどこかの星に行けるかもしれませんが、それは一般的な方法ではありません。他の天体に行くための一般的な方法は、ヨガ体系かジナーナ体系の実践です。しかし、バークティ体系は物質的な天体に行くためのものではありません。至高主クリシュナに対する献身奉仕をしている者は、この物質世界のどの天体にも興味がありません。どの天体に上ったところで、結局物質存在の4つの原理があることを知っているからです。寿命が地球でのそれよりずっと長い天体もありますが、そこにも死があります。クリシュナ意識の者は、しかし、生老病死のあるこの物質的な人生を超越するのです。

霊的な人生とは、この面倒な悩み事や悲惨さからの解放を意味します。知性ある者は、したがって、この物質世界のどの天体にも上ろうとはしません。人は月に至ろうとしており、そこに行くのはとても難しいのですが、もし行ければ私たちの寿命はとても長くなります。もちろんそれは今のこの体に当てはまることではありません。もしこの体のままで月に行けば、瞬間的な死が待っていることは確実です。

ある天体系に入るためには、その天体に適した体を持たねばなりません。すべての天体には、その天体に適した体を持つ生命体が住んでいます。たとえば、私たちはこの体で水に入ることができますが、そこに住むことはできません。15-16時間、ひょっとしたら24時間だっていられるかもしれませんが、それだけです。しかし、水生生物は一生を水の中で過ごすのに適した体を持っています。同様に、魚を水から出して地上に置けば、すぐに死んでしまうでしょう。この地球上に於いてさえ異なる特定の場所に住むための異なる種類の体があるように、同様に、他の天体に行きたいならそれにふさわしい体が得られるように準備しなければならないのです。

ヨガ体系によって魂を月に転生させることができれば、寿命は長くなります。高位の天体にあっては、私たちの6ヶ月が一日に当たります(180年=1年)。そして、そこに住む生命体は一万年生きます(180年x一万年なので、地球の時間だと180万年)。ヴェーダ文献にはこのように記されています。したがって、疑いようもなく人は大変長い寿命を得ますが、しかし、それでも死が存在します。一万年なり2万年なりの後に、あるいは何百万年もの後に(長さはどうでもいいのです)、死がやってきます。

実際には、私たちは死ぬ運命にはありません。そのことは、バガヴァッド・ギーターの始め(2.20)に断言されています。(サンスクリット引用)私たちは霊魂であり、したがって永遠です。それならなぜ自らに生と死を運命付けるのでしょう。このように考えてみるのが知性というものです。クリシュナ意識の者は大変知性的です。どんなに寿命が長くても死の待つ天体へ上げられることには興味がないからです。そんなことより、彼らは神のそれのような体を得たいのです。(サンスクリット引用)(ブラーマ・サムヒター5.1)神の体はサック・スィッド・アーナンダです。サット(サックは音便変化)は「永遠」、スィット(スィッドは音便変化)は「知識に溢れている」、アーナンダは「快楽に満ちている」という意味です。

私たちが発行した小冊子「喜びの源泉クリシュナ」で述べたように、もしも霊的世界に移行できれば、それがクリシュナの惑星であれ他の惑星であれ、私たちは神のと似た体を得ます。サック・スィッド・アーナンダ、永遠で、知識と喜びに満ちた体です。つまり、クリシュナ意識であろうとする者は、この物質世界のより良い天体に上ろうとする者とは人生の目的が異なるのです。主クリシュナは次のようにおっしゃいます。(サンスクリット引用)「ヨガの完成は自分を霊的世界に移行させることです。」(Bg.8.12)

霊魂は体の中にいる大変小さな微粒子です。私たちには見えません。人は魂を頭の頂上に上げようとしてヨガを修練します。この修練は生きている間続き、人が(魂である)自分を頭の頂上に置いて(頭蓋を)突破したときに完成に達します。それから人はどんな上位の天体にでも、好きなところに行けます。それがヨギーにとっての完成です。

もしヨギーが月を見たいという探究心を持っているなら、「そうだ、月がどんなところか見てこよう。それからもっと高位の天体に行ってみよう」と言えるのです。旅人が地球上でヨーロッパやカリフォルニアやカナダや、他のいろいろな国に行くのと同じことです。人はこのヨガ体系でいろんな天体に行けますが、どこに行くにも査証や税関のシステムがあります。他の天体に行くにはそれなりの資格が必要なのです。

クリシュナ意識の人は、どんなに長い寿命が得られるところであっても一時的な天体には興味がありません。もしヨギーが死のときに超越的な振動の簡明な形であるオームを発音することができて、同時にマーム・アヌスマラン、ヴィシュヌであるクリシュナを思い出していることができれば、完成を得ることができます。ヨガ体系全体の目的は心をヴィシュヌに集中させることです。非人格主義者はヴィシュヌすなわち主の姿を見ているのだと想像しますが、人格主義者はそういう想像をしません。彼らは実際に至高主の姿を見るのです。どちらにしても、つまり、想像によって、あるいはよらずしても、心をヴィシュヌの姿に集中させなくてはなりません。マームとは、「至高主ヴィシュヌに」という意味です。この体を離れるときに心をヴィシュヌに集中させる者は誰でも、死後は霊的な王国に入ることができます。本物のヨギーは一時的な天体では人生も一時的であることを知っているので、他のどの天体にも行こうとは思いません。興味がないのです。それが知性というものなのです。

一時的な幸せ、一時的な人生、および一時的な設備で満足している者は、バガヴァッド・ギーターによるとあまり知性的ではありません。(サンスクリット引用)「脳の内容物が大変貧弱な者は一時的な物に興味があります。」それがシュリーマッド・バガヴァッド・ギーターで述べられている見解です。私は永遠です。ではなぜ私が非永遠のものに興味をもたねばならないのでしょう。誰が非永遠の存在を欲しがるでしょう。そんなものが欲しい人はいません。もし私たちがアパートに住んでいて、家主に「出て行って欲しい」と言われたら悲しいでしょう。けれど、もっといいアパートに引っ越すのなら悲しくはありません。つまり、私たちにはそういう傾向があるのです。私たちは永遠なので、死にたくはないのです。

物質的な状況は私たちから永遠性を奪っています。シュリマッド・バーガヴァタムには、「日の出から日の入りまで、太陽は私たちの寿命を減らし続けます」と書いてあります。日々私たちは寿命を減らしています。太陽が朝五時半に昇るなら、夕方の五時半には私たちの寿命は12時間減っているのです。この時間を取り戻すことはできません。「12億円あげますから、あの12時間を返してください」と、どんな科学者に頼んでみても、「いえ、それは不可能です」という答えが返ってくるでしょう。科学者には時間を取り戻すことはできません。だからバーガヴァタムは「日の出から日の入りまで私たちの寿命は減り続ける」と言うのです。

時間は、カーラ、すなわち「過去、現在、未来」と呼ばれます。今は現在であるものは明日には過去となり、今は未来であるものは明日は現在になります。しかし、この「現在、過去、未来」というのは体にとってのものです。私たちは「過去、現在、未来」という枠内には属していません。私たちは永遠性の枠内に属しているのです。したがって、人はいかにして永遠性の水準に到達するか、あるいは、そこに昇進させられるか、と言ってもいいですが、そのことに心を配らねばなりません。人間の発達した意識は、食べること、眠ること、生殖すること、身を守ること、という動物的な性癖のために使われるべきものではなく、ここに述べる永遠性の人生を得るのに役立つ貴重な道筋を探し出すことに使われなければなりません。太陽が私たちの寿命を奪うと言われているのです。毎分、毎時、毎日、と。しかし、私たちがウッタマ・スロカ、すなわち主に関する事柄に関われば、その時間は奪われることがありません。人がクリシュナ意識の寺院で奉仕した時間は奪われません。それは財産なのです。プラスであって、マイナスではありません。体の寿命はそれでも減ります。どんなに減らないように努力しても、それは誰にもできません。しかし、私たちがクリシュナ意識で受ける霊的な教育は、太陽によって奪われることがありません。確固たる財産になるのです。

ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。これを唱えるのはとても簡単なことです。主の御名を唱えていた時間は、体に関することで費やした時間のように奪い去られることがありません。50年前、私は若者でした。しかし、その時間は奪われ、返してもらうことはできません。しかし、私が霊的指導者から受け取った霊的な知識は奪われることがなく、私と共に行きます。この体を離れてからも、一緒に行くのです。そして、もしその知識がこの人生で完成したら、私を永遠の住まいへ連れて行ってくれるでしょう。

物質世界も霊的世界も、どちらもクリシュナに属します。私たちは何一つ所有していません。すべては至高主の資産なのです。国の中にあるものは、刑務所の中の物でも外の物でも、すべては政府に属するのと同じことです。制約された人生というのは、物質世界における刑務所での暮らしのようなものなのです。囚人は自分の好きなように一つの独房から別の独房に移ることはできません。自由な人生ではあの家からこの家へと自由に引っ越すことができますが、刑務所での人生ではそれはできません。自分の独房にいなければならないのです。天体はどれも独房のようなものです。私たちは月へ行こうとしていますが、機械的な方法では現実的ではないのです。アメリカ人やインド人、中国人やロシア人、私たちが何国人であっても、「ここに住むように」と、この惑星をあてがわれているのです。たとえ何百億何千億という天体があっても、地球を離れるための機械を持っていても、私たちはここを離れることはできません。私たちは、自然の法則、すなわち神の法律によって制約されているからです。ある独房に入れられた者は、権威者の許可なく好きなように他に移ることはできません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターで「人はある独房から別の独房に移ろうとすべきではない」とおっしゃいます。そんなことをしても、それで幸せになる人はいません。もしも囚人が「私はこの独房にいる。看守に頼んで他のところに変えてもらおう。そうしたら私は幸せになれる」と考えているなら、それは考え違いというものです。人は刑務所の壁の内側にいる限り幸せではいられないのです。私たちは、資本主義から共産主義へと独房を変えることで幸せになろうとしています。目的は、この主義やあの主義から自由になることです。人はこの物質的なあらゆる主義から完全に離れなければなりません。そうしたら幸せになります。これがクリシュナ意識の段取りなのです。

私たちは至高の人物から助言を受けています。「親愛なるアルジュナよ、あなたはブラーマロカと呼ばれる最高位の天体系に上げられるかもしれません。寿命がとても長いので、そこは好ましいところです。」と主はおっしゃいます。私たちは、そこでの半日の長さですら計算することができません。私たちの数学的な計算の限界を超えたところにあるのです。しかし、そのブラーマロカにさえ死があります。したがって、クリシュナはおっしゃいます。「この天体やあの天体に上ろうとしたり移行したりしようとして時間を無駄にしてはいけません。」

私がアメリカで見た人々は非常に落ち着きがありません。彼らはアパートからアパートに引っ越したり、国から国に引っ越したりしています。この落ち着きのなさは、私たちが本当の家を探し求めているから表れているのです。この場所からあの場所に移っても、永遠の人生は得られません。永遠の人生はクリシュナと共にあるのです。したがって、クリシュナは次のようにおっしゃいます。「すべては私に属します。そして、私は「ゴロカ・ヴリンダーヴァナ」と呼ばれる究極的に素晴らしい住まいを持っています。」

そこに行きたいなら、クリシュナ意識になって、クリシュナがどんなふうに現れて消えるか、クリシュナの本来的な立場は何か、私たちの本来的な立場は何か、私たちのクリシュナとの関係は何か、そして、どう生きるべきか、ということを理解しようとしなければなりません。それだけでいいのです。これらの理念を科学的に理解しようと努めてください。クリシュナ意識のすべては科学的なのです。いんちきでも、気まぐれでも、感傷的でも、狂信的でも、空想でもありません。真実であり、事実であり、現実なのです。人はクリシュナを真実に理解しなければなりません。

私たちは好むと好まざるとに関わらずこの体を手放さねばなりません。自然の法則の前に屈服してこの体を手放さなければならない日が来るのです。ケネディ大統領でさえ行進中に自然の法則に服従して体を別のものに替えなければなりませんでした。「私は大統領です。あのケネディなのです。そんなことはできません」とは言えないのです。彼はそうすることを強制されました。自然とは、こういうふうに働くものなのです。

私たちの発達した人間の意識は、自然がいかに働くかを理解するためにあります。人間の意識の他にも、犬、猫、毛虫、木、鳥、獣や他のすべての種類の生物に意識があります。しかし、私たちはそのような意識で生きるべき存在ではありません。シュリマッド・バーガヴァタムには、私たちは非常に多くの誕生を経た後で初めて人間の体を得た、と書いてあります。今、私たちはそれを誤用すべきではありません。この人間の人生をクリシュナ意識を深めることに利用して、幸せになってください。